您现在的位置: 贯通日本 >> 作家 >> 森 鴎外 >> 正文

津下四郎左衛門(つげしろうざえもん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-7 9:54:45  点击:  切换到繁體中文

 津下四郎左衛門つげしらうざゑもんは私の父である。(私とはたれかと云ふことは下に見えてゐる。)しかし其名はたゞ聞く人の耳に空虚なる固有名詞として響くのみであらう。それも無理は無い。世に何の貢献もせずに死んだ、艸木さうもくと同じくちたと云はれても、私はさうでないと弁ずることが出来ない。
 かうは云ふものの、し私がここに一言を附け加へたら、人が、「ああ、さうか」とだけは云つてくれるだらう。その一言はかうである。「津下四郎左衛門は横井平四郎よこゐへいしらうの首を取つた男である。」
 丁度ちやうど世間の人が私の父を知らぬやうに、世間の人は皆横井平四郎を知つてゐる。熊本の小楠せうなん先生を知つてゐる。
 私の立場から見れば、横井氏が栄誉あり慶祥けいしやうある家である反対に、津下氏は恥辱あり殃咎あうきうある家であつて、私はそれを歎かずにはゐられない。
 この禍福とそれに伴ふ晦顕くわいけんとがどうして生じたか。私はそれをきはめて父のゑんそゝぎたいのである。
 徳川幕府の末造ばつざうに当つて、天下の言論は尊王と佐幕とに分かれた。いやしくも気節を重んずるものは皆尊王にはしつた。其時尊王には攘夷じやういが附帯し、佐幕には開国が附帯して唱道せられてゐた。どちらも二つづゝのものを一つ/″\に引き離しては考へられなかつたのである。
 私は引き離しては考へられなかつたと云ふ。これは群集心理の上から云ふのである。
 歴史の大勢から見れば、開国は避くべからざる事であつた。攘夷は不可能の事であつた。智慧ちゑのある者はそれを知つてゐた。知つてゐてそれを秘してゐた。衰運の幕府に最後の打撃をくらはせるには、これに責むるに不可能の攘夷を以てするにくはないからであつた。此秘密は群集心理の上には少しも滲徹しんてつしてゐなかつたのである。
 開国は避くべからざる事であつた。其の避くべからざるは、当時外夷ぐわいいとせられてゐたヨオロツパ諸国やアメリカは、我にまさつた文化を有してゐたからである。智慧のあるものはそれを知つてゐた。横井平四郎は最も早くそれを知つた一人である。私の父は身を終ふるまでそれをさとらなかつた一人である。
 弘化四年に横井の兄が病気になつた。横井は福間某ふくまぼうと云ふ蘭法医らんぱふいに治療を託した。当時元田永孚もとだながざねなどとまじはつて、塾を開いて程朱ていしゆの学を教へてゐた横井が、肉身の兄の病を治療してもらふ段になると、ヨオロツパの医術にたよつた。横井が三十九歳の時の事である。
 嘉永五年に池辺啓太いけべけいたが熊本で和蘭おらんだの砲術を教へた時、横井は門人をつて伝習させた。池辺は長崎の高島秋帆たかしましうはんの弟子で、高島が嫌疑をかうむつて江戸に召し寄せられた時、一しよに拘禁せられた男である。兵器とそれを使ふ技術ともヨオロツパが優つてゐたのを横井は知つてゐた。横井が四十四歳の時の事である。
 翌年横井が四十五歳になつた時、Perry が横浜に来た。横井は早くも開国の必要を感じ始めた。安政元年には四十六歳で、ロシアの使節にはうとして長崎へつた。其留守には吉田松陰が尋ねて来て、置手紙をして帰つた。智者と智者との気息きそくやうやく通ぜられて来た。翌年四十七歳の時、長崎につてゐた門人が、海軍の事を研究しに来た勝義邦かつよしくに識合しりあひになつて、勝と横井とが交通し始めた。これも智者のまじはりである。慶応二年五十八歳の時横井は左平太さへいた太平たへいの二人のてつを米国に遣つた。海軍の事を学ばせるためであつた。此洋行者は皆横井が兄の子で、後に兄を伊勢太郎いせたらうひ、弟を沼川三郎ぬまがはさぶらうと曰つた。横井は初め兄の家を継いだものなので、其家を左平太の伊勢太郎に譲つた。
 智者は尊王家の中にも、佐幕家の中にもあつた。しかし尊王家の智者は其智慧の光をくらますことを努めた。晦ますのが、多数を制するには有利であつたからである。開国の必要と云ふことが、群集心理の上に滲徹しんてつしなかつたのは、智慧の秘密がく保たれたのである。此かんの消息を一の drame の如くに、観照的に錬稠れんちうして見せたのは、梧陰存稿ごいんそんかうの中に、井上毅ゐのうへこはしの書き残した岩倉具視いはくらともみ玉松操たままつみさをとの物語である。これは教科書にさへ抜き出されてゐるのだから、今更ここに繰り返す必要はあるまい。そんなら其秘密はどうして保たれたか。岩倉村幽居いうきよの「裏のかくれ戸」は、どうして人の耳目に触れずにゐたか。それは多数がおろかだからである。
 私は残念ながら父が愚であつたことを承認しなくてはならない。父は愚であつた。しかし私は父を弁護するために、二箇条の事実を提出したい。一つは父が青年であつたと云ふこと、今一つは父の身分が低かつたと云ふことである。
 父が生れた時、智者横井は四十歳であつた。三十一歳で江戸に遊学して三十二歳で熊本に帰つた。当時の江戸帰えどがへりは今の洋行帰と同じである。父が横井を刺した時、横井は六十一歳で、参与と云ふ顕要の地位にをつた。父は二十二歳の浮浪の青年であつた。
 智者横井は知行二百石足らずの家とは云ひながら、かく細川家の奉行職ぶぎやうしよくの子に生れたのに、父は岡山在の里正りせいの子に生れた。伊木若狭いぎわかさが備中越前鎮撫総督ちんぶそうとくになつた時、父は其勇戦隊の卒伍そつごに加はらうとするにも、幾多の抗抵に出逢つたのである。
 人の智慧は年齢と共に発展する。父は生れながらの智者ではなかつたにしても、其のわづかに持つてゐた智慧だに未だ発展するにいとまあらずしてんだのかも知れない。又人の智慧は遭遇によつて補足せられる。父はしや愚であつたにしても、若し智者に親近することが出来たなら、自ら発明する所があつたのかも知れない。父はしや預言者たる素質を有してゐなかつたにしても、つひに consacr※(アキュートアクセント付きE小文字)s の群に加はることが出来ずに時勢の秘密をうかゞひ得なかつたのは、単に身分が低かつたためではあるまいか。人は「あが仏尊し」と云ふかも知れぬが、私はかう云ふ思議にわたることを禁じ得ない。
 私の家は代々備前びぜん上道じやうたう浮田うきた村の里正を勤めてゐた。浮田村は古くぬま村と云つた所で、宇喜多直家うきたなほいへ城址じやうしがある。其城壕しろぼりのまだ残つてゐる土地に、津下氏は住んでゐた。岡山からは東へ三里ばかりで、何一つ人の目をくものもない田舎ゐなかである。
 私の祖父を里正津下市郎左衛門つげいちらうざゑもんと云つた。旧家に善くあるならひで、祖父は分家で同姓の家の娘をめとつた。祖母の名は千代ちよであつた。千代は備前侯池田家に縁故のあつた人で、駕籠かごで岡山の御殿に乗り附ける特権を有してゐたさうである。恐らくは乳母うばではなかつたかと、私は想像する。此夫婦の間に私の父は生れた。
 父は嘉永二年に生れた。幼名は鹿太しかたであつた。これも旧家に善くある習で、鹿太は両親の望に任せて小さい時に婚礼をした。塩見氏しほみうぢたけと云ふ娘と盃をしたのである。多分嘉永四年で、鹿太は四歳、丈は一つ上の五歳であつたかと思ふ。
 鹿太は物騒がしい世の中で、「黒船」のうはさの間に成長した。市郎左衛門の所へ来る客の会話を聞けば、其詞そのことばの中に何某なにがしは「正義」の人、何某は「因循いんじゆん」の人と云ふことが必ず出る。正義とは尊王攘夷の事で、因循とは佐幕開国の事である。開国はむしろ大胆な、進取的な策であるべきはずなのに、それが因循と云はれたのは、外夷ぐわいいの脅迫をおそれて、これに屈従するのだと云ふ意味から、さう云はれたのである。其背後には支那の歴史に夷狄いてきに対して和親を議するのは奸臣かんしんだと云ふことが書いてあるのが、心理上に r※(アキュートアクセント付きE小文字)miniscence として作用した。現に開国を説く人を憎む情の背後には、秦檜しんくわいのやうな歴史上の人物を憎む情がひそんでゐたのである。鹿太は早く大きくなりたいと願ふと同時に、早く大きくなつて正義の人になりたいと願つた。
 文久二年に鹿太は十五歳で元服して、額髪ひたひがみり落した。骨組のたくましい、大柄な子が、大綰総おほたぶさに結つたので天晴あつぱれ大人おとなのやうに見えた。通称四郎左衛門、名告なのり正義まさよしとなつた。それを公の帳簿に四郎とばかり書かれたのは、池田家に左衛門と云ふ人があつたので、遠慮したのださうである。祖父の市郎左衛門も、おほやけには矢張やはり市郎で通つてゐた。
 鹿太は元服すると間もなく、これまで姉のやうにしてしたしんでゐた丈と、真の夫婦になつた。此頃から鹿太は岡山の阿部守衛あべもりゑの内弟子になつて、撃剣を学んだ。阿部は当時剣客を以て関西に鳴つてゐたのである。
 文久三年二月には私が生れた。父四郎左衛門は十六歳、母は十七歳であつた。私は父の幼名をいで鹿太と呼ばれた。
 慶応三年の冬、此年頃※(「酉+榲のつくり」、第3水準1-92-88)うんぢやうせられてゐた世変がやうやく成熟の期に達して、徳川慶喜よしのぶ大政たいせいを奉還し、将軍の職を辞した。岡山には、当時の藩主池田越前守茂政いけだゑちぜんのかみもちまさの家老に、伊木若狭いぎわかさと云ふ尊王家があつて、かねて水戸の香川敬三かがはけいざう因幡いなば河田左久馬かはたさくま長門ながと桂小五郎かつらこごらう等を泊らせて置いた位であるので、翌年明治元年正月に、此伊木が備中越前びつちゆうゑちぜん鎮撫総督ちんぶそうとくにせられた。
 伊木の手には卒三百人しか無かつた。それでは不足なので、松本箕之介まつもとみのすけが建策して先づ勇戦隊と云ふものを編成した。岡山藩の士分のものから有志者をつのつたのである。四郎左衛門はすぐにこれに応ぜようとしたが、里正の子で身分が低いのでしりぞけられた。
 そのうち勇戦隊はもう編成せられて、能呂勝之進のろかつのしんがそれを引率して、備中国松山に向つて進発した。隊が岡山を離れて、まだ幾程いくほどもない時、能呂がふと前方を見ると、隊の先頭を少し離れて、一人の男が道の真中を闊歩してゐる。隊の先導をするとでも云ふやうに見える。骨組のたくましい大男で、頭に烏帽子ゑぼしを戴き、身に直垂ひたゝれを著、奴袴ぬばかま穿いて、太刀たちつてゐる。能呂は隊の行進を停めて、其男を呼び寄せさせた。男は阿部守衛の門人津下四郎左衛門と名告なのつて、さて能呂にかう云つた。自分は兼てより尊王の志をいだいてゐるものである。此度このたび勇戦隊が編成せられるにいては、是非共其一員に加はりたいので、早速志願したが、一里正の子だと云ふかどで御採用にならなかつた。しかし隊の勇ましい門出かどで余所よそに見て、ひとり岡山にとゞまるに忍びないから、し戦闘が始まつたら、微力ながら応援いたさうと思つて、同じ街道を進んでゐるのだと云つた。能呂は其風采をも口吻こうふんをも面白く思つて、すぐに伊木に請うて、四郎左衛門を隊伍に入れた。四郎左衛門が二十一歳の時である。
 松山の板倉伊賀守勝静いたくらいがのかみかつきよは老中を勤めてゐた身分ではあるが、時勢にそむ王師わうしに抗すると云ふ意志は無かつたので、伊木の隊は血を流さずに鎮撫ちんぶの目的を遂げた。それから隊が六月まで約半年間松山に駐屯して、そこで伊木は第二隊を募集した。備中の藤島政之進ふぢしままさのしんが指揮した義戦隊と云ふのがそれである。
 或る日城外の調練場で武芸を試みようと云ふことになつて、備前組と備中組とが分かれて技をくらべた。しかるに撃剣の上手は備中組に多かつたので、備前組がしきりまけを取つた。其時四郎左衛門が出て、備中組の手剛てごはい相手数人に勝つた。伊木は喜んで、自分の乗つて来た馬を四郎左衛門に与へた。競技がんで帰る時、四郎左衛門が其馬につて行くと、沿道のものが伊木だと思つて敬礼をした。
 六月に伊木は勇戦義戦の両隊をまとめて岡山に引き上げた。両隊は国富くにとみ操山みさをやま少林寺せうりんじに舎営することになつた。四郎左衛門は隊の勤務のかたはら、伊木の分家伊木木工いぎもく側雇そばやとひと云ふものになつて、撃剣の指南などをしてゐた。
 四郎左衛門は勇戦隊にゐるうちに、義戦隊長藤島政之進の下に参謀のやうな職務を取つてゐた上田立夫うへだりつぷと心安くなつた。二人が会合すれば、いつも尊王攘夷の事を談じて慷慨かうがいし、所謂いはゆる万機一新の朝廷の措置に、やゝもすれば因循の形迹けいせきあらはれ、外国人が分外ぶんぐわいの尊敬を受けるのをあきたらぬことに思つた。それは議定ぎぢやう参与の人々の間には、初から開国の下心があつて、それがやうやく施政の上に発露して来たからである。
 或る日二人は相談して、藩籍を脱して京都に上ることにした。とも輦轂れんこくもとに住んで、親しく政府の施設を見ようと云ふのである。二人の心底には、秕政ひせいの根本をきはめて、君側くんそくかんを発見したら、たゞちにこれを除かうと云ふ企図が、早くも此時からきざしてゐた。
 二人は京都に出た。さて議定参与の中で、誰が洋夷に心を傾けてゐるかと探つて見た。其時二人の目に奸人の巨魁きよくわいとして映じたのは、三月に徴士ちようしとなつて熊本から入京し、制度局の判事を経て、参与に進んだ横井平四郎であつた。
 横井は久しく越前侯松平慶永まつだひらよしながの親任を受けてゐて、公武合体論を唱へ、慶永に開国の策を献じた男である。其外そのほか大阪の城代土屋采女正寅直つちやうねめのしやうともなほの用人大久保要おほくぼかなめに由つて徳川慶喜に上書し、又藤田誠之進を介して水戸斉昭みとなりあきに上書したこともある。世間では其論策の内容をあやまり伝へて、廃帝を議したなどゝ云つたり、又洋夷と密約して、基督きりすと教を公許しようとしてゐるなどゝ云つたりした。
 公武合体論者の横井が、純粋な尊王家の目からて、灰色に見えたのは当然の事であるが、それが真黒に見えたのは、別につて来たる所がある。横井は当時の智者ではあつたが、其思想は比較的単純で、それを発表するに、世の嫌疑を避けるだけの用心をしなかつた。横井は政治の歴史の上から、共和政の価値を認めて、アテエネに先だつこと数百年、尭舜げうしゆんの時に早く共和政が有つたと断じた。「人君何天職じんくんなんぞてんしよくなる代天治百姓てんにかはりてひやくせいををさむ自非天徳人てんとくのひとにあらざるよりは何以※(「りっしんべん+(はこがまえ<夾)」、第3水準1-84-56)天命なにをもつてかてんめいにかなはん所以尭巽舜げうのしゆんにゆづりしゆゑん是真為大聖これまことにたいせいたり。」これは共和政を日本に行はうと云ふ意ではない。横井は又ヨオロツパやアメリカで基督教が、人心を統一する上に於いて、すこぶる有力であるのを見て、神儒仏三教の不振を歎いた。「西洋有正教せいやうにせいけうあり其教本上帝そのをしへはじやうていをもととす戒律以導人かいりつもてひとをみちびき勧善懲悪戻ぜんをすすめてあくれいをこらしむ上下信奉之しやうかこれをしんぽうし因教立法制をしへによりてはふせいをたつ治教不相離ちとけうあひはなれず是以人奮励ここをもつてひとふんれいす。」これは基督教を日本に弘めようと云ふ意ではない。同じ詩の末解にも、「嗟乎唐虞道あゝたうぐのみち明白如朝霽めいはくなることあさのはるるがごとし捨之不知用これをすててもちふることをしらず甘為西洋隷あまんじてせいやうのれいとなる」と云つてある。横井は政治上には尊王家で、思想上には儒者であつた。甘んじて西洋の隷となることを憤つた心は、攘夷家の心と全く同じである。しかし当時の尊王攘夷論者の思想は、横井よりは一層単純であつたので、遂に横井を誤解することになつた。

[1] [2] [3] [4] [5] 下一页  尾页


 

作家录入:贯通日本语    责任编辑:贯通日本语 

  • 上一篇作家:

  • 下一篇作家:
  •  
     
     
    网友评论:(只显示最新10条。评论内容只代表网友观点,与本站立场无关!)
     

    没有任何图片作家

    广告

    广告