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大塩平八郎(おおしおへいはちろう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-6 18:00:24  点击:  切换到繁體中文


   六、坂本鉉之助

 東町奉行所で小泉を殺し、瀬田を取り逃がした所へ、堀が部下の与力(よりき)同心(どうしん)を随へて来た。跡部(あとべ)は堀と相談して、明(あけ)六つ時(どき)にやう/\三箇条の手配(てくばり)をした。鈴木町(すゞきまち)の代官根本善左衛門(ねもとぜんざゑもん)に近郷(きんがう)の取締(とりしまり)を托したのが一つ。谷町(たにまち)の代官池田岩之丞(いはのじよう)に天満(てんま)の東照宮、建国寺(けんこくじ)方面の防備を托したのが二つ。平八郎の母の兄、東組与力大西与五郎(おほにしよごらう)が病気引(びやうきびき)をしてゐる所へ使(つかひ)を遣(や)つて、甥(をひ)平八郎に切腹させるか、刺し違へて死ぬるかのうちを選べと云はせたのが三つである。与五郎の養子善之進は父のために偵察しようとして長柄町(ながらまち)近くへ往くと、もう大塩の同勢(どうぜい)が繰り出すので、驚いて逃げ帰り、父と一しよに西の宮へ奔(はし)り、又懼(おそ)れて大阪へ引き返ししなに、両刀を海に投げ込んだ。
 大西へ使(つかひ)を遣(や)つた跡(あと)で、跡部、堀の両奉行は更に相談して、両組の与力同心を合併した捕手(とりて)を大塩が屋敷へ出した。そのうち朝五つ近くなると、天満(てんま)に火の手が上がつて、間もなく砲声が聞えた。捕手(とりて)は所詮(しよせん)近寄れぬと云つて帰つた。
 両奉行は鉄砲奉行石渡彦太夫(いしわたひこだいふ)、御手洗伊右衛門(みたらしいゑもん)に、鉄砲同心を借りに遣(や)つた。同心は二人(にん)の部下を併(あは)せて四十人である。次にそれでは足らぬと思つて、玉造口定番(たまつくりぐちぢやうばん)遠藤但馬守胤統(たぢまのかみたねをさ)に加勢を願つた。遠藤は公用人畑佐秋之助(はたさあきのすけ)に命じて、玉造組与力で月番(つきばん)同心支配をしてゐる坂本鉉之助(げんのすけ)を上屋敷(かみやしき)に呼び出した。
 坂本は荻野流(をぎのりう)の砲術者で、けさ丁打(ちやううち)をすると云つて、門人を城の東裏(ひがしうら)にある役宅の裏庭に集めてゐた。そのうち五つ頃になると、天満に火の手が上がつたので、急いで役宅から近い大番所(おほばんしよ)へ出た。そこに月番の玉造組平与力(ひらよりき)本多為助(ほんだためすけ)、山寺(やまでら)三二郎、小島鶴之丞(つるのじよう)が出てゐて、本多が天満の火事は大塩平八郎の所為(しよゐ)だと告げた。これは大塩の屋敷に出入(でいり)する猟師清五郎と云ふ者が、火事場に駆け附けて引き返し、同心支配岡翁助(をうすけ)に告げたのを、岡が本多に話したのである。坂本はすぐに城の東裏にゐる同じ組の与力同心に総出仕(そうしゆつし)の用意を命じた。間もなく遠藤の総出仕の達しが来て、同時に坂本は上屋敷(かみやしき)へ呼ばれたのである。
 畑佐(はたさ)の伝へた遠藤の命令はかうである。同心支配一人、与力二人、同心三十人鉄砲を持つて東町奉行所へ出て来い。又同文の命令を京橋組へも伝達せいと云ふのである。坂本は承知の旨(むね)を答へて、上屋敷から大番所へ廻つて手配(てくばり)をした。同心支配は三人あるが、これは自分が出ることにし、小頭(こがしら)の与力二人には平与力(ひらよりき)蒲生熊次郎(がまふくまじらう)、本多為助(ためすけ)を当て、同心三十人は自分と同役岡との組から十五人宛(づゝ)出(だ)すことにした。集合の場所は土橋(どばし)と極めた。京橋組への伝達には、当番与力脇(わき)勝太郎に書附を持たせて出して遣つた。
 手配(てくばり)が済んで、坂本は役宅(やくたく)に帰つた。そして火事装束(くわじしやうぞく)、草鞋掛(わらぢがけ)で、十文目筒(じふもんめづゝ)を持つて土橋(どばし)へ出向いた。蒲生(がまふ)と同心三十人とは揃つてゐた。本多はまだ来てゐない。集合を見に来てゐた畑佐(はたさ)は、跡部(あとべ)に二度催促せられて、京橋口へ廻(まは)つて東町奉行所に往くことにして、先へ帰つたのださうである。坂本は本多がために同心一人(にん)を留(と)めて置いて、集合地を発した。堀端(ほりばた)を西へ、東町奉行所を指(さ)して進むうちに、跡部からの三度目の使者に行き合つた。本多と残して置いた同心とは途中で追ひ附いた。
 坂本が東町奉行所に来て見ると、畑佐はまだ来てゐない。東組与力朝岡助之丞(すけのじよう)と西組与力近藤三右衛門とが応接して、大筒(おほづゝ)を用意して貰(もら)ひたいと云つた。坂本はそれまでの事には及ばぬと思ひ、又指図の区々(まち/\)なのを不平に思つたが、それでも馬一頭を借りて蒲生(がまふ)を乗せて、大筒を取り寄せさせに、玉造口定番所(ぢやうばんしよ)へ遣つた。昼四(よ)つ時(どき)に跡部が坂本を引見した。そして坂本を書院の庭に連れて出て、防備の相談をした。坂本は大川に面した北手(きたて)の展望を害する梅の木を伐(き)ること、島町(しままち)に面した南手の控柱(ひかへばしら)と松の木とに丸太を結び附けて、武者走(むしやばしり)の板をわたすことを建議した。混雑の中で、跡部の指図は少しも行はれない。坂本は部下の同心に工事を命じて、自分でそれを見張つてゐた。
 坂本が防備の工事をしてゐるうちに、跡部は大塩の一行が長柄町(ながらまち)から南へ迂廻(うくわい)したことを聞いた。そして杣人足(そまにんそく)の一組に天神橋(てんじんばし)と難波橋(なんばばし)[#ルビの「なんばばし」は底本では「なんぱばし」]との橋板をこはせと言ひ付けた。
 坂本の使者脇は京橋口へ往つて、同心支配広瀬治左衛門(ひろせぢざゑもん)、馬場佐十郎(ばゝさじふらう)に遠藤の命令を伝達した。これは京橋口定番(ぢやうばん)米津丹後守昌寿(よねづたんごのかみまさひさ)が、去年十一月に任命せられて、まだ到着せぬので、京橋口も遠藤が預(あづか)りになつてゐるからである。広瀬は伝達の書附を見て、首を傾けて何やら思案してゐたが、脇へはいづれ当方から出向いて承(うけたまは)らうと云つた。
 広瀬は雪駄穿(せつたばき)で東町奉行所に来て、坂本に逢つてかう云つた。「只今書面を拝見して、これへ出向いて参りましたが、原来(ぐわんらい)お互(たがひ)に御城警固(おんしろけいご)の役柄ではありませんか。それをお城の外で使はうと云ふ、遠藤殿の思召(おぼしめし)が分かり兼ねます。貴殿(きでん)はどう考へられますか。」
 坂本は目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)(みは)つた。「成程(なるほど)自分の役柄は拙者(せつしや)も心得てをります。併(しか)し頭(かしら)遠藤殿の申付(まをしつけ)であつて見れば、縦(たと)ひ生駒山(いこまやま)を越してでも出張せんではなりますまい。御覧の通(とほり)拙者は打支度(うちしたく)をいたしてをります。」
「いや。それは頭(かしら)御自身が御出馬になることなら、拙者もどちらへでも出張しませう。我々ばかりがこんな所へ参つて働いては、町奉行の下知(げぢ)を受(うけ)るやうなわけで、体面にも係(かゝは)るではありませんか。先年出水(しゆつすゐ)の時、城代松平伊豆守殿へ町奉行が出兵を願つたが、大切の御城警固(おんしろけいご)の者を貸すことは相成らぬと仰(おつし)やつたやうに聞いてをります。一応御一しよにことわつて見ようぢやありませんか。」
「それは御同意がなり兼ねます。頭(かしら)の申付(まをしつけ)なら、拙者は誰の下(した)にでも附いて働きます。その上叛逆人(ほんぎやくにん)が起つた場合は出水(しゆつすゐ)などとは違ひます。貴殿がおことわりになるなら、どうぞお一人で上屋敷(かみやしき)へお出(いで)になつて下さい。」
「いや。さう云ふ御所存ですか。何事によらず両組相談の上で取り計らふ慣例でありますから申し出(だ)しました。さやうなら以後御相談は申しますまい。」
「已(や)むを得ません。いかやうとも御勝手になさりませい。」
「然(しか)らばお暇(いとま)しませう。」広瀬は町奉行所を出ようとした。
 そこへ京橋口を廻つて来た畑佐(はたさ)が落ち合つて、広瀬を引き止めて利害を説いた。広瀬はしぶりながら納得して引き返したが、暫(しばら)くして同心三十人を連れて来た。併(しか)し自分は矢張雪駄穿(せつたばき)で、小筒(こづゝ)も何も持たなかつた。
 坂本は庭に出て、今工事を片付けて持口(もちくち)に附いた同心共を見張つてゐた。そこへ跡部(あとべ)は、相役(あひやく)堀を城代土井大炊頭利位(どゐおほひのかみとしつら)の所へ報告に遣(や)つて置いて、書院から降りて来た。そして天満(てんま)の火事を見てゐた。強くはないが、方角の極(き)まらぬ風が折々吹くので、火は人家の立て込んでゐる西南(にしみなみ)の方へひろがつて行く。大塩の進む道筋を聞いた坂本が、「いかがでございませう、御出馬になりましては」と跡部に言つた。「されば」と云つて、跡部は火事を見てゐる。暫くして坂本が、「どうもなか/\こちらへは参りますまいが」と云つた。跡部は矢張「されば」と云つて、火事を見てゐる。

   七、船場

 大塩平八郎は天満与力町(てんまよりきまち)を西へ進みながら、平生私曲(しきよく)のあるやうに思つた与力の家々に大筒を打ち込ませて、夫婦町(めうとまち)の四辻(よつつじ)から綿屋町(わたやまち)を南へ折れた。それから天満宮の側(そば)を通つて、天神橋に掛かつた。向うを見れば、もう天神橋はこはされてゐる。ここまで来るうちに、兼(かね)て天満に火事があつたら駆け附けてくれと言ひ付けてあつた近郷(きんがう)の者が寄つて来たり、途中で行き逢つて誘はれたりした者があるので、同勢三百人ばかりになつた。不意に馳(は)せ加はつたものの中に、砲術の心得(こゝろえ)のある梅田源左衛門(うめだげんざゑもん)と云ふ彦根浪人もあつた。
 平八郎は天神橋のこはされたのを見て、菅原町河岸(すがはらまちかし)を西に進んで、門樋橋(かどひばし)を渡り、樋上町河岸(ひかみまちかし)を難波橋(なんばばし)の袂(たもと)に出た。見れば天神橋をこはしてしまつて、こちらへ廻つた杣人足(そまにんそく)が、今難波橋の橋板を剥(は)がさうとしてゐる所である。「それ、渡れ」と云ふと、格之助が先に立つて橋に掛かつた。人足は抜身(ぬきみ)の鑓(やり)を見て、ばら/\と散つた。
 北浜二丁目の辻に立つて、平八郎は同勢の渡つてしまふのを待つた。そのうち時刻は正午になつた。
 方略の第二段に襲撃を加へることにしてある大阪富豪の家々は、北船場(きたせんば)に簇(むら)がつてゐるので、もう悉(ことごと)く指顧(しこ)の間(あひだ)にある。平八郎は倅(せがれ)格之助、瀬田以下の重立(おもだ)つた人々を呼んで、手筈(てはず)の通(とほり)に取り掛かれと命じた。北側の今橋筋(いまばしすぢ)には鴻池屋(こうのいけや)善右衛門、同(おなじく)庄兵衛、同善五郎、天王寺屋五兵衛、平野屋五兵衛等の大商人(おほしやうにん)がゐる。南側の高麗橋筋(かうらいばしすぢ)には三井、岩城桝屋(いはきますや)等の大店(おほみせ)がある。誰がどこに向ふと云ふこと、どう脅喝(けふかつ)してどう談判すると云ふこと、取り出した金銭米穀はどう取り扱ふと云ふこと抔(など)は、一々(いち/\)方略に取(と)り極(き)めてあつたので、ここでも為事(しごと)は自然に発展した。只銭穀(せんこく)の取扱(とりあつかひ)だけは全く予定した所と相違して、雑人共(ざふにんども)は身に着(つけ)られる限(かぎり)の金銀を身に着けて、思ひ/\に立ち退(の)いてしまつた。鴻池本家(こうのいけほんけ)の外(ほか)は、大抵金庫(かねぐら)を破壊せられたので、今橋筋には二分金(にぶきん)が道にばら蒔(ま)いてあつた。
 平八郎は難波橋(なんばばし)[#ルビの「なんばばし」は底本では「なんぱばし」]の南詰(みなみづめ)に床几(しやうぎ)を立てさせて、白井、橋本、其外若党(わかたう)中間(ちゆうげん)を傍(そば)にをらせ、腰に附けて出た握飯(にぎりめし)を噛(か)みながら、砲声の轟(とゞろ)き渡り、火焔(くわえん)の燃(も)え上がるのを見てゐた。そして心の内には自分が兼て排斥した枯寂(こじやく)の空(くう)を感じてゐた。昼八つ時(どき)に平八郎は引上(ひきあげ)の太鼓を打たせた。それを聞いて寄り集まつたのはやう/\百五十人許(ばか)りであつた。その重立(おもだ)つた人々の顔には、言ひ合せた様な失望の色がある。これは富豪を懲(こら)すことは出来たが、窮民を賑(にぎは)すことが出来ないからである。切角(せつかく)発散した鹿台(ろくたい)の財を、徒(いたづら)に烏合(うがふ)の衆の攫(つか)み取るに任せたからである。
 人々は黙つて平八郎の気色(けしき)を伺(うかが)つた。平八郎も黙つて人々の顔を見た。暫(しばら)くして瀬田が「まだ米店(こめみせ)が残つてゐましたな」と云つた。平八郎は夢を揺(ゆ)り覚(さま)されたやうに床几(しやうぎ)を起(た)つて、「好(よ)い、そんなら手配(てくばり)をせう」と云つた。そして残(のこり)の人数(にんず)を二手(ふたて)に分けて、自分達親子の一手は高麗橋(かうらいばし)を渡り、瀬田の一手は今橋(いまばし)を渡つて、内平野町(うちひらのまち)の米店(こめみせ)に向ふことにした。

   八、高麗橋、平野橋、淡路町

 土井の所へ報告に往つた堀が、東町奉行所に帰つて来て、跡部(あとべ)に土井の指図(さしづ)を伝へた。両町奉行に出馬せいと指図したのである。
「承知いたしました。そんなら拙者は手の者と玉造組(たまつくりぐみ)とを連れて出ることにいたしませう。」跡部はかう云つた儘(まゝ)すわつてゐた。
 堀は土井の機嫌の悪いのを見て来たので、気がせいてゐた。そこで席を離れるや否(いな)や、部下の与力同心を呼び集めて東町奉行所の門前に出た。そこには広瀬が京橋組の同心三十人に小筒(こづゝ)を持たせて来てゐた。
「どこの組か」と堀が声を掛けた。
「京橋組でござります」と広瀬が答へた。
「そんなら先手(さきて)に立て」と堀が号令した。
 同階級の坂本に対しては命令の筋道を論じた広瀬が、奉行の詞(ことば)を聞くと、一も二もなく領承した。そして鉄砲同心を引き纏(まと)めて、西組与力同心の前に立つた。
 堀の手は島町通(しまゝちどほり)を西へ御祓筋(おはらひすぢ)まで進んだ。丁度大塩父子(ふし)の率(ひき)ゐた手が高麗橋に掛かつた時で、橋の上に白旗(しらはた)が見えた。
「あれを打たせい」と、堀が広瀬に言つた。
 広瀬が同心等に「打て」と云つた。
 同心等の持つてゐた三文目(もんめ)五分筒(ふんづゝ)が煎豆(いりまめ)のやうな音を立てた。
 堀の乗つてゐた馬が驚いて跳(は)ねた。堀はころりと馬から墜(お)ちた。それを見て同心等は「それ、お頭(かしら)が打たれた」と云つて、ぱつと散つた。堀は馬丁(ばてい)に馬を牽(ひ)かせて、御祓筋(おはらひすぢ)の会所(くわいしよ)に這入(はひ)つて休息した。部下を失つた広瀬は、暇乞(いとまごひ)をして京橋口に帰つて、同役馬場に此(この)顛末(てんまつ)を話して、一しよに東町奉行所前まで来て、大川(おほかは)を隔てて南北両方にひろがつて行く火事を見てゐた。
 御祓筋(おはらひすぢ)から高麗橋までは三丁余あるので、三文目(もんめ)五分筒(ふんづゝ)の射撃を、大塩の同勢(どうぜい)は知らずにしまつた。
 堀が出た跡(あと)の東町奉行所へ、玉造口へ往つた蒲生(がまふ)が大筒を受け取つて帰つた。蒲生は遠藤の所へ乗り付けて、大筒の事を言上(ごんじやう)すると、遠藤は岡翁助(をうすけ)に当てて、平与力(ひらよりき)四人に大筒を持たせて、目附中井半左衛門(なかゐはんざゑもん)方へ出せと云ふ達しをした。岡は柴田勘兵衛、石川彦兵衛に百目筒(めづゝ)を一挺(ちやう)宛(づゝ)、脇勝太郎、米倉倬次郎(よねくらたくじらう)に三十目筒一挺宛を持たせて中川方へ遣(や)つた。中川がをらぬので、四人は遠藤にことわつて、蒲生と一しよに東町奉行所へ来たのである。跡部(あとべ)は坂本が手の者と、今到着した与力四人とを併(あは)せて、玉造組の加勢与力七人、同心三十人を得たので、坂本を先に立てて出馬した。此一手は島町通を西へ進んで、同町二丁目の角から、内骨屋町筋(うちほねやまちすぢ)を南に折れ、それから内平野町(うちひらのまち)へ出て、再び西へ曲らうとした。
 此時大塩の同勢は、高麗橋を渡つた平八郎父子の手と、今橋を渡つた瀬田の手とが東横堀川(ひがしよこぼりがは)の東河岸(ひがしかし)に落ち合つて、南へ内平野町(うちひらのまち)まで押して行き、米店(こめみせ)数軒に火を掛けて平野橋(ひらのばし)の東詰(ひがしづめ)に引き上げてゐた。さうすると内骨屋町筋(うちほねやまちすぢ)から、神明(しんめい)の社(やしろ)の角をこつちへ曲がつて来る跡部(あとべ)の纏(まとひ)が見えた。二町足らず隔たつた纏(まとひ)を目当(めあて)に、格之助は木筒(きづゝ)を打たせた。
 跡部の手は停止した。与力本多(ほんだ)や同心山崎弥四郎(やまざきやしらう)が、坂本に「打ちませうか/\」と催促した。
 坂本は敵が見えぬので、「待て/\」と制しながら、神明(しんめい)の社(やしろ)の角に立つて見てゐると、やう/\烟の中に木筒(きづゝ)の口が現れた。「さあ、打て」と云つて、坂本は待ち構へた部下と一しよに小筒(こづゝ)をつるべかけた。
 烟が散つてから見れば、もう敵は退いて、道が橋向(はしむかう)まで開いてゐる。橋詰(はしづめ)近く進んで見ると、雑人(ざふにん)が一人打たれて死んでゐた。
 坂本は平野橋へ掛からうとしたが、東詰の両側の人家が焼けてゐるので、烟に噎(むせ)んで引き返した。そして始(はじめ)て敵に逢つて混乱してゐる跡部の手の者を押し分けながら、天神橋筋を少し南へ抜けて、豊後町(ぶんごまち)を西へ思案橋に出た。跡部は混乱の渦中に巻き込まれてとう/\落馬した。
 思案橋を渡つて、瓦町(かはらまち)を西へ進む坂本の跡には、本多、蒲生(がまふ)の外、同心山崎弥四郎、糟谷助蔵(かすやすけざう)等が切れ/″\に続いた。
 平野橋で跡部の手と衝突した大塩の同勢(どうぜい)は、又逃亡者が出たので百人余(あまり)になり、浅手(あさで)を負(お)つた庄司に手当をして遣つて、平野橋の西詰から少し南へよぢれて、今淡路町(あはぢまち)を西へ退く所である。
 北の淡路町を大塩の同勢が一歩先に西へ退くと、それと併行した南の瓦町通(かはらまちどほり)を坂本の手の者が一歩遅れて西へ進む。南北に通じた町を交叉(かうさ)する毎に、坂本は淡路町の方角を見ながら進む。一丁目筋(ちやうめすぢ)と鍛冶屋町筋(かぢやまちすぢ)との交叉点では、もう敵が見えなかつた。
 堺筋(さかひすぢ)との交叉点に来た時、坂本はやう/\敵の砲車を認めた。黒羽織(くろばおり)を着た[#「着た」は底本では「来た」]大男がそれを挽(ひ)かせて西へ退かうとしてゐる所である。坂本は堺筋(さかひすぢ)西側の紙屋の戸口に紙荷(かみに)の積んであるのを小楯(こだて)に取つて、十文目筒(もんめづゝ)で大筒方(おほづゝかた)らしい、彼(かの)黒羽織を狙(ねら)ふ。さうすると又(また)東側の用水桶の蔭から、大塩方の猟師金助が猟筒(れふづゝ)で坂本を狙ふ。坂本の背後(うしろ)にゐた本多が金助を見付けて、自分の小筒(こづゝ)で金助を狙ひながら、坂本に声を掛ける。併し二度まで呼んでも、坂本の耳に入らない。そのうち大筒方が少しづつ西へ歩くので、坂本は西側の人家に沿うて、十間(けん)程(ほど)前へ出た。三人の筒は殆(ほとんど)同時に発射せられた。
 坂本の玉は大砲方(たいはうかた)の腰を打ち抜いた。金助の玉は坂本の陣笠(ぢんがさ)をかすつたが、坂本は只(たゞ)顔に風が当つたやうに感じただけであつた。本多の玉(たま)は全(まつた)く的(まと)をはづれた。
 坂本等は稍(やゝ)久しく敵と鉄砲を打ち合つてゐたが、敵がもう打たなくなつたので、用心しつゝ淡路町の四辻に出た。西の方を見れば、もう大塩の同勢は見えない。東の方を見れば、火が次第に燃(も)えて来る。四辻の辺(あたり)に敵の遺棄した品々を拾ひ集めたのが、百目筒(ひやくめづゝ)三挺(さんちやう)車台付(しやだいつき)、木筒(きづゝ)二挺(にちやう)内一挺車台付、小筒(こづゝ)三挺、其外鑓(やり)、旗、太鼓、火薬葛籠(つゞら)、具足櫃(ぐそくびつ)、長持(ながもち)等であつた。鑓(やり)のうち一本は、見知つたものがあつて平八郎の持鑓(もちやり)だと云つた。
 玉に中(あた)つて死んだものは、黒羽織(くろばおり)の大筒方の外には、淡路町の北側に雑人(ざふにん)が一人倒れてゐるだけである。大筒方は大筒の側に仰向(あふむけ)に倒れてゐた。身(み)の丈(たけ)六尺余の大男で、羅紗(らしや)の黒羽織の下には、黒羽二重(くろはぶたへ)紅裏(べにうら)の小袖(こそで)、八丈(はちぢやう)の下着(したぎ)を着て、裾(すそ)をからげ、袴(はかま)も股引(もゝひき)も着ずに、素足(すあし)に草鞋(わらぢ)を穿(は)いて、立派な拵(こしらへ)の大小(だいせう)を帯びてゐる。高麗橋、平野橋、淡路町の三度の衝突で、大塩方の死者は士分一人、雑人(ざふにん)二人に過ぎない。堀、跡部の両奉行の手には一人の死傷もない。双方から打つ玉は大抵頭の上を越して、堺筋(さかひすぢ)では町家(まちや)の看板が蜂(はち)の巣のやうに貫(つらぬ)かれ、檐口(のきぐち)の瓦が砕(くだ)かれてゐたのである。
 跡部(あとべ)は大筒方(おほづゝかた)の首を斬らせて、鑓先(やりさき)に貫(つらぬ)かせ、市中(しちゆう)を持ち歩かせた。後にこの戦死した唯一の士(さむらひ)が、途中から大塩の同勢(どうぜい)に加はつた浪人梅田だと云ふことが知れた。
 跡部が淡路町(あはぢまち)の辻にゐた所へ、堀が来合(きあは)せた。堀は御祓筋(おはらひすぢ)の会所(くわいしよ)で休息してゐると、一旦散つた与力(よりき)同心(どうしん)が又ぽつ/\寄つて来て、二十人ばかりになつた。そのうち跡部の手が平野橋(ひらのばし)の敵を打(う)ち退(しりぞ)けたので、堀は会所を出て、内平野町(うちひらのまち)で跡部に逢つた。そして二人相談した上、堀は跡部の手にゐた脇、石川、米倉の三人を借りて先手(さきて)を命じ、天神橋筋(てんじんばしすぢ)を南へ橋詰町(はしづめまち)迄出て、西に折れて本町橋(ほんまちばし)を渡つた。これは本町を西に進んで、迂廻(うくわい)して敵の退路を絶たうと云ふ計画であつた。併(しか)し一手(ひとて)のものが悉(ことごと)く跡(あと)へ/\とすざるので、脇等三人との間が切れる。人数もぽつ/\耗(へ)つて、本町堺筋(ほんまちさかひすぢ)では十三四人になつてしまふ。そのうち瓦町(かはらまち)と淡路町との間で鉄砲を打ち合ふのを見て、やう/\堺筋(さかひすぢ)を北へ、衝突のあつた処に駆け付けたのである。
 跡部は堀と一しよに淡路町を西へ踏み出して見たが、もう敵らしいものの影も見えない。そこで本町橋の東詰(ひがしづめ)まで引き上げて、二人(にん)は袂(たもと)を分ち、堀は石川と米倉とを借りて、西町奉行所へ連れて帰り、跡部は城へ這入(はひ)つた。坂本、本多、蒲生(がまふ)、柴田、脇並(ならび)に同心等は、大手前(おほてまへ)の番場(ばんば)で跡部に分れて、東町奉行所へ帰つた。

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