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隣室の客(りんしつのきゃく)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-18 7:26:09  点击:  切换到繁體中文


     三

 其頃からでは余程前のことであつた。或遠方の姻戚に葬式があつたことがあつた。夏といつてもまだ暑いといふ頃ではなかつたが、竹の筒には百合の花が供へられてあつた。藪の草の中などにはまだ山百合が膨れ出しもしなかつた位であつたから、草花の好な私は其白い花が何といふ百合であるかと見て居たのであつた。其土地は私の村とは違つて樹立も稀に只田が闊々として何処にも日が一杯に射して居た。そこらの庭の隅には其白い百合がぎつしりと花を持つて簇生して居るのを見た。田が連つて居る土地だけに私の村のやうではなくどこにも空地といふものは極めて少なかつた。棺が庭へ卸された時見物に集つた村の者と客とが庭にぎつしり詰つた。私は垣根の側に混雑を避けて居た。私の側には見物の女が三四人居た。私はうつかりして居ると其中の一人があれと喫驚したやうにいつた。私に一番接近した十五六の女の子の背負うて居た乳飲児が其女の子の肩へ挂けて白く乳を吐いた。さうして其とばしりが私の紋付の羽織へかゝつたのであつた。女の子は赤い顔をして居る。後へ廻した片手を外して手拭で私の羽織を拭かうとする所であつた。私は手巾を出してそつとふいた。女の子は挨拶のしやうもなく只はら/\して居た。日がすぐに羽織を乾して乳の痕がうすく袂に印された。私はふと又肩の処に褐色の粉がぽちつと附いて居るのに気がついた。指の先で弾いて見てもそれでも微かに粉が残つて居た。其時私の側からもう距つた先刻の女の子を人越しに見た。乳飲児が白い百合の花を持つて居る。其百合の花粉が私の肩に触れたのであつた。女の子は只それだけのことで私の記憶に存して居る程のことはなかつたのである。だから其後更に思ひ出すことも無かつたのであるが、おいよさんを何処かで見たことのある女のやうだと暫く案じて居た末到頭此が記憶から喚び起されたのであつた。おいよさんはさう思つて見ると其時の女の子である。或時私はそれとはなしに其土地に居たことがあるかないか聞いて見た。さうして其子がおいよさんであることを慥めた。それにしても私は其時の女の子と今のおいよさんとの容子が何から何まで変つて居るのには驚いた。私の夏羽織は其儘になつて居た。私のやうな辺鄙の土地に居るものは晴衣の夏羽織を用ゐることはそれは滅多にないことなので幾年でも仕立てた儘に保存されて居るのである。乳の痕が微かに見えて居た。私はおいよさんに見せて目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)るのを見た。かういふ些細な事実がおいよさんと私との間を近くすることを速めた。それからといふものはお互に幾分遠慮がとれて来たのであつた。おいよさんが来たばかりの頃はまだ単衣であつた。風呂敷包一つ持つて近くの叔母の所へ客に行くといつて出た儘遁げて来たのだからといつておいよさんは紺飛白の洗ひ曝しと中形の浴衣と二枚より外持つては居なかつた。浴衣を着て襷挂になるとおいよさんは一寸人目を惹くのであつた。紺絣は柄が不似合なので別人のやうになるのであつた。秋も涼しくなつたのでおいよさんは其紺絣ばかり着るやうに成つた。私はそれを心に不満足に見て居た。だがこれまでも私には妙な一つの癖があつた。一人の女を始終見て居るとすると悪く見えて居る所がなくなつてくれゝばいゝがと思ひながら見ては又見るのである。悪い処が幾らづゝでも私の目に悪く映る度合の減ずるやうに心挂けるのであつた。私は見馴れることに勉めたといへばいへるのである。おいよさんの紺絣の姿もだん/\見づらくないやうになつた。おいよさんは私の冬着の支度に骨折つて居た。或日私が秋草の植込に水を注いで居た。私の村のやうな辺鄙な土地で秋草を作らうといふものは私の外には一人もないのである。私はそれを自慢の一つにして居たのである。
「あなた一寸お出でなすつて下さい」
 おいよさんは呼びに来た。座敷へ行つて見ると
「これを通して見て」
 縫ひ上げた綿入を二つ襲ねておいよさんは私の後へ廻つた。
「どうするんだい」
 どうするか私に分らないことはないのだが、黙つて立つて居るのが極りが悪いやうな気がしたのでかういつたのである。私はどこまでも初心であつた。
「あらまあどうでもようござんすよ」
 おいよさんは構はずに衣物を私に引つ挂けさせて、後で膝をついて裾を合せて引張つて見たり、前へ立つて袖を横に引つ張つて見たりして白いしつけ糸をとつて口に入れては歯で噛みながら
「もう何処へ行つてもようござんすよ」
 おいよさんは衣物をとりながら私を見て嫣然とした。おいよさんは遠慮がとれると共に私に対してはき/\して来た。私の家庭に於いておいよさんは便利な人になつた。特に私には日常のすべてに於て女といふものゝ便利なことをつく/″\と感ぜしめた。
 秋も冷かになつた。教師はよく来たがおいよさんの為めに袷の用意をして来ない。母はどうせ届けてよこす見込はないのだらうと唐桟の袷地を買つてやつた。夜ランプの下でおいよさんが袷地をいぢりながら母へ義理を述べた時には私は心窃にうれしかつた。次の日においよさんは反物の尺を測つて一寸考へて復た測つてそれを裁たうとして居ると、教師からだといつて近所から行く生徒が手紙を持つて来た。おいよさんは反物を拡げた儘すぐに封を切つた。暫く物案じをして居たがすぐに其所を始末して母へ暇を告げて出て行つた。おいよさんは其日は帰らなかつた。次の日も帰らない。おいよさんの針仕事は依然としておいよさんが束ねた儘そつくりと柱の側に置かれてある。私の心は何んだか形容し難い寂しさを感じた。此の時限り私はおいよさんに別れたのではない。それにも拘らず私はおいよさんに対して前後に此の時程果敢ない思をしたことがない。どうしても心が騒いでならないのであつた。おいよさんは三日目の夕方私が跣足で秋草へ水をやつて居る所へ風呂敷包を抱へてもどつて来た。
「まだ極りがつかないもんですから人が来たんだつていひました。私はいつだつておなじなんですから駄目ですよ」
 かういつて
「それでもね私が置いて来た衣物は二枚ばかりとゞきました。私がこゝへ来て居ることは来た人も知らないんですからね。どこへ行つて居るんだつて頻りに聞いた相ですよ」
 おいよさんは淋しく笑つた。どうもはき/\として居ない。おいよさんは又何かいはうとしたが傭人が畑から帰つて来たので私のもとを去つた。私はおいよさんを見てひどく不安に感じた。それでも其夜ランプの下で自分の袷地を裁つて威勢よく箆をつけて居るのを見て少し心がゆつたりしたやうであつた。おいよさんの家からはそれつきり何ともいつて来なかつた。おいよさんは依然として私に便利な人であつた。私は外出する度窃においよさんの用を達してやつた。私は自分から何か欲しいものはないかと聞いてやるのであつた。赤い綿フランネルだのメリンスの半襟だの私はおいよさんの為めに買つて来た。おいよさんのはき/\した態度は初心な私の眼を掩うたのである。
 或晩私は便所へ立つた。便所の戸を開けようとした時私はおいよさんの部屋の障子が一杯に明るくなつて居るのに気がついた。便所に近い六畳の間がおいよさんの部屋にあてられてあつたのである。夜はもう何時位であつたか知れなかつたが秋雨が止まず降り注いで居る。廂を掩うて居る桐の木がもう落葉して居るので其落葉へ雨はばしや/\と打ちつける。廂へもじと/\と打ちつける。さうかと思ふと草鞋で歩いて来る足音のやうにしと/\と遠い響が聞えて来る。※(「虫+車」、第3水準1-91-55)が滅入るやうに鳴いて居る。さういふ錯雑した響の中に夜はしんとして更けつゝあるのを感ぜしめた。便所を出る時にもおいよさんの部屋は障子が一杯に明るくなつ[#底本では「っ」]た儘である。暫く立つて見たが障子の内は只静かである。おいよさんはどうして居るのであらうか、或はうつかり眠つて畢つたのではなからうか、眠つたとすると枕元へ引きつけたランプは危険である。それで私は障子に近づいて外からがた/\と軽く障子を動かして見た。起きて居るならば何とか驚いて声を立てる筈であるのに一向返辞もない。私は有繋に心が咎めながら到頭障子を開けて見た。おいよさんは熟睡して居る。こちらを向いてさうして蒲団の外へ延した右の手から雑誌が披いた儘こけて居た。大縞の浴衣を着たしどけない姿で肩が挂蒲団から脱け出して居た。枕元の二分心のランプは心が一杯に出て油煙が微かにホヤの上に立つて居る。さうして室内はほのかに臭くなつて居た。おいよさんは深夜に障子を開けて私がはひつて来たとは知らない。さうして軽く体に波を打たせながら息づく外に微動もしない。ランプの光はおいよさんの無心な白い顔を見守つて居る。私は立つたまゝ堅くなつたやうになつて見おろした。おいよさんの口もとの筋がどうしたのか少しぴく/\と動いた。私はつとしやがんでランプの心を引つ込めた。裾がおいよさんの手に触れた。おいよさんはぎよつと目を開いた。さうして驚いた機会にすつと一時に息を吸ひ込んで、まあと一声出して打消すやうに手を挙げた。おいよさんは手を引きながらランプのホヤを倒した。おいよさんは慌てゝ身を起しかけた。其時はもう私が火を吹つ消したのでおいよさんの姿は只目前に見えなくなつてしまつた。それと同時に生暖い風がふわりと私の肌に感じた。

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