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文学方法論(ぶんがくほうほうろん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-25 15:03:30  点击:  切换到繁體中文


         二

 古典文学は、如何なる社会的環境のもとに発生し、成育していつたか? 私は、テエヌが、『芸術哲学』の中で、フランスの古典悲劇について語つてゐるところを殆んどそのまゝこゝで引用することによつて、この問に最もよく答へ得ると思ふ。
 彼は、中世紀の文明と建築との関係を述べたあとで、フランスの古典悲劇に眼を転じて大要次の如く語つてゐる。
 中世時代に人民を支配搾取してゐた封建諸侯の中に、漸次頭角を現はして他の同輩を征服するものが生じ、それが遂に国王といふ名のもとに、国民の首長となつた。十五世紀頃には、かつては同輩であつた諸侯は、国王麾下の将軍に過ぎなくなり、十七世紀頃には、その宮臣に過ぎなくなつてしまつた。しかしこの宮臣といふのは、たゞの家来ではなく、国王との関係は非常に親密であつて、国王も彼等を尊敬し、彼等は王城内に於いて国王とゝもに舞踏し、食事をともにするといふ風であつた。かくして、はじめには、イタリア及びスペインに、ついでフランスに、更にイギリスにドイツに北欧諸国に宮廷生活(la vie de cour)といふものが生じ、フランスがその中心となり、ルイ十四世に於いてその絶頂に達したのである。
 かくの如き形勢の変化は、当時の人心に如何なる影響を及ぼしたか? 国王のサロンは国内に於て最も善美を尽したものであり、そこには、万人の亀鑑たるに恥しからぬ最も選ばれた貴族たちが出入する。この貴族は自ら生れながらにして高貴な人間であると考へてゐる。彼等は名誉を重んずること生命よりも強く、少しの侮辱に対しても身命をすてることを辞しない。ルイ十三世の時代に、決闘によつて殺された武士の数が四千にのぼつたのを見てもそのことはわかる。彼等の眼には身命の危険を軽んずることは、貴族の天分なのであつた。しかも彼等は封建精神の衣鉢を襲いで、国王を彼等の生れながらの主として尊敬し、国王のためには身命を鴻毛よりも軽しとした。ルイ十六世が処刑されたとき、彼の身代りにならんことを志願した武士の数が少くなかつたことなどもこれを証明してゐる。
 それと同時に此等の宮臣は典雅上品であつた。国王自ら彼等に模範を与へたのであつた。ルイ十四世は侍女に対してさへも脱帽したといふことであり、或る公爵はヴエルサイユ宮殿の中を通るときには始終帽子を手にもつてゐたといふことである。その結果彼等は、常に上品な婉曲な言語で語り、相手に不快な感じを与へるやうなことを避ける技巧に長じてゐた。かくの如き貴族的精神は、実に、この時代の宮廷内に於て完成されたのである。
 かゝる人々が、彼等にふさはしい快楽を求めるのは自然の勢である。彼等の趣味は彼等の人品と同様に高貴であり、典麗であつた。而して、当時の芸術作品はすべて、この趣味からつくられたのである。厳粛、荘重なプツサン、ルシユアール等の絵画、壮麗華美をつくしたペロオル及びマンサール等の建築、ル・ノオートルの設計にかゝる雄大なる庭園等がそれである。その他、当時の家具服装室内の装飾等に、すべて此の特色はあらはれてゐる。ヴエルサイユ宮殿を飾つてゐる神々の像、整然たる並木道、神話を象つた噴水、広々とした精巧な泉水、建築の飾りのやうに巧みに刈られた庭内の樹木等は、当代の趣味の精髄をこらした傑作である。併しながら、これを最もよくあらはしてゐるものは、当時の文学である。当時ほどフランス文学界の巨匠が雲集してゐた時代はない。ボシユエ、パスカル、ラ・フオンテーヌ、モリエール、コルネーユ、ラシイヌ、ラ・ルシユフコー、セヴイニエ夫人、ポワロオ、ラ・ブリユイエール、ブウルダルウ等皆当時の名文家である。ひとりこれ等の大家のみならず、当時の人々はみな文章をよくした。当時は、到るところに名文の模範があつた。対話も日常の書簡もすべて名文であつた。当時の宮女は、近代のアカデミイ会員よりも文章をよくしたとクーリエは言つてゐる。而してこの高貴端正の名文は当時の古典悲劇に於て最も燦爛たる光彩を放つたのであつた。
 当時の悲劇は、貴族宮臣を喜ばせるためにつくられたものである。それ故に、作者は、あまりに残酷な真相は緩和し、舞台に殺人の場面を上せるやうなことはせず、その他叫喚、暴行、蛮行等の如き、サロンの優雅な空気に親しんでゐる人々に不快を与へるやうなことは一切避けた。それと同時に彼等は無秩序を嫌つた。シエーキスピアのやうに、むやみに空想や幻想に耽ることを避けた。劇の組立ては整然としてゐて、思ひがけない偶発事件などを挿入することを許さなかつた。そして対話には洗練された上品な語句が用ゐられた。人物はギリシアの英雄であつたが、服装その他はすつかり当時のフランスの宮廷を中心とする人士の好みに投じたものであつた。又人物の性格の如きも、すつかり当時のフランスの貴族趣味に投じたものであつた。たとへばラシイヌの描いたイフジエニイとウリピイドの描いたイフゲニイ、ラシイヌの描いたアシイルとホーマーの描いたアキレスを比較して見れば、這般の事情ははつきりとわかるであらう。テエヌの言葉をかりると当時のフランス劇は、「ゴチツク建築と同様に、人間精神の、くつきり整つた形態をあらはしてゐたので、そのために、それはゴチツク建築と同様に全ヨーロツパにひろまつたのである。」
 テエヌは、封建制度から君主政治へ移つていつた経済上の条件を分析してゐないが、この政治形態の推移が、経済関係の変化によつて決定されたものであることは、今更らこゝで附け足して説明するまでもなく明かであるから、それはこゝでは省略する。

         三

 ロマンチスムの文学は如何にして起つたか? それは、古典文学が、宮廷生活を中心とする貴族のイデオロギイの表白であつたに反し、新興ブルジヨア階級のイデオロギイの表白であつたことは、多くの文学史家がひとしく認めてゐるところである。
 ロマンチスム文学は、先づ第一に文学上に於ける煩瑣な形式の破壊を特色としてゐる。経済上に於ける自由主義は政治上の自由主義となつてフランス大革命を爆発させたのであるが、その同じ自由主義が、文学にあらはれてロマンチスムとなつて、古典文学の約束、慣例を一蹴したのであつた。ラシイヌの悲劇とユゴオのドラマとを比べて見ると、前者は規則そのもの均斉そのものであるといふ感じを与へるに反し、後者は無秩序そのものであるといふ感じを抱かせる。外見上に於ける無秩序は、内容上に於ける無秩序をも伴つた。そこには、新興階級の奔放な、解放された情熱が、何等の制約をも受けずに跳躍してゐる。
 当時ブルジヨア階級にとつては、すぐ未来に『約束の国』『薔薇色の世界』が展開されてゐたのである。彼等は経済的には貴族の地位を奪ひ、政治的にも貴族政治を倒壊して第三階級のヘゲモニイを確立した。そこで観念的にも貴族を征服しなければならぬ。ロマンチスムの文学は、実に文学の戦線に於けるブルジヨア階級の貴族に対する闘争の表白であつたといへる。
 もとより闘争といふのは必ずしも文字通りに解する必要はない。ロマンチスムの文学には悲しみや憂欝を主題としたものが決して少くない。それどころか、ロマンチスムの文学は感情の文学であるとさへ[#「さへ」は底本では「さいへ」]いはれてゐる。しかしながら、感情を――それが悲しみの感情であらうとも――心ゆくまで、思ふまゝにうたふことは、古典文学の形式主義に対する反逆であり闘争であるといつて少しも差支へないのである。近松巣林子の世話物は、殆んど情死を主材としてをるに拘はらず、それは正に当時の町人的世界観の勝利をあらはしてゐると見てよいのである。義理と人情との葛藤といふ言葉は、社会学的に言ひあらはせば、旧支配階級のイデオロギイと新興階級のそれとの闘争といふことになる。義理といふのは形式化し硬化した旧世界観の遺骸に外ならず、それが人情と葛藤を生じて来るといふことは、とりも直さず、旧世界観が人心を去つたことを意味するのである。フランス革命が政治に於ける自由のための戦ひであつたやうに、ロマンチスムの文学運動――特にフランスに於けるロマンチスムの文学運動は何よりも先づ文学に於ける自由の戦ひであつた。ユゴオの『クロムウエル』の序文は、この文学革命の烽火であり、宣戦の布告であつた。彼によりて、悲劇はドラマに代られ、性格は血あり肉ある人間に代られた。ボワロオが『詩学』に於て精密に定義した史詩、抒情詩、牧歌、悲歌、警句詩等の別は一掃された。これ等の形式は作者が思ふまゝに混用して差支へなくなつた。用語、語調等に於ける古典文学の中庸主義は破られて、激越な語句、詩法上の破格が自由に許された。ユゴオの作品を見ると言葉の洪水といふ感じがする。かくの如き文学に於ける自由主義に最もふさはしい文学の品種は小説である。小説には面倒な約束が少しもない。ブルジヨア社会に於て、小説が一躍文学の主流的地位を占めて来たのは決して偶然ではないのである。
 以上は、もとよりロマンチスムの文学の全特色を列挙したものではなくて、単にその本質的特色を挙げたのに過ぎない。ヨーロツパの各国に前後して起つたところのロマンチスムの文学運動には、民族や国土やその他無数の条件によつて、それ/″\異つた色彩が見られる。私は、それ等を否認したり、閑却したりしてゐるのではない。たゞ、こゝでは、それ等を抽象し去つて、たゞ、当時の政治経済上の変動が、文学に如何なる変化を決定したかを例証的に述べて見たに過ぎないのである。
 
         四

 自然主義の文学は成熟期のブルジヨアの文学であるといへる。それは、ロマンチスムの文学が、新興の、若い、革命期のブルジヨアの文学であるといふのと同じ意味に於てゞある。
 自然主義文学を発生せしめた社会的環境の特色を挙げると、ブルジヨア階級が成熟して来たこと、社会の物質的生産力が増加し、富、資本が社会の動力として最も重要な地位を占めて来たこと、自然科学が急激に勃興して来たこと等であるといつてよい。
 ブルジヨア階級が成熟して、その社会的地位が安固となると、若い時代の情熱が消えて来るのは当然である。自然主義の文学がロマンチスムの文学に比べて情熱的でないのはそこに原因の少くも一半をもつであらう。ブルジヨア階級には、もはや戦ふべき権威も敵手もない、そこで翻つて自己を観察し省察するやうになつて来る。自然主義文学が個人主義(正しくいへば自己批判)の文学であるといはれてゐるのはそのためでもあらう。
 勃興期のブルジヨア階級にとつては、前途に薔薇色の世界が展望されてゐたことは既に述べたとほりである。然るに一朝彼等が支配階級の位置に上つて見ると、以前の希望は何一つ現実化しない。自由は一部の大資本家に独占されてしまつてゐた。多数者にとつては、自由の夢は、一朝にしてさめて、眼前には苦い現実の姿が横はつてゐた。自然主義文学が没理想的であり、暗黒であり、暴露的であるのは、さうした社会環境にもとづくものであらう。
 次に社会の生産力が増大して、これを所有し得る階級の勢力が俄然として抬頭して来たことは、凡ゆる精神文化を現金主義で彩つた。ロマンチスムの文学にまで色濃く残つてゐた貴族崇拝、古武士気質の礼讃、殉情主義、超俗主義等の思想は、自然主義の暴風によつて影をひそめた。ロマンチツクの人々が、敢へて文学作品の題材にし得なかつたであらうやうな、生々しい、醜悪な題材が、自然主義文学者には平気でとりあつかはれた。政治の平民化とゝもに、ジヤーナリズムが勃興して、それが文学作品にも影響を与へた、かういふ風になつて来ると、人生には、もうロマンスは見出されない。恋も、友情も、忠誠も、すべて平凡な現象として観察されるやうになつて来る。自然主義文学の一面の特色である平凡主義は、かういふ事情に胚胎してゐるのである。
 けれども、自然主義文学に、最も本質的な影響を与へたものは自然科学の勃興であつた。この自然科学の勃興が、当時の経済事情――産業の機械化――と密接な関係をもつてゐることは、ここでは不問に附する。たゞ自然主義文学が、如何に自然科学に刺戟されて起つたものであるかを一二の例によつて示すだけにとゞめておく。
 自然科学は、自然界に起る凡ての現象は、因果関係によつて決定されてゐることを信条とする。そして、前世紀に於て様々な科学者の努力によりて、自然現象の因果関係は次々に証明されていつた。この自然科学の偉大なる業績は、単に物質文明を一変させたのみならず、精神文化をも一変させるに十分であつた。
 自然現象が因果関係によりて決定されてゐるとすれば、人間の活動も亦因果関係によつて決定されてゐるのではなからうか? かゝる思想は誰の頭にも自然に浮んで来る思想である。そして自然主義文学者は、この疑問に対して「然り」と答へたのである。
 自然主義小説はフロオベルにはじまつたといはれてゐる。彼は、小説は、客観的であり、非個人的でなければならぬと主張し、人生の諸々の現象に対して小説家は非感傷的でなければならぬと信じた。それは、ちやうど科学者が自然物に対してとるべき態度と相通じてゐる。そしてランソンが言つてゐるやうに、この点では、自然主義は、古典主義への接近であり、古典主義文学の理性(raison)と自然主義文学の冷静(impassibilit※(アキュートアクセント付きE小文字))との間には少なからぬ類似があるといはれよう。此の信条を作品にあらはしたものが、近代文学の傑作の一つとして光輝を放つてゐる『ボヴアリイ夫人』である。これは、正に、作者は作中の人物に同情したり、心を動かしたりしないで、鏡のやうにこれをあるがまゝに写さねばならぬといふ彼の理論を具体化した傑作である。
 けれども、ランソンが言ふやうにフロオベルはまだ芸術家であつた。ところが、ゾラに至つては科学者であり、自らも科学者をもつて任じてゐた。彼にとつては、小説は、他の精密科学と同様に法則科学となるべきものであつた。彼は人間の社会生活は、これを構成してゐる個人の心理現象に分析し得るとし、心理現象は生理学により、生理現象は物理化学によりて説明し得るものと考へた。そして、遺伝、環境等の作用を重要視する必要を力説した。『ルウゴン・マツカール叢書』即ち『第二帝制治下に於ける一家族の自然史』は、彼の抱負を実現しようとした近代文学の記念塔であると言へるであらう。
 自然主義文学の主張を、最も組織的に、体系的に大成した人はテエヌである。ゾラが自然主義小説を『実験小説』と呼んだやうに、テエヌは自然主義の芸術論を『実験美学』と呼んだ。彼は古い美学と実験美学との相異を次のやうに言ひあらはしてゐる。

『古い美学は、先づ第一に美の定義を与へ、美とは道徳的理想の表現であるとか、美とは不可見のものゝ表現であるとか、美とは人間のパツシヨンの表現であるとか述べ、そしてこれを、法律の条文のやうに祭りあげて、それから出発して、或る作品をゆるしたり、罰したり、戒めたり、指導したりしたのである。……私がこれから試みんとする近代的方法は、人間の作物、特に芸術作品を、事実若しくは製作物と見なして、その特色を指摘し、如何にしてかゝる特色が生じたかを研究するに過ぎない。それはゆるしたり、禁じたりはしない。たゞ認証し、説明するだけである。』

 これでわかるやうに、自然主義文学の理論、方法は、自然科学のそれと正確に同じであるといはねばならぬ。

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