| 底本: | 芥川龍之介全集6 |
| 出版社: | ちくま文庫、筑摩書房 |
| 初版発行日: | 1987(昭和62)年3月24日 |
| 入力に使用: | 1993(平成5)年2月25日第6刷 |
| 校正に使用: | 1997(平成9)年4月15日第8刷 |
| 底本の親本: | 筑摩全集類聚版芥川龍之介全集 |
| 出版社: | 筑摩書房 |
| 初版発行日: | 1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月 |
……僕は床へはいっても、何か本を読まないと、寝つかれない習慣を持っている。のみならずいくら本を読んでも、寝つかれないことさえ
「
これはとうに
「三時だ。」
「もう三時。あたし、まだ一時頃かと思っていた。」僕は好い加減な返事をしたきり、何ともその言葉に取り合わなかった。
「うるさい。うるさい、黙って寝ろ。」
妻は僕の
僕はそちらを向いたまま、
夢の中の僕は暑苦しい町をSと一しょに歩いていた。砂利を敷いた歩道の幅はやっと一間か九尺しかなかった。それへまたどの家も同じようにカアキイ色の日除けを張り出していた。
「君が死ぬとは思わなかった。」
Sは扇を使いながら、こう僕に話しかけた。
「君は長生きをしそうだったがね。」
「そうかしら?」
「僕等はみんなそう言っていたよ。ええと、僕よりも五つ下だね、」とSは指を折って見て、「三十四か? 三十四ぐらいで死んだんじゃ、」――それきり急に黙ってしまった。
僕は格別死んだことを残念に思ってはいなかった。しかし何かSの手前へも
「仕事もやりかけていたんだろう?」
Sはもう一度遠慮勝ちに言った。
「うん、長いものを少し書きかけていた。」
「細君は?」
「達者だ。子供もこの頃は病気をしない。」
「そりゃまあ何よりだね。僕なんぞもいつ死ぬかわからないが、……」
僕はちょっとSの顔を眺めた。SはやはりS自身は死なずに僕の死んだことを喜んでいる、――それをはっきり感じたのだった。するとSもその瞬間に僕の気もちを感じたと見え、
しばらく口を
「じゃ僕は失敬する。」
缶づめ屋の店には薄暗い中に白菊が幾鉢も置いてあった。僕はその店をちらりと見た時、なぜか「ああ、Sの家は青木堂の支店だった」と思った。
「君は今お父さんと一しょにいるの?」
「ああ、この間から。」
「じゃまた。」
僕はSに別れてから、すぐにその次の横町を
古いくぐり門や
妻は茶の間の
「子供は?」と僕は坐るなり尋ねた。
「きのう
「おじいさんは?」
「おじいさんは銀行へいらしったんでしょう。」
「じゃ誰もいないのかい?」
「ええ、あたしと静やだけ。」
妻は下を向いたまま、竹の皮に針を
「だって櫛部寓って
妻は驚いたように僕の顔を見上げた。その目はいつも
「出ているだろう?」
「ええ。」
「じゃその人はいるんだね?」
「ええ。」
妻はすっかり
「そりゃいてもかまわないさ。
僕は半ば僕自身を説得するように言いつづけた。
「お前だってまだ若いんだしするから、そんなことはとやかく言いはしない。ただその人さえちゃんとしていれば、……」
妻はもう一度僕の顔を見上げた。僕はその顔を眺めた時、とり返しのつかぬことの出来たのを感じた。同時にまた僕自身の顔色も見る見る血の気を失ったのを感じた。
「ちゃんとした人じゃないんだね?」
「あたしは悪い人とは思いませんけれど、……」
しかし妻自身も
「子供に父と言わせられる人か?」
「そんなことを言ったって、……」
「
妻は僕の
「何と言う
僕はじっとしてはいられない気になり、あとも見ずに書斎へはいって行った。すると書斎の
道はもう暮れかかっていた。のみならず道に敷いた石炭殻も
僕はおのずから目を覚ました。妻や赤子は
底本:「芥川龍之介全集6」ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年3月24日第1刷発行
1993(平成5)年2月25日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年2月1日公開
2004年3月9日修正
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