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夏の花(なつのはな)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-23 14:00:22  点击:  切换到繁體中文


 夕闇ゆうやみの中に泉邸の空やすぐ近くの焔があざやかに浮出て来ると、砂原では木片を燃やして夕餉ゆうげしをするものもあった。さっきから私のすぐ側に顔をふわふわに膨らした女が横わっていたが、水をくれという声で、私ははじめて、それが次兄の家の女中であることに気づいた。彼女は赤ん坊を抱えて台所から出かかった時、光線に遭い、顔と胸と手を焼かれた。それから、赤ん坊と長女を連れて兄達より一足さきに逃げたが、橋のところで長女とはぐれ、赤ん坊だけを抱えてこの河原に来ていたのである。最初顔に受けた光線をさえぎろうとしておおうた手が、その手が、今もぎとられるほど痛いと訴えている。
 潮が満ちて来だしたので、私達はこの河原を立退たちのいて、土手の方へ移って行った。日はとっぷり暮れたが、「水をくれ、水をくれ」と狂いまわる声があちこちできこえ、河原にとり残されている人々の騒ぎはだんだん烈しくなって来るようであった。この土手の上は風があって、ねむるには少し冷々していた。すぐ向うは饒津公園であるが、そこも今は闇にとざされ、樹の折れた姿がかすかに見えるだけであった。兄達は土のくぼみに横わり、私も別に窪地をみつけて、そこへ這入はいって行った。すぐ側には傷ついた女学生が三四人横臥おうがしていた。
「向うの木立が燃えだしたが逃げた方がいいのではないかしら」と誰かが心配する。窪地を出て向うを見ると、二三町さきの樹に焔がキラキラしていたが、こちらへ燃え移って来そうな気配もなかった。
「火は燃えて来そうですか」と傷ついた少女は脅えながら私にく。
「大丈夫だ」と教えてやると、「今、何時頃でしょう、まだ十二時にはなりませんか」とまた訊く。
 その時、警戒警報が出た。どこかにまだ壊れなかったサイレンがあるとみえて、かすかにその響がする。街の方はまださかんに燃えているらしく、ぼうとした明りが川下の方に見える。
「ああ、早く朝にならないのかなあ」と女学生は嘆く。
「お母さん、お父さん」とかすかに静かな声で合唱している。
「火はこちらへ燃えて来そうですか」と傷ついた少女がまた私にたずねる。
 河原の方では、誰か余程元気な若者らしいものの、断末魔のうめき声がする。その声は八方に木霊こだまし、走り廻っている。「水を、水を、水を下さい、……ああ、……お母さん、……姉さん、……光ちゃん」と声は全身全霊を引裂くようにほとばしり、「ウウ、ウウ」と苦痛に追いまくられるあえぎが弱々しくそれにからんでいる。――幼い日、私はこの堤を通って、その河原に魚をりに来たことがある。その暑い日の一日の記憶は不思議にはっきりと残っている。砂原にはライオン歯磨はみがきの大きな立看板があり、鉄橋の方を時々、汽車がごうと通って行った。夢のように平和な景色があったものだ。

 夜が明けると昨夜の声はんでいた。あのはらわたを絞る断末魔の声はまだ耳底に残っているようでもあったが、あたりは白々と朝の風が流れていた。長兄と妹とは家の焼跡の方へ廻り、東練兵場に施療所があるというので、次兄達はそちらへ出掛けた。私もそろそろ、東練兵場の方へ行こうとすると、そばにいた兵隊が同行を頼んだ。その大きな兵隊は、余程ひどく傷ついているのだろう、私の肩に凭掛よりかかりながら、まるで壊れものを運んでいるように、おずおずと自分の足を進めて行く。それに足許あしもとは、破片といわずしかばねといわずまだ余熱をくすぶらしていて、恐しく嶮悪けんあくであった。常盤橋ときわばしまで来ると、兵隊は疲れはて、もう一歩も歩けないから置去りにしてくれという。そこで私は彼と別れ、一人で饒津公園の方へ進んだ。ところどころ崩れたままで焼け残っている家屋もあったが、いたる処、光の爪跡つめあとが印されているようであった。とある空地あきちに人が集っていた。水道がちょろちょろ出ているのであった。ふとその時、めいが東照宮の避難所で保護されているということを、私は小耳にはさんだ。
 急いで、東照宮の境内へ行ってみた。すると、いま、小さな姪は母親と対面しているところであった。昨日、橋のところで女中とはぐれ、それから後は他所よその人にいて逃げて行ったのであるが、彼女は母親の姿を見ると、急にえられなくなったように泣きだした。その首が火傷やけどで黒く痛そうであった。
 施療所は東照宮の鳥居の下の方に設けられていた。はじめ巡査が一通り原籍年齢などを取調べ、それを記入した紙片をもろうてからも、負傷者達は長い行列を組んだまま炎天の下にまだ一時間位は待たされているのであった。だが、この行列に加われる負傷者ならまだ結構な方かもしれないのだった。今も、「兵隊さん、兵隊さん、助けてよう、兵隊さん」と火のついたように泣喚なきわめく声がする。路傍にたおれて反転する火傷の娘であった。かと思うと、警防団の服装をした男が、火傷で膨脹した頭を石の上によこたえたまま、まっ黒の口をあけて、「誰か私を助けて下さい、ああ看護婦さん、先生」と弱い声できれぎれに訴えているのである。が、誰も顧みてはくれないのであった。巡査も医者も看護婦も、みな他の都市から応援に来たものばかりで、その数も限られていた。
 私は次兄の家の女中に附添って行列に加わっていたが、この女中も、今はだんだんひどく膨れ上って、どうかすると地面にうずくまりたがった。ようやく順番が来て加療が済むと、私達はこれからいこう場所を作らねばならなかった。境内到る処に重傷者はごろごろしているが、テントも木蔭こかげも見あたらない。そこで、石崖いしがけに薄い材木を並べ、それで屋根のかわりとし、その下へ私達は這入り込んだ。この狭苦しい場所で、二十四時間あまり、私達六名は暮したのであった。
 すぐ隣にも同じような恰好かっこうの場所が設けてあったが、そのむしろの上にひょこひょこ動いている男が、私の方へ声をかけた。シャツも上衣うわぎもなかったし、長ずぼんが片脚分だけ腰のあたりに残されていて、両手、両足、顔をやられていた。この男は、中国ビルの七階で爆弾にったのだそうだが、そんな姿になりはてても、すこぶる気丈夫なのだろう、口で人に頼み、口で人を使い到頭ここまで落ちのびて来たのである。そこへ今、満身血まみれの、幹部候補生のバンドをした青年が迷い込んで来た。すると、隣の男はきっとなって、
「おい、おい、どいてくれ、俺の体はめちゃくちゃになっているのだから、触りでもしたら承知しないぞ、いくらでも場所はあるのに、わざわざこんな狭いところへやって来なくてもいいじゃないか、え、とっとと去ってくれ」とうなるように押っかぶせて云った。血まみれの青年はきょとんとして腰をあげた。
 私達の寝転んでいる場所から二メートルあまりの地点に、葉のあまりない桜の木があったが、その下に女学生が二人ごろりと横わっていた。どちらも、顔を黒焦げにしていて、せた脊を炎天にさらし、水を求めてはうめいている。この近辺へ芋掘作業に来て遭難した女子商業の学徒であった。そこへまた、燻製くんせいの顔をした、モンペ姿の婦人がやって来ると、ハンドバッグを下に置きぐったりと膝を伸した。……日は既に暮れかかっていた。ここでまた夜を迎えるのかと思うと私は妙にわびしかった。


 夜明前から念仏の声がしきりにしていた。ここでは誰かが、絶えず死んで行くらしかった。朝の日が高くなった頃、女子商業の生徒も、二人とも息をひきとった。みぞにうつ伏せになっている死骸しがいを調べえた巡査が、モンペ姿の婦人の方へ近づいて来た。これも姿勢を崩して今はこときれているらしかった。巡査がハンドバッグをひらいてみると、通帳や公債が出て来た。旅装のまま、遭難した婦人であることがわかった。
 昼頃になると、空襲警報が出て、爆音もきこえる。あたりの悲惨醜怪さにも大分らされているものの、疲労と空腹はだんだん激しくなって行った。次兄の家の長男と末の息子は、二人とも市内の学校へ行っていたので、まだ、どうなっているかわからないのであった。人はつぎつぎに死んで行き、死骸はそのまま放ってある。救いのない気持で人はそわそわ歩いている。それなのに、練兵場の方では、いま自棄やけ嚠喨りゅうりょうとして喇叭らっぱが吹奏されていた。
 火傷した姪たちはひどく泣喚くし、女中はしきりに水をくれと訴える。いい加減、みんなほとほと弱っているところへ、長兄が戻って来た。彼は昨日は嫂の疎開先である廿日市はつかいち町の方へ寄り、今日は八幡村の方へ交渉して荷馬車をやとって来たのである。そこでその馬車に乗って私達はここを引上げることになった。


 馬車は次兄の一家族と私と妹を乗せて、東照宮下から饒津にぎつへ出た。馬車が白島から泉邸入口の方へ来掛った時のことである。西練兵場寄りの空地に、見憶みおぼえのある、黄色の、半ずぼんの死体を、次兄はちらりと見つけた。そして彼は馬車を降りて行った。嫂も私もつづいて馬車を離れ、そこへ集った。見憶えのあるずぼんに、まぎれもないバンドを締めている。死体はおいの文彦であった。上着は無く、胸のあたりに拳大こぶしだいれものがあり、そこから液体が流れている。真黒くなった顔に、白い歯がかすかに見え、投出した両手の指は固く、内側に握り締め、爪が喰込んでいた。その側に中学生の屍体が一つ、それから又離れたところに、若い女の死体が一つ、いずれも、ある姿勢のまま硬直していた。次兄は文彦の爪をぎ、バンドを形見にとり、名札をつけて、そこを立去った。涙も乾きはてた遭遇であった。


 馬車はそれから国泰寺の方へ出、住吉橋を越して己斐こいの方へ出たので、私はほとん目抜めぬきの焼跡を一覧することが出来た。ギラギラと炎天の下に横わっている銀色の虚無のひろがりの中に、みちがあり、川があり、橋があった。そして、赤むけの膨れ上った屍体がところどころに配置されていた。これは精密巧緻こうちな方法で実現された新地獄に違いなく、ここではすべて人間的なものは抹殺まっさつされ、たとえば屍体の表情にしたところで、何か模型的な機械的なものに置換えられているのであった。苦悶くもんの一瞬足掻あがいて硬直したらしい肢体は一種のあやしいリズムを含んでいる。電線の乱れ落ちた線や、おびただしい破片で、虚無の中に痙攣けいれん的の図案が感じられる。だが、さっと転覆して焼けてしまったらしい電車や、巨大な胴を投出して転倒している馬を見ると、どうも、超現実派の画の世界ではないかと思えるのである。国泰寺の大きなくすのきも根こそぎ転覆していたし、墓石も散っていた。外郭だけ残っている浅野図書館は屍体収容所となっていた。路はまだ処々で煙り、死臭に満ちている。川を越すたびに、橋が墜ちていないのを意外に思った。この辺の印象は、どうも片仮名で描きなぐる方がふさわしいようだ。それで次に、そんな一節を挿入そうにゅうしておく。

ギラギラノ破片ヤ
灰白色ノ燃エガラガ
ヒロビロトシタ パノラマノヨウニ
アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキミョウナリズム
スベテアッタコトカ アリエタコトナノカ
パット剥ギトッテシマッタ アトノセカイ
テンプクシタ電車ノワキノ
馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハ
ブスブストケムル電線ノニオイ

 倒壊の跡のはてしなくつづく路を馬車は進んで行った。郊外に出ても崩れている家屋が並んでいたが、草津をすぎると漸くあたりも青々として災禍の色から解放されていた。そして青田の上をすいすいと蜻蛉とんぼの群が飛んでゆくのが目にみた。それから八幡村までの長い単調な道があった。八幡村へ着いたのは、日もとっぷり暮れた頃であった。そして翌日から、その土地での、悲惨な生活が始った。負傷者の恢復かいふくもはかどらなかったが、元気だったものも、食糧不足からだんだん衰弱して行った。火傷した女中の腕はひどく化膿かのうし、はえが群れて、とうとううじくようになった。蛆はいくら消毒しても、後から後から湧いた。そして、彼女は一カ月あまりの後、死んで行った。

 この村へ移って四五日目に、行方不明であった中学生の甥が帰って来た。彼はあの朝、建もの疎開のため学校へ行ったが恰度ちょうど、教室にいた時光を見た。瞬間、机の下に身を伏せ、次いで天井がちて埋れたが、隙間すきまを見つけて這い出した。這い出して逃げのびた生徒は四五名にすぎず、他は全部、最初の一撃で駄目になっていた。彼は四五名と一緒に比治山ひじやまに逃げ、途中で白い液体を吐いた。それから一緒に逃げた友人の処へ汽車で行き、そこで世話になっていたのだそうだ。しかし、この甥もこちらへ帰って来て、一週間あまりすると、頭髪が抜け出し、二日位ですっかり禿はげになってしまった。今度の遭難者で、頭髪が抜け鼻血が出だすと大概助からない、という説がその頃大分ひろまっていた。頭髪が抜けてから十二三日目に、甥はとうとう鼻血を出しだした。医者はその夜が既にあぶなかろうと宣告していた。しかし、彼は重態のままだんだん持ちこたえて行くのであった。


 Nは疎開工場の方へはじめて汽車で出掛けて行く途中、恰度汽車がトンネルに入った時、あの衝撃を受けた。トンネルを出て、広島の方を見ると、落下傘らっかさんが三つ、ゆるく流れてゆくのであった。それから次の駅に汽車が着くと、駅のガラス窓がひどく壊れているのに驚いた。やがて、目的地まで達した時には、既に詳しい情報が伝わっていた。彼はその足ですぐ引返すようにして汽車に乗った。擦れ違う列車はみな奇怪な重傷者を満載していた。彼は街の火災がしずまるのを待ちかねて、まだ熱いアスファルトの上をずんずん進んで行った。そして一番に妻の勤めている女学校へ行った。教室の焼跡には、生徒の骨があり、校長室の跡には校長らしい白骨があった。が、Nの妻らしいものはつい見出みいだせなかった。彼は大急ぎで自宅の方へ引返してみた。そこは宇品の近くで家が崩れただけで火災は免れていた。が、そこにも妻の姿は見つからなかった。それから今度は自宅から女学校へ通じる道にたおれている死体を一つ一つ調べてみた。大概の死体が打伏うつぶせになっているので、それを抱き起しては首実検するのであったが、どの女もどの女も変りはてた相をしていたが、しかし彼の妻ではなかった。しまいには方角違いの処まで、ふらふらと見て廻った。水槽の中に折重なってつかっている十あまりの死体もあった。河岸かしに懸っている梯子はしごに手をかけながら、そのまま硬直している三つの死骸があった。バスを待つ行列の死骸は立ったまま、前の人の肩に爪を立てて死んでいた。郡部から家屋疎開の勤労奉仕に動員されて、全滅している群も見た。西練兵場の物凄ものすごさといったらなかった。そこは兵隊の死の山であった。しかし、どこにも妻の死骸はなかった。
 Nはいたるところの収容所を訪ね廻って、重傷者の顔をのぞき込んだ。どの顔も悲惨のきわみではあったが、彼の妻の顔ではなかった。そうして、三日三晩、死体と火傷患者をうんざりするほど見てすごした挙句あげく、Nは最後にまた妻の勤め先である女学校の焼跡を訪れた。
(昭和二十二年六月号『三田文学』)





底本:「夏の花・心願の国」新潮文庫、新潮社
   1973(昭和48)年7月30日発行
   2000(平成12)年4月25日39刷改版
初出:「三田文学」
   1947(昭和22)年6月号
※本作品は、「夏の花」三部作(「壊滅の序曲」「夏の花」「廃墟から」)のうちの一つである。底本では、「壊滅の序曲」「夏の花」「廃墟から」の順に収録されている。これは作品内容上の時間的な配列となっている。発表順は、「夏の花」「廃墟から」「壊滅の序曲」である。
※冒頭の三行は、「夏の花」三部作全体のはじめに掲げられているものである。
入力:砂場清隆
校正:noriko saito
2005年6月28日作成
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