| 底本: | 芥川龍之介全集 第十一巻 |
| 出版社: | 岩波書店 |
| 初版発行日: | 1996(平成8)年9月9日発行 |
| 入力に使用: | 1996(平成8)年9月9日発行 |
売文に関する法律は不備を極めてゐるやうである。たとへば或雑誌社に若干枚の短篇を一つ渡し、若干円を貰つたとする。その時その若干金は小説そのものだけを売つた金か、それとも小説の書いてある若干枚の原稿用紙を売つた金か、法律には何とも規定されてゐない。これは我我の原稿ならば兎も角、夏目先生の原稿にでもなれば当然問題を生ずる筈である。が、まあそんなことはどうでも好い。差当り
たとへばこの間菊池寛は小説「義民甚兵衛」を三幕の戯曲に書直した。あれを菊池自身はやらずに、僕でも戯曲に書直したとする。その場合僕は友誼上、或は慣例上一応菊池の許可を待つた後、戯曲に書直すのに違ひない。のみならずその原稿料
それも芥川龍之介に著作権侵害を蒙つたのならば、まだしも菊池はあきらめられるであらう。少くとも絶交さへ申渡せば、大抵片はついてしまひさうである。が、何処の馬の骨ともわからぬ君子に素早い仕事をやられた時にも、やはり泣寝入りになり兼ねないと云ふのは、――
この法律上の不備に応ずる途は菊池寛のしたやうに、或は又ショオのしたやうに、戯曲になる小説のあつた時には作者自身戯曲に書直すことである。しかし戯曲を書かない作者は(一例を挙げれば僕の如き)おいそれと書直しの出来るものではない。するとかう云ふ一群の作者は丁度乱世の民のやうに、野武士の切取り強盗にも黙従しなければならない訳である。これは大正の聖代にも似合はぬ物騒さ加減と云はなければならぬ。
その外著作権の所在なども法規大全を覗いた限りでは
もう一つ
けれども同一の題材を二つに使はれぬと云ふ道理はない。いや、小説から戯曲にせずとも、小説から小説にもなる訳である。たとへば久米正雄などはたつた一つの失恋を無数の小説にしてゐるではないか?(と云ふのは久米を嘲るのではない。無数の失恋をしてゐる癖にたつた一つの小説も書けぬ新時代の青年に比べれば、数等久米は見上げたものである。)
尤も論者はかう云ふに違ひない。それは小説にした場合と異つた見地に立つた上、戯曲に書直した場合だけである。さもなければ如何に割引きしても、不明の非難だけは免れないであらう。――この説は一応尤もである。
勿論過去の不明もいかん、多少の効果を損ずるも
底本:「芥川龍之介全集 第十一巻」岩波書店
1996(平成8)年9月9日発行
入力:もりみつじゅんじ
校正:松永正敏
2002年5月17日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。