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大塩平八郎(おおしおへいはちろう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-6 18:00:24  点击:  切换到繁體中文


   九、八軒屋、新築地、下寺町

 梅田の挽(ひ)かせて行く大筒(おほづゝ)を、坂本が見付けた時、平八郎はまだ淡路町二丁目の往来の四辻に近い処に立ち止まつてゐた。同勢は見る/\耗(へ)つて、大筒(おほづゝ)の車を挽(ひ)く人足(にんそく)にも事を闕(か)くやうになつて来る。坂本等の銃声が聞えはじめてからは、同勢が殆(ほとんど)無節制の状態に陥(おちい)り掛かる。もう射撃をするにも、号令には依らずに、人々(ひと/″\)勝手に射撃する。平八郎は暫(しばら)くそれを見てゐたが、重立(おもだ)つた人々を呼び集めて、「もう働きもこれまでぢや、好く今まで踏みこたへてゐてくれた、銘々(めい/\)此場を立(た)ち退(の)いて、然(しか)るべく処決せられい」と云ひ渡した。
 集まつてゐた十二人は、格之助、白井、橋本、渡辺、瀬田、庄司、茨田(いばらた)、高橋、父柏岡(かしはをか)、西村、杉山と瀬田の若党植松(うゑまつ)とであつたが、平八郎の詞(ことば)を聞いて、皆顔を見合せて黙つてゐた。瀬田が進み出て、「我々はどこまでもお供をしますが、御趣意(ごしゆい)はなるべく一同に伝へることにしませう」と云つた。そして所々(しよ/\)に固まつてゐる身方(みかた)の残兵に首領(しゆりやう)の詞を伝達した。
 それを聞いて悄然(せうぜん)と手持無沙汰に立ち去るものもある。待ち構へたやうに持つてゐた鑓(やり)、負(お)つてゐた荷を棄てて、足早(あしはや)に逃げるものもある。大抵は此場を脱(ぬ)け出ることが出来たが、安田が一人(にん)逃げおくれて、町家(まちや)に潜伏したために捕へられた。此時同勢の中(うち)に長持(ながもち)の宰領(さいりやう)をして来た大工作兵衛がゐたが、首領の詞を伝達せられた時、自分だけはどこまでも大塩父子(ふし)の供がしたいと云つて居残(ゐのこ)つた。質樸(しつぼく)な職人気質(かたぎ)から平八郎が企(くはだて)の私欲を離れた処に感心したので、強(し)ひて与党に入れられた怨(うらみ)を忘れて、生死を共にする気になつたのである。
 平八郎は格之助以下十二人と作兵衛とに取り巻かれて、淡路町(あはぢまち)二丁目の西端から半丁程東へ引き返して、隣まで火の移つてゐる北側の町家に踏み込んだ。そして北裏の東平野町(ひがしひらのまち)へ抜けた。坂本等が梅田を打ち倒してから、四辻に出るまで、大(だい)ぶ時が立つたので、この上下十四人は首尾好く迹(あと)を晦(くら)ますことが出来た。
 此時北船場(きたせんば)の方角は、もう騒動が済んでから暫(しばら)く立つたので、焼けた家の址(あと)から青い煙が立ち昇つてゐるだけである。何物にか執着(しふぢやく)して、黒く焦(こ)げた柱、地に委(ゆだ)ねた瓦(かはら)のかけらの側(そば)を離れ兼ねてゐるやうな人、獣(けもの)の屍(かばね)の腐(くさ)る所に、鴉(からす)や野犬(のいぬ)の寄るやうに、何物をか捜(さが)し顔(がほ)にうろついてゐる人などが、互(たがひ)に顔を見合せぬやうにして行き違ふだけで、平八郎等の立(た)ち退(の)く邪魔をするものはない。八つ頃から空は次第に薄鼠色(うすねずみいろ)になつて来て、陰鬱(いんうつ)な、人の頭を押さへ附けるやうな気分が市中を支配してゐる。まだ鉄砲や鑓(やり)を持つてゐる十四人は、詞(ことば)もなく、稲妻形(いなづまがた)に焼跡(やけあと)の町を縫(ぬ)つて、影のやうに歩(あゆみ)を運びつつ東横堀川(ひがしよこぼりがは)の西河岸(にしかし)へ出た。途中で道に沿うて建て並べた土蔵の一つが焼け崩れて、壁の裾(すそ)だけ残つた中に、青い火がちよろ/\と燃(も)えてゐるのを、平八郎が足を停(と)めて見て、懐(ふところ)から巻物を出して焔(ほのほ)の中に投げた。これは陰謀の檄文(げきぶん)と軍令状とを書いた裏へ、今年の正月八日から二月十五日までの間に、同盟者に記名調印させた連判状(れんぱんじやう)であつた。
 十四人はたつた今七八十人の同勢を率(ひき)ゐて渡つた高麗橋(かうらいばし)を、殆(ほとんど)世を隔てたやうな思(おもひ)をして、同じ方向に渡つた。河岸(かし)に沿うて曲つて、天神橋詰(てんじんばしづめ)を過ぎ、八軒屋に出たのは七つ時であつた。ふと見れば、桟橋(さんばし)に一艘(さう)の舟が繋(つな)いであつた。船頭が一人艫(とも)の方に蹲(うづくま)つてゐる。土地のものが火事なんぞの時、荷物を積んで逃げる、屋形(やかた)のやうな、余り大きくない舟である。平八郎は一行に目食(めく)はせをして、此舟に飛び乗つた。跡(あと)から十三人がどや/\と乗込(のりこ)んだ。
「こら。舟を出せ。」かう叫んだのは瀬田である。
 不意を打たれた船頭は器械的に起(た)つて纜(ともづな)を解いた。
 舟が中流に出てから、庄司は持つてゐた十文目筒(もんめづゝ)、其外の人々は手鑓(てやり)を水中に投げた。それから川風の寒いのに、皆着込(きごみ)を脱(ぬ)いで、これも水中に投げた。
「どつちへでも好いから漕(こ)いでをれ。」瀬田はかう云つて、船頭に艪(ろ)を操(あやつ)らせた。火災に遭(あ)つたものの荷物を運び出す舟が、大川(おほかは)にはばら蒔(ま)いたやうに浮かんでゐる。平八郎等の舟がそれに雑(まじ)つて上(のぼ)つたり下(く)だつたりしてゐても、誰も見咎(みとが)めるものはない。
 併(しか)し器械的に働いてゐる船頭は、次第に醒覚(せいかく)して来て、どうにかして早くこの気味の悪い客を上陸させてしまはうと思つた。「旦那方(だんながた)どこへお上(あが)りなさいます。」
「黙つてをれ」と瀬田が叱つた。
 平八郎は側(そば)にゐた高橋に何やらささやいだ。高橋は懐中から金を二両出して船頭の手に握らせた。「いかい世話になるのう。お前の名はなんと云ふかい。」
「へえ。これは済みません。直吉と申します。」
 これからは船頭が素直に指図を聞いた。平八郎は項垂(うなだ)れてゐた頭(かしら)を挙げて、「これから拙者(せつしや)の所存(しよぞん)をお話いたすから、一同聞いてくれられい」と云つた。所存と云ふのは大略かうである。此度(このたび)の企(くはだて)は残賊(ざんぞく)を誅(ちゆう)して禍害(くわがい)を絶(た)つと云ふ事と、私蓄(しちく)を発(あば)いて陥溺(かんでき)を救ふと云ふ事との二つを志(こゝろざ)した者である。然(しか)るに彼(かれ)は全(まつた)く敗れ、此(これ)は成るに垂(なん/\)として挫(くじ)けた。主謀たる自分は天をも怨(うら)まず、人をも尤(とが)めない。只(たゞ)気の毒に堪へぬのは、親戚故旧友人徒弟たるお前方(まへがた)である。自分はお前方に罪を謝する。どうぞ此同舟の会合を最後の団欒(だんらん)として、袂(たもと)を分つて陸(りく)に上(のぼ)り、各(おの/\)潔(いさぎよ)く処決して貰(もら)ひたい。自分等父子(ふし)は最早(もはや)思ひ置くこともないが、跡(あと)には女小供がある。橋本氏には大工作兵衛を連れて、いかにもして彼等の隠家(かくれが)へ往き、自裁(じさい)するやうに勧めて貰ふことを頼むと云ふのである。平八郎の妾(めかけ)以下は、初め般若寺村(はんにやじむら)の橋本方へ立(た)ち退(の)いて、それから伊丹(いたみ)の紙屋某方(かた)へ往つたのである。後に彼等が縛(ばく)に就(つ)いたのは京都であつたが、それは二人の妾が弓太郎(ゆみたろう)を残しては死なれぬと云ふので、橋本が連れてさまよひ歩いた末である。
 暮(くれ)六つ頃から、天満橋北詰(てんまばしきたづめ)の人の目に立たぬ所に舟を寄せて、先づ橋本と作兵衛とが上陸した。次いで父柏岡(かしはをか)、西村、茨田(いばらた)、高橋と瀬田に暇(いとま)を貰つた植松(うゑまつ)との五人が上陸した。後に茨田は瀬田の妻子を落(おと)して遣(や)つた上で自首し、父柏岡と高橋とも自首し、西村は江戸で願人坊主(ぐわんにんばうず)になつて、時疫(じえき)で死に、植松は京都で捕はれた。
 跡(あと)に残つた人々は土佐堀川(とさぼりがは)から西横堀川(にしよこぼりがは)に這入(はひ)つて、新築地(しんつきぢ)に上陸した。平八郎、格之助、瀬田、渡辺、庄司、白井、杉山の七人である。人々は平八郎に迫(せま)つて所存(しよぞん)を問うたが、只(たゞ)「いづれ免(まぬか)れぬ身ながら、少し考(かんがへ)がある」とばかり云つて、打ち明けない。そして白井と杉山とに、「お前方は心残(こゝろのこり)のないやうにして、身の始末を附けるが好い」と云つて、杉山には金五両を渡した。
 一行は暫(しばら)く四つ橋の傍(そば)に立ち止まつてゐた。其時平八郎が「どこへ死所(しにどころ)を求めに往くにしても、大小(だいせう)を挿(さ)してゐては人目に掛かるから、一同刀を棄てるが好い」と云つて、先づ自分の刀を橋の上から水中に投げた。格之助始(はじめ)、人々もこれに従つて刀を投げて、皆脇差(わきざし)ばかりになつた。それから平八郎の黙つて歩く跡(あと)に附いて、一同下寺町(したでらまち)まで出た。ここで白井と杉山とが、いつまで往つても名残(なごり)は尽きぬと云つて、暇乞(いとまごひ)をした。後に白井は杉山を連れて、河内国(かはちのくに)渋川郡(しぶかはごほり)大蓮寺村(たいれんじむら)の伯父の家に往き、鋏(はさみ)を借りて杉山と倶(とも)に髪を剪(そ)り、伏見へ出ようとする途中で捕はれた。
 跡には平八郎父子と瀬田、渡辺、庄司との五人が残つた。そのうち下寺町(したでらまち)で火事を見に出てゐた人の群を避けようとするはずみに、庄司が平八郎等四人にはぐれた。後に庄司は天王寺村(てんわうじむら)で夜(よ)を明(あ)かして、平野郷(ひらのがう)から河内(かはち)、大和(やまと)を経て、自分と前後して大和路(やまとぢ)へ奔(はし)つた平八郎父子には出逢はず、大阪へ様子を見に帰る気になつて、奈良まで引き返して捕はれた。
 庄司がはぐれて、平八郎父子と瀬田、渡辺との四人になつた時、下寺町の両側共寺ばかりの所を歩きながら、瀬田が重ねて平八郎に所存を問うた。平八郎は暫く黙つてゐて答へた。「いや先刻(せんこく)考(かんがへ)があるとは云つたが、別にかうと極(き)まつた事ではない。お前方二人は格別の間柄だから話して聞かせる。己(おれ)は今暫く世の成行(なりゆき)を見てゐようと思ふ。尤(もつと)も間断(かんだん)なく死ぬる覚悟をしてゐて、恥辱を受けるやうな事はせぬ」と云つたのである。これを聞いた瀬田と渡辺とは、「そんなら我々も是非共御先途(ごせんと)を見届けます」と云つて、河内(かはち)から大和路(やまとぢ)へ奔(はし)ることを父子(ふし)に勧めた。四人の影は平野郷方角へ出る畑中道(はたなかみち)の闇(やみ)の裏(うち)に消えた。

   十、城

 けふの騒動が始(はじめ)て大阪の城代(じやうだい)土井の耳に入(い)つたのは、東町奉行跡部(あとべ)が玉造口定番(たまつくりぐちぢやうばん)遠藤に加勢を請(こ)うた時の事である。土井は遠藤を以て東西両町奉行に出馬を言ひ付けた。丁度西町奉行堀が遠藤の所に来てゐたので、堀自分はすぐに沙汰(さた)を受け、それから東町奉行所に往つて、跡部に出馬の命を伝へることになつた。
 土井は両町奉行に出馬を命じ、同時に目附中川半左衛門、犬塚太郎左衛門を陰謀の偵察、与党の逮捕に任じて置いて、昼四つ時(どき)に定番(ぢやうばん)、大番(おほばん)、加番(かばん)の面々を呼び集めた。
 城代土井は下総(しもふさ)古河(こが)の城主である。其下に居る定番(ぢやうばん)二人(ににん)のうち、まだ着任しない京橋口定番米倉(よねくら)は武蔵金沢の城主で、現に京橋口をも兼ね預かつてゐる玉造口定番遠藤は近江(あふみ)三上(みかみ)の城主である。定番の下には一年交代の大番頭(おほばんがしら)が二人ゐる。東大番頭は三河(みかは)新城(しんじやう)の菅沼織部正定忠(すがぬまおりべのしやうさだたゞ)、西大番頭は河内(かはち)狭山(さやま)の北条遠江守氏春(とほたふみのかみうぢはる)である。以上は幕府の旗下で、定番の下には各与力三十騎、同心百人がゐる。大番頭の下には各組頭(くみがしら)四人、組衆(くみしゆう)四十六人、与力十騎、同心二十人がゐる。京橋組、玉造組、東西大番を通算すると、上下の人数が定番二百六十四人、大番百六十二人、合計四百二十六人になる。これ丈(だけ)では守備が不足なので、幕府は外様(とざま)の大名に役知(やくち)一万石宛(づゝ)を遣(や)つて加番(かばん)に取つてゐる。山里丸(やまざとまる)の一加番が越前大野の土井能登守利忠(どゐのとのかみとしたゞ)、中小屋(なかごや)の二加番が越後与板(よいた)の井伊右京亮直経(うきやうのすけなほつね)、青屋口(あをやぐち)の三加番が出羽(では)長瀞(ながとろ)の米津伊勢守政懿(よねづいせのかみまさよし)、雁木坂(がんきざか)の四加番が播磨(はりま)安志(あんじ)の小笠原信濃守長武(しなのゝかみながたけ)である。加番は各物頭(ものがしら)五人、徒目付(かちめつけ)六人、平士(ひらざむらひ)九人、徒(かち)六人、小頭(こがしら)七人、足軽(あしがる)二百二十四人を率(ひき)ゐて入城する。其内に小筒(こづゝ)六十挺(ちやう)弓二十張(はり)がある。又棒突足軽(ぼうつきあしがる)が三十五人ゐる。四箇所の加番を積算すると、上下の人数が千三十四人になる。定番以下の此人数に城代の家来を加へると、城内には千五六百人の士卒がゐる。
 定番、大番、加番の集まつた所で、土井は正(しやう)九つ時(どき)に城内を巡見するから、それまでに各(かく)持口(もちくち)を固めるやうにと言ひ付けた。それから士分のものは鎧櫃(よろひゞつ)を担(かつ)ぎ出す。具足奉行(ぐそくぶぎやう)上田五兵衛は具足を分配する。鉄砲奉行石渡彦太夫(いしわたひこだいふ)は鉄砲玉薬(てつぱうたまくすり)を分配する。鍋釜(なべかま)の這入(はひ)つてゐた鎧櫃(よろひびつ)もあつた位で、兵器装具には用立たぬものが多く、城内は一方(ひとかた)ならぬ混雑であつた。
 九つ時になると、両大番頭(おほばんがしら)が先導になつて、土井は定番(ぢやうばん)、加番(かばん)の諸大名を連れて、城内を巡見した。門の数が三十三箇所、番所の数が四十三箇所あるのだから、随分手間が取れる。どこに往つて見ても、防備はまだ目も鼻も開いてゐない。土井は暮(くれ)六つ時(どき)に改めて巡見することにした。
 二度目に巡見した時は、城内の士卒の外に、尼崎(あまがさき)、岸和田(きしわだ)、高槻(たかつき)、淀(よど)などから繰り出した兵が到着してゐる。
 坤(ひつじさる)に開(ひら)いてゐる城の大手(おほて)は土井の持口(もちくち)である。詰所(つめしよ)は門内の北にある。門前には柵(さく)を結(ゆ)ひ、竹束(たけたば)を立て、土俵を築き上げて、大筒(おほづゝ)二門を据(す)ゑ、別に予備筒(よびづゝ)二門が置いてある。門内には番頭(ばんがしら)が控へ、門外北側には小筒を持つた足軽百人が北向に陣取つてゐる。南側には尼崎から来た松平遠江守忠栄(とほたふみのかみたゞよし)の一番手三百三十余人が西向に陣取る。略(ほゞ)同数の二番手は後にここへ参着して、京橋口に遷(うつ)り、次いで跡部(あとべ)の要求によつて守口(もりぐち)、吹田(すゐた)へ往つた。後に郡山(こほりやま)の一二番手も大手に加はつた。
 大手門内を、城代の詰所を過ぎて北へ行くと、西の丸である。西の丸の北、乾(いぬゐ)の角(すみ)に京橋口が開いてゐる。此口の定番の詰所は門内の東側にある。定番米津が着任してをらぬので、山里丸加番土井が守つてゐる。大筒の数は大手と同じである。門外には岸和田から来た岡部内膳正長和(ないぜんのしやうながかず)の一番手二百余人、高槻の永井飛騨守直与(ひだのかみなほとも)の手、其外(そのほか)淀の手が備へてゐる。
 京橋口定番の詰所の東隣は焔硝蔵(えんせうぐら)である。焔硝蔵と艮(うしとら)の角(すみ)の青屋口との中間に、本丸に入る極楽橋(ごくらくばし)が掛かつてゐる。極楽橋から這入(はひ)つた所が山里で、其南が天主閣、其又南が御殿である。本丸には菅沼、北条の両大番頭が備へてゐる。
 青屋口には門の南側に加番の詰所がある。此門は加番米津が守つて、中小屋加番(なかごやかばん)の井伊が遊軍としてこれに加はつてゐる。青屋口加番の詰所から南へ順次に、中小屋加番、雁木坂(がんきざか)加番、玉造口定番の詰所が並んでゐる。雁木坂加番小笠原は、自分の詰所の前の雁木坂に馬印(うまじるし)を立ててゐる。
 玉造口定番(ぢやうばん)の詰所は巽(たつみ)に開いてゐる。玉造口の北側である。此門は定番遠藤が守つてゐる。これに高槻の手が加はり、後には郡山(こほりやま)の三番手も同じ所に附けられた。玉造口と大手との間は、東が東大番、西が西大番の平常の詰所である。
 土井の二度の巡見の外、中川、犬塚の両目附は城内所々(しよ/\)を廻つて警戒し、又両町奉行所に出向いて情報を取つた。夜(よ)に入(い)つてからは、城の内外の持口々々(もちくち/″\)に篝火(かゞりび)を焚(た)き連(つら)ねて、炎焔(えん/\)天(てん)を焦(こが)すのであつた。跡部の役宅(やくたく)には伏見奉行加納遠江守久儔(かなふとほたふみのかみひさとも)、堀の役宅には堺奉行曲淵甲斐守景山(まがりぶちかひのかみけいざん)が、各与力同心を率ゐて繰り込んだ。又天王寺方面には岸和田から来た二番手千四百余人が陣を張つた。
 目附中川、犬塚の手で陰謀の与党を逮捕しようと云ふ手配(てくばり)は、日暮頃から始まつたが、はか/″\しい働きも出来なかつた。吹田村(すゐたむら)で氏神(うぢがみ)の神主をしてゐる、平八郎の叔父宮脇志摩(しま)の所へ捕手(とりて)の向つたのは翌二十日で、宮脇は切腹して溜池(ためいけ)に飛び込んだ。船手(ふなて)奉行の手で、川口の舟を調べはじめたのは、中一日置いた二十一日の晩からである。城の兵備を撤(てつ)したのも二十一日である。
 朝五つ時に天満(てんま)から始まつた火事は、大塩の同勢が到る処に大筒を打ち掛け火を放つたので、風の余り無い日でありながら、思(おもひ)の外(ほか)にひろがつた。天満は東が川崎、西が知源寺(ちげんじ)、摂津国町(つのくにまち)、又二郎町(またじらうまち)、越後町、旅籠町(はたごまち)、南が大川、北が与力町を界(さかひ)とし、大手前から船場(せんば)へ掛けての市街は、谷町(たにまち)一丁目から三丁目までを東界(ひがしさかひ)、上大(かみおほ)みそ筋から下難波橋(しもなんばばし)筋までを西界(にしさかひ)、内本町(うちほんまち)、太郎左衛門町(たらうざゑもんまち)、西入町(にしいりまち)、豊後町(ぶんごまち)、安土町(あづちまち)、魚屋町(うをやまち)を南界(みなみさかひ)、大川、土佐堀川を北界(きたさかひ)として、一面の焦土となつた。本町橋(ほんまちばし)東詰で、西町奉行堀に分れて入城した東町奉行跡部は、火が大手近く燃(も)えて来たので、夕(ゆふ)七つ時に又坂本以下の与力同心を率ゐて火事場に出馬した。丁度火消人足(ひけしにんそく)が谷町で火を食ひ止めようとしてゐる所であつたが、人数が少いのと一同疲れてゐるのとのために、暮(くれ)六つ半(はん)に谷町代官所に火の移るのを防ぐことが出来なかつた。鎮火したのは翌二十日の宵(よひ)五つ半である。町数(まちかず)で言へば天満組四十二町、北組五十九町、南組十一町、家数(いへかず)、竈数(かまどかず)で言へば、三千三百八十九軒、一万二千五百七十八戸が災(わざはひ)に罹(かゝ)つたのである。

   十一、二月十九日の後の一、信貴越

 大阪兵燹(へいせん)の余焔(よえん)が城内の篝火(かがりび)と共に闇(やみ)を照(てら)し、番場(ばんば)の原には避難した病人産婦の呻吟(しんぎん)を聞く二月十九日の夜、平野郷(ひらのがう)のとある森蔭(もりかげ)に体(からだ)を寄せ合つて寒さを凌(しの)いでゐる四人があつた。これは夜(よ)の明(あ)けぬ間(ま)に河内(かはち)へ越さうとして、身も心も疲れ果て、最早(もはや)一歩も進むことの出来なくなつた平八郎父子(ふし)と瀬田、渡辺とである。
 四人は翌二十日に河内(かはち)の界(さかひ)に入(い)つて、食を求める外には人家に立ち寄らぬやうに心掛け、平野川に沿うて、間道(かんだう)を東へ急いだ。さて途中どこで夜を明かさうかと思つてゐるうち、夜なかから大風雨になつた。やう/\産土(うぶすな)の社(やしろ)を見付けて駈(か)け込んでゐると、暫く物を案じてゐた渡辺が、突然もう此先きは歩けさうにないから、先生の手足纏(てあしまとひ)にならぬやうにすると云つて、手早く脇差(わきざし)を抜いて腹に突き立てた。左の脇腹に三寸余り切先(きつさき)が這入(はひ)つたので、所詮(しよせん)助からぬと見極(みきは)めて、平八郎が介錯(かいしやく)した。渡辺は色の白い、少し歯の出た、温順篤実な男で、年齢は僅(わづか)に四十を越したばかりであつた。
 二十一日の暁(あかつき)になつても、大風雨は止(や)みさうな気色(けしき)もない。平八郎父子(ふし)と瀬田とは、渡辺の死骸(しがい)を跡(あと)に残して、産土(うぶすな)の社(やしろ)を出た。土地の百姓が死骸を見出して訴(うつた)へたのは、二十二日の事であつた。社のあつた所は河内国(かはちのくに)志紀郡(しきごほり)田井中村(たゐなかむら)である。
 三人は風雨を冒(をか)して、間道を東北の方向に進んだ。風雨はやう/\午頃(ひるごろ)に息(や)んだが、肌まで濡(ぬ)れ通(とほ)つて、寒さは身に染(し)みる。辛(から)うじて大和川(やまとがは)の支流幾つかを渡つて、夜(よ)に入つて高安郡(たかやすごほり)恩地村(おんちむら)に着いた。さて例の通(とほり)人家を避けて、籔陰(やぶかげ)の辻堂を捜し当てた。近辺から枯枝(かれえだ)を集めて来て、おそる/\焚火(たきび)をしてゐると、瀬田が発熱(ほつねつ)して来た。いつも血色の悪い、蒼白(あをじろ)い顔が、大酒(たいしゆ)をしたやうに暗赤色(あんせきしよく)になつて、持前の二皮目(ふたかはめ)が血走(ちばし)つてゐる。平八郎父子が物を言ひ掛ければ、驚いたやうに返事をするが、其間々(あひだ/\)は焚火の前に蹲(うづくま)つて、現(うつゝ)とも夢(ゆめ)とも分からなくなつてゐる。ここまで来る途中で、先生が寒からうと云つて、瀬田は自分の着てゐた羽織を脱(ぬ)いで平八郎に襲(かさ)ねさせたので、誰よりも強く寒さに侵(をか)されたものだらう。平八郎は瀬田に、兎(と)に角(かく)人家に立ち寄つて保養して跡から来るが好いと云つて、無理に田圃道(たんぼみち)を百姓家のある方へ往かせた。其後影(うしろかげ)を暫く見送つてゐた平八郎は、急に身を起して焚火を踏み消した。そして信貴越(しぎごえ)の方角を志(こゝろざ)して、格之助と一しよに、又間道(かんだう)を歩き出した。
 瀬田は頭がぼんやりして、体(からだ)ぢゆうの脈が鼓(つゞみ)を打つやうに耳に響く。狭い田の畔道(くろみち)を踏んで行くに、足がどこを踏んでゐるか感じが無い。動(やゝ)もすれば苅株(きりかぶ)の間の湿(しめ)つた泥に足を蹈(ふ)み込む。やう/\一軒の百姓家の戸の隙(すき)から明かりのさしてゐるのにたどり着いて、瀬田ははつきりとした声で、暫(しばら)く休息させて貰(もら)ひたいと云つた。雨戸を開けて顔を出したのは、四角な赭(あか)ら顔の爺(ぢ)いさんである。瀬田の様子をぢつと見てゐたが、思(おもひ)の外(ほか)拒(こば)まうともせずに、囲炉裏(ゐろり)の側(そば)に寄つて休めと云つた。婆(ば)あさんが草鞋(わらぢ)を脱(ぬ)がせて、足を洗つてくれた。瀬田は火の側(そば)に横になるや否(いな)や、目を閉ぢてすぐに鼾(いびき)をかき出した。其時爺いさんはそつと瀬田の顔に手を当てた。瀬田は知らずにゐた。爺いさんはその手を瀬田の腰の所に持つて往つて、脇差(わきざし)を抜き取つた。そしてそれを持つて、家を駈け出した。行灯(あんどう)の下にすわつた婆あさんは、呆(あき)れて夫の跡(あと)を見送つた。
 瀬田は夢を見てゐる。松並木のどこまでも続いてゐる街道を、自分は力限(ちからかぎり)駈(か)けて行く。跡(あと)から大勢(おほぜい)の人が追ひ掛けて来る。自分の身は非常に軽くて、殆(ほとんど)鳥の飛ぶやうに駈けることが出来る。それに追ふものの足音が少しも遠ざからない。瀬田は自分の足の早いのに頗(すこぶる)満足して、只(たゞ)追ふものの足音の同じやうに近く聞えるのを不審に思つてゐる。足音は急調(きふてう)に鼓(つゞみ)を打つ様に聞える。ふと気が附いて見ると、足音と思つたのは、自分の脈の響くのであつた。意識が次第に明瞭になると共に、瀬田は腰の物の亡(な)くなつたのを知つた。そしてそれと同時に自分の境遇を不思議な程的確(てきかく)に判断することが出来た。
 瀬田は跳(は)ね起(お)きた。眩暈(めまひ)の起(おこ)りさうなのを、出来るだけ意志を緊張してこらへた。そして前に爺(ぢ)いさんの出て行つた口から、同じやうに駈け出した。行灯(あんどう)の下(もと)の婆(ば)あさんは、又呆(あき)れてそれを見送つた。
 百姓家の裏に出て見ると、小道を隔てて孟宗竹(まうそうちく)の大籔(おほやぶ)がある。その奥を透(す)かして見ると、高低種々の枝を出してゐる松の木がある。瀬田は堆(うづたか)く積もつた竹の葉を蹈(ふ)んで、松の下に往つて懐(ふところ)を探つた。懐には偶然捕縄(とりなは)があつた。それを出してほぐして、低い枝に足を蹈(ふ)み締(し)めて、高い枝に投げ掛けた。そして罠(わな)を作つて自分の頸(くび)に掛けて、低い枝から飛び降りた。瀬田は二十五歳で、脇差を盗まれたために、見苦しい最期(さいご)を遂げた。村役人を連れて帰つた爺(ぢ)いさんが、其夜(そのよ)の中(うち)に死骸を見付けて、二十二日に領主稲葉丹後守(たんごのかみ)に届けた。
 平八郎は格之助の遅(おく)れ勝(がち)になるのを叱り励まして、二十二日の午後に大和(やまと)の境(さかひ)に入つた。それから日暮に南畑(みなみはた)で格之助に色々な物を買はせて、身なりを整へて、駅のはづれにある寺に這入(はひ)つた。暫(しばら)くすると出て来て、「お前も頭を剃(そ)るのだ」と云つた。格之助は別に驚きもせず、連れられて這入つた。親子が僧形(そうぎやう)になつて、麻の衣を着て寺を出たのは、二十三日の明(あけ)六つ頃であつた。
 寺にゐた間は平八郎が殆(ほとんど)一言(ごん)も物を言はなかつた。さて寺を出離れると、平八郎が突然云つた。「さあ、これから大阪に帰るのだ。」
 格之助も此(この)詞(ことば)には驚いた。「でも帰りましたら。」
「好(い)いから黙つて附いて来い。」
 平八郎は足の裏が燃(も)えるやうに逃げて来た道を、渇(かつ)したものが泉を求めて走るやうに引き返して行く。傍(はた)から見れば、その大阪へ帰らうとする念は、一種の不可抗力のやうに平八郎の上に加はつてゐるらしい。格之助も寺で宵(よひ)と暁(あかつき)とに温(あたゝか)い粥(かゆ)を振舞(ふるま)はれてからは、霊薬(れいやく)を服したやうに元気を恢復して、もう遅れるやうな事はない。併(しか)し一歩々々危険な境に向つて進むのだと云ふ考(かんがへ)が念頭を去らぬので、先に立つて行く養父の背を望んで、驚異の情の次第に加はるのを禁ずることが出来ない。

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