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津下四郎左衛門(つげしろうざえもん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-7 9:54:45  点击:  切换到繁體中文


 横井が志士の間に奸人として視られてゐたのは、此時に始まつたことでは無い。六年前、文久元年に江戸で留守居になつてゐた時も、都筑つづき四郎、吉田平之助と一しよに、呉服町の料理屋で酒を飲んでゐるところへ、刺客せきかくが踏み込んで殺さうとしたことがある。吉田は刺客に立ち向つて、肩先を深く切られて、きずのために命をおとしたが、横井は刺客の袖の下をくゞつて、都筑と共に其場を逃げた。吉田の子巳熊みくま仇討あだうちに出て、豊後国鶴崎で刺客の一人を討ち取つた。横井は呉服町での挙動が、いかにも卑怯ひけふであつたと云ふので、熊本に帰つてから禄をうばはれた。
 上田立夫と四郎左衛門とは、時機をうかゞつて横井を斬らうと決心した。しかし当時の横井はもう六年前の一藩士では無い。朝廷の大官で、駕籠かごに乗つて出入する。身辺には門人や従者がゐる。若し二人で襲撃して為損しそんじてはならない。そこで内密に京都に出てゐた処士の間に物色して、四人の同志を得た。一人は郡山こほりやま藩の柳田徳蔵、今一人は尾州藩の鹿島復之丞かしままたのじようあとの二人は皆十津川とつがはの人で、前岡力雄りきを、中井刀禰雄とねをと云つた。
 四郎左衛門は土屋信雄と変名して、京都粟田あはた白川橋南に入る堤町の三宅典膳と云ふものゝ家に潜伏してゐた。そして時々七人の同志と会合して、所謂斬奸ざんかん手筈てはずを相談した。然るに生憎あいにく横井は腸をいためて、久しく出勤しなかつた。邸宅の辺を徘徊はいくわいしてうかゞふに、大きい文箱ふばこを持つた太政官だじやうくわんの使がしきり往反わうへんするばかりである。
 同志の人々はいつそ邸内に踏み込んで撃たうかとも思つた。しかし此秘密結社の牛耳をつてゐた上田が聴かなかつた。なぜと云ふに、横井は処士に忌まれてゐることを好く知つてゐて、邸宅には十分に警戒をしてゐた。そこへ踏み込んでは、六人の力を以てしても必ず成功するとは云はれなかつたからである。
 歳暮に迫つて、横井は全快して日々出勤するやうになつた。同志の人々は会合して、来年早々事を挙げようと議決した。さて約束がまつた時、四郎左衛門は訣別けつべつのために故郷へ立つた。
 四郎左衛門が京都に上つてからも、浮田村の家からは市郎左衛門が終始密使をつて金を送つてゐた。同志の会合は人の耳目を欺くためにわざと祇園ぎをん新地の揚屋あげやで催されたが、其費用を払ふのは大抵四郎左衛門であつた。色が白く、柔和に落ち著いてゐて、酒を飲んでも行儀を崩さぬ四郎左衛門は、芸者や仲居にもてはやされたさうである。或る時同志の中の誰やらがかう云つた。かうして津下にばかり金をつかはせては気の毒だ。軍資を募るには手段がある。我々も人真似に守銭奴をおどして見ようではないかと云つた。其時四郎左衛門がきつと居直つて、一座を見廻してかう云つた。我々のまじはりは正義の交である。君国にさゝぐべき身を以て、盗賊にまぎらはしい振舞は出来ない。仮に死んでしまふ自分は瑕瑾かきんを顧みぬとしても、父祖の名を汚し、恥を子孫にのこしてはならない。自分だけは同意が出来ないと云つた。
 大晦日おおみそかの雪の夜であつた。津下氏の親類で、同じ浮田村に住んでゐた杉本某の所から、津下の留守宅へ使が来た。急用があるから、在宅の人達は皆そろつて、こつそり来て貰ひたいと云ふことであつた。市郎左衛門夫婦は何事かと不審に思つたが、よめのたけには、かく急いで支度をせいと言ひ附けた。若しや夫の身の上に掛かつた事ではあるまいかと心配しつゝも、祖父母の跡に附いて、当時二十二歳の母は、六歳になつた私を連れて往つた。
 杉本方に待つてゐたのは父四郎左衛門であつた。私は幼かつたので、父がどんな容貌をしてゐたか、はつきりと思ひ浮べることだに出来ない。たゞ「坊主く来た」と云つて、微笑ほゝゑみつゝ頭をでゝくれたことだけを、かすかに記憶してゐる。両親と母とには、余り逗留とうりうが長くなるので、一寸ちよつと逢ひに帰つたと云つたさうである。父は夜の明けぬうちに浮田村を立つて、急いで京都へ引き返した。
 明治二年正月五日の午後である。太政官を退出した横井平四郎の駕籠が、寺町を御霊社ごりやうしやの南まで来掛かつた。駕籠の両脇には門人横山助之丞すけのじようと下津鹿之介とが引き添つてゐる。若党上野友次郎、松村金三郎の二人に、草履取ざうりとりが附いて供をしてゐる。たちまち一発の銃声が薄曇の日の重い空気を震動させて、とある町家の廂間ひあはひから、五六人の士が刀を抜き連れて出た。上田等の同志のものである。短銃は駕籠舁かごかきや家来を威嚇ゐかくするために、中井がわざと空に向つて放つたのである。
 駕籠舁は駕籠を棄てゝ逃げた。横井の門人横山、下津は、かねて途中の異変をおもんばかつて、武芸の心得のあるものを選んで附けたのであるから、刀を抜き合せて立ち向つた。横山は鹿島と渡り合ひ、下津は柳田と渡り合ふ。前岡、中井は従者等を支へて寄せ附けぬやうにする。
 上田と四郎左衛門とは一歩後に控へて見てゐると、駕籠の戸を開いて横井が出た。列藩徴士中の高齢者で、少しまばらになつた白髪をもとゞりに束ねてゐる。当年六十一歳である。少しも驚きあわてた様子はなく、抜き放つた短刀を右手に握つて、冷かに同志の人々を見遣つた。横井は撃剣を好んでゐた。七年前に品川で刺客に背を見せたのは、逃げる余裕があつたから逃げたのである。今日は逃げられぬと見定めて、飽くまで闘はうと思つてゐる。
 上田が「それ」と、四郎左衛門に目くばせして云つた。四郎左衛門は只一打にと切つて掛かつた。しかし横井は容易たやすく手元に附け入らせずに、剣術自慢の四郎左衛門を相手にして、十四五合打ち合つた。此短刀は今も横井家に伝はつてゐるが、刃がこぼれてさゝらのやうになつてゐる。
 横井が四郎左衛門の刀を防いでゐるうちに、横山は鹿島の額を一刀切つた。鹿島は血が目に流れ込むので、二三歩飛びしざつた。横山が附け入つて討ち果さうとするのを、上田が見て、横合から切つて掛かつた。其勢が余りはげしかつたので、横山は上田の腕に微傷かすりきずを負はせたにもかゝはらず、やいばを引いて逃げ出した。上田は追ひすがつて、横山の後頭を一刀切つて引き返した。
 四郎左衛門が意外の抗抵に逢つて怒を発し、勢鋭く打ち込む刀に、横井は遂に短刀を打ち落された。四郎左衛門は素早く附け入つて、横井を押し伏せ、髻をつかんで首を斬つた。
 四郎左衛門は「引上げ」と一声叫んで、左手に横井の首をげて駆け出した。寺町通の町人や往来の人は、打ち合ふ一群を恐る/\取り巻いて見てゐたが、四郎左衛門が血刀ちがたな生首なまくびとを持つて来るのを見て、さつと道を開いた。
 此時横井の門人下津は、初め柳田に前額を一刀切られたのに屈せず、奮闘した末、柳田の肩尖かたさきを一刀深く切り下げた。柳田は痛痍いたでにたまらず、ばたりと地に倒れた。下津は四郎左衛門が師匠の首を取つて逃げるのを見て、柳田を棄てゝ、四郎左衛門の跡を追ひ掛けた。
 下津が四郎左衛門を追ひ掛けると同時に、前岡、中井に支へられてゐた従者の中から、上野が一人引きはづして、下津と共に駆け出した。
 上野は足が下津より早いので、ほとんど四郎左衛門に追ひ附きさうになつた。四郎左衛門は振り返りしなに、首を上野に投げ附けた。首は上野の右の腕に強くあたつた。上野がたじろくすきに、四郎左衛門は逃げ伸びた。
 上野が四郎左衛門を追ひ掛けて行つた跡で、従者等は前岡、中井に切りまくられて、跡へ跡へと引いた。前岡、中井は四郎左衛門が横井を討つたのを見たので、方角を換へて逃げた。横山に額を切られた鹿島も、上田も、すきうかゞつて逃げた。同志のうちで其場に残つたのは深痍ふかでを負つた柳田一人であつた。
 四郎左衛門の投げ附けた首を拾つた上野と一しよに、下津が師匠のむくろかたはらへ引き返す所へ、横山も戻つて来た。取り巻いてゐた群集の中から、其外の従者が出て来て、下津等に手伝つて、身首ところを異にしてゐる骸を駕籠の内に収めた。市中の警戒をしてゐた警吏が大勢来て、柳田を捕へて往つたのは、此時の事であつた。
 四郎左衛門は市中を一走りにけ抜けて、田圃道たんぼみちに出ると、刀の血を道傍みちばたの小河で洗つてさやに納め、それから道を転じて嵯峨さがの三宅左近の家をさして行つた。左近は四郎左衛門が三宅典膳の家で相識さうしきになつた剣客である。左近方の裏には小さい酒屋があつた。四郎左衛門はそこで酒を一升買つて、其徳利を手に提げて、竹藪の中にある裏門から這入はひつた。左近方には四郎左衛門が捕はれて死んだ後に、此徳利が紫縮緬むらさきちりめん袱紗ふくさに包んで、大切にしまつてあつたさうである。
 捕へられた柳田は一言も物を言はず、又取調を命ぜられた裁判官等も、ひて問ひきはめようともせぬので、同志の名は暫く知られずにゐた。しかし柳田と往来したことのある人達が次第に召喚せられて中には牢屋につながれたものがある。
 四郎左衛門は毎日市中に出て、捕へられた柳田の生死を知らうと思ひ、又どんな人が逮捕せられたか知らうと思つて、諸方で問ひ合せた。柳田は深痍ふかでに悩んでゐて、まだ死なぬと云ふこと、同志の名を明さぬと云ふことなどは、市中の評判になつてゐた。召喚せられて役所に留め置かれたり、又捕縛せられて牢屋に入れられたりしたのは、多くは尊王攘夷を唱へて世に名を知られた人々である。中にも名高いのは和泉いづみ中瑞雲斎なかずゐうんさいで、これは長男克己、二男鼎、三男建と共に入牢した。出雲の金本顕蔵、十津川の増田二郎、下総の子安利平治、越後の大隈熊二なども入牢にふらうした。四郎左衛門の同郷人では、海間かいま十郎左衛門が召喚せられたが、これは一応尋問を受けて、すぐに帰された。海間は岡山紙屋町に吉田屋と云ふ旅人宿を出してゐた男で、志士を援助すると云ふ評判のあつたものである。
 市中の評判は大抵同志に同情して、かへつて殺された横井の罪を責めると云ふ傾向を示した。柳田の沈黙がたゝへられる。同志のく秘密を守つて、形跡をくらましたのが驚歎せられる。それには横井の殺された二三日後に、辻々つじ/\に貼り出された文書などが、影響を与へてゐるのであつた。此文書は何者の手に出でたか、同志のあづかり知らぬものであつたが、其文章を推するに、例の落首などの如き悪戯いたづらではなく、全く同志を庇護ひごしようとしたものと見えた。貼札は間もなく警吏がいで廻つたが、市中には写し伝へたものが少く無かつた。其文はかうである。
「去んぬる五日、徴士横井平四郎を、寺町に於いて、白日斬殺に及びし者あり。一人はばくつき、余党は厳しく追捕せられるといふ。右斬奸之徒ざんかんのと、吾いまだ其人を雖不知しらずといへども、全く憂国之至誠より出でたる事と察せらる。れ平四郎が奸邪、天下所皆知也みなしるところなり。初め旧幕に阿諛あゆし、恐多おそれおほくも廃帝之説を唱へ、万古一統の天日嗣あまつひつぎあやううせんとす。かつ憂国之正士を構陥讒戮こうかんざんりくし、此頃外夷ぐわいいに内通し、耶蘇やそ教を皇国に蔓布まんぷすることを約す。又朝廷の急務とする所の兵機を屏棄へいきせんとす。其余之罪悪、不遑枚挙まいきよにいとまあらず。今王政一新、四海属目しよくもく之時に当りて、如此かくのごとき大奸要路によこたはり、朝典を敗壊し、朝権を毀損きそんし、朝土を惑乱し、堂々たる我神州をして犬羊にひとしき醜夷の属国たらしめんとす。彼徒かのとこれを寛仮することあたはず、不得已やむをえず斬殺に及びしものなり。其壮烈果敢、桜田の挙にも可比較ひかくすべしこのゆゑいやしくも有義気ぎきある者、愉快と称せざるはなし。抑如此そも/\かくのごとき事変は、下情の壅塞ようそくせるより起る。前には言路洞開を令せらるといへども、空名のみにして其じつなし。忠誠※(「魚+更」、第3水準1-94-42)かうちやく之者は固陋ころうなりとして擯斥ひんせきせられ、平四郎の如き朝廷を誣罔ぶまうする大奸賊登庸とうようせられ、類を以て集り、政体を頽壊たいくわいし、外夷いよ/\跋扈ばつこせり。有志之士、不堪杞憂きいうにたへずしば/\正論※(「言+黨」、第4水準2-88-84)たうぎすと雖、雲霧濛々もう/\がうも採用せられず。すなはち断然奸魁かんくわいたふして、朝廷の反省を促す。下情壅塞ようそくせるより起ると云ふは即是也すなはちこれなり。切に願ふ、朝廷此情実をりやうとし給ひ、みことのりを下して朝野の直言を求め、奸佞かんねいを駆逐し、忠正を登庸し、邪説を破り、大体をあきらかにし給はむことを。若夫もしそれ斬奸之徒は、其情をよみし、其実を不論あげつらはず、其実を推し、其名を不問とはずすみやか放赦はうしやせられよ。果して然らば、たゞに国体を維持し、外夷の軽侮を絶つのみならず、天下之士、朝廷改過のすみやかなるに悦服し、斬奸の挙も亦あとを絶たむ。然らずんば奸臣てうに満ち、乾綱けんかうひもを解き、内憂外患こも/″\至り、かの衰亡の幕府とえらぶなきに至らむ。於是乎こゝにおいてか、憂国之士、奮然蹶起けつきして、奸邪を芟夷さんいし、孑遺げつゐなきを期すべし。是れ朝廷の威信をつな所以ゆゑんの道に非ず。皇祖天神照鑒在上。吾説の是非、あに論ずるをもちゐんや。吾に左袒さたんする者は、げきの至るを待ち、叡山えいざんに来会せよ。共に回天の大策を可議者也ぎすべきものなり。明治二年春王正月、大日本憂世子。」
 此貼札に更に紙片を貼り附けて、「右三日之間令掲示けいじせしめ候間、みだりに取除候者あらば斬捨可申きりすてまうすべく候事」と書いてあつた。これは後に弾正台だんじやうだいに勤めてゐた、四郎左衛門の剣術の師阿部守衛が、公文書の中から写し取つて置いたものである。
 横井を殺してから九日目の正月十四日に、四郎左衛門が当時官吏になつてゐた信州の知人近藤十兵衛の所に往つて、官辺での取沙汰を尋ねてゐると、そこへ警吏が踏み込んで、主人と客とを拘引した。これは上田が鹿島と一しよに高野山のふもとで捕へられたために、上田の親友であつた四郎左衛門が逮捕せられることになつたのである。初め海間がばれた時、裁判官は備前の志士の事を糺問きうもんしたが、海間は言を左右に託して、嫌疑の上田等の上に及ぶことを避けた。しかし腕に切創きりきずのある上田が捕へられて見れば、海間の心づくしも徒事とじになつた。
 四郎左衛門が捕へられてから中一日置いて、十六日に柳田は創のために死んだ。牢屋にはまだ旧幕の遺風が行はれてゐたので、其しかばねは塩漬にせられた。上田と四郎左衛門とが捕へられた後に、備前で勇戦隊を編成した松本箕之介みのすけ入牢にふらうし、これにあづかつた家老戸倉左膳の臣斎藤直彦も取調を受けた。
 当時の法廷の摸様は、信憑しんぴようすべき記載もなく、又其事にあづかつた人も亡くなつたので、私はくはしく知らぬが、裁判官の中にも同志の人たちに同情するものがあつたので、苛酷な処置にはでなかつたさうである。私は又薫子にほこと云ふ女があつて、四郎左衛門を放免して貰はうとして周旋したと云ふことを聞いた。幼年の私は、天子様のために働いて入牢した父を、救はうとした女だと云ふので、下髪さげがみはかま穿いた官女のやうに思つてゐた。しかし実はどう云ふ身分の女であつたかわからない。後明治十一二年の頃、薫子は岡山に来て、人を集めて敬神尊王の話をしたり、人に歌を書いてつたりしたさうであるが、私は其頃もう岡山にゐなかつた。

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