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大塩平八郎(おおしおへいはちろう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-6 18:00:24  点击:  切换到繁體中文


   六、坂本鉉之助

 東町奉行所で小泉を殺し、瀬田を取り逃がした所へ、堀が部下の与力よりき同心どうしんを随へて来た。跡部あとべは堀と相談して、あけ六つどきにやう/\三箇条の手配てくばりをした。鈴木町すゞきまちの代官根本善左衛門ねもとぜんざゑもん近郷きんがう取締とりしまりを托したのが一つ。谷町たにまちの代官池田岩之丞いはのじよう天満てんまの東照宮、建国寺けんこくじ方面の防備を托したのが二つ。平八郎の母の兄、東組与力大西与五郎おほにしよごらう病気引びやうきびきをしてゐる所へ使つかひつて、をひ平八郎に切腹させるか、刺し違へて死ぬるかのうちを選べと云はせたのが三つである。与五郎の養子善之進は父のために偵察しようとして長柄町ながらまち近くへ往くと、もう大塩の同勢どうぜいが繰り出すので、驚いて逃げ帰り、父と一しよに西の宮へはしり、又おそれて大阪へ引き返ししなに、両刀を海に投げ込んだ。
 大西へ使つかひつたあとで、跡部、堀の両奉行は更に相談して、両組の与力同心を合併した捕手とりてを大塩が屋敷へ出した。そのうち朝五つ近くなると、天満てんまに火の手が上がつて、間もなく砲声が聞えた。捕手とりて所詮しよせん近寄れぬと云つて帰つた。
 両奉行は鉄砲奉行石渡彦太夫いしわたひこだいふ御手洗伊右衛門みたらしいゑもんに、鉄砲同心を借りにつた。同心は二にんの部下をあはせて四十人である。次にそれでは足らぬと思つて、玉造口定番たまつくりぐちぢやうばん遠藤但馬守胤統たぢまのかみたねをさに加勢を願つた。遠藤は公用人畑佐秋之助はたさあきのすけに命じて、玉造組与力で月番つきばん同心支配をしてゐる坂本鉉之助げんのすけ上屋敷かみやしきに呼び出した。
 坂本は荻野流をぎのりうの砲術者で、けさ丁打ちやううちをすると云つて、門人を城の東裏ひがしうらにある役宅の裏庭に集めてゐた。そのうち五つ頃になると、天満に火の手が上がつたので、急いで役宅から近い大番所おほばんしよへ出た。そこに月番の玉造組平与力ひらよりき本多為助ほんだためすけ山寺やまでら三二郎、小島鶴之丞つるのじようが出てゐて、本多が天満の火事は大塩平八郎の所為しよゐだと告げた。これは大塩の屋敷に出入でいりする猟師清五郎と云ふ者が、火事場に駆け附けて引き返し、同心支配岡翁助をうすけに告げたのを、岡が本多に話したのである。坂本はすぐに城の東裏にゐる同じ組の与力同心に総出仕そうしゆつしの用意を命じた。間もなく遠藤の総出仕の達しが来て、同時に坂本は上屋敷かみやしきへ呼ばれたのである。
 畑佐はたさの伝へた遠藤の命令はかうである。同心支配一人、与力二人、同心三十人鉄砲を持つて東町奉行所へ出て来い。又同文の命令を京橋組へも伝達せいと云ふのである。坂本は承知のむねを答へて、上屋敷から大番所へ廻つて手配てくばりをした。同心支配は三人あるが、これは自分が出ることにし、小頭こがしらの与力二人には平与力ひらよりき蒲生熊次郎がまふくまじらう、本多為助ためすけを当て、同心三十人は自分と同役岡との組から十五人づゝすことにした。集合の場所は土橋どばしと極めた。京橋組への伝達には、当番与力わき勝太郎に書附を持たせて出して遣つた。
 手配てくばりが済んで、坂本は役宅やくたくに帰つた。そして火事装束くわじしやうぞく草鞋掛わらぢがけで、十文目筒じふもんめづゝを持つて土橋どばしへ出向いた。蒲生がまふと同心三十人とは揃つてゐた。本多はまだ来てゐない。集合を見に来てゐた畑佐はたさは、跡部あとべに二度催促せられて、京橋口へまはつて東町奉行所に往くことにして、先へ帰つたのださうである。坂本は本多がために同心一にんめて置いて、集合地を発した。堀端ほりばたを西へ、東町奉行所をして進むうちに、跡部からの三度目の使者に行き合つた。本多と残して置いた同心とは途中で追ひ附いた。
 坂本が東町奉行所に来て見ると、畑佐はまだ来てゐない。東組与力朝岡助之丞すけのじようと西組与力近藤三右衛門とが応接して、大筒おほづゝを用意してもらひたいと云つた。坂本はそれまでの事には及ばぬと思ひ、又指図の区々まち/\なのを不平に思つたが、それでも馬一頭を借りて蒲生がまふを乗せて、大筒を取り寄せさせに、玉造口定番所ぢやうばんしよへ遣つた。昼どきに跡部が坂本を引見した。そして坂本を書院の庭に連れて出て、防備の相談をした。坂本は大川に面した北手きたての展望を害する梅の木をること、島町しままちに面した南手の控柱ひかへばしらと松の木とに丸太を結び附けて、武者走むしやばしりの板をわたすことを建議した。混雑の中で、跡部の指図は少しも行はれない。坂本は部下の同心に工事を命じて、自分でそれを見張つてゐた。
 坂本が防備の工事をしてゐるうちに、跡部は大塩の一行が長柄町ながらまちから南へ迂廻うくわいしたことを聞いた。そして杣人足そまにんそくの一組に天神橋てんじんばし難波橋なんばばし[#ルビの「なんばばし」は底本では「なんぱばし」]との橋板をこはせと言ひ付けた。
 坂本の使者脇は京橋口へ往つて、同心支配広瀬治左衛門ひろせぢざゑもん馬場佐十郎ばゝさじふらうに遠藤の命令を伝達した。これは京橋口定番ぢやうばん米津丹後守昌寿よねづたんごのかみまさひさが、去年十一月に任命せられて、まだ到着せぬので、京橋口も遠藤があづかりになつてゐるからである。広瀬は伝達の書附を見て、首を傾けて何やら思案してゐたが、脇へはいづれ当方から出向いてうけたまはらうと云つた。
 広瀬は雪駄穿せつたばきで東町奉行所に来て、坂本に逢つてかう云つた。「只今書面を拝見して、これへ出向いて参りましたが、原来ぐわんらいたがひ御城警固おんしろけいごの役柄ではありませんか。それをお城の外で使はうと云ふ、遠藤殿の思召おぼしめしが分かり兼ねます。貴殿きでんはどう考へられますか。」
 坂本は目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはつた。「成程なるほど自分の役柄は拙者せつしやも心得てをります。しかかしら遠藤殿の申付まをしつけであつて見れば、たと生駒山いこまやまを越してでも出張せんではなりますまい。御覧のとほり拙者は打支度うちしたくをいたしてをります。」
「いや。それはかしら御自身が御出馬になることなら、拙者もどちらへでも出張しませう。我々ばかりがこんな所へ参つて働いては、町奉行の下知げぢうけるやうなわけで、体面にもかゝはるではありませんか。先年出水しゆつすゐの時、城代松平伊豆守殿へ町奉行が出兵を願つたが、大切の御城警固おんしろけいごの者を貸すことは相成らぬとおつしやつたやうに聞いてをります。一応御一しよにことわつて見ようぢやありませんか。」
「それは御同意がなり兼ねます。かしら申付まをしつけなら、拙者は誰のしたにでも附いて働きます。その上叛逆人ほんぎやくにんが起つた場合は出水しゆつすゐなどとは違ひます。貴殿がおことわりになるなら、どうぞお一人で上屋敷かみやしきへおいでになつて下さい。」
「いや。さう云ふ御所存ですか。何事によらず両組相談の上で取り計らふ慣例でありますから申ししました。さやうなら以後御相談は申しますまい。」
むを得ません。いかやうとも御勝手になさりませい。」
しからばおいとましませう。」広瀬は町奉行所を出ようとした。
 そこへ京橋口を廻つて来た畑佐はたさが落ち合つて、広瀬を引き止めて利害を説いた。広瀬はしぶりながら納得して引き返したが、しばらくして同心三十人を連れて来た。しかし自分は矢張雪駄穿せつたばきで、小筒こづゝも何も持たなかつた。
 坂本は庭に出て、今工事を片付けて持口もちくちに附いた同心共を見張つてゐた。そこへ跡部あとべは、相役あひやく堀を城代土井大炊頭利位どゐおほひのかみとしつらの所へ報告につて置いて、書院から降りて来た。そして天満てんまの火事を見てゐた。強くはないが、方角のまらぬ風が折々吹くので、火は人家の立て込んでゐる西南にしみなみの方へひろがつて行く。大塩の進む道筋を聞いた坂本が、「いかがでございませう、御出馬になりましては」と跡部に言つた。「されば」と云つて、跡部は火事を見てゐる。暫くして坂本が、「どうもなか/\こちらへは参りますまいが」と云つた。跡部は矢張「されば」と云つて、火事を見てゐる。

   七、船場

 大塩平八郎は天満与力町てんまよりきまちを西へ進みながら、平生私曲しきよくのあるやうに思つた与力の家々に大筒を打ち込ませて、夫婦町めうとまち四辻よつつじから綿屋町わたやまちを南へ折れた。それから天満宮のそばを通つて、天神橋に掛かつた。向うを見れば、もう天神橋はこはされてゐる。ここまで来るうちに、かねて天満に火事があつたら駆け附けてくれと言ひ付けてあつた近郷きんがうの者が寄つて来たり、途中で行き逢つて誘はれたりした者があるので、同勢三百人ばかりになつた。不意にせ加はつたものの中に、砲術の心得こゝろえのある梅田源左衛門うめだげんざゑもんと云ふ彦根浪人もあつた。
 平八郎は天神橋のこはされたのを見て、菅原町河岸すがはらまちかしを西に進んで、門樋橋かどひばしを渡り、樋上町河岸ひかみまちかし難波橋なんばばしたもとに出た。見れば天神橋をこはしてしまつて、こちらへ廻つた杣人足そまにんそくが、今難波橋の橋板をがさうとしてゐる所である。「それ、渡れ」と云ふと、格之助が先に立つて橋に掛かつた。人足は抜身ぬきみやりを見て、ばら/\と散つた。
 北浜二丁目の辻に立つて、平八郎は同勢の渡つてしまふのを待つた。そのうち時刻は正午になつた。
 方略の第二段に襲撃を加へることにしてある大阪富豪の家々は、北船場きたせんばむらがつてゐるので、もうことごと指顧しこあひだにある。平八郎はせがれ格之助、瀬田以下の重立おもだつた人々を呼んで、手筈てはずとほりに取り掛かれと命じた。北側の今橋筋いまばしすぢには鴻池屋こうのいけや善右衛門、おなじく庄兵衛、同善五郎、天王寺屋五兵衛、平野屋五兵衛等の大商人おほしやうにんがゐる。南側の高麗橋筋かうらいばしすぢには三井、岩城桝屋いはきますや等の大店おほみせがある。誰がどこに向ふと云ふこと、どう脅喝けふかつしてどう談判すると云ふこと、取り出した金銭米穀はどう取り扱ふと云ふことなどは、一々いち/\方略にめてあつたので、ここでも為事しごとは自然に発展した。只銭穀せんこく取扱とりあつかひだけは全く予定した所と相違して、雑人共ざふにんどもは身につけられるかぎりの金銀を身に着けて、思ひ/\に立ち退いてしまつた。鴻池本家こうのいけほんけほかは、大抵金庫かねぐらを破壊せられたので、今橋筋には二分金にぶきんが道にばらいてあつた。
 平八郎は難波橋なんばばし[#ルビの「なんばばし」は底本では「なんぱばし」]南詰みなみづめ床几しやうぎを立てさせて、白井、橋本、其外若党わかたう中間ちゆうげんそばにをらせ、腰に附けて出た握飯にぎりめしみながら、砲声のとゞろき渡り、火焔くわえんえ上がるのを見てゐた。そして心の内には自分が兼て排斥した枯寂こじやくくうを感じてゐた。昼八つどきに平八郎は引上ひきあげの太鼓を打たせた。それを聞いて寄り集まつたのはやう/\百五十人ばかりであつた。その重立おもだつた人々の顔には、言ひ合せた様な失望の色がある。これは富豪をこらすことは出来たが、窮民をにぎはすことが出来ないからである。切角せつかく発散した鹿台ろくたいの財を、いたづら烏合うがふの衆のつかみ取るに任せたからである。
 人々は黙つて平八郎の気色けしきうかがつた。平八郎も黙つて人々の顔を見た。しばらくして瀬田が「まだ米店こめみせが残つてゐましたな」と云つた。平八郎は夢をさまされたやうに床几しやうぎつて、「い、そんなら手配てくばりをせう」と云つた。そしてのこり人数にんず二手ふたてに分けて、自分達親子の一手は高麗橋かうらいばしを渡り、瀬田の一手は今橋いまばしを渡つて、内平野町うちひらのまち米店こめみせに向ふことにした。

   八、高麗橋、平野橋、淡路町

 土井の所へ報告に往つた堀が、東町奉行所に帰つて来て、跡部あとべに土井の指図さしづを伝へた。両町奉行に出馬せいと指図したのである。
「承知いたしました。そんなら拙者は手の者と玉造組たまつくりぐみとを連れて出ることにいたしませう。」跡部はかう云つたまゝすわつてゐた。
 堀は土井の機嫌の悪いのを見て来たので、気がせいてゐた。そこで席を離れるやいなや、部下の与力同心を呼び集めて東町奉行所の門前に出た。そこには広瀬が京橋組の同心三十人に小筒こづゝを持たせて来てゐた。
「どこの組か」と堀が声を掛けた。
「京橋組でござります」と広瀬が答へた。
「そんなら先手さきてに立て」と堀が号令した。
 同階級の坂本に対しては命令の筋道を論じた広瀬が、奉行のことばを聞くと、一も二もなく領承した。そして鉄砲同心を引きまとめて、西組与力同心の前に立つた。
 堀の手は島町通しまゝちどほりを西へ御祓筋おはらひすぢまで進んだ。丁度大塩父子ふしひきゐた手が高麗橋に掛かつた時で、橋の上に白旗しらはたが見えた。
「あれを打たせい」と、堀が広瀬に言つた。
 広瀬が同心等に「打て」と云つた。
 同心等の持つてゐた三文目もんめ分筒ふんづゝ煎豆いりまめのやうな音を立てた。
 堀の乗つてゐた馬が驚いてねた。堀はころりと馬からちた。それを見て同心等は「それ、おかしらが打たれた」と云つて、ぱつと散つた。堀は馬丁ばていに馬をかせて、御祓筋おはらひすぢ会所くわいしよ這入はひつて休息した。部下を失つた広瀬は、暇乞いとまごひをして京橋口に帰つて、同役馬場にこの顛末てんまつを話して、一しよに東町奉行所前まで来て、大川おほかはを隔てて南北両方にひろがつて行く火事を見てゐた。
 御祓筋おはらひすぢから高麗橋までは三丁余あるので、三文目もんめ分筒ふんづゝの射撃を、大塩の同勢どうぜいは知らずにしまつた。
 堀が出たあとの東町奉行所へ、玉造口へ往つた蒲生がまふが大筒を受け取つて帰つた。蒲生は遠藤の所へ乗り付けて、大筒の事を言上ごんじやうすると、遠藤は岡翁助をうすけに当てて、平与力ひらよりき四人に大筒を持たせて、目附中井半左衛門なかゐはんざゑもん方へ出せと云ふ達しをした。岡は柴田勘兵衛、石川彦兵衛に百目筒めづゝを一ちやうづゝ、脇勝太郎、米倉倬次郎よねくらたくじらうに三十目筒一挺宛を持たせて中川方へつた。中川がをらぬので、四人は遠藤にことわつて、蒲生と一しよに東町奉行所へ来たのである。跡部あとべは坂本が手の者と、今到着した与力四人とをあはせて、玉造組の加勢与力七人、同心三十人を得たので、坂本を先に立てて出馬した。此一手は島町通を西へ進んで、同町二丁目の角から、内骨屋町筋うちほねやまちすぢを南に折れ、それから内平野町うちひらのまちへ出て、再び西へ曲らうとした。
 此時大塩の同勢は、高麗橋を渡つた平八郎父子の手と、今橋を渡つた瀬田の手とが東横堀川ひがしよこぼりがは東河岸ひがしかしに落ち合つて、南へ内平野町うちひらのまちまで押して行き、米店こめみせ数軒に火を掛けて平野橋ひらのばし東詰ひがしづめに引き上げてゐた。さうすると内骨屋町筋うちほねやまちすぢから、神明しんめいやしろの角をこつちへ曲がつて来る跡部あとべまとひが見えた。二町足らず隔たつたまとひ目当めあてに、格之助は木筒きづゝを打たせた。
 跡部の手は停止した。与力本多ほんだや同心山崎弥四郎やまざきやしらうが、坂本に「打ちませうか/\」と催促した。
 坂本は敵が見えぬので、「待て/\」と制しながら、神明しんめいやしろの角に立つて見てゐると、やう/\烟の中に木筒きづゝの口が現れた。「さあ、打て」と云つて、坂本は待ち構へた部下と一しよに小筒こづゝをつるべかけた。
 烟が散つてから見れば、もう敵は退いて、道が橋向はしむかうまで開いてゐる。橋詰はしづめ近く進んで見ると、雑人ざふにんが一人打たれて死んでゐた。
 坂本は平野橋へ掛からうとしたが、東詰の両側の人家が焼けてゐるので、烟にむせんで引き返した。そしてはじめて敵に逢つて混乱してゐる跡部の手の者を押し分けながら、天神橋筋を少し南へ抜けて、豊後町ぶんごまちを西へ思案橋に出た。跡部は混乱の渦中に巻き込まれてとう/\落馬した。
 思案橋を渡つて、瓦町かはらまちを西へ進む坂本の跡には、本多、蒲生がまふの外、同心山崎弥四郎、糟谷助蔵かすやすけざう等が切れ/″\に続いた。
 平野橋で跡部の手と衝突した大塩の同勢どうぜいは、又逃亡者が出たので百人あまりになり、浅手あさでつた庄司に手当をして遣つて、平野橋の西詰から少し南へよぢれて、今淡路町あはぢまちを西へ退く所である。
 北の淡路町を大塩の同勢が一歩先に西へ退くと、それと併行した南の瓦町通かはらまちどほりを坂本の手の者が一歩遅れて西へ進む。南北に通じた町を交叉かうさする毎に、坂本は淡路町の方角を見ながら進む。一丁目筋ちやうめすぢ鍛冶屋町筋かぢやまちすぢとの交叉点では、もう敵が見えなかつた。
 堺筋さかひすぢとの交叉点に来た時、坂本はやう/\敵の砲車を認めた。黒羽織くろばおりを着た[#「着た」は底本では「来た」]大男がそれをかせて西へ退かうとしてゐる所である。坂本は堺筋さかひすぢ西側の紙屋の戸口に紙荷かみにの積んであるのを小楯こだてに取つて、十文目筒もんめづゝ大筒方おほづゝかたらしい、かの黒羽織をねらふ。さうするとまた東側の用水桶の蔭から、大塩方の猟師金助が猟筒れふづゝで坂本を狙ふ。坂本の背後うしろにゐた本多が金助を見付けて、自分の小筒こづゝで金助を狙ひながら、坂本に声を掛ける。併し二度まで呼んでも、坂本の耳に入らない。そのうち大筒方が少しづつ西へ歩くので、坂本は西側の人家に沿うて、十けんほど前へ出た。三人の筒はほとんど同時に発射せられた。
 坂本の玉は大砲方たいはうかたの腰を打ち抜いた。金助の玉は坂本の陣笠ぢんがさをかすつたが、坂本はたゞ顔に風が当つたやうに感じただけであつた。本多のたままつたまとをはづれた。
 坂本等はやゝ久しく敵と鉄砲を打ち合つてゐたが、敵がもう打たなくなつたので、用心しつゝ淡路町の四辻に出た。西の方を見れば、もう大塩の同勢は見えない。東の方を見れば、火が次第にえて来る。四辻のあたりに敵の遺棄した品々を拾ひ集めたのが、百目筒ひやくめづゝ三挺さんちやう車台付しやだいつき木筒きづゝ二挺にちやう内一挺車台付、小筒こづゝ三挺、其外やり、旗、太鼓、火薬葛籠つゞら具足櫃ぐそくびつ長持ながもち等であつた。やりのうち一本は、見知つたものがあつて平八郎の持鑓もちやりだと云つた。
 玉にあたつて死んだものは、黒羽織くろばおりの大筒方の外には、淡路町の北側に雑人ざふにんが一人倒れてゐるだけである。大筒方は大筒の側に仰向あふむけに倒れてゐた。たけ六尺余の大男で、羅紗らしやの黒羽織の下には、黒羽二重くろはぶたへ紅裏べにうら小袖こそで八丈はちぢやう下着したぎを着て、すそをからげ、はかま股引もゝひきも着ずに、素足すあし草鞋わらぢ穿いて、立派なこしらへ大小だいせうを帯びてゐる。高麗橋、平野橋、淡路町の三度の衝突で、大塩方の死者は士分一人、雑人ざふにん二人に過ぎない。堀、跡部の両奉行の手には一人の死傷もない。双方から打つ玉は大抵頭の上を越して、堺筋さかひすぢでは町家まちやの看板がはちの巣のやうにつらぬかれ、檐口のきぐちの瓦がくだかれてゐたのである。
 跡部あとべ大筒方おほづゝかたの首を斬らせて、鑓先やりさきつらぬかせ、市中しちゆうを持ち歩かせた。後にこの戦死した唯一のさむらひが、途中から大塩の同勢どうぜいに加はつた浪人梅田だと云ふことが知れた。
 跡部が淡路町あはぢまちの辻にゐた所へ、堀が来合きあはせた。堀は御祓筋おはらひすぢ会所くわいしよで休息してゐると、一旦散つた与力よりき同心どうしんが又ぽつ/\寄つて来て、二十人ばかりになつた。そのうち跡部の手が平野橋ひらのばしの敵を退しりぞけたので、堀は会所を出て、内平野町うちひらのまちで跡部に逢つた。そして二人相談した上、堀は跡部の手にゐた脇、石川、米倉の三人を借りて先手さきてを命じ、天神橋筋てんじんばしすぢを南へ橋詰町はしづめまち迄出て、西に折れて本町橋ほんまちばしを渡つた。これは本町を西に進んで、迂廻うくわいして敵の退路を絶たうと云ふ計画であつた。しか一手ひとてのものがことごとあとへ/\とすざるので、脇等三人との間が切れる。人数もぽつ/\つて、本町堺筋ほんまちさかひすぢでは十三四人になつてしまふ。そのうち瓦町かはらまちと淡路町との間で鉄砲を打ち合ふのを見て、やう/\堺筋さかひすぢを北へ、衝突のあつた処に駆け付けたのである。
 跡部は堀と一しよに淡路町を西へ踏み出して見たが、もう敵らしいものの影も見えない。そこで本町橋の東詰ひがしづめまで引き上げて、二にんたもとを分ち、堀は石川と米倉とを借りて、西町奉行所へ連れて帰り、跡部は城へ這入はひつた。坂本、本多、蒲生がまふ、柴田、脇ならびに同心等は、大手前おほてまへ番場ばんばで跡部に分れて、東町奉行所へ帰つた。

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