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薤露行(かいろこう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-18 8:23:47  点击:  切换到繁體中文


     二 鏡

 ありのままなる浮世を見ず、鏡に写る浮世のみを見るシャロットの女は高きうてなの中に只一人住む。ける世を鏡のうちにのみ知る者に、おもてを合わす友のあるべき由なし。
 春恋し、春恋しとさえずる鳥の数々に、耳そばだてて隠れの翼の色を見んと思えば、窓に向わずして壁に切り込む鏡に向う。あざやかに写る羽の色に日の色さえもそのままである。
 シャロットの野に麦刈る男、麦打つ女の歌にやあらん、谷を渡り水を渡りて、かすかなる音の高き台に他界の声の如く糸と細りて響く時、シャロットの女は傾けたる耳をおおうてまた鏡に向う。河のあなたにけぶる柳の、果ては空とも野とも覚束おぼつかなき間よりづる悲しき調しらべと思えばなるべし。
 シャロットのみち行く人もまたことごとくシャロットの女の鏡に写る。あるときは赤き帽の首打ち振りて馬追うさまも見ゆる。あるときは白きひげゆるき衣をまといて、長きつえの先に小さきひさごくくしつけながら行く巡礼姿も見える。又あるときはかしらよりただ一枚と思わるる真白の上衣うわぎかぶりて、眼口も手足もしかと分ちかねたるが、けたたましげにかね打ち鳴らして過ぎるも見ゆる。これはらいをやむ人の前世のごうみずから世に告ぐる、むごき仕打ちなりとシャロットの女は知るすべもあらぬ。
 旅商人たびあきゅうどに負えるつつみの中には赤きリボンのあるか、白き下着のあるか、珊瑚さんご瑪瑙めのう、水晶、真珠のあるか、包める中を照らさねば、中にあるものは鏡には写らず。写らねばシャロットの女のひとみには映ぜぬ。
 古き幾世を照らして、今の世にシャロットにありとある物を照らす。悉く照らしてえらぶ所なければシャロットの女の眼に映るものもまた限りなく多い。ただ影なれば写りては消え、消えては写る。鏡のうちにながとどまる事は天にかかる日といえどもかたい。ける世の影なればかくなきか、あるいは活ける世が影なるかとシャロットの女は折々疑う事がある。明らさまに見ぬ世なれば影ともまこととも断じがたい。影なれば果敢なき姿を鏡にのみ見て不足はなかろう。影ならずば?――時にはむらむらと起る一念に窓際にけよりて思うさま鏡のほかなる世を見んと思い立つ事もある。シャロットの女の窓より眼を放つときはシャロットの女にのろいのかかる時である。シャロットの女は鏡の限る天地のうちに跼蹐きょくせきせねばならぬ。一重隔て、二重隔てて、広き世界を四角に切るとも、自滅の期を寸時も早めてはならぬ。
 去れどありのままなる世は罪に濁ると聞く。住みめば山にのがるる心安さもあるべし。鏡のうちなる狭き宇宙の小さければとて、き事の降りかかる十字のちまたに立ちて、行きう人に気を配るらさはあらず。何者か因果の波を一たび起してより、万頃ばんけいの乱れは永劫えいごうを極めて尽きざるを、渦く中にかしらをも、手をも、足をもさらわれて、行くわれのはては知らず。かかる人を賢しといわば、高きうてなに一人を住み古りて、しろかねの白き光りの、表とも裏とも分ちがたきあたりに、幻の世を尺に縮めて、あらん命を土さえ踏まで過すは阿呆あほうの極みであろう。わが見るは動く世ならず、動く世を動かぬ物のたすけにて、よそながらうかがう世なり。活殺生死かっさつしょうじ乾坤けんこん定裏じょうり拈出ねんしゅつして、五彩の色相を静中に描く世なり。かく観ずればこの女の運命もあながちに嘆くべきにあらぬを、シャロットの女は何に心をさわがして窓のそとなる下界を見んとする。
 鏡の長さは五尺に足らぬ。黒鉄くろがねの黒きをみがいて本来の白きに帰すマーリンの術になるとか。魔法に名を得し彼のいう。――鏡の表に霧こめて、秋の日の上れども晴れぬ心地なるは不吉の兆なり。曇るかがみの霧を含みて、芙蓉ふようしたたる音をくとき、むかえる人の身の上に危うき事あり。※(「(彡をつらぬいてたてぼう)/石」、第4水準2-82-32)けきぜんゆえなきに響を起して、白き筋の横縦に鏡に浮くとき、その人末期まつごの覚悟せよ。――シャロットの女が幾年月いくとしつきの久しき間この鏡に向えるかは知らぬ。あしたに向いゆうべに向い、日に向い月に向いて、くちょう事のあるをさえ忘れたるシャロットの女の眼には、霧立つ事も、露置く事もあらざれば、まして裂けんとするおそれありとは夢にだも知らず。湛然たんぜんとして音なき秋の水に臨むが如く、瑩朗えいろうたるおもてを過ぐる森羅しんらの影の、繽紛ひんぷんとして去るあとは、太古の色なきさかいをまのあたりに現わす。無限上に徹する大空たいくうを鋳固めて、打てば音ある五尺のうちし集めたるを――シャロットの女は夜ごと日ごとに見る。
 夜ごと日ごとに鏡に向える女は、夜ごと日ごとに鏡のそばに坐りて、夜ごと日ごとの※(「糸+曾」、第3水準1-90-21)はたを織る。ある時は明るき※(「糸+曾」、第3水準1-90-21)はたを織り、ある時は暗き※(「糸+曾」、第3水準1-90-21)はたを織る。
 シャロットの女の投ぐるの音を聴く者は、さびしきおかの上に立つ、高きうてなの窓を恐る恐る見上げぬ事はない。親も逝き子も逝きて、新しきにただ一人取り残されて、命長きわれを恨み顔なる年寄の如く見ゆるが、岡の上なるシャロットの女の住居すまいである。つたとざす古き窓よりるる梭の音の、絶間たえまなき振子しんしの如く、日を刻むに急なる様なれど、その音はあの世の音なり。しずかなるシャロットには、空気さえ重たげにて、常ならば動くべしとも思われぬを、ただこの梭の音のみにそそのかされて、幽かにも震うか。淋しさは音なき時の淋しさにもまさる。恐る恐る高き台を見上げたる行人こうじんは耳をおおうて走る。
 シャロットの女の織るは不断の※(「糸+曾」、第3水準1-90-21)はたである。草むらの萌草もえぐさの厚く茂れる底に、釣鐘の花の沈める様を織るときは、花の影のいつ浮くべしとも見えぬほどの濃き色である。うな原のうねりの中に、雪と散るなみの花を浮かすときは、底知れぬ深さを一枚の薄きに畳む。あるときは黒きに、燃ゆるほのおの色にて十字架を描く。濁世じょくせにはびこる罪障の風は、すきまなく天下を吹いて、十字を織れる経緯たてよこの目にも入ると覚しく、焔のみは※(「糸+曾」、第3水準1-90-21)はたを離れて飛ばんとす。――薄暗き女の部屋はけ落つるかと怪しまれて明るい。
 恋の糸とまことの糸を横縦に梭くぐらせば、手を肩に組み合せて天を仰げるマリヤの姿となる。狂いをたてに怒りをよこに、あられふる木枯こがらしの夜を織り明せば、荒野の中に白きひげ飛ぶリアの面影が出る。恥ずかしきくれないと恨めしき鉄色をより合せては、逢うて絶えたる人の心を読むべく、温和おとなしき黄と思い上がれる紫をかわがわるに畳めば、魔に誘われし乙女おとめの、われがおに高ぶれるさまを写す。長きたもとに雲の如くにまつわるは人に言えぬねがいの糸の乱れなるべし。
 シャロットの女はまなこ深く額広く、唇さえも女には似で薄からず。夏の日ののぼりてより、刻を盛る砂時計のここのたび落ち尽したれば、今ははやひる過ぎなるべし。窓を射る日のまばゆきまで明かなるに、室のうちは夏知らぬ洞窟どうくつの如くに暗い。輝けるは五尺に余る鉄の鏡と、肩に漂う長き髪のみ。右手めてより投げたる左手ゆんでに受けて、女はふと鏡のうちを見る。ぎ澄したるつるぎよりも寒き光の、いつもながらうぶ毛の末をも照すよと思ううちに――底事なにごとぞ!音なくてと曇るは霧か、鏡のおもては巨人の息をまともに浴びたる如く光を失う。今まで見えたシャロットの岸に連なる柳も隠れる。柳の中を流るるシャロットの河も消える。河に沿うてきつ来りつする人影は無論ささぬ。――梭の音ははたとやんで、女のまぶたは黒きまつげと共にかすかにふるえた。「凶事か」と叫んで鏡の前に寄るとき、曇は一刷いっさつに晴れて、河も柳も人影も元の如くにあらわれる。梭は再び動き出す。
 女はやがて世にあるまじき悲しき声にて歌う。
  うつせみの世を、
  うつつに住めば、
  住みうからまし、
  むかしも今も。」
  うつくしき恋、
  うつす鏡に、
  色やうつろう、
  朝な夕なに。」
 鏡の中なる遠柳とおやなぎの枝が風になびいて動くあいだに、たちましろがねの光がさして、熱きほこりを薄く揚げ出す。銀の光りは南より北に向って真一文字にシャロットに近付いてくる。女は小羊をねらわしの如くに、影とは知りながらまたたきもせず鏡のうちつむる。十ちょうにして尽きた柳の木立こだちを風の如くにけ抜けたものを見ると、鍛え上げたはがねよろいに満身の日光を浴びて、同じかぶと鉢金はちがねよりは尺に余る白き毛を、飛び散れとのみ※(「参+毛」、第3水準1-86-45)さんさんと靡かしている。栗毛くりげこまたくましきを、かしらも胸もかわつつみて飾れるびょうの数はふるい落せし秋の夜の星宿せいしゅくを一度に集めたるが如き心地である。女は息を凝らして眼をえる。
 曲がれるどてに沿うて、馬の首を少し左へ向け直すと、今までは横にのみ見えた姿が、真正面に鏡にむかって進んでくる。太き槍をレストに収めて、左の肩にたてを懸けたり。女はえりを延ばして盾に描ける模様をしかと見分けようとするていであったが、かの騎士は何の会釈もなくこの鉄鏡を突き破って通り抜けるいきおいで、いよいよ目の前に近づいた時、女は思わずげて、鏡に向って高くランスロットと叫んだ。ランスロットはかぶとひさしの下より耀かがやく眼を放って、シャロットの高きうてなを見上げる。爛々らんらんたる騎士の眼と、針をつかねたる如き女の鋭どき眼とは鏡のうちにてはたと出合った。この時シャロットの女は再び「サー・ランスロット」と叫んで、忽ち窓のそばけ寄ってあおき顔を半ば世の中に突きいだす。人と馬とは、高き台の下を、遠きに去る地震の如くに馳け抜ける。
 ぴちりと音がして皓々こうこうたる鏡は忽ち真二つに割れる。割れたるおもては再びぴちぴちと氷を砕くが如くこな微塵みじんになってしつの中に飛ぶ。七巻ななまき八巻やまき織りかけたる布帛きぬはふつふつと切れて風なきに鉄片と共に舞い上る。紅の糸、緑の糸、黄の糸、紫の糸はほつれ、千切ちぎれ、解け、もつれてつち蜘蛛ぐもの張る網の如くにシャロットの女の顔に、手に、袖に、長き髪毛にまつわる。「シャロットの女を殺すものはランスロット。ランスロットを殺すものはシャロットの女。わが末期まつごのろいを負うて北のかたへ走れ」と女は両手を高く天に挙げて、朽ちたる木の野分のわきを受けたる如く、五色の糸と氷をあざむく砕片の乱るる中に※(「革+堂」、第3水準1-93-80)どうたおれる。

     三 袖

 可憐かれんなるエレーンは人知らぬすみれの如くアストラットの古城を照らして、ひそかにちし春の夜の星の、紫深き露に染まりて月日を経たり。う人はもとよりあらず。共に住むは二人の兄とまゆさえ白き父親のみ。
「騎士はいずれに去る人ぞ」と老人は穏かなる声にて訪う。
「北のかたなる仕合に参らんと、これまではむちうって追懸けたれ。夏の日の永きにも似ず、いつしか暮れて、暗がりに路さえわかれたるを。――乗り捨てし馬も恩にいななかん。一夜の宿の情け深きにむくいまつるものなきを恥ず」と答えたるは、具足を脱いで、黄なるほうに姿を改めたる騎士なり。シャロットをせる時何事とは知らず、岩のくぼみの秋の水を浴びたる心地して、かりの宿りを求め得たる今に至るまで、ほおあおきが特更ことさらの如くに目に立つ。
 エレーンは父の後ろに小さき身を隠して、このアストラットに、如何いかなる風の誘いてか、かく凛々りりしき壮夫ますらおを吹き寄せたると、折々はつるせたる老人の肩をすかして、恥かしのまつげの下よりランスロットを見る。菜の花、豆の花ならば戯るるすべもあろう。偃蹇えんけんとして澗底かんていうそぶく松がには舞い寄る路のとてもなければ、白き胡蝶こちょうは薄き翼を収めて身動きもせぬ。
「無心ながら宿貸す人に申す」とややありてランスロットがいう。「明日あすと定まる仕合の催しに、おくれて乗り込む我の、何のたれよと人に知らるるは興なし。新しきをきらわず、古きを辞せず、人の見知らぬたてあらば貸し玉え」
 老人ははたと手をつ。「望める盾を貸し申そう。――長男チアーはさんぬる騎士の闘技に足を痛めて今なおじょくを離れず。その時彼が持ちたるは白地に赤く十字架を染めたる盾なり。ただの一度の仕合にきずつきて、その創口きずぐちはまだえざれば、赤き血架はむなしく壁に古りたり。これをかざして思う如く人々を驚かし給え」
 ランスロットは腕をやくして「それこそは」という。老人はなお言葉を継ぐ。
「次男ラヴェンは健気けなげに見ゆる若者にてあるを、アーサー王のもよおしにかかる晴の仕合に参り合わせずば、騎士の身の口惜しかるべし。ただ君が栗毛のひづめのあとにし連れよ。翌日あすを急げと彼に申し聞かせんほどに」
 ランスロットは何の思案もなく「心得たり」と心安げにいう。老人のほおに畳めるしわのうちには、うれしき波がしばらく動く。女ならずばわれも行かんと思えるはエレーンである。
 木にるはつた、まつわりて幾世を離れず、よいいてあしたに分るる君と我の、われにはまつわるべき月日もあらず。ほそき身の寄り添わば、幹吹くあらしに、根なしかずらと倒れもやせん。寄り添わずば、人知らずひそかにくくる恋の糸、振り切って君は去るべし。愛溶けてまぶたに余る、露の底なる光りを見ずや。わが住めるやかたこそ古るけれ、春を知る事は生れて十八度に過ぎず。物のあわれの胸にみなぎるは、とざせる雲のおのずから晴れて、うららかなる日影の大地を渡るに異ならず。野をうずめ谷をうずめて千里のほかに暖かき光りをひく。明かなる君が眉目びもくにはたと行き逢える今のおもいは、あなを出でて天下の春風はるかぜに吹かれたるが如きを――言葉さえわさず、あすの別れとはつれなし。
 しょく尽きてこうおしめども、更尽きて客はねたり。寝ねたるあとにエレーンは、合わぬ瞼の間より男の姿の無理にひとみの奥に押し入らんとするを、幾たびか払い落さんとつとめたれどせんなし。強いて合わぬ目を合せて、この影を追わんとすれば、いつの間にかその人の姿は既に瞼のうちに潜む。苦しき夢に襲われて、世を恐ろしと思いし夜もある。たまえるものの話におののきて、眠らぬ耳に鶏の声をうれしと起き出でた事もある。去れど恐ろしきも苦しきも、皆われ安かれと願う心の反響に過ぎず。われという可愛かわゆき者の前に夢の魔を置き、物の怪のたたりを据えてのおそれと苦しみである。今宵こよいの悩みはそれらにはあらず。我という個霊の消えせて、求むれどもついに得がたきを、驚きて迷いて、果ては情なくてかくは乱るるなり。我をつかさどるものの我にはあらで、先に見し人の姿なるをしく、怪しく、悲しく念じ煩うなり。いつの間に我はランスロットと変りて常の心はいずこへかうしなえる。エレーンとわが名を呼ぶに、応うるはエレーンならず、中庭に馬乗り捨てて、ひさし深きかぶとの奥より、高きやぐらを見上げたるランスロットである。再びエレーンと呼ぶにエレーンはランスロットじゃと答える。エレーンはせてかと問えばありという。いずこにと聞けば知らぬという。エレーンはかすかなる毛孔けあなの末に潜みて、いつか昔しの様に帰らん。エレーンに八万四千の毛孔ありて、エレーンが八万四千の香油を注いで、日にそのはだえなめらかにするとも、潜めるエレーンは遂に出現しきたはなかろう。
 やがてわが部屋の戸帳とばりを開きて、エレーンは壁にる長ききぬを取りいだす。燭にすかせば燃ゆる真紅の色なり。室にはびこるよるんで、一枚の衣に真昼の日影を集めたる如くあざやかである。エレーンは衣のえり右手めてにつるして、しばらくはまばゆきものとながめたるが、やがて左に握る短刀をさやながら二、三度振る。からからとゆかに音さして、すわというひらめきは目をかすめてくれない深きうちに隠れる。見れば美しき衣の片袖は惜気もなく断たれて、残るは鞘の上にふわりと落ちる。途端に裸ながらの手燭てしょくは、風に打たれてと消えた。外は片破月かたわれづきの空にけたり。
 右手めてささぐる袖の光をしるべに、暗きをすりぬけてエレーンはわが部屋を出る。右に折れると兄の住居すまい、左を突き当れば今宵の客の寝所である。夢の如くなよやかなる女の姿は、地を踏まざるに歩めるか、影よりも静かにランスロットの室の前にとまる。――ランスロットの夢は成らず。
 聞くならくアーサー大王のギニヴィアをめとらんとして、心惑える折、ながらに世の成行なりゆきを知るマーリンは、首をりて慶事をがえんんぜず。この女のちに思わぬ人を慕う事あり、娶る君にくいあらん。とひたすらにいさめしとぞ。聞きたる時の我に罪なければ思わぬ人たれなるかは知るべくもなく打ち過ぎぬ。思わぬ人の誰なるかを知りたる時、あめしたに数多く生れたるもののうちにて、この悲しきさだめめぐり合せたる我を恨み、このうれしきさちけたるおのれをよろこびて、楽みと苦みのないまじりたる縄を断たんともせず、この年月としつきを経たり。心ましきは願わず。疚ましき中に蜜あるはうれし。疚ましければこそ蜜をもかもせと思う折さえあれば、卓を共にする騎士の我を疑うこの日に至るまで王妃をてず。ただ疑の積もりて証拠あかしと凝らん時――ギニヴィアの捕われてくいに焼かるる時――この時を思えばランスロットの夢はいまだ成らず。
 眠られぬ戸に何物かちょとさわった気合けわいである。枕を離るるかしらの、音するかたに、しばらくは振り向けるが、また元の如く落ち付いて、あとは古城の亡骸なきがらに脈も通わず。しずかである。
 再び障った音は、ほとんどたたいたというべくも高い。たしかに人ありと思いきわめたるランスロットは、やおら身を臥所ふしどに起して、「たぞ」といいつつ戸を半ば引く。差しつくる蝋燭ろうそくの火のふき込められしが、取り直して今度は戸口に立てる乙女のかたにまたたく。乙女の顔はかざせる赤き袖の影に隠れている。面映おもはゆきは灯火ともしびのみならず。
「この深きを……迷えるか」と男は驚きの舌を途切れ途切れに動かす。
「知らぬ路にこそ迷え。年古るく住みなせる家のうちを――ねずみだに迷わじ」と女は微かなる声ながら、思い切って答える。
 男はただ怪しとのみ女の顔を打ち守る。女は尺に足らぬ紅絹もみ衝立ついたてに、花よりも美くしき顔をかくす。常にまさ豊頬ほうきょうの色は、く血潮のく流るるか、あざやかなる絹のたすけか。ただ隠しかねたるびんの毛の肩に乱れて、頭には白き薔薇を輪に貫ぬきて三輪したり。
 白き香りの鼻をって、絹の影なる花の数さえ見分けたる時、ランスロットの胸には忽ちギニヴィアの夢の話が湧き帰る。何故なにゆえとは知らず、ことごとく身はえて、手に持つ燭を取り落せるかと驚ろきて我に帰る。乙女はわが前に立てる人の心を読む由もあらず。
くれないに人のまことはあれ。恥ずかしの片袖を、われぬに参らする。かぶといて勝負せよとの願なり」とかの袖を押し遣る如く前にいだす。男は容易に答えぬ。
「女の贈り物受けぬ君は騎士か」とエレーンは訴うる如くに下よりランスロットの顔をのぞく。覗かれたる人は薄き唇を一文字に結んで、燃ゆる片袖を、右の手に半ば受けたるまま、当惑の眉を思案に刻む。ややありていう。「たたかいに臨む事は大小六十余度、闘技の場に登って槍を交えたる事はその数を知らず。いまだ佳人の贈り物を、身に帯びたるためしなし。なさけあるあるじの子の、情深き賜物をいなむは礼なけれど……」
「礼ともいえ、礼なしともいいてやみね。礼のために、を冒して参りたるにはあらず。思のこもるこの片袖を天が下の勇士に贈らんために参りたり。切に受けさせ給え」とここまで踏み込みたる上は、かよわき乙女の、かえって一徹に動かすべくもあらず。ランスロットはまどう。
 カメロットに集まる騎士は、弱きと強きを通じてわが盾の上に描かれたる紋章を知らざるはあらず。またわが腕に、わが兜に、美しき人の贈り物を見たる事なし。あすの試合に後るるは、始めより出づるはずならぬを、半途より思い返しての仕業しわざ故である。闘技のらちに馬乗り入れてランスロットよ、後れたるランスロットよ、とうたわるるだけならばそれまでの浮名である。去れど後れたるは病のため、後れながらも参りたるはまことの病にあらざる証拠あかしよといわば何と答えん。今さいわいに知らざる人の盾を借りて、知らざる人の袖をまとい、二十三十の騎士をたおすまで深くわがおもてを包まば、ランスロットと名乗りをあげて人驚かす夕暮に、――たれかれ共にわざと後れたる我をうけがわん。病と臥せる我の作略さりゃくを面白しと感ずる者さえあろう。――ランスロットはようやくに心を定める。
 部屋のあなたに輝くは物の具である。よろいの胴に立て懸けたるわが盾を軽々かろがろと片手にげて、女の前に置きたるランスロットはいう。
「嬉しき人の真心を兜にまくは騎士のほまれ。ありがたし」とかの袖を女より受取る。
「うけてか」と片頬かたほめる様は、谷間のひめ百合ゆりに朝日影さして、しげき露のあとなくかわけるが如し。
「あすの勝負に用なき盾を、逢うまでの形身かたみと残す。試合果てて再びここをぎるまで守り給え」
「守らでやは」と女はひざまずいて両手に盾をいだく。ランスロットは長き袖を眉のあたりに掲げて、「赤し、赤し」という。
 この時やぐらの上をからす鳴き過ぎて、はほのぼのと明け渡る。

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