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大塩平八郎(おおしおへいはちろう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-6 18:00:24  点击:  切换到繁體中文


   十二、二月十九日後の二、美吉屋

 大阪油懸町あぶらかけまちの、紀伊国橋きのくにばしを南へ渡つて東へ入る南側で、東から二軒目に美吉屋みよしやと云ふ手拭地てぬぐひぢ為入屋しいれやがある。主人五郎兵衛は六十二歳、妻つねは五十歳になつて、娘かつ、孫娘かくのほか家内かない下男げなん五人、下女げぢよ一人を使つてゐる。上下十人暮しである。五郎兵衛は年来大塩家に出入して、勝手向かつてむきの用をしたこともあるので、二月十九日に暴動のあつた後は、町奉行所の沙汰さた町預まちあづけになつてゐる。
 此美吉屋みよしやで二月二十四日の晩に、いつものやうに主人が勝手に寝て、家族や奉公人を二階と台所とに寝させてゐると、よひの五つ過に表の門をたゝくものがある。主人が起きてたれだと問へば、備前島町びぜんしままち河内屋かはちや八五郎の使つかひだと云ふ。河内屋はかね取引とりひきをしてゐる家なので、どんな用事があつて、つて人をよこしたかといぶかりながら、庭へ降りて潜戸くゞりどを開けた。
 戸があくとすぐに、衣の上に鼠色ねずみいろ木綿合羽もめんかつぱをはおつた僧侶が二人つと這入はひつて、低い声に力を入れて、早くその戸をめろと指図した。驚きながら見れば、二人共僧形そうぎやう不似合ふにあひ脇差わきざしを左の手に持つてゐる。五郎兵衛はがた/\震えて、返事もせず、身動きもしない。先に這入つた年上の僧が目食めくはせをすると、あとから這入つた若い僧が五郎兵衛を押しけて戸締とじまりをした。
 二人はえんに腰を掛けて、草鞋わらぢひもき始めた。五郎兵衛はそれを見てゐるうちに、再び驚いた。かみをおろして相好さうがうは変つてゐても、大塩親子だと分かつたからである。「や。大塩様ではございませんか。」「名なんぞを言ふな」と、平八郎が叱るやうに云つた。
 二人は黙つて奥へ通るので、五郎兵衛は先に立つて、納戸なんどの小部屋に案内した。五郎兵衛が、「どうなさる思召おぼしめしか」と問ふと、平八郎はたゞ「当分厄介になる」とだけ云つた。
 陰謀の首領をかくまふと云ふことが、容易ならぬ罪になるとは、五郎兵衛もすぐに思つた。しかし平八郎の言ふことは、年来暗示あんじのやうに此いさんの心の上に働く習慣になつてゐるので、ことわることは所詮しよせん出来ない。其上親子が放さずに持つてゐる脇差も、それとなく威嚇ゐかくの功を奏してゐる。五郎兵衛は只二人を留めて置いて、し人に知られるなら、それが一刻も遅く、一日も遅いやうにと、禍殃くわあうを未来にる工夫をするより外ない。そこで小部屋のふすまをぴつたり締め切つて、女房にだけわけを話し、奉公人に知らせぬやうに、食事を調とゝのへて運ぶことにした。
 一日立つ。二日立つ。いつは退いてくれるかと、老人夫婦は客の様子をうかゞつてゐるが、平八郎は落ち着き払つてゐる。心安こゝろやすい人が来ては奥の間へ通ることもあるので、襖一重ふすまひとへの先にお尋者たづねものを置くのが心配に堪へない。さいはひ美吉屋みよしやの家には、ひつじさるすみ離座敷はなれざしきがある。周囲まはり小庭こにはになつてゐて、母屋おもやとの間には、小さい戸口の附いた板塀いたべいがある。それから今一つすぐに往来に出られる口が、表口から西に当る路次ろじに附いてゐる。此離座敷なら家族も出入せぬから、奉公人に知られるおそれもない。そこで五郎兵衛は平八郎父子を夜中にそこへ移した。そして日々にち/\飯米はんまいはかつて勝手へ出す時、紙袋かみぶくろに取り分け、味噌みそしほかうものなどを添へて、五郎兵衛が手づから持ち運んだ。それを親子炭火すみび自炊じすゐするのである。
 兎角とかくするうちに三月になつて、美吉屋みよしやにも奉公人の出代でかはりがあつた。その時女中の一人が平野郷ひらのがう宿元やどもとに帰つてこんな話をした。美吉屋では不思議に米が多くいる。老人夫婦が毎日米を取り分けて置くのを、奉公人は神様にそなへるのだらうと云つてゐるが、それにしてもおさがりが少しも無いと云ふのである。
 平野郷は城代土井の領分八万石の内一万石の土地で、七名家しちめいかと云ふ土着のものが支配してゐる。其中の末吉すゑよし平左衛門、中瀬なかせ九郎兵衛の二人が、美吉屋から帰つた女中の話を聞いて、がう陣屋ぢんやに訴へた。陣屋に詰めてゐる家来が土井に上申した。土井が立入与力たちいりよりき内山彦次郎に美吉屋五郎兵衛を取り調べることを命じた。立入与力と云ふのは、東西両町奉行の組のうちから城代のもとへ出して用を聞せる与力である。五郎兵衛は内山に糺問きうもんせられて、すぐに実を告げた。
 土井は大目附時田肇ときだはじめに、岡野小右衛門こゑもん、菊地鉄平、芹沢せりざは啓次郎、松高縫蔵まつたかぬひざう安立讃太郎あだちさんたらう遠山とほやま勇之助、斎藤正五郎しやうごらう[#ルビの「しやうごらう」は底本では「しやうごろう」]、菊地弥六やろくの八人を附けて、これに逮捕を命じた。
 三月二十六日の四つ半時はんどき、時田は自宅に八人のものを呼んで命を伝へ、すぐに支度したくをして中屋敷に集合させた。中屋敷では、時田が美吉屋の家宅の摸様を書いたものを一同に見せ、なるべく二人を生擒いけどりにするやうにと云ふ城代の注文を告げた。岡野某は相談して、時田から半棒はんぼうを受け取つた。それから岡野が入口の狭い所を進むには、順番をくじめて、争論のないやうにしたいと云ふと、一同これに同意した。岡野は重ねて、自分はよはひ五十歳を過ぎて、跡取あととりせがれもあり、此度の事を奉公のしをさめにしたいから、一番を譲つてもらつて、次の二番から八番までのくじを人々に引かせたいと云つた。これにも一同が同意したので、籤を引いて二番菊地弥六、三番松高、四番菊地鉄平、五番遠山、六番安立、七番芹沢、八番斎藤と極めた。
 二十七日のあけ八つどき過、土井の家老鷹見たかみ十郎左衛門は岡野、菊地鉄平、芹沢の三人を宅に呼んで、西組与力内山を引き合せ、内山と同心四人とに部屋目附へやめつけ鳥巣とす彦四郎を添へて、偵察にることを告げた。岡野等三人は中屋敷に帰つて、一同に鷹見たかみの処置を話して、偵察の結果を待つてゐると、鷹見が出向いて来て、大切の役目だから、手落のないやうにせいと云ふ訓示をした。七つ半過に鳥巣とす中屋敷なかやしきに来て、内山の口上を伝へて、本町ほんまち五丁目の会所くわいしよへ案内した。時田以下の九人は鳥巣とすを先に立てゝ、外に岡村桂蔵と云ふものを連れて本町へ往つた。しばらく本町の会所に待つてゐると、内山の使に同心が一人来て、一同を信濃町の会所に案内した。油懸町あぶらかけまち南裏通みなみうらどほりである。信濃町しなのまちでは、一同が内山の出した美吉屋の家の図面を見て、その意見に従つて、東表口ひがしおもてぐちに向ふ追手おつてと、西裏口にしうらぐちに向ふ搦手からめてとに分れることになつた。
 追手おつては内山、同心二人、岡野、菊地弥六、松高、菊地鉄平の七人、搦手からめては同心二人、遠山、安立あだち芹沢せりざは、斎藤、時田の七人である。此二手は総年寄今井官之助、比田小伝次ひだこでんじ永瀬ながせ七三郎三人の率ゐた火消人足ひけしにんそく前以まへもつて取り巻かせてある美吉屋みよしやへ、六つ半時に出向いた。搦手からめては一歩先に進んで西裏口を固めた。追手おつては続いて岡野、菊地弥六、松高、菊地鉄平、内山の順序に東表口を這入つた。内山は菊地鉄平に表口の内側に居残つてくれと頼んだ。鉄平は一人では心元こゝろもとないので、附いて来た岡村に一しよにゐて貰つた。
 追手の同心一人は美吉屋の女房つねを呼び出して、耳に口を寄せて云つた。「お前大切の御用だから、しつかりして勤めんではならぬぞ。お前は板塀いたべいの戸口へ往つて、平八郎にかう云ふのだ。内の五郎兵衛はおあづけになつてゐるので、今家財改かざいあらためのお役人が来られた。どうぞちよいとの間うら路次口ろじぐちから外へ出てゐて下さいと云ふのだ。間違へてはならぬぞ」と云つた。
 つねは顔色がさをになつたが、やう/\先に立つて板塀の戸口に往つて、もし/\と声を掛けた。しかし教へられた口上を言ふことは出来なかつた。
 暫くすると戸口が細目にいた。内からのぞいたのは坊主頭ばうずあたまの平八郎である。平八郎は捕手とりてと顔を見合せて、すぐに戸を閉ぢた。
 岡野等は戸を打ちこはした。そして戸口から岡野が呼び掛けた。「平八郎卑怯ひけふだ。これへ出い。」
「待て」と、平八郎が離座敷はなれざしきの雨戸の内から叫んだ。
 岡野等はしばらくためらつてゐた。
 表口おもてぐちの内側にゐた菊地鉄平は、美吉屋の女房小供や奉公人の退いたあとしばらく待つてゐたが、板塀いたべいの戸口で手間の取れる様子を見て、鍵形かぎがたになつてゐる表の庭を、縁側のすみに附いて廻つて、戸口にゐる同心に、「もう踏み込んではどうだらう」と云つた。
よろしうございませう」と同心が答へた。
 鉄平は戸口をつと這入はひつて、正面にある離座敷はなれざしきの雨戸を半棒はんぼうたゝきこはした。戸の破れた所からは烟が出て、火薬のにほひがした。
 鉄平に続いて、同心、岡野、菊地弥六、松高が一しよに踏み込んで、残る雨戸を打ちこはした。
 離座敷の正面には格之助の死骸らしいものが倒れてゐて、それに衣類をおほひ、間内まうちの障子をはづして、死骸の上を越させて、雨戸に立て掛け、それに火を附けてあつた。雨戸がこはれると、火の附いた障子が、えながら庭へ落ちた。死骸らしい物のある奥の壁際かべぎはに、平八郎はさやを払つた脇差わきざしを持つて立つてゐたが、踏み込んだ捕手とりてを見て、其やいばを横にのどに突き立て、引き抜いて捕手の方へ投げた。
 投げた脇差は、傍輩はうばいと一しよに半棒で火を払ひけてゐる菊地弥六の頭を越し、えりから袖をかすつて、半棒に触れ、少し切り込んでけし飛んだ。弥六の襟、袖、手首には、そゝぎ掛けたやうに血が附いた。
 火は次第に燃えひろがつた。捕手は皆ほのほを避けて、板塀の戸口から表庭おもてにはへ出た。
 弥六は脇差を投げ附けられたことを鉄平に話した。鉄平が「そんなら庭にあるだらう」と云つて、弥六を連れて戸口に往つて見ると、四五尺ばかり先に脇差は落ちてゐる。しかし火が強くて取りに往くことが出来ない。そこへ最初案内に立つた同心が来て、「わたくし共の木刀にはつばがありますから、引つ掛けてき寄せませう」と云つた。脇差はうまく掻き寄せられた。つか茶糸巻ちやいとまきで、が一尺八寸あつた。
 搦手からめては一歩先に西裏口にしうらぐちに来て、遠山、安立、芹沢、時田が東側に、斎藤と同心二人とが西側に並んで、なかに道をけ、逃げ出したら挟撃はさみうちにしようと待つてゐた。そのうち余り手間取てまどるので、安立、遠山、斎藤の三人がのぞきに這入つた。離座敷には人声がしてゐる。又持場もちばに帰つて暫く待つたが、誰も出て来ない。三人が又のぞきに這入ると、雨戸の隙から火焔の中に立つてゐる平八郎の坊主頭が見えた。そこで時田、芹沢と同心二人とを促して、一しよに半棒で雨戸を打ちこはした。しかし火気がさかんなので、此手のものも這入ることが出来なかつた。
 そこへ内山が来て、「もうあとは火を消せば好いのですから、消防方せうばうかたに任せてはいかがでせう」と云つた。
 遠山が云つた。「いや。死骸がぢき手近にありますから、どうかしてあれを引き出すことにしませう。」
 遠山はかう云つて、傍輩はうばいと一しよに死骸のある所へ水を打ち掛けてゐると、消防方せうばうかたが段々集つて来て、朝五つ過に火を消し止めた。
 総年寄そうどしより今井が火消人足ひけしにんそくを指揮して、焼けた材木をけさせた。其下から吉兵衛と云ふ人足がづ格之助らしい死骸を引き出した。胸がつらぬいてある。平生歯が出てゐたが、其歯をき出してゐる。次に平八郎らしい死骸が出た。これはのどを突いて俯伏うつぶしてゐる。今井は二つの死骸を水で洗はせた。平八郎の首は焼けふくらんで、肩にうづまつたやうになつてゐるのを、頭を抱へて引き上げて、面体めんていを見定めた。格之助はきずの様子で、父の手に掛かつて死んだものと察せられた。今井は近所の三宅みやけといふ医者の家から、駕籠かごを二ちやう出させて、それに死骸を載せた。
 二つの死骸は美吉屋夫婦と共に高原溜たかはらたまりへ送られた。道筋には見物人の山をきづいた。

   十三、二月十九日後の三、評定

 大塩平八郎が陰謀事件の評定ひやうぢやうは、六月七日に江戸の評定所ひやうぢやうしよに命ぜられた。大岡紀伊守忠愛きいのかみたゞちかの預つてゐた平山助次郎、大阪から護送して来た吉見九郎右衛門、おなじく英太郎、河合八十次郎やそじらう、大井正一郎、安田図書やすだづしよ、大西与五郎よごらう美吉屋みよしや五郎兵衛、おなじくつね、其外そのほか西村利三郎を連れて伊勢から仙台に往き、江戸で利三郎が病死するまで世話をした黄檗わうばくの僧剛嶽がうがく、江戸で西村を弟子にした橋本町一丁目の願人ぐわんにん冷月れいげつ、西村の死骸をはうむつた浅草遍照院へんせうゐん所化しよけ尭周げうしう等が呼び出されて、七月十六日から取調とりしらべが始まつた。次いで役人が大阪へも出張して、両方で取り調べた。罪案が定まつて上申せられたのは天保九年うるふ四月八日で、宣告のあつたのは八月二十一日である。
 平八郎、格之助、渡辺、瀬田、小泉、庄司、近藤、大井、深尾、茨田いばらだ[#ルビの「いばらだ」はママ]、高橋、父柏岡かしはをか、倅柏岡、西村、宮脇、橋本、白井孝右衛門と暴動には加はらぬが連判をしてゐた摂津せつゝ森小路村もりこうぢむらの医師横山文哉ぶんさい、同国猪飼野村ゐかひのむらの百姓木村司馬之助しまのすけとの十九人、それから返忠かへりちゆうをし掛けて遅疑ちぎした弓奉行組ゆみぶぎやうぐみ同心小頭どうしんこがしら竹上たけがみ万太郎ははりつけになつた。しかるに九月十八日に鳶田とびたで刑の執行があつた時、生きてゐたのは竹上一にんである。の十九人は、自殺した平八郎、渡辺、瀬田、近藤、深尾、宮脇、病死した西村、人に殺された格之助、小泉を除き、かの江戸へ廻された大井迄こと/″\く牢死したので、磔柱はりつけばしらには塩詰しほづめの死骸を懸けた。中にも平八郎父子ふしは焼けた死骸を塩詰にして懸けられたのである。西村は死骸が腐つてゐたので、墓をこぼたれた。
 松本、堀井、杉山、曾我そが植松うゑまつ、大工作兵衛、猟師金助、美吉屋五郎兵衛、瀬田の中間ちゆうげん浅佶あさきち、深尾の募集に応じた尊延寺村そんえんじむらの百姓忠右衛門と無宿むしゆく新右衛門とは獄門ごくもん、暴動に加はらぬ与党の内、上田、白井孝右衛門かうゑもんをひ儀次郎ぎじらう般若寺村はんにやじむらの百姓卯兵衛うへゑは死罪、平八郎のめかけゆう、美吉屋の女房つね、大西与五郎と白井孝右衛門のせがれで、をさない時大塩の塾にゐたこともあり、父の陰謀の情を知つてゐた彦右衛門とは遠島ゑんたう、安田と杉山を剃髪させた同人どうにんの伯父、河内かはち大蓮寺たいれんじの僧正方しやうはう、西村の逃亡を助けた同人の姉婿あねむこ、堺の医師寛輔くわんぽの二にんとは追放になつた。しかし此人々も杉山、上田、大西、倅白井の四人の外は、皆刑の執行前に牢死した。
 密訴みつそをした平山と父吉見とは取高とりだかまゝ譜代席小普請入ふだいせきこぶしんいりになり、吉見英太郎、河合八十次郎やそじらうおの/\銀五十枚をたまはつた。此中このうちで酒井大和守忠嗣やまとのかみたゞつぐ預替あづけがへになつてゐた平山は、番人の便所に立つた留守に詰所つめしよの棚の刀箱かたなばこから脇差を取り出して自殺した。
 城代土井以下賞与を受けたものは十九人あつた。中にも坂本鉉之助げんのすけ鉄砲方てつぱうかたになつて、目見以上めみえいじやう末席ばつせきに進められた。併し両町奉行には賞与がなかつた。


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