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章学誠の史学(しょうがくせいのしがく)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-13 16:23:58  点击:  切换到繁體中文

清朝の乾隆嘉慶の時代は考據の學が全盛を極めた時であつて、經學は勿論史學に於ても考據の大家たる錢大※(「日+斤」、第3水準1-85-14)・王鳴盛などといふ人が出て、史學の風潮を全く考據に傾けたのであつた。然るにその時代に於て、浙江の紹興府から一人の變つた學者が出た。さうして一代の風潮の間に獨立して、史學を考據の方法に據らずして、全く理論的の考へ方から研究したのである。その人が即ち章學誠である。
 この人はその生立ちからして少し普通の學者とは變つて居つた。その幼時には極めて遲鈍であつて、至つて記憶が惡く、十五六歳頃、その父が地方の知縣をして居つて、家庭教師を雇ひ入れて學問をさしたが、僅か數百字の文句を暗誦することにも非常に困難を感じた位であつたが、そのくせ何か意見はもつて居つて、文章も下手であるけれども、自分一己の理窟を立ててものを書き、家庭教師などの言ふことは聞かない。殆ど持てあまされた程であつたが、二十一二歳位からその學問がその長所を發揮して來て、殊に一己の創見によつて著述することに興味をもつて來た。進士の試驗には首尾よく及第したが、その學風もまたその人と爲りも餘程變つて居つたので、官途の出仕も出來ず、一生不遇に暮した。しかしその間に著述した所の文史通義・校讐通義といふ本は、まだ出版せられない當時からして、既に有識者に認められ、之を好む人は非常に崇拜して、その一文の出づる毎に皆之を寫し傳へて持つて居つた程であつた。それで歿後その子によつて著述は出版せられ、幾度も版を重ねたが、最近數年前に至つて、その全集を出版する人があつて、今ではその學問は非常に光を放つて、殊に新らしい西洋の學問などを修めた人々に尊重せられるやうになつた。
 自分はこの人の文史通義・校讐通義を讀んだのは明治三十五年が初めてで、その時に大變面白かつたので、本を二部杭州で買つて、一部を當時支那留學中の狩野博士に贈つた。その後とも、大學などでも頗るこの人の學問を鼓吹したが、その爲めにその著述も我邦では割に多く讀まれるやうになつた。十數年前に端なくもその全集の未刊本を得て、之を通讀した所から、この人の年譜を作つて發表したのがもとになつて、支那の胡適といふ人が更に自分の作つた年譜を増訂して世に公にしたので、支那の新らしい學者の間に注意されるやうになつた。その前から支那の舊學を修める人でも、張爾田・孫徳謙などといふ人は、その學風を慕つて特別に研鑽をして居つたが、最近になつては胡適の外にも精華學堂を出た姚名達並びに四川の學者で劉咸※[#「火+斤」、472-9]といふ人などが、最も章氏の學を發揮して、各※(二の字点、1-2-22)著述を公にしてゐる。今日ではこの人の學問を特別に鼓吹する必要もない程になつたけれども、以前はその學問が一種の勝れた特色があることは一般に認められず、或は多少認められても、その眞意を了解するものが少かつたので、自分も之を鼓吹したのであつた。
 今日でも、乾隆嘉慶年代に於て、かくの如き卓拔な一種の學問をしたといふことは、依然としてその價値は失はれないのであつて、その學問の淵源は、勿論古く漢代の劉向・劉※(「音+欠」、第3水準1-86-32)、唐代の劉知幾、宋代の鄭樵などから出て居るとはいへ、章學誠獨自の極めて透徹した前人未發の考もあつて、殊に史學を標榜しては居るが、あらゆる學問を方法論の原理から考へるといふことは、類ひなき卓見といつて差支ないのである。でこの人の學問は理論の組織が頗る細密であつて、その組立てた方法に從つて研究して往かなければ理解がしにくいから、之を短い時間で説明するといふことは頗る困難であるけれども、試みにその根本になる所の原則だけを説明して、その學風の一端を紹介して見たいと思ふ。
 一般の學者からは、この人は史學家として見られてゐるのであるが、本人の考では、その著述の表題にもある如く、文史に關する原則の研究を主としたのであつて、文史といへば大體に於て著述の全體に渉るのである。唐書の藝文志には、文史類を廣義の文學評論の意義に用ひてゐる。文史通義といふ意味は、今の言葉で言へば、著述批評の原論ともいふべきものであるが、勿論この著述即ち思想の表現の第一の對象となるものは道である。文史通義の原道といふ篇の中に、道といふものをこの人は説明して、「道なる者は、萬事萬物の然る所以にして、而して萬事萬物の當に然るべきにあらざるなり。人の得て見るべきものは、則ち其の當に然るべきのみ。」と言つてゐる。この人はその道の發生して來る順序を考へて、道は天に生じ、天地が人を生ずれば、斯に道があるのであるが、それだけでは未だ形に現はれない。道の形に現はれるのは三人居室から始まる。三人室に居れば、そこに分任、今日の言葉で言へば分業といふものが生ずる。或は各※(二の字点、1-2-22)別に事を司る、或は更代の仕事をするといふことになるが、さうなつて來ると均平・秩序といふことが出來る。平等と秩序とが紊れることがあるので、年長者をしてその平を持せしめる、即ち裁判をするといふことになる。それからして長幼尊卑の別も出來、それから什伍千百といふやうに數が殖えて、さうして各※(二の字点、1-2-22)組が分れるといふことになつて來ると、各※(二の字点、1-2-22)その上に才のすぐれた組の頭が出來、さうして更に徳の盛んなものを推して之を統治するといふことになつて、そこに君となり師となる者が出來て來る。
 かくの如くして道は段々發展して來たのであるが、支那の歴史としては、法が積み美が備はり、唐虞の時代に至つて善を盡した。殷は夏に因り、周は殷に鑑み、周公に至つて大成した。周公が大成したといふのは、周公はもとより聖人であるけれども、しかしその大成するのは周公の智力によつて能くしたのではない。その時會が然らしめたのである。古來の聖人で集めて大成したといふのは、勿論周公獨りであるが、これは時會が周公をしてさうさせたので、周公自らも、自分が集めて大成する時會に當つたといふことを知らずに自ら大成したのである。然るに支那では、孟子の如き人は、集めて大成したのは孔子だと言つてゐるが、今自分は周公を集めて大成した人だと言へば、孟子の説と違ふやうに考へられるであらうけれども、それは必ずしもさうではない。勿論孔子も集めて大成した人であるが、周公の集めて大成したのは道であつて、孔子の集めて大成したのは、周公の道を教へとした所に存するのである。
 これらの由來を眞に理解しようと思へば、道と器との區別を知らなければならぬ。易には「形より上なるもの之を道と謂ひ、形より下なるもの之を器と謂ふ。」といつてゐるが、道といふものは器を離れて存するものでない。さうして孔子の教を載せてゐる所の六經といふものは、勿論道を載せて居る所の書であるが、しかしその實、六經に載せてゐる所のものは皆な器である。六經といふものは古來の聖人の前言往行であるが、その前言往行といふものは、皆な器によつて現はれて居るので、それを記載したのが六經であるから、六經が道を現はすには、器によつて之を現はしてゐるのである。然るにその古代に於ては、その器によつて教を立てて、即ち治教、政治と教とが二つに分れず、官と師が合一であつて、即ち政治と教育とが一致をして居つたから、教へ、學問は政治の實際の器によつて現はれ、學ぶ者がその器によつて直ちに道に接することが出來たので、器の外にこれが道であるといふものを示されなくても、自然の器によつて道を會得したのである。然るに周の世が衰へた頃からして、治教が二つに分れ、官師が二つに分れることになつたので、その器を著述の上に現はしてさうして教へとしたのが即ち孔子であつて、ここに至つてその文字を以て著述とすることになつた。で孔子は或る時は「予れ言ふ無からんと欲す」と言つた。それはこの世の中にありとあらゆる器によつて自然に道が現はれて居るのであるが、之を六經に載せるに就ては、言ふ所あらざる能はざるのである。然るに又一面で、孟子の如きは、「予れ豈辯を好まんや」と言つてゐる。それは道と器とが離れて、道は器によつて現はれずに、人によつてなづけられるやうになつて來るといふと、我れの道、彼の道といふやうに色々分れて來るので、自然にそこに論辯を要することになつて來るから、已むを得ず論辯するといふのである。
 しかしながら孔子の道は、單に空言に託せずして、之を行事に現はすといふことを主とした、その行事といふのが即ち古來の前言往行をいふので、それを現はす所のものは即ち史であるから、この人の考では、凡そ學問といふものは即ち史學である、史學でないものは學問でないと、かう考へたのである。
 章學誠は又原學篇を書き、學問といふことに就て、易に「成象之を乾と謂ひ、效法之を坤と謂ふ。」學問とは模倣の謂ひなり、道なるものは成象の謂ひなりと考へて、又孔子の「下學而上達す」といふ語があるに就て、即ち形而下の器によつて學んで、形而上の道に達するのが學問の目的であり、方法であると考へたのである。どういふ風にして成象たるを知つて、之に模倣するかと云へば、前言往行の色々の變化を究め、久しき年代に亙る所のものを多く識つて、さうしてその間に所謂成象といふものを自得して、それに模倣するのが即ち教育の道である、と考へて、道の規範に從つて教育するのであるが、この意味から言へば總ての學問が即ち史學でなくてはならんといふことになつて來るのである。只だ茲に後世になつて道なり教なりが、色々多岐に分れて來るといふのは、即ち儒者などの如く、その古來から存してゐる器によつて學んで居りながら、器よりして道を認める所まで思ひを致さないで、只だ故なく前言往行を記憶してゐるだけで、發明する所がない愚昧な一派の者がある。これは即ち孔子のいふ學んで思はざるものである。一方には又古來の前言往行に因らず、器を載せた六經に因らずして、只何んでも自分の心で考へて、自ら是とするやうになる一派の者もある。これは即ち聖人のいふ思うて學ばざるものであつて、それが即ち諸子百家の雜説の因つて來る所である。
 以上は章學誠の道と學との因つて來る根本を説明した所であるが、かういふ原理の上に立つて、さうして總ての古來の著述を判斷して行つたのである。それは色々な論文によつて現はれてゐるが、その一つの有名なのは「言公」の論である。章學誠が言ふには、「古人の言は公の爲めにして、私に據つて己れが有と爲さず」と言つて居つて、古人が言を立てる、即ち著述をするといふやうなことは公の爲めにするものであつて、一個の私有物とする爲めに、之が自分のものだといふ爲めに立てるのではない。元來は道を明かにするが爲めに、言で以てその目的を明かにし、それから言を十分にする爲めに文といふものを用ひる、その文によつて目的が達せられれば、必ずしもそれが自分の説であると言つて、私有しなくてはならぬといふことはない。で一番初めは著述のない時代、即ち道を現はす器といふものは、政治その他の世の中にありとあらゆる機關によつてのみ現はれて居つたのであるが、その中にそれを著述によつて現はすことになつても、最初の著述はその器を載せ道を明かにする爲めの著述であるから、自分の一個の言を立てる爲めの著述ではないのである。で一人の立言者があつた時に、その道を傳へた後の人は、その立言者の著述の後に直ぐ又附け加へて書いても、前の立言を推し弘める爲めであれば少しも差支ない。後の立言者は前の立言者と一體になつて、さうして之を又後世に傳へて差支ないのである。然るに後世の學者は、それらの古代の著述を見た時に、これが最初の立言者の眞の著述であつて、その附け加へたものは皆後人の僞作だといふ風に判斷をするが、その判斷は當つて居らぬ。つまり前の立言者に對して後の繼續者が擴充して書いたまでであるから、眞僞の議論をその間に加ふべきものではない。その立言者とその繼續者との關係によつて、その議論の發展を見るべきものである。
 これが大體に於て言公の論の主旨であるが、章學誠は六經その他の著述に就て、一々事實を指摘して、古代の著述の批判を示してゐる。これは古人の著述を批判する方法として、一つの新らしい見方を出したものであつて、經學史學の研究法に於て究めて重要な考へ方である。
 第二には、章學誠は「六經皆史なり」といふ標語を出して、これが支那の學者一般に非常な衝動を與へたものである。六經皆史といふことに就ては、時としては經學者などの誤解を招いて、その反感を買つたことが少くない。經學者は、經といふものは總ての著述の上に一段高く立つて居るもので、之を史といふ風に見るのは、何か經を汚したことのやうに考へて、聖人の立言である經と後世の學者文人の書いた史と同じ位に置いたやうに誤解することがある。章學誠の六經皆史といふことはさういふ意味でないのであつて、六經は皆古來の前言往行を記録した所のもので、即ちその聖人の道を載せる所の器を現はしたものであるといふ意味である。例へば章學誠は「易教」といふ篇を書いて居るが、それには易は即ち周禮の器である、易の尊い所以は、それが古代の聖人が之を一種の禮制の道具なりとして用ひた所の、その遺法を傳へた書であるからである。易の如く古の聖人が實際使つた、器を記載した本は、さういふ來歴即ち歴史を有つてゐるから尊いのであつて、後の人が易の眞似をして作つた例へば揚雄の太玄とか、司馬光の潛虚とかいふやうな本は、一人の智慧で實際古代に行はれた實跡も何もないのに、妄りに製作したものであつて、そんな來歴といふものを有たないから、少しも尊ぶに足らず、これが妄作と云つてよいものであると言つてゐる。

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