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マダム貞奴(マダムさだやっこ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-23 9:33:11  点击:  切换到繁體中文


       三

 歴代の封建制度を破って、今日の新日本が生れ、改造された明治前後には、俊豪、逸才が多く生れ、はぐくまれつちかわれつつあった時代である。貞奴は遅ればせに、またやや早めに生れて来たのである。生れたのは明治四年であった。そして後年、貞奴に盛名を与えるに、柱となり、土台となった人々が、みな適当な位置に配置されて、彼女の生れてくるのを待つ運命になっていた。
 もし彼女の生家が昔のままに連綿としていたならば、マダム貞奴の名は今日なかったであろう。新女優のはは川上貞奴とならずに堅気かたぎな家の細君であって、時折の芝居見物に鬱散うっさんする身となっていたかも知れない。
 明治維新のことを老人たちは「瓦解がかい」という言葉をもって話合っている。「瓦解」とは、破壊と建設とをかねた、改造までの恐しい途程みちのり言表いいあらわした言葉であろう。すべての旧慣制度が破壊された世の渦は、ことに江戸が甚しかった。武家に次いでは名ある大町人がバタバタと倒産した。お城に近い日本橋両替町りょうがえちょう(現今の日本銀行附近)にかなりの大店おおだなであった、書籍と両替屋をかねて、町役人も勤めていた小熊という家もその数にはれなかった。家附いえつきの娘おたかは御殿勤めの美人のきこえたかく、入婿いりむこの久次郎は仏さまと呼ばれるほどの好人物であった。そうした円満な家庭にも、吹きすさぶ荒い世風は用捨もなく吹込んで、十二人目にお貞と呼ぶ美しい娘が生れたころは、芝神明しんめいのほとりに居を移して、書籍、薬、質屋などを営んでいた。しかも夫婦は贅沢ぜいたくを贅沢としらずに過して来た人たちであったので、娘たちを育てるにもかなり華美な生活をつづけていた。次第々々に家産が傾くと知りつつもそれを喰止くいとめるだけの力がなかった。ついに窮乏がせまって来て十二人目の娘を手離すようになった。そしてお貞という娘が、他家で育てられるようになったのは彼女の七歳のときからで、養家は芳町の浜田屋という芸妓屋であった。
 浜田屋の亀吉は強情と一国いっこくと、きゃんで通った女であった。豪奢ごうしゃの名に彼女は気負っていた。その女を養母とした七歳のお貞は、子供に似合わぬピンとした気性だったので、一寸いっすんのくるいもないように、養母と娘の心はぴったりと合ってしまった。その点はお貞の貞奴が、うみの親よりもよく養母の気性と共通の点があったといえる。
 とはいえ、そうした侠妓に養われ、天賦の素質を磨いたとはいえ、貞奴の持つ美質は、みんなき父母の授けたものである。優雅、貞淑――そういう社会に育ったには似合わぬ無邪気さ、それは大家たいけの箱入り娘と、好人物の父との賜物である。一本気な持前もちまえも、江戸生れの下町のお嬢さんの所有でなければならない。其処へ養母によって仁侠にんきょうたんかと、歯切れのよい娑婆しゃばを吹き込まれたのだ。そうした彼女は養母の後立うしろだてで、十四歳のおりはもう立派な芳町の浜田屋小奴であった。
 廿九歳で後家ごけになってから猶更なおさらパリパリしていた養母の亀吉は、よき芸妓としての守らねばならぬしきたりを可愛い養娘むすめであるゆえに、小奴に服膺ふくようさせねばならないと思っていた、その標語モットー――芸妓貞鑑げいしゃていかんは、みな彼女が実地にあって感じたことであり、また古来の名妓について悟ったいましめなのであった。彼女は言う。
「好い芸妓になるなら世話をして下さる方を一人とめて守らなけりゃいけない。それが芸妓の節操みさおというものだ。金に目がくれて心を売ってはいけない。けれども不粋ぶすいなことはいけない。芸妓は世間を広く知っていなければいけない。そして華やかな空気なかにいなければならない。地味な世界はほかに沢山ある。遊ばせるという要は窮屈ではいけない。だからお客よりも馬鹿で浮気な方がよい。理につんだ事が好きならば芸妓にはしゃがしてもらいにきはしない。そこで、浮気なのはよいが、慾に迷えば芸妓の估券こけんは下ってしまう。大事な客は一人とめてその人の顔をどこまでも立てなければならないかわりに、腕でやる遊びなら、威勢よくぱっとやって、自分の手から金をかなければいけない。堅気ではないのだからむずかしい意見はしない。だがよく覚えてお置き、遊びだということを……」
 それは彼女が十六のおり、初代奴の名を継いで、嬌名いや高くうたわれるようになったおりの訓戒だ。賢なる彼女は、養母の教えをしかと心に秘めていたが、間もなく時の総理大臣伊藤博文侯が奴の後立てであることが公然にされた。彼女はもう全くこわいものはなしの天下になったのである。総理大臣の勢力は、現今いまよりも無学文盲であった社会には、あらゆる権勢の最上級に見なされて、活殺与奪の力までも自由に所持してでもいるように思いなされていた。そして伊藤公は――かなりな我儘わがままをする人だというので憎みののしるものもあればあるほど、畏敬いけいされたり、愛敬あいきょうがあるとて贔屓ひいきも強かったり、ともかくも明治朝臣のなかで巍然ぎぜんとした大人物、至るところに艶材をきちらしたが、それだけ花柳界においても勢力と人気とを集中していた。奴は客としては当代第一たる人を見立てたのである。家には利者きけものの亀吉という養母がにらんでいる。そして何よりも――眠れる獅子王ししおうの傍に咲く牡丹花ぼたんかのような容顔、春風になぶられてうごく雄獅子のひげに戯むれ遊ぶ、翩翻へんぽんたる胡蝶こちょうのような風姿すがた、彼女たちの世界の、最大な誇りをもって、昂然こうぜんと嬌坊第一にいた。
 彼女も、そうした社会の女人にょにんゆえ、早熟だった。彼女は遊びとしては、若手の人気ある俳優たちと交際まじわっていた。そして彼女がもっとも好んだものは弄花ろうか――四季の花合せの争いであった。かねびらのきれるのと、亀吉仕込みの鉄火てっかとが、姿に似合ぬしたたかものと、ねえさん株にまで舌を巻かした。
 奴の芸妓としての盛時は十七、八歳から廿一歳ごろまでであろう。
 奴は芸妓時代から変りものであった。その時分ハイカラという新熟語ことばはなかったが、それに当てはめられる、生粋きっすいなハイカラであった。廿二、三年ごろには馬に乗り、玉突きをしたりしていた。髪もありあまるほどの濃い沢山なのを、洗髪のねじりっぱなしの束髪にして、白い小さな、四角な肩掛けを三角にかけていた。大磯の海水浴のようやく盛りになった最中、奴の海水着の姿はいつでも其処に見られ、彼女の有名な水練すいれんは、この海でおぼえたのであった。
「奴が来ておりましたよ、大磯の濤竜館とうりゅうかんに……男見たような女ですね、お風呂ふろで、四辺あたりにかまわないで、真白に石鹸せっけんをぬって、そこら中あぶくだらけにして……」
 そんなことを、あるおり、某華族の愛妾が言っていたことがあった。そのことばのなかには、すこし反感をふくんだ調子があったが、
「沢山な毛髪かみのけのなんのって、お風呂の中でといて、ぐるぐると巻いているのを見ると、ほんとにその立派なことって……」
 彼女の傍若無人であったことには、好い心持ちではなかったらしいが、その容姿については感嘆していた。それはたしか彼女が十九位のことであった。
 その後わたしが、ようやく芝居のことなどもすこしばかり分りかけて来た時分に、芳町の奴が川上音二郎のおかみさんになるのだってというのをきいて、みんなが驚ろいている通りに、大層な大事件のようにきいていたことがあった。それは明治廿五年、奴が廿二歳のおりだと後で知った。なんでわたしが大事件のように耳にとめていたかというのに、前にも言った通り、芳町は近い土地であり、往来ゆききに浜田屋の門口かどぐちも通ったり、自然と奴の名も聞き知っていたからであった。それに、浅草あさくさ鳥越とりこえの中村座に旗上げをした、川上音二郎の壮士芝居の人気は素晴らしかったので――彼れが俳優として非凡な腕があるからというのではなく――書生が(自由党の壮士が)演説と芝居とを交ぜてするという事が、世間の好奇心を誘って評判されていた。わたしはその頃ぽつぽつと新聞紙や、『歌舞伎新報』などをそっと読みふけっていたので、耳から聞く噂ばかりでなく、目からもそれらの知識がすこしはあった。それに父は自由党員に知己も多かったので、種々いろいろ話をしているときもあった。川上の他に、藤沢浅二郎ふじさわあさじろうは新聞記者だとか、福井は『東西新聞』にいたがとか、壮士芝居の人物を月旦げったんしていることもあった。見物をたのまれて母なども行ったらしかった。とはいえ、興味をもってもすぐに忘れがちな子供のおりのことで、川上音二郎が薩摩さつまガスリの着物に棒縞ぼうじま小倉袴こくらばかまで、赤い陣羽織を着て日の丸の扇を持ち、白鉢巻をして、オッペケ節を唄わなかったならば、さほど分明はっきりと覚えていなかったかも知れない。
 しかし子供ごころに、オッペケペッポの川上はさほどえらい人だと思っていなかった。それよりも芳町の奴の方がはるかに――芸妓でもかかぐるまのある――傑い女だと思っていた。なんで、川上のおかみさんになぞなるのだろうと、漠然ばくぜんとそんなふうに思ったこともあった。その後、川上座の建築が三崎町みさきちょうへ出来るまで、奴の名には遠ざかっていた。
 けれどもそれはわたしが彼女の名に接しなかっただけで、彼女には新らしい生活の日の頁が、日ごとに繰りひらかれていった。そしてその五、六年の間に、川上の単身洋行が遂行された。それは生涯をあらたに蒔直まきなおそうとする目的をもった渡航であった。そのおり川上は、壮士俳優を止めてしまおうと思っていたとかいうことだったが、米国に渡ってから再考して見なければならないと思い、充分に考慮してのち、やっぱり最初自分の思立ったことは間違っていなかったと気がついた。それから直に帰朝した彼れは、もうすぐに演劇革進論者であった。時流より一足さきに踏出すものの困難を、つぶさにめなければならない運命を彼れはになってかえってきたのだった。そして、当然、夫の、重い人生の負担に対して、奴のお貞も片荷を背負わなければならない運命であった。漸く平静であろうとした彼女の人生の行路が、その時から一段けわしくなり、多岐多様になっていった分岐点が、その時であった。
 川上音二郎の細君の名が、わたしたちの耳へまた伝わって来たころには、彼女は奔命ほんめいつかれきっていたのだ。彼女は(最近引退興行のおりに、『演芸新聞』に自己の談話として載せたように)芸妓から足を洗って素人しろうとになるにしても、めかけと呼ばれるのがいやで、どうか巡査でもよいから同情の厚い人の正妻になり、共稼ともかせぎがして見たいと思っていたので、川上との相談もととのい結婚はしたが、勝気の彼女としては夫とした川上をいつまでもオッペケペッポではおきたくなかったのだ。
 在米一年半ばかりで、野村子爵に伴われて帰って来た川上は、洋行戻りを土産みやげに、かつて自分がひきいていた一団のために芝居を打たなければならなくなり、浅草区駒形こまかたの浅草座を根拠地にして、「又意外」でふたをあけた。その折の見物の絶叫は、すさまじいほどで、新派劇の前途は此処に洋々としたあけぼのの色を認めたのであった。それに次いで起った問題は、劇道革進の第一程として、欧米風の劇場を建設することで、川上は万難を排してその事業に驀進ばくしんした。それとても奴の力がどれほどの援助であったか知れなかった。
 浜田屋亀吉の娘で芳町の奴である細君の名は、貧乏な書生俳優、ともすれば山師と見あやまられがちな川上よりも、信用が百倍もあった。細君の印形いんぎょうは五万円の基本金を借入れて夫の手に渡し、川上座の基礎はその金を根柢こんていとして築きあげられていった。
 様々の毀誉褒貶きよほうへんのうちに、夫妻の苦心の愛子――川上座は出来あがっていった。もうやがて落成しようとした折に、不意に夫妻の仲に気まずい争いが出来た。しかもそれが世間にありがちな、ほっとした一時の安心のために物質的な関係からおこった問題ではなかった。奴は、一も夫のため、二も男のためと、そうした社会にあっては珍らしい貞節のかぎりを尽し、川上を世にれな男らしい男、真に快男子であると、全盛がもたらす彼女の誇りを捨て、わが生命いのちとして尽していたのである。それが、ある女に子まで産ましているという事がわかった。その女はある顕官の外妾がいしょうで、川上はその女を、上野鶯渓うぐいすだにの塩原温泉に忍ばせてあるという事までが知れた。奴は養母かめきちの前へも自分の顔が出されないように思った。けれどうらじにに死んでしまうほど気が小さくもない彼女は、憤懣ふんまんの思いを誰れにもらすよりは、やっぱり養母に向って述べたかった。それがまた、川上との縁は自分の方かられ込んだのでもあり、養母も川上の男らしいところを贔屓ひいきにしていただけに、言うのもつらかったが、聴く方の腹立ちは火の手が強かった。何分にも奴にむかって芸人の浮気沙汰ざたとして許すが、不義の快楽けらくは厳しくいましめたほどの亀吉、そうした話を聴くと汚ないものに触れたように怒った。川上の産ませた子を誤魔化ごまかして、秘密に里子にやってしまったということをきくと、そんな夫とは縁を断ってしまえと言出した。
 川上は浜田屋へ呼びよせられて来てみると、養母と奴とはひややかなすごい目の色で迎えた。三人が三つがなえになると奴は不意に、まげの根から黒髪をふっつと断って、
「おっかさんに面目なくって、合す顔がありませんから」
と、ぷいと立って去ってしまった。それにはさすがの策士川上も施すすべもなくて、気をまれ、唖然あぜんとしているばかりであったが、訳を聞くまでもない自分におぼえのあること、うなだれているよりほかはなかった。養母かめきちにとりなしを頼もうにも、妻よりも手強てごわ対手あいてなので、なまじな事は言出せなかったのであろう。も一度海外へ出て、苦学をしてのちびにくるから、奴は手許てもとへあずかっておいてくれと詫を入れた。けれど亀吉はいっかなきき入れはしない。
「もとの通りにして返したならば受取ろう。」
 それが養母の答えであった。川上は是非なく、同郷のよしみのある金子堅太郎男爵の許に泣付いていった。何故ならば、金子男が、伊藤総理大臣の秘書官のおり、ある宴席で川上の芝居を見物するように奴にすすめて、口をきわめて川上の快男子であることを説いた。そうした予備知識を持って、はじめて川上を見た奴は、上流貴顕の婦人に招かれても、決して川上が応じてゆかないということなども聴いて、その折は面白半分の興味も手伝ったのであったが、友達芸妓の小照と一緒に川上を招いて饗応きょうおうしたことがある。それが縁で浜田屋へも出入でいりするようになり、伊藤公にも公然許されて相愛の仲となり、金子男の肝入りで夫妻となるようにまとまった仲である。それ故、そうことがもつれてむずかしくなっては、金子氏にすがるよりほか、養母も奴も聴入れまいと、堅い決心をもって門をたたいたのであった。その代りには断然不始末のあとを残すまいという条件で持込んだ。そして、ようやくその件は落着した。
 ひとつ過ぎればまたひとつ、内憂に外患はつづいて起った。夫妻がようやっと笑顔えがおを見せるようになると、またしても胸につかえる悩みの種、川上座の落成に伴う新築披露、開場式の饗宴などに是非なくてならない一万円の費用の出どころであった。けれども奴の手許からは出せるだけ出し尽している上に、五万円の方もそのままになっている。開場式さえあげれば入金の道がつくので、それを目当にして高利貸の手から短かい期限で、涙のこぼれるような利子の一万円を借入れ、新築披露の宴を張り、開場式を華々しく挙行した。
 川上座――この夫婦が記念としてばかりでなく、劇壇新機運の第一着手の、記念建物としても残しておきたかった川上座は、三崎町の原に、洋風建築の小ぢんまりとした姿を見せた。いまは冷氷庫こおりぐらになってしまったあの膨大な東京座も、その頃新築され、後の方には旧女役者の常小屋じょうごやの、三崎座という小芝居があった。夏などは東京座や川上座へゆくには、道が暑くてたまらないほど小蔭ひとつない草いきれのしている土地であった。そのくせ、座へはいってしまうと――ことに東京座などはだだっ広いのと入りがなかったので、涼しい風が遠慮がなさすぎるほど吹入って、納涼気分に満ちた芝居小屋であった。川上座は帝劇と有楽座をまぜた造り方であったので、その時分の人たちにはひどく勝手違いのものであったが、開場式に呼ばれたものは川上の手腕に誰れも敬服しあっていた。一千にあまる来賓はすべての階級を網羅もうらし、その視線のことごとくそそがれている舞台中央には、劇場主川上音二郎が立って、我国新派劇の沿革から、欧米諸国の劇史を論じ、満場の喝采かっさいをあびながら挨拶あいさつを終った。そのかたわらに立つ奴の悦びはどれほどであったろう。共に労苦を分けた事業の一部は完成し、夫はこれほどの志望こころざしになうに、すこしも不足のない器量人であると、日頃の苦悩も忘れ果て、夫の挨拶のことばの終りに共にうやうやしく頭をさげると、あまりの嬉しさに夢中になっていたために、先日のいきさつから附髷つけまげを用いている事なぞは忘れてしまい、音がして頭から落ちたもののあるのに気がつかなかった。湧上わきあがった笑い声に気がついて見ると、あにはからんやの有様、舞台監督は狼狽あわて緞帳どんちょうをおろしてしまったが――
 赤面と心痛――開場式に頭が飛ぶとは――彼女は人知れずそれを心に病んだ。それがしんをなしてというのではないが、もとより無理算段でやった仕事だけに、たった一万円のために川上座は高利貸の手にられなければならなかった。川上は同志を集めて歌舞伎座で手興行をした。わが持座もちざを奪われぬために、他座で開演した心事こころに同情のあった結果は八千円の利益を見、それだけは償却したが、残る四千円のために彼らは苦しみぬいた。
 そのころの住居が大森にある洋館の小屋しょうおくであった。金貸に苦しめられた川上が憤然として代議士の候補に立ったのは、高利貸アイス退治と新派劇の保護を標榜ひょうぼうしたのであったが、東京市の有力な新聞紙――たしか『万朝報よろずちょうほう』であった――の大反対にあって非なる形勢となってしまった。
 それらが動機となって川上夫婦の短艇ボート旅行は思立たれた。厭世観と復讐ふくしゅうの念、そうした夫の心裏を読みつくして、死なば共にとの意気を示し、死ぬ覚悟で新しい生活の領土を開拓し、生命の泉を見出そうではないかと、勧めはげましたのは奴であった。妻の言葉に暗示を与えられてふるい立った川上は、失敗の記念となった大森の家を忍び出る用意をした。無謀といえば限りない無謀であるが、そのころはまだ郡司ぐんじ大尉が大川から乗出し、北千島のはてまでも漕附こぎつけた短艇ボート探検熱はまだ忘れられていなかったから、川上の機智はそれに学んだのか、それともそうするよりほか逃出す考えがなかったのか、ともあれ、人生のけわしい行路に、行き悩んだ人は、陰惨たる二百十日の海に捨身の短艇ボートを漕出した。
 短艇日本丸は、暗の海にむかって、大森海岸から漕ぎだされた。ものずきな夫婦が、ついそこいらまで漕いでいってかえってくるのであろうと、気がついたものも思っていたであろうが、短艇の中には、必要品だけは入れてあった。寝具のかわりに毛布が運ばれてあった。とはいえ、幾日航海をつづけようとするのか、夫婦にも目あてはなかった。夫は漕ぐ、妻は万一のおりにはと覚悟をしていたが、夢中で、小山のような島があると見て漕ぎつけた場所は、横須賀軍港の軍艦富士の横っぱらであった。
 鎮守府に呼ばれて訊問じんもんにあったが、全く何処とも知らず流されて来て、島かげを見付けてほっとした時に夜はほのぼのと明け、それが軍艦であった事を述べて許された。その上、とがめられたのが好都合になって様々の好誼こうぎをうけ、行手の海の難処なども懇篤に教えさとされ、鄭重ていちょうなる見送りをうけて外洋そとうみへと漕出した。

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