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忠義(ちゅうぎ)



しゅう」の意に従えば、「家」があやうい。「家」を立てようとすれば、「主」の意にもとる事になる。かつては、林右衛門も、この苦境に陥っていた。が、彼には「家」のために「主」を捨てる勇気がある。と云うよりは、むしろ、始からそれほど「主」を大事に思っていない。だから、彼は、容易たやすく、「家」のために「主」を犠牲ぎせいにした。
 しかし、自分には、それが出来ない。自分は、「家」の利害だけを計るには、余りに「しゅう」に親しみすぎている。「家」のために、ただ、「家」と云う名のために、どうして、現在の「主」を無理に隠居などさせられよう。自分の眼から見れば、今の修理も、破魔弓はまゆみこそ持たないものの、幼少の修理と変りがない。自分が絵解えどきをした絵本、自分が手をとって習わせた難波津なにわづの歌、それから、自分が尾をつけた紙鳶いかのぼり――そう云う物も、まざまざと、自分の記憶に残っている。……
 そうかと云って、「しゅう」をそのままにして置けば、独り「家」が亡びるだけではない。「主」自身にも凶事きょうじが起りそうである。利害の打算から云えば、林右衛門のとった策は、唯一ゆいいつの、そうしてまた、最も賢明なものに相違ない。自分も、それは認めている。その癖、それが、自分には、どうしても実行する事が出来ないのである。
 遠くで稲妻いなずまのする空の下を、修理の屋敷へ帰りながら、宇左衛門は悄然しょうぜんと腕を組んで、こんな事を何度となく胸の中で繰り返えした。

       ―――――――――――――――――――――――――

 修理しゅりは、翌日、宇左衛門から、佐渡守の云い渡した一部始終を聞くと、忽ち顔を曇らせた。が、それぎりで、格別いつものように、とりのぼせる気色けしきもない。宇左衛門は、気づかいながら、幾分か安堵あんどして、その日はそのまま、下って来た。
 それから、かれこれ十日ばかりの間、修理は、居間にとじこもって、毎日ぼんやり考え事に耽っていた。宇左衛門の顔を見ても、口をかない。いや、ただ一度、小雨こさめのふる日に、時鳥ほととぎすの啼く声を聞いて、「あれは鶯の巣をぬすむそうじゃな。」とつぶやいた事がある。その時でさえ、宇左衛門が、それをしおに、話しかけたが、彼は、また黙って、うす暗い空へ眼をやってしまった。そのほかは、勿論、おしのように口をつぐんで、じっと襖障子ふすましょうじを見つめている。顔には、何の感情も浮んでいない。
 所が、ある夜、十五日の総出仕が二三日の中に迫った時の事である。修理は突然宇左衛門をよびよせて、人払いの上、陰気な顔をしながら、こんな事を云った。
先達せんだって、佐渡殿も云われた通り、この病体では、とても御奉公は覚束おぼつかないようじゃ。ついては、身共もいっそ隠居しようかと思う。」
 宇左衛門は、ためらった。これが本心なら、元よりこれに越した事はないが、どうして、修理はそれほど容易に、家督を譲る気になれたのであろう。――
御尤ごもっともでございます。佐渡守様もあのように、仰せられますからは、残念ながら、そうなさるよりほかはございますまい。が、まず一応は、御一門衆へも……」
「いや、いや、隠居の儀なら、林右衛門の成敗とは変って、相談せずとも、一門衆は同意の筈じゃ。」
 修理、こう云って、苦々にがにがしげに、微笑した。
「さようでもございますまい。」
 宇左衛門は、いたましそうな顔をして、修理を見た。が、相手は、さらに耳へ入れる容子ようすもない。
「さて、隠居すれば、出仕しようと思うても出仕する事は出来ぬ。されば、」修理はじっと宇左衛門の顔を見ながら、一句一句、重みをはかるように、「その前に、今一度出仕して、西丸の大御所様(吉宗)へ、御目通りがしたい。どうじゃ。十五日に、登城とじょうさせてはくれまいか。」
 宇左衛門は、黙って、眉をひそめた。
「それも、たった一度じゃ。」
「恐れながら、その儀ばかりは。」
「いかぬか。」
 二人は、顔を見合せながら、黙った。しんとした部屋の中には、油を吸う燈心の音よりほかに、聞えるものはない。――宇左衛門は、この暫くの間を、一年のように長く感じた。佐渡守へ云い切った手前、それを修理に許しては自分の武士がたたないからである。
「佐渡殿の云われた事は、承知の上での頼みじゃ。」
 ほどを経て、修理が云った。
「登城を許せば、その方が、一門衆の不興ふきょうをうける事も、修理は、よう存じているが、思うて見い。修理は一門衆はもとより、家来けらいにも見離された乱心者じゃ。」
 そう云いながら、彼の声は、次第に感動のふるえを帯びて来た。見れば、眼も涙ぐんでいる。
「世のあざけりはうける。家督は人の手に渡す。天道の光さえ、修理にはささぬかと思うような身の上じゃ。その修理が、今生の望にただ一度、出仕したいと云う、それをこばむような宇左衛門ではあるまい。宇左衛門なら、この修理を、あわれとこそ思え、憎いとは思わぬ筈じゃ。修理は、宇左衛門を親とも思う。兄弟とも思う。親兄弟よりも、猶更なおさらなつかしいものと思う。広い世界に、修理がたのみに思うのは、ただその方一人きりじゃ。さればこそ、無理な頼みもする。が、これも決して、一生に二度とは云わぬ。ただ、今度こんど一度だけじゃ。宇左衛門、どうかこの心を察してくれい。どうかこの無理を許してくれい。これ、この通りじゃ。」
 彼は、家老の前へ両手をついて、涙を落しながら、ひたいを畳へつけようとした。宇左衛門は、感動した。
「御手をおあげ下さいまし。御手をおあげ下さいまし。勿体もったいのうございます。」
 彼は、修理しゅりの手をとって、無理に畳から離させた。そうして泣いた。すると、泣くに従って、彼の心には次第にある安心が、あふれるともなく、溢れて来る。――彼は涙のなかに、佐渡守の前で云い切ったことばを、再びありありと思い浮べた。
「よろしゅうございまする。佐渡守様が何とおっしゃりましょうとも、万一の場合には、宇左衛門皺腹しわばらつかまつれば、すむ事でございまする。わたくし一人ひとり粗忽そこつにして、きっと御登城おさせ申しましょう。」
 これを聞くと、修理の顔は、急に別人の如く喜びにかがやいた。その変り方には、役者のような巧みさがある。がまた、役者にないような自然さもある。――彼は、突然調子のはずれた笑い声をらした。
「おお、許してくれるか。かたじけない。忝いぞよ。」
 そう云って、彼は嬉しそうに、左右を顧みた。
「皆のもの、よう聞け。宇左衛門は、登城を許してくれたぞ。」
 人払いをした居間には、彼と宇左衛門のほかに誰もいない。皆のもの――宇左衛門は、気づかわしそうにひざを進めて、行燈あんどう火影ほかげに恐る恐る、修理の眼の中をうかがった。

     三 刃傷にんじょう

 延享えんきょう四年八月十五日の朝、五つ時過ぎに、修理しゅりは、殿中で、何の恩怨おんえんもない。肥後国熊本の城主、細川越中守宗教ほそかわえっちゅうのかみむねのり殺害せつがいした。その顛末てんまつは、こうである。

       ―――――――――――――――――――――――――

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