四
その時あの印度人の婆さんは、ランプを消した二階の部屋の机に、魔法の書物を
婆さんの前には心配そうな恵蓮が、――いや、支那服を着せられた妙子が、じっと椅子に坐っていました。さっき窓から落した手紙は、無事に遠藤さんの手へはいったであろうか? あの時往来にいた人影は、確に遠藤さんだと思ったが、もしや人違いではなかったであろうか?――そう思うと妙子は、いても立ってもいられないような気がして来ます。しかし今うっかりそんな
婆さんは呪文を唱えてしまうと、今度は妙子をめぐりながら、いろいろな手ぶりをし始めました。或時は前へ立ったまま、両手を左右に挙げて見せたり、又或時は後へ来て、まるで眼かくしでもするように、そっと妙子の額の上へ手をかざしたりするのです。もしこの時部屋の外から、誰か婆さんの容子を見ていたとすれば、それはきっと大きな
その内に妙子はいつものように、だんだん
「日本の神々様、どうか
妙子は何度も心の中に、熱心に祈りを続けました。しかし睡気はおいおいと、強くなって来るばかりです。と同時に妙子の耳には、丁度
もうこうなってはいくら我慢しても、睡らずにいることは出来ません。現に目の前の香炉の火や、印度人の婆さんの姿でさえ、気味の悪い夢が薄れるように、見る見る消え
「アグニの神、アグニの神、どうか
やがてあの魔法使いが、床の上にひれ伏したまま、
五
妙子は勿論婆さんも、この魔法を使う所は、誰の眼にも触れないと、思っていたのに違いありません。しかし実際は部屋の外に、もう一人戸の
遠藤は妙子の手紙を見てから、一時は往来に立ったなり、夜明けを待とうかとも思いました。が、お嬢さんの身の上を思うと、どうしてもじっとしてはいられません。そこでとうとう
しかし透き見をすると言っても、何しろ鍵穴を覗くのですから、蒼白い香炉の火の光を浴びた、死人のような妙子の顔が、やっと正面に見えるだけです。その
「アグニの神、アグニの神、どうか私の申すことを御聞き入れ下さいまし」
婆さんがこう言ったと思うと、息もしないように坐っていた妙子は、やはり眼をつぶったまま、突然口を
「いや、おれはお前の願いなぞは聞かない。お前はおれの言いつけに
婆さんは
「お前は
遠藤は鍵穴に眼を当てたまま、婆さんの答を待っていました。すると婆さんは驚きでもするかと思いの
「人を
婆さんはどこからとり出したか、眼をつぶった妙子の顔の先へ、一挺のナイフを突きつけました。
「さあ、正直に白状おし。お前は
さっきから容子を窺っていても、妙子が実際睡っていることは、勿論遠藤にはわかりません。ですから遠藤はこれを見ると、さては計略が露顕したかと思わず胸を
「お前も死に時が近づいたな。おれの声がお前には人間の声に聞えるのか。おれの声は低くとも、天上に燃える炎の声だ。それがお前にはわからないのか。わからなければ、勝手にするが
婆さんはちょいとためらったようです。が、忽ち勇気をとり直すと、片手にナイフを握りながら、片手に妙子の
「この
婆さんはナイフを振り上げました。もう一分間遅れても、妙子の命はなくなります。遠藤は
六
その内に部屋の中からは、誰かのわっと叫ぶ声が、突然暗やみに響きました。それから人が床の上へ、倒れる音も聞えたようです。遠藤は殆ど気違いのように、妙子の名前を呼びかけながら、全身の力を肩に集めて、何度も入口の戸へぶつかりました。
板の裂ける音、錠のはね飛ぶ音、――戸はとうとう破れました。しかし
遠藤はその光を便りに、
するとすぐに眼にはいったのは、やはりじっと椅子にかけた、死人のような妙子です。それが
「御嬢さん、御嬢さん」
遠藤は椅子へ行くと、妙子の耳もとへ口をつけて、一生懸命に叫び立てました。が、妙子は眼をつぶったなり、何とも口を開きません。
「御嬢さん。しっかりおしなさい。遠藤です」
妙子はやっと夢がさめたように、かすかな眼を開きました。
「遠藤さん?」
「そうです。遠藤です。もう大丈夫ですから、御安心なさい。さあ、早く逃げましょう」
妙子はまだ
「計略は駄目だったわ。つい私が眠ってしまったものだから、――
「計略が露顕したのは、あなたのせいじゃありませんよ。あなたは私と約束した通り、アグニの神の
遠藤はもどかしそうに、椅子から妙子を抱き起しました。
「あら、
妙子は遠藤の胸に
「計略は駄目だったわ。とても私は逃げられなくってよ」
「そんなことがあるものですか。私と一しょにいらっしゃい。今度しくじったら大変です」
「だってお婆さんがいるでしょう?」
「お婆さん?」
遠藤はもう一度、部屋の中を見廻しました。机の上にはさっきの通り、魔法の書物が開いてある、――その下へ
「お婆さんはどうして?」
「死んでいます」
妙子は遠藤を見上げながら、美しい眉をひそめました。
「私、ちっとも知らなかったわ。お婆さんは遠藤さんが――あなたが殺してしまったの?」
遠藤は婆さんの
「私が殺したのじゃありません。あの婆さんを殺したのは今夜ここへ来たアグニの神です」
遠藤は妙子を
底本:「蜘蛛の糸・杜子春」新潮文庫、新潮社
1968(昭和43)年11月15日発行
1989(平成元)年5月30日46刷
入力:蒋龍
校正:noriko saito
2005年1月7日作成
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