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悟浄出世(ごじょうしゅっせ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-17 11:29:57  点击:  切换到繁體中文


 女※じょう[#「人べん+禹」、152-1]氏は一見きわめて平凡な仙人せんにんで、むしろ迂愚うぐとさえ見えた。悟浄が来ても別にかれを使うでもなく、教えるでもなかった。堅彊けんきょうは死の柔弱にゅうじゃくは生の徒なれば、「学ぼう。学ぼう」というコチコチの態度を忌まれたもののようである。ただ、ほんのときたま、別に誰に向かって言うのでもなく、何かつぶやいておられることがある。そういうとき、悟浄は急いで聞き耳を立てるのだが、声が低くてたいていは聞きとれない。月の間、渠はついになんの教えも聞くことができなかった。「賢者けんじゃが他人について知るよりも、愚者ぐしゃおのれについて知るほうが多いものゆえ、自分の病は自分で治さねばならぬ」というのが、女※[#「人べん+禹」、152-7]氏から聞きえた唯一の言葉だった。月めの終わりに、悟浄はもはやあきらめて、暇乞いとまごいに師のもとへ行った。するとそのとき、珍しくも女※[#「人べん+禹」、152-9]氏は縷々るるとして悟浄に教えを垂れた。「目が三つないからとて悲しむことの愚かさについて」「つめや髪の伸長をも意志によって左右しようとしなければ気が済まない者の不幸について」「酔うている者は車からちても傷つかないことについて」「しかし、一概に考えることが悪いとは言えないのであって、考えない者の幸福は、船酔いを知らぬ豚のようなものだが、ただ考えることについて考えることだけは禁物であるということについて」
 女※[#「人べん+禹」、152-14]氏は、自分のかつてっていた、ある神智を有する魔物のことを話した。その魔物は、上は星辰せいしんの運行から、下は微生物類の生死に至るまで、何一つ知らぬことなく、深甚微妙しんじんみみょうな計算によって、既往のあらゆる出来事をさかのぼって知りうるとともに、将来起こるべきいかなる出来事をも推知しうるのであった。ところが、この魔物はたいへん不幸だった。というのは、この魔物があるときふと、「自分のすべて予見しうる全世界の出来事が、何故なにゆえに(経過的ないかにしてではなく、根本的な何故に)そのごとく起こらねばならぬか」ということに想到し、その究極の理由が、彼の深甚微妙なる大計算をもってしてもついにさがし出せないことを見いだしたからである。何故向日葵ひまわりは黄色いか。何故草は緑か。何故すべてがかくるか。この疑問が、この神通力じんずうりき広大な魔物を苦しめ悩ませ、ついにみじめな死にまで導いたのであった。
 女※じょう[#「人べん+禹」、153-5]氏はまた、別の妖精ようせいのことを話した。これはたいへん小さなみすぼらしい魔物だったが、常に、自分はある小さな鋭く光ったものを探しに生まれてきたのだと言っていた。その光るものとはどんなものか、誰にも解らなかったが、とにかく、小妖精しょうようせいは熱心にそれを求め、そのために生き、そのために死んでいったのだった。そしてとうとう、その小さな鋭く光ったものは見つからなかったけれど、その小妖精の一生はきわめて幸福なものだったと思われると女※[#「人べん+禹」、153-9]氏は語った。かく語りながら、しかし、これらの話のもつ意味については、なんの説明もなかった。ただ、最後に、師は次のようなことを言った。
「聖なる狂気を知る者は幸いじゃ。彼はみずからを殺すことによって、みずからを救うからじゃ。聖なる狂気を知らぬ者はわざわいじゃ。彼は、みずからを殺しも生かしもせぬことによって、徐々に亡びるからじゃ。愛するとは、より高貴な理解のしかた。行なうとは、より明確な思索のしかたであると知れ。何事も意識の毒汁どくじゅうの中に浸さずにはいられぬあわれな悟浄よ。我々の運命を決定する大きな変化は、みんな我々の意識を伴わずに行なわれるのだぞ。考えてもみよ。お前が生まれたとき、お前はそれを意識しておったか?」
 悟浄ごじょうは謹しんで師に答えた。師の教えは、今ことに身にしみてよく理解される。実は、自分も永年の遍歴の間に、思索だけではますます泥沼どろぬまに陥るばかりであることを感じてきたのであるが、今の自分を突破って生まれ変わることができずに苦しんでいるのである、と。それを聞いて女※じょう[#「人べん+禹」、154-3]氏は言った。
「渓流が流れて来て断崖だんがいの近くまで来ると、一度渦巻うずまきをまき、さて、それから瀑布ばくふとなって落下する。悟浄よ。お前は今その渦巻の一歩手前で、ためらっているのだな。一歩渦巻にまき込まれてしまえば、那落ならくまでは一息。その途中に思索や反省や低徊ていかいのひまはない。臆病おくびょうな悟浄よ。お前は渦巻うずまきつつ落ちて行く者どもを恐れとあわれみとをもってながめながら、自分も思い切って飛込もうか、どうしようかと躊躇ちゅうちょしているのだな。遅かれ早かれ自分は谷底に落ちねばならぬとは十分に承知しているくせに。渦巻うずまきにまき込まれないからとて、けっして幸福ではないことも承知しているくせに。それでもまだお前は、傍観者の地位に恋々れんれんとして離れられないのか。物凄ものすごい生の渦巻の中であえいでいる連中が、案外、はたで見るほど不幸ではない(少なくとも懐疑的な傍観者より何倍もしあわせだ)ということを、愚かな悟浄よ、お前は知らないのか。」
 師の教えのありがたさは骨髄こつずいに徹して感じられたが、それでもなおどこか釈然としないものを残したまま、悟浄は、師のもとを辞した。
 もはや誰にも道を聞くまいぞと、かれは思うた。「誰も彼も、えらそうに見えたって、実は何一つわかってやしないんだな」と悟浄は独言ひとりごとを言いながら帰途についた。「『お互いに解ってるふりをしようぜ。解ってやしないんだってことは、お互いに解り切ってるんだから』という約束のもとにみんな生きているらしいぞ。こういう約束がすでに在るのだとすれば、それをいまさら、解らない解らないと言って騒ぎ立てる俺は、なんという気のかない困りものだろう。まったく。」

       五

 のろま愚図ぐず悟浄ごじょうのことゆえ、翻然大悟ほんぜんたいごとか、大活現前だいかつげんぜんとかいったあざやかな芸当を見せることはできなかったが、徐々に、目に見えぬ変化がかれの上に働いてきたようである。
 はじめ、それはけをするような気持であった。一つの選択が許される場合、一つのみちが永遠の泥濘でいねいであり、他の途がけわしくはあってもあるいは救われるかもしれぬのだとすれば、誰しもあとの途を選ぶにきまっている。それだのになぜ躊躇ちゅうちょしていたのか。そこでかれははじめて、自分の考え方の中にあったいやしい功利的なものに気づいた。けわしいみちを選んで苦しみ抜いた揚句あげくに、さて結局救われないとなったら取返しのつかない損だ、という気持が知らず知らずの間に、自分の不決断に作用していたのだ。骨折り損を避けるために、骨はさして折れない代わりに決定的な損亡へしか導かない途に留まろうというのが、不精ぶしょうで愚かで卑しいおれの気持だったのだ。女※じょう[#「人べん+禹」、155-15]氏のもとに滞在している間に、しかし、渠の気持も、しだいに一つの方向へ追詰められてきた。初めは追つめられたものが、しまいにはみずから進んで動き出すものに変わろうとしてきた。自分は今まで自己の幸福を求めてきたのではなく、世界の意味を尋ねてきたと自分では思っていたが、それはとんでもない間違いで、実は、そういう変わった形式のもとに、最も執念深く自己の幸福を探していたのだということが、悟浄にわかりかけてきた。自分は、そんな世界の意味を云々うんぬんするほどたいした生きものでないことを、かれは、卑下ひげ感をもってでなく、安らかな満足感をもって感じるようになった。そして、そんな生意気をいう前に、とにかく、自分でもまだ知らないでいるに違いない自己を試み展開してみようという勇気が出てきた。躊躇ちゅうちょする前に試みよう。結果の成否は考えずに、ただ、試みるために全力を挙げて試みよう。決定的な失敗にしたっていいのだ。今までいつも、失敗への危惧きぐから努力を抛棄ほうきしていた渠が、骨折り損をいとわないところにまで昇華しょうかされてきたのである。

       六

 悟浄ごじょうの肉体はもはや疲れ切っていた。
 ある日、かれは、とある道ばたにぶっ倒れ、そのまま深いねむりに落ちてしまった。まったく、何もかも忘れ果てた昏睡こんすいであった。渠は昏々こんこんとして幾日か睡り続けた。空腹も忘れ、夢も見なかった。
 ふと、を覚ましたとき、何か四辺あたりが、青白く明るいことに気がついた。夜であった。明るい月夜であった。大きなまるい春の満月が水の上から射し込んできて、浅い川底を穏やかな白い明るさで満たしているのである。悟浄は、熟睡のあとのさっぱりした気持で起上がった。とたんに空腹に気づいた。渠はそのへんを泳いでいた魚類を五、六尾手掴てづかみにしてむしゃむしゃ頬張ほおばり、さて、腰にげたふくべの酒を喇叭らっぱ飲みにした。うまかった。ゴクリゴクリと渠は音を立てて飲んだ。ふくべの底まで飲み干してしまうと、いい気持で歩き出した。
 底の真砂まさごの一つ一つがはっきり見分けられるほど明るかった。水草に沿うて、絶えず小さな水泡みなわの列が水銀球のように光り、揺れながら昇って行く。ときどきかれの姿を見て逃出す小魚どもの腹が白く光っては青水藻あおみどろの影に消える。悟浄はしだいに陶然としてきた。がらにもなく歌がうたいたくなり、すんでのことに、声を張上げるところだった。そのとき、ごく遠くの方で誰かの唱っているらしい声が耳にはいってきた。渠は立停たちどまって耳をすました。その声は水の外から来るようでもあり、水底のどこか遠くから来るようでもある。低いけれども澄透すみとおった声でほそぼそと聞こえてくるその歌に耳を傾ければ、

江国春風吹不起こうこくのしゅんぷうふきたたず
鷓鴣啼在深花裏しゃこないてしんかのうちにあり
三級浪高魚化竜さんきゅうなみたこうしてうおりゅうにかす
痴人ちじん猶※なおくむ[#「尸+斗」、158-13]夜塘水やとうのみず

 どうやら、そんな文句のようでもある。悟浄ごじょうはその場に腰を下ろして、なおもじっと聴入った。青白い月光に染まった透明な水の世界の中で、単調な歌声は、風に消えていく狩りの角笛ののように、ほそぼそといつまでもひびいていた。
 たのでもなく、さりとて覚めていたのでもない。悟浄は、魂が甘くうずくような気持で茫然ぼうぜんと永い間そこにうずくまっていた。そのうちに、かれは奇妙な、夢とも幻ともつかない世界にはいって行った。水草も魚の影も卒然そつぜんと渠の視界から消え去り、急に、もいわれぬ蘭麝らんじゃにおいが漂うてきた。と思うと、見慣れぬ二人の人物がこちらへ進んで来るのを渠は見た。
 前なるは手に錫杖しゃくじょうをついた一癖ひとくせありげな偉丈夫いじょうふ。後ろなるは、頭に宝珠瓔珞ほうじゅようらくまとい、頂に肉髻にくけいあり、妙相端厳みょうそうたんげんほのかに円光えんこうを負うておられるは、何さま尋常人ただびとならずと見えた。さて前なるが近づいて言った。
「我は托塔たくとう天王の二太子、木叉恵岸もくしゃえがん。これにいますはすなわち、わが師父しふ、南海の観世音菩薩かんぜおんぼさつ摩訶薩まかさつじゃ。天竜てんりゅう夜叉やしゃ乾闥婆けんだつばより、阿脩羅あしゅら迦楼羅かるら緊那羅きんなら※(「目+喉のつくり」、第3水準1-88-88)羅伽まごらか・人・非人に至るまで等しくあわれみを垂れさせたもうわが師父には、このたび、なんじ、悟浄が苦悩くるしみをみそなわして、特にここにくだって得度とくどしたもうのじゃ。ありがたく承るがよい。」
 覚えずこうべを垂れた悟浄の耳に、美しい女性的な声――妙音みょうおんというか、梵音ぼんおんというか、海潮音かいちょうおんというか、――が響いてきた。
悟浄ごじょうよ、あきらかに、わが言葉を聴いて、よくこれを思念せよ。身のほど知らずの悟浄よ。いまだ得ざるを得たりといいいまだあかしせざるを証せりと言うのをさえ、世尊せそんはこれを増上慢ぞうじょうまんとて難ぜられた。さすれば、証すべからざることを証せんと求めたなんじのごときは、これを至極しごくの増上慢といわずしてなんといおうぞ。爾の求むるところは、阿羅漢あらかん辟支仏びゃくしぶつもいまだ求むるあたわず、また求めんともせざるところじゃ。哀れな悟浄よ。いかにして爾の魂はかくもあさましき迷路に入ったぞ。正観を得れば浄業じょうごうたちどころに成るべきに、爾、心相羸劣しんそうるいれつにして邪観じゃかんに陥り、今この三途無量さんずむりょうの苦悩にう。おもうに、なんじ観想かんそうによって救わるべくもないがゆえに、これよりのちは、一切の思念をて、ただただ身を働かすことによってみずからを救おうと心がけるがよい。時とは人の作用はたらきいいじゃ。世界は、概観によるときは無意味のごとくなれども、その細部に直接働きかけるときはじめて無限の意味をつのじゃ。悟浄よ。まずふさわしき場所に身を置き、ふさわしき働きに身を打込め。身の程知らぬ『何故』は、向後こうご一切打捨てることじゃ。これをよそにして、爾の救いはないぞ。さて、今年の秋、この流沙河りゅうさがを東から西へと横切る三人の僧があろう。西方金蝉きんせん長老の転生うまれかわり玄奘法師げんじょうほうしと、その二人の弟子どもじゃ。とう太宗皇帝たいそうこうてい綸命りんめいを受け、天竺国てんじくこく大雷音寺だいらいおんじ大乗三蔵だいじょうさんぞう真経しんぎょうをとらんとておもむくものじゃ。悟浄よ、なんじも玄奘に従うて西方におもむけ。これ爾にふさわしき位置ところにして、また、爾にふさわしき勤めじゃ。みちは苦しかろうが、よく、疑わずして、ただ努めよ。玄奘の弟子の一人に悟空ごくうなるものがある。無知無識にして、ただ、信じて疑わざるものじゃ。爾は特にこの者について学ぶところが多かろうぞ。」
 悟浄がふたたび頭をあげたとき、そこには何も見えなかった。かれ茫然ぼうぜんと水底の月明の中に立ちつくした。妙な気持である。ぼんやりした頭の隅で、渠は次のようなことをとりとめもなく考えていた。
「……そういうことが起こりそうな者に、そういうことが起こり、そういうことが起こりそうなときに、そういうことが起こるんだな。半年前のおれだったら、今のようなおかしな夢なんか見るはずはなかったんだがな。……今の夢の中の菩薩ぼさつの言葉だって、考えてみりゃ、女※じょう[#「人べん+禹」、160-18]氏や※(「虫+糾のつくり」、第4水準2-87-27)髯鮎子きゅうぜんねんしの言葉と、ちっとも違ってやしないんだが、今夜はひどく身にこたえるのは、どうも変だぞ。そりゃ俺だって、夢なんかが救済すくいになるとは思いはしないさ。しかし、なぜか知らないが、もしかすると、今の夢のお告げの唐僧とうそうとやらが、ほんとうにここを通るかもしれないというような気がしてしかたがない。そういうことが起こりそうなときには、そういうことが起こるものだというやつでな。……」
 渠はそう思って久しぶりに微笑した。

       七

 その年の秋、悟浄ごじょうは、はたして、大唐だいとう玄奘法師げんじょうほうし値遇ちぐうし奉り、その力で、水から出て人間となりかわることができた。そうして、勇敢にして天真爛漫てんしんらんまん聖天大聖せいてんたいせい孫悟空そんごくうや、怠惰たいだな楽天家、天蓬元帥てんぽうげんすい猪悟能ちょごのうとともに、新しい遍歴へんれきの途に上ることとなった。しかし、その途上でも、まだすっかりは昔の病のけ切っていない悟浄は、依然として独り言の癖をめなかった。かれつぶやいた。
「どうもへんだな。どうもに落ちない。分からないことをいて尋ねようとしなくなることが、結局、分かったということなのか? どうも曖昧あいまいだな! あまりみごとな脱皮だっぴではないな! フン、フン、どうも、うまく納得なっとくがいかぬ。とにかく、以前ほど、苦にならなくなったのだけは、ありがたいが……。」
――「わが西遊記」の中――





底本:「李陵・山月記・弟子・名人伝」角川文庫 角川書店
   1968(昭和43)年9月10日改版初版発行
   1998(平成10)年5月30日改版52版発行
入力:佐野良二
校正:松永正敏
2001年3月16日公開
2004年2月4日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について
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  • [#…]は、入力者による注を表す記号です。
  • 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
  • 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
  • この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。

    「魚+台」    135-7、135-12
    「車+度」    139-16
    「人べん+禹」    142-16、144-7、151-17、152-1、152-7、152-9、152-14、153-5、153-9、154-3、155-15、160-18
    「魚+厥」    148-15、149-3、149-18
    「尸+斗」    158-13

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