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マダム貞奴(マダムさだやっこ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-23 9:33:11  点击:  切换到繁體中文


       四

 それからの、貞奴となるまでの記憶の頁は、涙の聯珠れんじゅとして、彼女の肉体が亡びてしまっても、輝く物語であろう。遠州なだの荒海――それはどうやらこうやら乗切ったが、掛川かけがわ近くになると疲労しつくした川上はふなばた脇腹わきばらをうって、海の中へころげおちてしまった。船はくつがえってしまった。奴は咄嗟とっさにあるだけの力を出して、沈んだがまた浮上った夫を背にかけて、波濤はとうをきってこんかぎり岸へ岸へと泳ぎつき、不思議に危難はのがれたが、それがもとで川上は淡路あわじ洲本すもと旗亭きてい呻吟しんぎんする身となってしまった。その報をきいてかけ付けた門弟たちは、師の病体からだを神戸にうつすと同時に「楠公なんこう父子桜井の訣別けつべつ」という、川上一門の手馴てなれた史劇を土地の大黒座で開演した。それが土地の気受けにかない、神戸における楠公様のしばいである上に、川上の事件は当時の新聞が詳細に記述したので、人気はいやがうえにと添い、入院費用はあまるほど得られた。川上の恢復かいふくすみやかであった。とはいえ、川上は健康を恢復すれば、またも行方ゆくえ定めぬ波にまかせて、海の旅に出ると言ってきかなかった。その折、近くに開かれる仏蘭西フランスの博覧会へ日本劇を持込んではとの相談が来た。
 それこそ、新生活を開拓しよう、無人島へでもよいから行きつこうと思っていた夫婦には、渡りに船の相談なので、一も二もなく渡航と定め、川上一座一行廿一人は結束して立った。婦人はその中にたった二人、いうまでもなく一人は奴で、一人は川上のめいの鶴子(在米活動俳優として名ある青木鶴子、後に早川雪洲せっしゅうの妻)で、奴は単に見物がてらの随行、鶴子は彼地で修業するのが目的であった。
 亜米利加アメリカのサンフランシスコに一行は上陸した。仲に這入はいった人の言葉ばかりをに受けて、上陸後四日間ばかりをうやむやに過してしまうと、仲人ちゅうにんは逃亡してしまった。知らぬ間に川上の名義で借入れられた莫大ばくだいな借金が残っているばかり、約束になっているといった劇場へいって見れば釘附くぎづけになってとざされている。開演しさえすればとのはかないたのみに無理算段を重ねていた一行は、直に糊口ここうにも差支えるようになり、ホテルからも追出されるみじめさ、行きどころない身は公園のベンチに眠り、さまよい、病犬やみいぬのように蹌々踉々そうそうろうろうとして、わずかの買喰かいぐいにうえをしのぐよりせんすべなく、血を絞る苦しみを忍んで、漸くボストンのカリホルニア座に開演して見たものの、乞食こじきの群れも同様に零落おちぶれた俳優やくしゃたち、それがなんで人気を呼ぼう、あたろうはずがなかった。窮乏はいやが上にせまる、何処の劇場でも対手あいてにはしてくれない。ことに貧弱きわまる男優が女形おやまであるときいては、まるで茶番のように笑殺され、見返られもしなかった。
 一行は十月の異国の寒空に、幾日かの断食だんじきを修行し、野宿し、まるで聖徒の苦行のような辛酸をめた。
 シカゴ、ワシントンストリートの、ライリリック座の座主の令嬢こそ、この哀れな、餓死にひんした一行の救い主であった。ポットン令嬢は日本劇に趣味をもっていたので、父親を納得させて川上一行を招くことにした。座主はお嬢さんの酔興を許しはしたが、算盤そろばんをとっての本興行は打てぬので、広告などは一切しないという約束のもとに、とにかく救いあげられた。
 座主の方で広告はしないとはいえ、けるからには一人にでも多く見物してもらいたいのが人情である。そこでどんなに窮した場合にも残しておいた、舞台で着る衣服甲冑かっちゅうに身を装い、おりから降りしきる雪の辻々、街々まちまちを練り歩いて、俳優たちが自ら広告した。絶食しつづけた彼れらが、重いよろいを着て、勇気凛然りんぜんたる顔附きをして、雪の大路を濶歩かっぽするその悲惨なる心根――それは実際の困窮を知らぬものには想像もつきかねるいたましさである。舞台に立って、児島高徳こじまたかのりに投げられた雑兵ぞうひょうが、再び起上って打向ってくるはずなのが、投げられたなりになってしまったほど、彼らは疲労困憊こんぱいの極に達していた。百ドルの報酬を得てホテルに駈込かけこんだ時には、食卓にむかった誰れもかれも、嬉し泣に、潸々さめざめとしないものはなかったという。
 一座はその折、女優がなかったために苦い経験をしたので、奴は見兼ねてその難儀を救った。義理から、人情から、それまで一度も舞台を踏んだことのなかった身が一足飛びに、すぐれた多くの女優が、明星と輝く外国において、貧乏な旅廻りの一座のとはいえ、一躍して星女優プリマドンナとなったのである。しかし、暫くの間はほんの田舎いなか廻りにしか過ぎなかったが、かえってそれは、マダム貞奴としての要素をつくる準備となったといってもよいが、一行の難渋は実に甚だしかった。ボストンへ廻って来たおりには、心労の結果川上が病気にかかり、座員のうち二人まで異郷の鬼となってしまった。
おれが全快するまでは下手へたなことをするな。」
 川上は病いの床でそう言続けていたが、生活のためには言附けもそむかなければならなかった。それにすこともなく日を過しているのでは、悲境に、魂を食われてしまったような座員の団結も頼まれず、座員の元気を鼓舞するには劇場へ出演するに限ると、川上にかくれて貞奴が一座を引連れて出た。多分そのおりのことであろう。二人の座員の死んだのをどうする事も出来ぬので、土地の葬儀会社へ万端のことを頼んでおいた。劇場から帰ってきて見ると死者のひげは綺麗にられ、顔も美しく化粧され、髪も香水がつけてくしけずられてあり、新しい礼装をさせられて花輪を胸に載せ、ひつぎの中に横たわらせられてあった。昨日まで食を共にし、生死もひとつにと堅い団結を組んできた一行のものは、その死者の姿を見ると、いかにも安易やすやすとして清げなさまで、昨日までの陋苦むさくるしい有様とはあまり違って、立勝たちまさって見ゆる紳士ぶりに、生きている方がよいか、死んだ者の方がよいかと妙な風な考えになって、頭をさげるばかりだったという話を聴いた。ことに死者の胸に組合せた手の指のつめまで綺麗に磨かれてあったという事が、舞台で化粧をこそすれ、何事にも追われがちの不如意の連中には、指の爪のことまで繊細デリケートな気持ちを持っていられなかった人々が、感銘深くながめたという有様だった。
 病床で川上が言続けていた、フランス・パリーの博覧会――そここそ、マダム貞奴の名声を赫々かくかくげさせたものである。海外にあって最も輝かしかった三ツの歓喜、そのひとつは亜米利加アメリカワシントンで、故小村公使の尽力で、公使館夜会に招かれ、はじめて上流社会に名声を博し得たこと。またひとつは英吉利イギリスで上村大将にい、その力にてバッキンガム・パレスで、日本劇を御覧に入れたこと――たしかそのおり貞奴は道成寺どうじょうじの踊の衣裳のままで御座席まで出たとおぼえている。――もひとつは、仏蘭西フランスのパリーで栗野公使の尽力により、一行が熱望しきっていた博覧会の迎えをうけたことである。この事こそ、ほんとに彼れらのためにも、日本劇のためにも前代未聞の出来ごとだったのだ。あらゆる天下の粋を集めた、芸術の源泉地仏蘭西パリーで、しかも、そのもろもろの美術、工芸、芸術品にふるいをかけた博覧会々場でである。見る人もまた一国一都の人ばかりでなく、世界各地の人を網羅し尽している。その折に、その中で、耳目をそばだたして開演する事が出来ようとは、いかに熱望していたとはいえ、昨日までの田舎廻り、乞食芝居の座員には、万に一の希望も絶望であろうとされていたものが――加うるに日本劇川上一座の人気は、空前絶後とされ、夢想にも思いも浮べぬ、彼地の劇界を震撼させたものであった。なおその渡仏の前、ボストンで英吉利の名優ヘンリー・アーヴィングの「マーチャント・オブ・ベニス」が当ったのにかぶせて日本風に改作し「シャイロック」として上演したが、その入場券一ドルが三弗五弗というふうに競上せりあげられたというのは、もの珍らしさが手伝ったとはいえ大成功といわなければならない。かくして帰還した川上夫妻の胸には、仏蘭西の芸術家が重く見るオフシェ・ダカジメ三等勲章がさんとしていた。

 貞奴、貞奴、その名は日本でより海外に高くひろまった。名実めいじつは川上一座でも、彼の一座でなく彼女の一座として歓迎された。一度帰朝した彼女らは陣容を改め、今度こそ目的のない漫然とした旅役者ではなく、光彩ある日本劇壇として明治三十四年に再び渡欧した。座長はいうまでもなく川上音二郎、星女優スターは貞奴、一座の上置きには故藤沢浅二郎、松本正夫、故土肥庸元(春曙)の諸氏のほかに、中村仲吉という女優(このひとは大柄の美人で旅廻りの女役者としてはほんとに芸も立派な旧派出の女であった)を加えて一行は廿六、七人であった。仏、英、露、独、西、伊、墺、匈の諸国を巡業し到る処で大歓迎をうけた。この興行から帰って来ると故国日本でも貞奴を歓迎して、化粧品には争ってマダム貞奴の仏蘭西土産であることを標榜ひょうぼうした新製品が盛んに売出され、広告にはそのチャーミングな顔が印刷されたりした。そして、川上の懇望によって、故郷のひのき舞台に、諸外国の劇壇から裏書きされてきた、名誉ある演伎えんぎを見せたのは、彼女が三十三歳の明治卅五年、沙翁セクスピアーの「オセロ」のデスデモナを、靹音ともね夫人という名にして勤めたのが、初舞台である。そして亡夫の七回忌にあたる大正六年十月、日本橋区久松町の明治座で女優生活十五年間の引退興行を催し、松井松葉氏によって戯曲となった、伊太利イタリアの歌劇「アイーダ」を上場した。川上の旧門弟とは、貞奴がたてた川上の銅像や、郷里の墓所のことなどから、心持ちの解けあわない事があって出演しなかったが(彼らは川上の望んでいた芝高輪たかなわ泉岳寺の四十七士の墓所の下へ別に師の墓を建て、東京における新派劇団からの葬式を営んだ)幸いに伊井、河合、喜多村の新派の頭立かしらだった人が応援して、諸方からの花輪、飾りもの、造りもの、つみものなどによってにぎわしく、貞奴の部屋や、芝居の廊下はおさらい気分、祭礼おまつり気分のように盛んな飾りつけであった。福沢氏の催した連中は興行中を通して五千人の申込みで、その多くは招待であった事なども素晴らしい事として語りあわされた。
 本名のお貞と、芳町時代の奴の名とあわせて、貞奴と名乗った女優の祖を讃するに、わたしは女優の元祖出雲いずものお国と同位に置く。世にはその境遇を問わず、道徳保安者の、死んだもののような冷静、無智、隷属、卑屈、因循をもってのりとし、その条件にすこしでも抵触すれば、婦徳を紛紜うんぬんする。しかし、人は生きている。女性にも激しい血は流れている。人の魂を汚すようなことは、その人自身の反省にまかせておけばよいではないか? わたしは道学者でない故に、人生に悩みながらほそい腕に悪戦苦闘して、切抜け切抜けしてゆく殊勝さを見ると、涙ぐましいほどにその勇気をたたよみしたく思う。
 ああ! 貞奴。引退ののちの晩年は寂寞せきばくであろう。功り名遂げて身退くとは、いにしえの聖人の言葉である。忘れられるものの寂しさ――それも貴女あなたあじわわねばなるまい。しかし貴女は幸福であったと思う。何故なら貴女は、愛されもし愛しもし、泣いたのも、笑ったのも、苦しんだのも、悦んだのも、楽しんだのも、慰められたのも、慰めたのもみんな真剣であった。それゆえ貴女ほど信実の貴い味を、ほんとに味わったものは少ないであろう。その点で貴女は、真に生甲斐いきがいある生活をして来たといわれる。わたしは此処につつしんで御身の光輝ある過去に別れを告げよう、さようならマダム貞奴!

――大正九年三月――





底本:「新編 近代美人伝(上)」岩波文庫、岩波書店
   1985(昭和60)年11月18日第1刷発行
   1993(平成5)年8月18日第4刷発行
底本の親本:「近代美人伝」サイレン社
   1936(昭和11)年発行
※「松居松葉」と「松井松葉」、「め」と「め」の混在は、底本通りにしました。
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2005年9月24日作成
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