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章学誠の史学(しょうがくせいのしがく)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-13 16:23:58  点击:  切换到繁體中文


 それから章學誠は又「書教」といふ篇を書いて、記録の法を論じてゐる。その言葉に「三代以上。記注有成法。而撰述無定名。三代以下。撰述有定名。而記注無成法。」と言つてゐる。これは記録の方法に關する議論であつて、殊に歴史を著述として見る上に於て、大變重要な觀察をして居るのである。元來記注といふものは、前言往行を忘れない爲めにするものであるが、その記注には必ず事實あつたことをそのまま書く法則を立てて、さうして遺漏なく之を傳へなければならぬ。それは即ち材料として記録されて貽されて居るのであつて、それが著述となつて現はれる場合は撰述無定名であつて、その記録の中から自分の好む所の題目によつて、各※(二の字点、1-2-22)然るべき著述をしてよいのである。その目的に從つて、例へば尚書の召誥・洛誥の如く、周の時代の都を奠めたことを書かうと思へば、その記録の中から都を奠める上に就ての必要なる事實を拾ひ出して、さうして最も適當な方法でそのことを著述すればよろしい。或は又康誥などの如く、天子が自分の親族を諸侯に封じたりすることを、教訓として後に貽さうと思へば、それに關する始末を記録の中から拔出して、さうして一つの著述とする。著述は如何樣な體裁でもよろしいのであるが、その根本たる記録は一定した正しい根據から成立たなければならぬ。これが昔の方法であつて、後世になるといふと、歴史といふものが、例へば史記といふやうな歴史の體裁が出來るといふと、その後の歴史は悉くその同じ體裁によつて書く。然るにその體裁の根據になる所の記録といふものは、十分に確實な記録が備はつて居らぬ。それで確實な記録のない所から、著述の體裁だけの一定したものを作らうとするから、その著述といふものが、非常な不確かな信用の出來ぬものになる。これが即ち三代以下、撰述有定名而記注無成法といふことになるのである。記注に成法がないから、材料を取るのは困難で、さうして動もすれば事實を紊る。然るに撰述に定名があつて、體裁は一定してゐるから、本を作ることは割に容易く出來る。そこで文が質に勝つて、いよいよ以て不確かな記述が出て來るのである。三代以下の著述でも、その良い勝れた著述といはれたものは、皆必ずしもきまつた體裁はないのである。例へば通典が作られた時に、通典は一體禮の變遷を書いたものであるが、その間に禮に關する議論を差挾んでも差支ない。又司馬遷の史記は自分が書いた本文の後に、その材料になつた所の原文を存録してゐることもある。さういふことは少しも差支ないのである。
 所で著述が段々變つて行く所の道行きとしては、初めの尚書は最も理想的な著述である。即ち成法のある記注を本として、さうして自分の必要な題目によつて勝手に著述をしたものである。然るに後になつてこの尚書の體裁が一變して左氏の春秋となつた。尚書にはきまつた體裁がないけれども、左傳にはきまつた例、即ち編年體が出來て來た。左傳が一變して司馬遷の史記即ち紀傳體の歴史になつた。左傳は年月によつて事實を並べて行つたが、司馬遷は之を變じて類例によつて歴史を作つた。司馬遷の史記が一變して班固の漢書になつた。史記は古代から近代までを一つの歴史として、通じてその變遷を現はして書いてあるのに、班固は漢一代のことを斷代の歴史として書いた。しかしともかくもこの時までは古來からの法が段々變化はして來たが、それで形は違つて居るけれども、精神は一樣である。殊に司馬遷の史記の如きは、本紀・書・表・世家・列傳と體を分けて書いてあるが、しかしそれは單に外形上さういふ區別をしたのであつて、内容に於てはそのやり方は自在で、その名前に拘束されて居らぬ。例へて言へば、司馬遷の伯夷列傳は、伯夷の爲めに傳を書くばかりでなしに、總ての列傳の總序として一番初めに書いたのであつて、題目は何んであつても、その内容は自由自在に如何なることを書いても差支ないやうにしたのである。その後、班固以來、紀傳體の斷代の歴史が續いたが、宋の司馬光に至つて、又左傳と同じやうな編年體の通鑑を作つた。然るにその後になつて、南宋の袁樞といふ人が通鑑紀事本末といふものを作つた。歴史の體は古來かくの如く變化をして來てゐるが、この紀事本末の體の歴史が最後に出來たといふのは、これ即ち一番最初の尚書の體裁に復つて來たのであつて、袁樞その人は勿論さういふ大したえらい見識を以て書いたのでなしに、單に通鑑の記事を、一つ一つ事件を纏めて記憶する爲めに、便宜上書いたに過ぎないのであるけれども、歴史の發達の順序としては、かういふつまらない人の著述でも、自然に古代の最上の著述の趣意に合するやうになり來つたのである。章學誠のかういふ見方はつまり言はば、最近の歴史の體裁と自然に合して居るのであつて、今日西洋の有名な著述でも、すべてこの紀事本末の體で書くことになつてゐるのであるが、歴史がさうなるべきものだといふことは、章學誠は百五十年前に於て既に考へて居つたのである。
 章學誠は又詩教の篇を書いて、あらゆる著述は支那では戰國の時代から初めて盛んになつて來た。章學誠の意見では、戰國の文は、源は六藝に出てゐるけれども、又最も多く詩の教から出てゐる。後世の文はその體は皆戰國に備はつて居り、著述といふものは戰國になつて初めて專門の仕事になつた。詩の教といふのは必ずしも韻を蹈んでゐるばかりでなしに、その詩の精神といふものが、事を論じ、ものを形容するのに自由自在であつて、如何なる方法にでも思想を表現することが出來るから、それであらゆる著述といふものは詩教から出發するのである。かういふので、易教・詩教・書教、この三つによつて、古來の著述の源流を論じたのであるが、その外にこの人は禮教といふ篇を書いたけれども、これは最初に出版された文史通義には載つて居らぬ。それは易教・詩教・書教に比しては、十分な力を有つた論文ではなかつた。或る友人は、この人に春秋教といふものを書くことを勸めたが、それは書かなかつた。章學誠の書教の論の中には、春秋の中のことも含んで居るので、書教を書けば春秋教といふものを書く必要がなかつたのである。つまりこの人は支那の在來の經書の分け方の中に、古來の著述を總括して、さうしてあらゆる應用の方法を論じたのである。
 その外にも、小さい論文の中に、時々この人の卓見を現はして居るのがあつて、例へば史徳といふ篇には、歴史を書く者の資格、即ち才・學・識の三長を有すべしとは、昔から言はれてゐるが、そのことやら、殊に著述の眞實、即ち正しく著述をするといふことに就て論じてある。即ち著述は詩の教の思ひ邪なしといふことを以て精神とすべきであるといふことを論じてある。それから又歴史の材料の取扱ひに就ては、史釋・史注などといふ論文の中に論じてある。それから又歴史には一代の史あり、一國の史あり、一家の史あり、一人の史ありとして、各※(二の字点、1-2-22)それに關する用意を論じてゐる。その外に著しいのは申鄭といふ篇があつて、申鄭とは宋の時代の鄭樵のことをほめたのである。元來支那で三通といはれてゐる通典・通志・文獻通考、この三つの中で、通典の勝れた著述であることは、何人も異論はないが、通志と文獻通考とに就ては、同じく宋末の著述であつて、その書き方の相異のある所から、屡※(二の字点、1-2-22)比較論が出來てゐる。一般には馬端臨の文獻通考が大變に整頓された良い著述であつて、鄭樵の通志は劣ると言はれてゐるのであるが、章學誠はそれに反して、通志の方がその出來榮が惡くても、史論が勝れて居つて、精神は立派なものであるといふことを主張して、馬端臨の文獻通考の方が劣るといふことを論じた。これが最も乾隆時代の一般の學風とは反對の位置に立つてゐるのである。
 それで章學誠の考では、歴史を研究するのに、整輯排比といふやり方があつて、それは史纂である。參互搜討といふことをするのは史考である。これは兩方とも史學とはいはれない。勿論その整輯排比、參互搜討、共に役に立たんといふことではない。良い著述をする爲めには、材料を並べたつまらない著述の中から、必要なことを取出すのであるから、そのつまらない著述も役には立つのであるが、史學といふものは、その材料を集め、材料を選擇するだけでは史學にならないので、それを如何に取扱ふかといふことが史學である。それで章學誠は獨斷の學といふことを大變尊んだ。ここでいふ獨斷といふのは、材料を考へずに空言空論で獨斷でするといふ意味ではなくして、そのある所の材料を如何に處理するかといふ考へに就ては、一個の自分の頭腦によつてやるべきものであるといふことを獨斷と稱したのである。獨斷の學問の尊いことを頻りに主張してゐる。章學誠は支那の古來の正史の中で、古い史記・漢書その他の歴史は皆家學であつて、親から子に傳はつて、澤山の材料を如何に處理すべきかが十分に考へられ拔いた上で出來上つた著述であるから、それで尊いのであるが、唐時代からして一度に澤山の學者を寄せて、それに色々仕事を分擔させ、又それを總括する人があつて、さうして纂輯する方法で歴史を作るといふことになつてから、著述の一貫した精神がなくなつて、その史學といふものは衰へたといふ考へ方をして居るのである。
 この人の學問にはこの外にも色々な題目に亙つた考へがあるが、殊にその中で史學の分派として最も大切なのは方志の學といふものである。即ち地方志の學問である。地方志の學問には章學誠は古來にない一家の組織立つた考へを有つて居つて、之に就ては當時の有名な經學者戴震などと全く反對の位置に立つて、論難をした。地方志を書くに、紀傳體に志を書くこと、掌故といふもの即ち律令典例などの如きものを書くこと、それから文藝に關することを書くこと、この三つの體裁を備へて、さうして地方志が一般史の材料になるやうに著述をして置くといふことの必要を主張した。當時の地方志を書いた多くの人が、單に地方志を沿革地理を主として書いたのとは違つて、過去のこと現在のことの資料として書く意見であつたので、それは沿革地理を書くといふ主義とは別個の考へであるが、隨分面白い考へである。
 その外、この人も最も勝れた研究は校讐學である。校讐學は校讐通義に主に論じてあるが、これが即ち著述の源流を考へる學問であつて、一面から見ると書籍の目録の學問であるけれども、その目録の學問といふのは、單に書籍の目録を並べて分類するといふのではなくして、書籍の著述の意義から考へて、書籍の世の中に出て來るのを發生的に考へて、さうして分類法を考へたのである。必ずしも古代の分類が良くて、近代の分類が惡いといふやうに、昔のことばかりを尊ぶ意味から論じたのではない。勿論古代の分類が勝れて居つたこと、即ち劉向・劉※(「音+欠」、第3水準1-86-32)などの分類が勝れて居つたことを論じて居るけれども、それは即ち劉向・劉※(「音+欠」、第3水準1-86-32)が學問の流別といふことを知つて、著述の發生する次第に明らかであつたからであつて、劉向・劉※(「音+欠」、第3水準1-86-32)時代に書籍を六部に分けたのが、後世になつて四部に分けられるやうになつたのは自然の勢で、これは已むを得ないといふことを十分に認めつつ、分類が如何にすべきものかといふことを、根本から研究して居るのである。これらも今日の目録學に取つても非常に有益なものである。
 大體章學誠の學問は以上述べたやうに、今日から考へれば、史學を單に事實を記録する學問とせずに、その根本として原理原則から考へようとしたのである。その考へ方は哲學的であるが、しかしこの人の考へとしては、あらゆる學問は哲學が根本ではなしに史學が根本である。あらゆる學問は史學そのものである。史學の背景のないものは學問にならぬといふ意味で、總ての著述を批判しようとしたのが特別な點である。これらの考へは文史通義を通讀して、精細にその組立ての仕方を考へると判るのであるが、粗雜に讀み去つたのでは、これだけの精密の組立ては判り難いのであるから、支那のこれを崇拜する學者達でも、なかなかこの人の眞意を得ることはむつかしいのであつて、漸く最近に至つて幾らか西洋の學問をした人達によつてその眞價が認められるやうになり來つたのである。で史學のみならず學問の見方から言つて、この人の學風といふものは今に於て生命があるものと考へられるので、ともかくこれを今日の學界に紹介して置きたいといふのが自分の本旨である。





底本:「内藤湖南全集 第十一巻」筑摩書房
   1969(昭和44)年11月30日発行
   1976(昭和51)年10月10日第2刷
底本の親本:「支那史學史」京都大学支那史学史講義
   未刊
初出:大阪懷徳堂講演
   1928(昭和3)年10月6日
   「懐徳」第八号に講演録所収
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年7月9日公開
2004年2月4日修正
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