| 底本: | 坂口安吾全集3 |
| 出版社: | ちくま文庫、筑摩書房 |
| 初版発行日: | 1990(平成2)年2月27日 |
| 入力に使用: | 1990(平成2)年2月27日第1刷 |
| 校正に使用: | 1990(平成2)年2月27日第1刷 |
| 底本の親本: | 炉辺夜話集 |
| 出版社: | スタイル社 |
| 初版発行日: | 1941(昭和16)年4月20日 |
大震災から三年過ぎた年の話である。昨今隆盛を極めているアパートメントの走りがそろそろ現れた頃で、又青年子女が「資本論」という魔法使いの本に
然し、たまたま時世が時世であったから、人々は栗栖按吉の考え深い顔付を見ると、さては、という必要以上に大きな空気をごくりと呑んで、つまりこういう顔付が刑務所の鉄格子のあちら側にある顔だと思いこんでしまうのだった。即ち、これが「主義者づら」だと思ったのである。
栗栖按吉という男が、この時まで、
涅槃大学の印度哲学科には十三人の生徒がいた。栗栖按吉という場違い者を除いてみると、あとはみんな素性の正しい坊主であった。
坊主の子供が大学へはいる。一番先に何をする。一番先に毛を延すのだ。必要以上にポマードをたっぷりつけて、ああ畜生めなんだって帽子などいう意味のはっきりしないものがあるのだろうと考えるのだ。と、容易ならぬ事件が起きた。突然栗栖按吉がクリクリ坊主になって登校したのである。これはもう革命を愛する精神だ。十二人の同級生は悲憤の涙を流したのだった。
まったく、なさけなくなるのである。栗栖按吉は小学校の一年生と同じように大きな帽子をかぶっている。帽子の中には新聞紙が三日分も折りこんであるのである。按吉は教室へ這入ってくると、やがて大きな帽子をぬぎ、ハンケチを持たないから、ポケットから鼻紙をだして、クリクリ坊主をふくのであった。
「ねえ旦那。頭に傷がつくかも知れないね。なにぶん頭というものは、
「或る程度まで我慢します」と、按吉は冷静に答えたのだった。頭には頭蓋骨というものがある。頭を剃るということとハムマーで殴ることとは違うから、脳味噌に傷のできる憂いはない。それを充分心得ている顔付だった。フレンド軒は横を向いて息をのんだ。この
ところで栗栖按吉はここに奇怪な発見をして度を失った。というのは、毛髪を失った頭の熱いことといったら、これを一体誰が信じてくれるだろう。普通汗をかくというが、クリクリ坊主の頭からは汗が湧出し流れるのである。目へ流れこみ、鼻孔をふさぎ、口へ落ち、耳にたまり、遠慮会釈もなく背中へ胸へ流入する。これはもう頭自体が
人体に於て最も発汗する場所はどこか? 頭! 毛髪はなんのために存在するか? 汗をふせぐためである! ああ。医学博士でも生理学者でも、ここまで知っている筈はない。なぜなら彼等には毛髪があるから。――まったくもって栗栖按吉の思考にうっかりこだわっていると、私まで愚かな奴だと思われてしまう。私は急いで話をすすめなければならない。
無意味な先生は誰かと云えば、先生よりも
こんなにあっさりしたクラスに、先生の言葉を真剣にきいている生徒がいたらどうだろう。実際笑止で、気の毒なほど惨めなものだ。耳と耳の中間の風洞に壁を立て、先生の言葉をくいとめようと必死にもがいているのである。なんのためだか、てんで意味が分らない。一目見て、これはもう助からないほど頭の悪い奴だという印象を受けてしまうのである。第一こいつは何のために学校へ来ているのだろう。あまりのことに――いや、まったくだ。物質の貧困よりも、このような精神の貧困ほど陰惨で、みじめきわまるものはない。そこで先生は泣きだしたいほどがっかりして、学生の本分とは何か、とか、学校の精神は何か、もっと正々堂々たれ、惨めであるな、
即ち栗栖按吉がこのようなたった一人の惨めな生徒であったのである。
ここに坊主の子供達が御布施をくれたって俺はでないねという講座が二つあるのである。
けれども先生はやさしい心のお方だから、二学期になったというのに、まだひとり生徒が出席していても、決してお怒りにならないのだった。いつもやさしく、にこにこと講義をつづけて下さるのだが、幾分薄気味わるくお思いになるのであろう、というのは、この男が思い余った顔付をして質問したりするからで、この男が首をあげて今にも物を言いそうになると、先生は
梵語とか巴利語はなるほど大変難物だ。
梵語の方では名詞でも形容詞でも勝手気儘に変化する。ひとつひとつが自分勝手と言いたいほど不規則を極めている。だから辞書がひけないのである。
按吉はどこでどうして手に入れたかイギリス製の六十五円もする梵語辞典を持っていた。日本製の梵語辞典というものはないのである。これを十分も膝の上でめくっていると、膝関節がめきめきし、肩が
按吉の机の上にはこれも苦労して手に入れた「ラージャ・ヨーガ」という梵書とその英訳が置かれている。もう半年も第一頁を
先生はやさしい心のお方だから、時々按吉をいたわって下さるのである。
「いまに原書が読めるようにおなりでしょう」先生はにこにこと仰有るのだった。
「もうひと苦労でございます」
然し按吉にしてみると、六時間も七時間も辞書をめくった
「いえいえ。梵語はもうそれで
これは又心細い話である。これでは却々釈然と笑うわけにはいかないのである。そこで先生は益々浮かない顔付の生徒を見て、益々やさしく、いたわって下さる。
「梵語はあなた、まだまだ楽でございます」先生はにこにこ仰有るのである。「チベット語ときたら、これはもう私はあなた、もう満五年間というもの山口恵海先生に習っているのでございます。単語がもう何から何までひとつひとつが不規則変化。いまだに辞書がろくすっぽ引けは致しません。それでも帝大で講義致しております。大変つろうございます」
先生は帝大でチベット語の講師を務めていらっしゃるのであった。先生がいつもにこにこしていらっしゃるので、浮かないながら、按吉は次第に心気爽快になっていた。文法もよくお知りにならず、辞書もお引けにならなくとも、帝国大学で講義していらっしゃるのである。チベット語や梵語というものは、辞書が引けず、読むことができなくとも、ちゃんとそれで読めている結果になっているのかも知れぬ。そうして栗栖按吉は辞書もろくに引けないうちに、ちゃんと原書を読んでいる気持になってしまうのだった。
そのころ、栗栖按吉は不思議な学者と近づきになった。
この学者はゴール共和国のラテン大学校の卒業生で、言語学者であった。東洋の二十数ヶ国語に通じているという話なのである。鞍馬六蔵という大変雄大な姓名だったが、いかにも敏捷な学者らしく、五尺に足らないお方であった。
鞍馬先生は追分の下宿を二室占領して数千巻の書籍と共にくすぶっていたが、朝になると、大概脱脂綿にアルコールをしめして、丁寧に本を拭いていらっしゃる。というのは、最近鞍馬先生に夢遊病の症候が現れて、先生は夜中無意識のうちに歩行し、最も貴重な本箱に向って放尿し、またお眠りになる。そこで先生は毎朝目を覚して仰天し、アルコールで本をふく始末になるのであったが、夢遊病はとにかくとして、貴重な書物に放尿するに至っては、どうにも悲痛なことである。要するに夜中尿意に悩まなければいいのであるから、先生は午後になるとお茶をのまず、その上部屋の四隅へ
孤独の先生は思うに弟子が欲しかったのだ。けれどもペルシャ語だの安南語などいうものは、先生の方が月謝を払っても習ってくれる者がない。だから遂に見出したたった一人の弟子、栗栖按吉をいたわってくれることといったら涅槃大学校の梵語の先生も及ばないという風がある。
「その程度なら、君、語学を専攻するだけの
先生の言葉はなんとなくあらゆる物に心安い感じを起させる。ラテン大学校の天才だの安南の哲学者だのネパールの王様だのというものが友達のような気がするのである。日本の梵語学者なんてものは、どうも、俺の弟子に当る男じゃなかったかな、などいう気持についなってしまうのだった。
ところが先生は按吉に向って、大いに見込みがあるからチベット語を伝授しようと言う。二十世紀に仏教を勉強するほどの者なら、先ずチベット語をやらなければ話にならない、と仰有るのである。梵語や巴利語の文献はいくらも残存していないが、仏教関係の文献は殆んど全部チベット語に訳されて伝わっている。だから仏教はチベットから這入らなければ二十世紀の学者として
「いや、君々」と先生は仰有る。「チベット語は仏教のために存在する言語ではないです。君、興味のない印度哲学は即座に止すべきところだね。そしてチベット学者になりたまえ。元来チベット語の話せる人は日本に四五人いるいないの程度だぜ。即ち君は六人目だな。一ヶ国語に通じることはその国土と国民を征服したことになるんだぜ。そうだろう。君」
どうも先生の話はうますぎる。おだてには至って乗り易い按吉だったが、言葉を征服すれば国土と国民を征服したことになるという、女の人に道を尋ねて女の人が返事をしてくれれば、女の人をわが物にしたことになるというのと同じようなものじゃないか。尤も按吉が六人目のチベット学者になりかねないのは正真正銘のところらしく、即ち帝国大学の先生が文法もよくお知りにならず、辞書もおひけにならないことでも大概察しがつくのであった。
丁度そのころチベット語の大家山口恵海先生の所説で、古来から
この程度にわが国の古い文化に密接な関係があってみると、鞍馬先生のうますぎるおだてに乗るのは危険だと思いながらも、つい六人目の学者になるのも満更ではなさそうだという大きな気持になるのであった。
さあ按吉がチベット語の伝授を受ける快諾をすると、先生の勇み立つこと、それ教科書だ、辞書だ、文法書だ、参考書だ、チベットの事情に関する紹介書だ、これもやる、あれもやると按吉の膝の上へ積み重ねてくれる。と、按吉がこれをひそかに注意を怠らずにいたところが――というのは、これが相当問題が臭いからで――先生がこれらの書物を忙しく取り出してくる場所が、決して本箱の腰から上に当る場所ではないではないか。してみればこれはもう洗礼を受けたあれである。けれども学問の精神は遥か高遠なところにあるべきだから、按吉は膝の上の書物がたしかに湿っていても、これは神秘な書物だから汗をかいているのだなと考える。印度では糞便の始末を指先でするほどだから言語も多少は臭いなど自ら言いきかすのであった。
ところが、不思議な因縁で、チベット語はたしかに臭いのであった。というのは、先生は大変放屁をなさる癖があった。伝授の途中に「失礼」と仰有って、廊下へ出ていらっしゃる。戸をぴしゃりと閉じておしまいになるから、廊下でどのような姿勢をなすっていらっしゃるかは分らないが、大変音の良い円々とした感じのものを矢つぎばやに七つ八つお洩らしになる。夜更けでも陰気な雨の日でも、先生のこの音だけはいつも円々としていて、決して
ここで筆者は日本帝国の国威のために一言弁じなければならないが、帝国大学の先生が辞書がおひけにならなくともそれは日本帝国の不名誉にはならないという事である。なぜならば、ラテン大学校の秀才も、やっぱり辞書がおひけにならないからであった。先生は親切な方だから、生徒の代りに御自分で辞書をひいて下さる。按吉の面前でものの二三十分も激しい運動をなすっていらっしゃるが、なかなか単語が現れてくれないのである。そのうち失礼と仰有って廊下へ出ていらっしゃる。屁をたれて、なんとなく廊下を五六ぺん往復なすって、また失礼と仰有って、辞書を抱えて激しい運動をなさる。やっぱり単語が現れない。
そのうち按吉はチベット語の辞典といえば学者の健康のために作られたものではないかという風に考えていて、一分や二分で単語を探しだしてしまうのはチベット語本来の性質にそむくものだという風に思っていたから、先生の激しい運動に対しても決して先生がお出来にならないせいだなどと思うことはなかったが、然し先生が失礼と仰有って廊下へ出ていらっしゃる。なんとなく廊下を五六ぺん往復なすって、また失礼と仰有って戻っていらっしゃる。その先生の礼節がしみじみといたわしく、大変
「先生、放屁は僕に遠慮なさることは御無用に願います。
すると先生はその次放屁にお立ちのとき障子を開けようとして手をかけてから按吉の言葉を思い出されたのであろう、それではと仰有って振向いて、障子に尻を向けておいていつもの通り七ツ八ツお洩らしになった。そうして、その後はこの方法が習慣になったのである。ところがここに意外なことに、按吉は従来の定説を一気にくつがえす発見をした。これに就いては物識りの風来山人まで知ったか振りの断定を下しているほどであるが、大きな円々と響く屁は臭くないという古来の定説があるのである。ところが先生の屁ときたら、音は朗々たるものではあるが、スカンクも悶絶するほど臭いのである。即ち先生がなんとなく廊下を往復なすっていらっしゃったのは、