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安重根(あんじゅうこん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-23 9:36:16  点击:  切换到繁體中文


       10[#「10」は縦中横]

ポグラニチナヤの裏町、不潔な洋風街路、劉任瞻韓薬房前。

十月十九日、夕ぐれ。

「韓国調剤学士劉任瞻薬房」と看板を掲げた、古びた間口の狭い店。草根木皮の類が軒下に下がって、硝子壜にはいった木の実、蛇の酒精漬けなど店頭みせ戸外そとに並んでいる。左右は古着屋、乾物商などすべて朝鮮人相手の小商店。荷車、自転車など置いてあって雑然としている。低い家並みの向うは連山と、市街の屋根の重なる上に白い夕月。教会の尖塔がくっきり見えて、凹凸の石畳の下手に電柱が一本よろけている。

劉任瞻――医師兼薬剤師。老人、ロシアの農民風の服装。
劉東夏――その息子。十八歳。ルバシカに露兵の軍帽をかぶっている。
安重根、禹徳淳、柳麗玉、隣家の古着屋の老婆、ロシア人、支那人、朝鮮人等の男女の通行人。

夕闇の迫る騒がしい往来。店の前の椅子に劉任瞻が腰かけて、小笊こざる[#「笊」は底本では「竹/瓜」]に盛った穀物を両手に揉んでは、笊を揺すって籾殻もみがらを吹いている。ロシア人の裸足の子供の一隊、市場へ買出しに行った朝鮮人の女房二三、工場帰りの支那人職工の群などあわただしく通る。劉任瞻に挨拶して行く者もある。ロシア人の巡邏が長剣を鳴らして通り過ぎる。手風琴に合わして朝鮮唄の哀調が漂って来る。隣家の古着屋の老婆が、洋燈ランプほやを掃除しながら、店先いっぱいに古着の下がった間から顔を出す。

老婆 劉さんかね。もうランプをけなさいよ。東夏さんはいないのかえ。
劉任瞻 馬鹿な野郎だ。先刻まだ早いうちに、また独立党の会があるとか言ってな、出かけて行ったきり帰らないのだ。帰って来たらどなりつけてやろうと思って、ここに出張って待っているのさ。
老婆 おや、それじゃあきっと自家うちの若い人たちと一緒ですよ。安重根とかいう人が来たと言って、商売をおっぽり出して駈け出して行きましたから。
劉任瞻 困ったものだ。わしはいつも東夏に言って聞かせているのだが、職業や勉強をないがしろにして何が国家だ。何が社会だ。独立が聞いて呆れる。ちっとやそっとの人間が騒いだところで、世の中はどう変るものでもないのだよ。長い間生きて来て、わしや古着屋のお婆さんが一番よく知っているはずだ。なあ、お婆さん。
老婆 そうですともさ。
劉任瞻 世の中は理窟ではない。いや、たった一つ理窟があるとすれば、それは、強い者が勝ち、弱いものが負けるという理窟だけだ。強い者は勝って得をし、弱いやつは負けて損をする。しかし、その強い者もいつまでも強いというわけではなし、弱いものもやがては強くなる時があろう。上が下になり、下が上になるのだ。こうして世の中は、大きく浪を打って進んで行くので、百万陀羅議論を唱えても、どうなるというものではない。待つのだ。強い者が弱くなり、弱い者が強くなる時を待つのだ。ははははは、じっと待つのだよ。待ちさえすれば、その時機は必ず来る――。
反対隣りの乾物屋に灯が点く。手風琴と唄声は消えようとして続いている。間。
老婆 そんなものでしょうねえ、ほんとに。(下手を見て)おや、誰か来ましたよ。うちの人たちかもしれない。どれ、ランプに灯を入れておこう。
と古着屋に入る。
劉任瞻 東は東、西は西。若い者は若い者、年寄りは年寄りだ。
劉任瞻は穀物の笊を片附け、椅子を引きずって家へはいる。すぐその店と古着屋から灯りがさす。街路に光りが倒れて、もうすっかり夜の景色。下手から話し声がして、劉東夏を仲に安重根と禹徳淳が出て来る。
劉東夏 (自宅を指して)ここです。ちょっと待っていて下さい。
家へはいろうとする。
禹徳淳 (追い止めて)君、大丈夫か。一人でお父さんをうんと言わせられる自信があるのか。
安重根 独立党の仕事で、僕らと一緒に行くなどと言ってはいけないぜ。
劉東夏 (英雄に対するごとく、安重根へ)そんなこと言やしません。私はしじゅう父の命令いいつけでハルビンへ薬を買いに行くんです。今度もその用で、二三日中に行くことになっているんですから、急に思い立って今夜これから発つと言っても、父は何とも言いはしません。
禹徳淳 (安重根へ)だが、今日この劉東夏君に会ってよかったな。僕も君も、露語と来るとまるきり駄目だからなあ。そこへ、ロシア人よりも露語の達者な劉君が一緒に行ってくれると言うんだから、まったく心強いよ。
安重根 いや、おれは劉君のことは以前から聞いていた。いつかウラジオの李剛先生が雑談的に話したことがある。ポグラニチナヤに劉東夏という、若いがロシア語の上手な人がいる。露領の奥へ出かけるようなことがあったら、その人を通訳に頼みたまえ――僕はそれを思い出して、ぜひ劉君に会って頼むつもりでいたんだ。このポグラニチナヤに途中下車したのも、劉君に同行してもらうためだったのさ。
禹徳淳 (劉東夏へ)ハルビンの用は大したことじゃあないんだ。では、これからすぐ薬を買いにハルビンへ行くと言って、ぜひお父さんの許可を得るんだな。僕と安君は一足先に停車場へ行って待っている。
劉東夏は家に入る。
安重根と禹徳淳は急ぎ下手へ歩き出す。
禹徳淳 あいつのロシア語は手に入ったものだ。それにかなり党の仕事にも熱心だし、情報を集めたりなんか、連絡係りには持って来いだが、君はどの程度まで打ち明けるつもりでいるんだい。
安重根 何と言ってもまだ少年こどもだからねえ。そのうちにうすうす感づくのは仕方がないが、何も知らせないほうがいいだろう。汽車の切符を買ったり、道を訊いたりするのに使うんだね。
禹徳淳 (突然立ち停まって安重根の腕を握り、下手を覗く)君! 柳さんじゃないか。そうだ。柳麗玉さんだ。
二人が下手に眼を凝らしつつ古着屋の前の電柱の陰へ隠れる時、柳麗玉が現れる。ウラジオから今着いたところで旅に疲れた様子。一尺四方程の箱包を糸で縛って抱えて、家を探す態で軒並みに見上げながら、不安げに歩いて来る。
安重根 (やり過しておいて)柳さん!―― やっぱり君だったか。
柳麗玉 あら! 安さん。よかったわ。まあ、徳淳さんも――。
安重根 (嬉しそうに柳麗玉の肩へ手を置こうとし、自制して後退りする)何しに来たんだ。何しに君はこんなところへ来たんです。(不機嫌に)僕らの今度の目的は、君も知っているはずだ。
柳麗玉 (いそいそと)ああよかった。後を追っかけて来たんですわ。夢中でしたわ。でも、ここでお眼にかかれて、ほんとに――。
禹徳淳 (苦々し気に)とうしたんです。柳さんはよく理解して、あの朝、ウラジオの停車場で気持ちよく見送ってくれたじゃないですか。
柳麗玉 (安重根へ)すぐつぎの汽車でウラジオを発って、今着いたところですの。李剛先生が、きっとこのポグラニチナヤの劉任瞻というお薬屋に寄っているだろうとおっしゃって――。
安重根と禹徳淳は顔を見合わせる。
柳麗玉 (にこにこして)忘れ物をなすったんですってね。あたし李剛先生に頼まれて、その忘れものを届けにまいりましたのよ。
禹徳淳 忘れ物――って何だろう。
柳麗玉 (紙包みを出して)何ですかあたしも知らないんですけれど――あなが方がお発ちになったすぐ後、李剛先生があたしを呼んで、二人が大変な忘れ物をして行った。非常に大切な物だ。ないと困る品だ。安さんは必ずポグラニチナヤに途中下車して、まだそこの劉任瞻という薬屋にいるだろうから、あたしに後を追って渡すようにと言うんでしょう。大あわてにあわててつぎの汽車に乗ったんですの。
禹徳淳 どうして先生は、おれたちがここへ寄ったことを知ってるんだろう。
安重根 (笑って)そら、さっき話したじゃないか。いつか李剛さんが何気なく、ここの劉東夏の噂をしたことがあるって。あの人の言動は、その時は無意味に響いても、後から考えるといちいち糸を引いているんだ。わかってるじゃないか。その時分から僕に東夏を使わせる計画だったんだよ。(柳麗玉へ)いや、ありがとう。御苦労。開けてみよう。
包みを受け取って地面にしゃがみ、ひらく。紙箱が出る。
禹徳淳 (覗き込んで)何だい、ばかに厳重に包んであるじゃないか。
安重根は無言で箱の覆を取る。拳銃が二個はいっている。
安重根 (ぎょっとして覆をする。静かに柳麗玉を見上げる)李剛さんが、僕らがこれを忘れて行ったと言ったって?
柳麗玉 あら! (素早く箱の中を見て)ええ。ですけれど、あたし、そんな物がはいっているとは知らずに――。
安重根 そして李先生は、これを僕らに届けるために君を走らせた――。
と再び箱を開けて、禹徳淳に示す。二人は黙って顔を見合う。間。
安重根 (苦笑)二挺ある。何方でも採りたまえ。
禹徳淳 ははははは、まるで決闘だな。しかし、李剛主筆の深謀遠慮には、いつものことながら降参するよ。
安重根 (拳銃の一つを取り上げて灯にすかして見ながら)スミット・ウェトソン式だ。十字架が彫ってある。六連発だな。この銃身のところに何か書いてあるぞ。(横にして読む)――コレアン・トマス。
禹徳淳 朝鮮人コレアントマス? 面白い。それを君の名前にするか。
二人はじっとめいめいの拳銃に見入っている。手風琴と唄声が聞こえて来る。
柳麗玉 (決然と)面白くなって来たわね。あたしだって働けるわ。ね、安さん、いっしょにハルビンに行くわ。
安重根は二挺の拳銃を箱に納めて、手早く元通りに包んでいる。
禹徳淳 そうだ。女づれだと、かえって警戒線を突破するのに便利かもしれないな。
夕刊売りの少年が上手から駈けて来る。
夕刊売り 夕刊! 夕刊! ハルビンウェストニック夕刊!
三人の様子に好奇気ものずきげに立ち停まる。禹徳淳が夕刊を買って下手へ追いやる。
禹徳淳 (新聞を拡げて、大声に)おい、出てるぞ。(紙面の一個所を叩いて安重根に示す)何だ?――「東清鉄道の事業拡張に関する自家の意見を確定するため極東巡視の途に上りたるココフツォフ蔵相は、二十一日ハルビン到着の予定。なお北京駐在露国公使コロストウェツの特に任地より来あわせる等の事実より推測すれば、時を同じゅうして来遊の噂ある伊藤公爵とわが蔵相との会見は、なんらか他に重大なる使命を秘するもののごとく想像に難からずと、某消息通は語れり。」――まだある。この後が大変なんだ。(活気づいて高声に読み続ける)「因に東清鉄道会社は、翌二十二日のため長春ハルビン間に特別列車を用意したり。」どうだい、こいつあ愉快なニュースだ。いよいよこうしちゃあいられない――。
柳麗玉 (勢い込んで、安重根へ)あたし其包それ持ってくわ。
安重根 いや、いかん。君はウラジオへ帰れ。帰って、李剛先生に礼を言ってくれ。忘れ物を届けてやったら、安重根は大喜びだったと。(禹徳淳へ)事務的に、ココフツォフの動きにさえ注意していたら、間違いなく、伊藤は向うからわれわれのふところへ飛び込んで来るよ。長春からハルビンまでの特別列車? 二十二日だって?
禹徳淳 (紙面を白眼んで)うむ。逢いたりな逢いたりな、ついに伊藤に逢いたりな――。
安重根 二日早くなったな。曹道先は知ってるんだろうな。
禹徳淳 無論すっかり手配して待ってるとも。おい、もう劉東夏が出て来るころだ。停車場へ行っていよう。
安重根は拳銃の包みを抱えて、禹徳淳とともに急ぎ下手へ入る。柳麗玉は勇ましげに見送ったのち、気がついて後を追う。薬屋の店から劉父子が出て来る。劉東夏は旅行の仕度をしている。
劉任瞻 (戸口に立ち停まって)用が済んだらすぐ帰るんだぞ。ハルビンは若い者の長くおるところじゃない。
劉東夏 (気が急いて)え。すぐ帰ります。じゃ、行ってまいります。
走り去る。

       11[#「11」は縦中横]

十月二十三日、夜中。ハルビン埠頭区レスナヤ街、曹道先洗濯店。

屋上の物乾し台。屋根の上に木を渡して設えたる相当広き物乾し。丸太、竹の類を架けて、取り込み残した洗濯物が二三、夜露に湿って下っている。下は、いっぱいに近隣の屋根。物乾し場の下手向う隅に昇降口、屋根を伝わって梯子あり。遠く近く家々の窓の灯が消えて往く。一面の星空、半闇。

曹道先――洗濯屋の主人。情を知って安重根のために働いている。四十歳前後。カラーなしで古い背広服を着ている。
ニイナ・ラファロヴナ――曹道先妻、若きロシア婦人。
金成白――近所の朝鮮雑貨商。安重根の個人的知人。朝鮮服。三十歳ぐらい。

他に安重根、禹徳淳、柳麗玉、劉東夏。

物乾し台の一隅に安重根と柳麗玉がめいめい毛布をかぶって、肩を押し合ってしゃがんでいる。長いことそうして話しこんでいる様子。足許にカンテラを一つ置き、一条の光りが横に長く倒れている。

安重根 (露地や往来が気になるごとく、凭りかかっている手摺りからしきりに下を覗きながら)だからさ、僕が伊藤をっつける――とすると、それはあくまで僕自身の選択でやるんだ。同志などという弥次馬連中にそそのかされたんでもなければ、それかと言って、禹徳淳のように、例えば今日伊藤を殺しさえすれば、同時にすべての屈辱が雪がれて、明日にも韓国が独立して、皆の生活がよくなり、自分の煙草の行商もおおいに売行きが増すだろうなどと――(笑う)実際徳淳は、心からそう信じきっているんだからねえ。だが、僕は、不幸にも、あの男ほど単純ではないんだ。
柳麗玉 (寄り添って)そりゃそうだわ。徳淳さんなんかと、較べものにならないわ。
安重根 (独語)ほんとうに心の底を叩いてみると、おれはなぜ伊藤を殺そうとしているのかわからなくなったよ。
柳麗玉 (びっくりして離れる)まあ、安さん! あなた何をおっしゃるの――?
安重根 ここまで来て、伊藤を殺さなければならない理由が解らなくなってしまった――。(自嘲的に)祖国の恨みを霽らして独立を計るため――ふふん、第一、国家より先に、まずこの安重根という存在を考えてみる。(ゆっくりと)ところで、おれ個人として、伊藤を殺して何の得るところがあるんだ。
柳麗玉 (熱心に縋りついて)どうしたのよ、安さん! 今になってそんな――あたしそんな安さんじゃないと思って――。
安重根 (思いついたように)おい、こっそりどこかへ逃げよう。そっして二人で暮らそう!
柳麗玉 (強く)嫌です! こんな意気地のない人とは知らなかったわ。なんなの、伊藤ひとりっつけるぐらい――。
安重根 (急き込む)ポグラニチナヤへ引っ返すか、さもなければチタあたりの、朝鮮人の多いところへ紛れ込むんだ。学校にでも勤めて、君一人ぐらい楽に食べさせていけるよ。僕あこれでも小学教員の免状があるんだからな。(懸命に)おい、そうしよう。天下だとか国家だとか、そんなことは人に任せておけばいいじゃないか。おれたちは俺たちきりで、小さく楽しく生活するんだ。自分のことばかり考えて、周囲まわりに自分だけの城を築いて暢気に世の中を送るやつが――思いきってそういうことのできるやつが、結局一番利口なんじゃないかな。
柳麗玉 (起ち上る)ははははは、馬鹿を見たような気がするわ。今に人をあっと言わせる安さんだと思ったから、あたし、こんなことになったんだわ。
安重根 (笑って)冗談だよ。今のは冗談だよ。そんなことほんとにするやつがあるかい。
沈思する。間。
安重根 (苦しそうに)しかし、おれは今まで、一心に伊藤を恨み、伊藤を憎んで生きて来た。伊藤に対する憎悪と怨恨にのみ、おれはおれの生き甲斐を感じていたんだ。が、考えてみると、それも伊藤が生きていればこそだ。ははははは、ねえ、柳さん、君は伊藤という人間を見たことがあるか。
柳麗玉 いいえ。写真でなら何度も見たわ。
安重根 (急に少年のように快活に)ちょっと下品なところもあるけれど、こう髯を生やして、立派な老人だろう?
柳麗玉 (微笑)ええ、まあそうね。偉そうな人だわ。でも、あたしあんな顔大嫌い。
安重根 僕は三年間、あの顔をしっかり心に持っているうちに――さあ、何と言ったらいいか、個人的に親しみを感じ出したんだ。
柳麗玉 (かすかに口を動かして)まあ!
安重根 ははははは、やり方は憎らしいが、人間的に面白いところもあるよ。決して好きな性格じゃないが――。
柳麗玉は無言を続けている。
安重根 (下の道路に注意を払いつつ)僕が伊藤を憎むのも、つまりあいつに惹かれている証拠じゃないかと思う(間、しんみりと)なにしろこの三年間というもの、伊藤は僕の心を独占して、僕はあいつの映像を凝視みつめ続けてきたんだからなあ。三年のあいだ、あの一個の人間を研究し、観察し、あらゆる角度から眺めて、その人物と生活を、僕は全的に知り抜いているような気がする。まるで一緒に暮らしてきたようなものさ。他人とは思えないよ。(弱々しく笑う)このごろでは、僕が伊藤なんだか、伊藤が僕なんだか――。
柳麗玉 解るわ、その気持ち。
安重根 白状する。僕は伊藤というおやじが嫌いじゃないらしいんだ。きっとあいつのいいところも悪いところも、多少僕に移っているに相違ない。顔まで似て来たんじゃないかという気がする。
柳麗玉 (気を引き立てるように噴飯ふきだす)ぷっ、嫌よ、あんなやつに似ちゃあ――。で、どうしようっていうの?
安重根 (間、独語的にゆっくりと)伊藤は現実に僕の頭の中に住んでいる。こうしていても僕は、伊藤のにおいを嗅ぎ、伊藤の声を聞くことができるんだ。いや、おれには伊藤が見える。はっきり伊藤が感じられる!
柳麗玉 (気味悪そうに)安さん! あたし情けなくなるわ。
安重根 (虚ろに)伊藤がおれを占領するか、おれが伊藤を抹殺するか――自衛だ! 自衛手段だ! が、右の半身が左の半身を殺すんだからなあ、こりゃあどのみち自殺行為だよ。
柳麗玉 (うっとりと顔を見上げて)そうやって一生懸命に何か言っている時、安さんは一番綺麗に見えるわね。
安重根 もう駄目だ。ハルビンへ来て四日、日本とロシアのスパイが間断なく尾けている。(ぎょっとして起ち上る)今この家の周りだって、すっかりスパイで固まってるじゃないか。
柳麗玉 (びっくり取り縋って)そんなことないわ。そんなことあるもんですか。みんな安さんの錯覚よ。強迫観念よ。ほら、(手摺りから下の露路を覗いて)ね、誰もいないじゃないの。
ニイナ・ラファロヴナが物乾しの台の上り口に現れる。
ニイナ まあ、お二人ともこんなところで何をしているの? 寒かないこと?
柳麗玉 (安重根から離れて)あら、うっかり話しこんでいましたのよ。
安重根 何か用ですか。曹君はどうしました。
ニイナ いいえね、今夜でなくてもいいんでしょうと思いましたけれど、これを持って来ましたの。
手に持っている鏡を差し出す。
安重根 あ、鏡ですね。
ニイナ 鏡ですねは心細いわ。さっきあなたが鏡がほしいようなことを言ってらしったから、これでも、家じゅう探して見つけて来たんですの。でも、こんな暗いところへ鏡を持って来てもしようがありませんわね。
安重根 いいんです。ここでいいんです。
と鏡を受け取ろうとする。
ニイナ (驚いて)まあ、安さん、その手はどうしたんですの。
安重根 手? 僕の手がどうかしていますか。
ニイナ どうかしていますかって、顫えてるじゃないの、そんなに。
安重根はニイナへ背中を向けて、自分の手を凝視める。自嘲的に爆笑する。
安重根 (手を見ながら)そうですかねえ。そんなに、そんなに顫えていますかねえ。はっはっは、こいつあお笑い草だ。
ニイナ 笑いごっちゃありませんわ。まるで中気病みですわ。水の容物いれものを持たしたら、すっかりこぼしてしまいますわ。
安重根はふっと沈思する。
ニイナ (何事も知らぬ気に)あたしなんかにはいっこう解りませんけれど、それでも、いま安さんが立役者だということは、女の感というもので知れますわ。うちの曹道先なども、この間じゅうから、今日か明日かと安重根さんの来るのを待ったことと言ったら、そりゃあおかしいようでしたわ。
安重根は手摺りに倚って空を仰いでいる。
ニイナ そんなに持てている安さんじゃあないの。何をくよくよしているんでしょう。ねえ、安さん、そんなことでは――。
安重根 (どきりとして顔を上げて、鋭く)何です。
ニイナ まあ、なんてこわい顔! そんなことでは柳さんに逃げられてしまうって言うのよ。ねえ、柳さん。
安重根 (ほっとして)あ、柳ですか。柳に逃げられますか。そうですねえ。
ニイナ 何を言ってるのよ。妙にぼうっとしているわね。冗談一つ言えやしない。
ニイナは降りて行く。安重根は片手に鏡、片手にカンテラを取り上げて黙って顔を映して見る。長い間。
柳麗玉 その鏡どうなさるの?
安重根 屋下したへ降りて、もう一度最後にあの変装をして鏡に映してみようと思って――。
あわただしい跫音とともに昂奮した禹徳淳が物乾し台へ駈け上って来る。
禹徳淳 (安重根の腕を取る)おい! いま東夏のやつが調べて来た。とうとう決まったぞ。明日あすの晩か明後日の朝、出迎えの特別列車がハルビンから長春へ向って出発する。
安重根 (禹徳淳の手を振り放して、ぼんやりと)そうか――。
禹徳淳 (いらいらして)どうしたんだ君あ! (どなる)こんな素晴しいレポがはいったのに何をぽかんとしている。
安重根 (間。禹徳淳と白眼み合って立つ。急に眼が覚めたように)徳淳! それはたしかか。すると、その汽車で来るんだな。(考えて)途中でやろうか。
禹徳淳 (勢い込んで)これからすぐ南へ発って――。
安重根 (別人のように活気を呈している)そうだ! 三夾河まで行こう! ハルビンで決行する方が都合がいいか、他の停車場へ行ってやるのがいいか、単に視察のつもりでも無意味じゃないぞ。
禹徳淳 どうせ明日一日ここにぶらぶらしていたってしようがない。
安重根 それにハルビンは軍隊が多いし、いざとなると近づけないかもしれない。ことにココフツォフも来ている。警戒は倍に厳重なわけだ。
  曹道先を案内に劉東夏が駈け上って来る。
劉東夏 (息を切らして)蔡家溝さいかこうで三十分停車するそうです! はっきりわかりました。この先の蔡家溝です。あすこだけ複線になっているので、臨時列車なんか三十分以上停車するかもしれないと言うんです!
安重根 (きびきびした口調)護照のほうはどうだ。大丈夫か。
禹徳淳 東夏君にすっかりやってもらってある。
安重根 汽車はまだあるな。
劉東夏 急げば間に合います。
禹徳淳 蔡家溝までか。
安重根 馬鹿言え。どうなるかわからない。三夾河まで買わせろ。
と先に立って急ぎ物乾しを降りかける。
禹徳淳 (続いて)写真をうつしておけばよかったなあ、君と僕と――。
安重根 写真なんか、まだ撮せるよ、明日蔡家溝ででも。
金成白が駈け上って来て、上り口で衝突しそうになる。
金成白 (安重根へ)先生、いよいよ――。
安重根は無言で、力強く金成白と握手する。「三夾河行き」、「いや、蔡家溝で下車」、「三人で停車場まで走るんだ」など安重根、禹徳淳、劉東夏の三人、口ぐちに大声に言いながら勢いよく屋根を降りて行く。柳麗玉も勇躍して、見送りに走り下りる。曹道先と金成白は手摺りに駈け寄って下を覗く。

 

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