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我が人生観(わがじんせいかん)05 (五)国宝焼亡結構論

底本: 坂口安吾全集 09
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1998(平成10)年10月20日
入力に使用: 1998(平成10)年10月20日

底本の親本: 新潮 第四七巻第一〇号
初版発行日: 1950(昭和25)年10月1日

 

小生もついに別荘の七ツ八ツ風光明媚なるところにブッたてようという遠大千万なコンタンによって「捕物帳」をかくことゝなり、小説新潮の案内で、箱根の谷のドン底の温泉旅館へ行った。
 このへんは谷川といっても川の趣きではなくて、流れの全部が段をなした瀑布であり、四方にはホンモノの数百尺の飛瀑も落下している。音があると思う人には、これぐらいウルサクて頭痛の種のところもないかも知れないが、無神経の私には、こんなに音のないところはなかった。隣の話声も、帳場のラジオも、宴会室のドンチャン騒ぎも、蝉の声も、一切合財、きこえない。女中が唐紙をあけてはいってくるのが、跫音あしおとも、唐紙をあける音もきこえないから、忽然として、女中が現れている。忍術の要領である。文明国のどこを探しても、こんなに物音のないところはないのである。私はラジオの音が何より仕事の邪魔だが、ここではその心配が完全にない。大そう私向きの旅館であった。その代り、殺人事件があっても、きこえない。ここで捕物帳を書いていると、そういうことを時々考えてゾクゾクすることもあり、おのずから捕物帳の心境となって、探偵気分横溢しすぎるキライがないでもない。
 この旅館の庭は、何百貫という無数の大石で原形なく叩きつぶされている。アイオン颱風というもののイタズラである。
 私はこの川が海にそそぐところの、小田原市早川口というところの堤の下で洪水に見舞われたことがあるが、利根川の洪水とは、趣きが違う。利根川の洪水は、大陸的に漫々的で、巨人的であり、死神の国の茫々たる妖相にみちて静寂であるが、早川の洪水は違う。こんなウルサイ洪水はない。
 箱根山上千メートルの蘆ノ湖から目の下の河口まで直流してくる暗褐色の洪水が、太平洋の水面より四五米の余も高く、巨大な直線の防波堤となって、一マイルも遠く海中に突入しているのである。太平洋の荒波が、この水の防波堤につきよせ、ぶつかり、噴騰するが、暗褐色の直流する水勢の凄さは、海の荒波の如きは、なんの抵抗にもならないのである。荒波のさわぎを眼下にしたがえて、暗褐色の一直線の水流は海面上数米の高さにモックリとはるか水平線に向って長蛇の如くに突入している。遠く沖合に、荒波がこの防波堤に突き当って、噴騰し、山となって盛りあがり、シブキをあげているところもある。
 しかし、より以上に呆れるのは、ゴロゴロと、河底一面しっきりなしに遠雷がとどろいている音響である。何千何万の戦車が河底をしきならべて通っていても、これほどの音ではない。アスファルトの路面を通る戦車のつぶれたような通過音とちがって、こもりにこもった轟音である。
 私はこの音のイワレを理解することができなかった。数日後に水がひいて、河底が露出するまでは。
 洪水前までは小砂利だけしかなかった河底が、一面に、数百貫、時に千貫の余もあるかと思う岩石でしきつめられ積み重なっているのだ。それは遠く太平洋の海底に、一哩ちかく突入しているに相違ない。河底の轟音は、この岩石が山から海へぶつかり合って無限に突入してくるその音であった。洪水がすむと、河底にはトロッコがひきこまれ、無数の岩石は建築用として、洪水のなにがしかの代償となる。次の洪水がこないうちに、岩石はたちまち消えて、砂利だけの河底となってしまう。小さい河だから、一面しきつめ、つみ重なった岩石でも、タカの知れた数量なのである。あるいは、人間の消費する物の量というものが、洪水の怪力をもってしても歯が立たないほど、超自然的なものであるらしいのである。要するに、人間は自然に勝っている。そのちょッとした証拠でもある。
 私は戦時中、日映に勤めていたとき、「黄河」という文化映画の脚本を書こうとしたことがある。
 これは宣伝映画で、戦争中、シナ軍が退却に際して黄河の堤をきって水を落して逃げた、このために黄河の河口が数百里移動して揚子江にそそぐに至ったが、この日本軍の治水事業を宣伝映画にしようというわけだ。
 前篇、後篇に分れていて、後篇がこの宣伝映画であるが、前篇は純然たる文化映画で、黄河とはいかなる河であるか、その独特の性格を知らせるための芸術効果を主にしたもの、つまり治水事業の困難さを知らせる伏線的なものである。そして万人がその困難さを納得するに値するだけの雄大独自な個性をそなえた大河なのである。私は前篇の脚本を書くことになった。
 けれども、この命令をうけたのが、終戦の年である。後篇の宣伝映画の方はすでにニュースやその他の目的で撮影されたものが多くあって、それを編輯し、多少手を加えるだけで出来上るかも知れないが、私の受けもった方はそうはいかない。
 日本の諸都市はバクゲキで焼野原となり、大陸でも、敵軍の攻勢がはじまったという時に、悠長に黄河の流域を奥地まで撮影して歩けるものではない。
 しかし、あのころはヤブレカブレで万事につけて表裏一体をなしたものはないのだから、ハ、こんな映画を企画しております、と威勢よく言った方が上司の受けもよくて、ハ、あの辺はもう撮影ができませんから企画をひッこめました、などというと社長はこの敗戦主義者めと軍人にブンなぐられたのかも知れない。表面と裏面と、理想と現実と、全然仕事のツジツマが合いやしないが、命じる方も平気な顔、こっちも平気な顔、一切合財、日本中のあらゆる物がツジツマが合ってやしなかったのだ。
 とにかく戦争中は、酒をのむこともできないし、見物する見世物といってはないし、まことにヒマであるから、人生の愉しみは読書である。敗戦が目に見えていて、実にどうも全く目的というものの立てがたい毎日に、黄河という課題を与えられたのはモッケの幸いであるから、さッそくシナ研究所というようなところを訪ねて、学者たちから黄河について教えてもらう。しかし、黄河そのものは日本のシナ学者の研究対象ではないらしく、
「おききしたいのは、こッちですが、今の黄河はどこへそそいでいるんですか」
 と質問をうけた。ハッキリした発表がないから、黄河がそのときどこへそそいでいるか、シナ学者でも知らない筈であった。当時は揚子江へそそいでいた。
 学者たちがかき集めても、黄河に関する文献というものはいくらもない。当時入手しうるものほぼ全部をあつめて三十冊ぐらいのものであった。私はこれを空襲の合い間合い間に、ひっくりかえって、毎日読んでいた。読めば読むほど黄河という河はおもしろい。自然華北の農業とか、風習、文化、生活、歴史、それらを知りたくなる。私は商売をウッチャラかして、半年間この読書に没頭した。すると、戦争が終ってしまった。
 黄河は二三十年ごとに大洪水を起す。河南の潼関とうかんまでは山地であるから洪水にはならないが、ここから先の海まで五六百キロの平地は、北は天津てんしんから、南は南京の対岸まで、黄河が流れた跡なのである。
 潼関から上流の三千余キロというものは、河南、山西、陝西せんせい甘粛かんしゅくの黄土層を流れてくる。
 華北には雨季という特別のシーズンはない。時に、三日から十日ぐらいドシャ降りの降りつづく時がある。春先に多いが、他の季節にもある。黄土層にこのドシャ降りが降りつづくとつもりつもって黄河の大洪水となるのである。
 黄土層というところは木も草も一本ないハゲ山だ。ドシャ降りになると、山肌には無数のヒビができて、ヒビの中から泥の奔流がシブキをあげ滝となって斜面という斜面を落下して黄河へあつまる。これが深さ十数メートルの泥の流れとなって、シブキをあげて海へ走るのであるが、黄河の水は俗に水一斗につき泥六升という伝えがあって、だいたいに於て五〇パーセントの黄土を含み、水の流れではなくて、泥の流れなのである。
 この泥が黄河の底へたまるから、大雨のあとでは河床は一どに一米の余も高くなり、やがて平地よりも十数米も高くなってしまう。堤を高くしても追っつかない。二三十年目には、どうしても大洪水を起すという必然の運命になるのである。黄河の歴史のある限り洪水をくりかえしているのである。
 黄河治水は歴代の統治者の宿題であったが、今日に至るまで、成功した者はいない。二千年前に匙を投げた学者があって、堤をつくるのは下策である、水と地を争うというコンタンがマチガイの元で、水には逆わぬ方がいい。潼関から下流の人民をそっくり他の地へ移動させて、勝手に洪水にさせておくに限るという名論をはいた。なるほど、これに限る。さすれば洪水の悲劇というものは全然起らないが、その代り、最も肥沃な農作地帯に一粒の米も実らぬということになるだけの話である。
 だいたいシナという国は人口が多い。人間どもが繁殖しすぎる。こんなに繁殖すると、人口過剰で国運疲弊するが、洪水だのカンバツだのと天災が多くて、おかげで年々五十万もの百姓どもが死んでくれるので、ちょうどバランスがとれている。人口調節の天意であるから、天災には逆わん方がいい、という名論をはいた学者もいる。黄河治水は数千年来の難題であり、学者たちは、それぞれヤケ気味でもあるようである。悠々として成功を説いた歴代の学者に成功したタメシがないのだから、ヤケクソの方に名論が多い。
 洪水のたびに河口は移動して、一挙に数百キロも離れた海へそそぐような大変化を起す。洪水のあとは水が数年ひかなかったりするが、洪水地帯へ流れこんで一米から三米の厚さに堆積した黄土は新たに豊饒な沃野をつくり、豊かな作物を実らせてくれもするのである。もっとも、洪水がなければカンバツという天災があって、照るにつけ、降るにつけ、黄土地帯の農民は楽ではない。
 シナの歴史は黄河の歴史でもあり、黄河はシナ文化の温床でもあった。黄河治水に没頭十三年、わが家へ帰るのも忘れたというが治水の功によって王に挙げられて以来、孔子はここで王道を説き、三蔵法師は黄河をさかのぼって天竺てんじくへと志し、諸侯が争った中原ちゅうげんはこの黄土地帯であった。さらに遠く上は北京人類にさかのぼり、下はパールバックの大地に至る、人類の発生からヨーロッパ文明との交流期に至るまでシナ文化史の中枢を徹頭徹尾貫くことに相成った。
 日本王朝ならびに日本文化発祥の地、大和に於ても、古代日本を象徴する一本の川が流れていた。曰く、飛鳥川である。
 万葉の詩人は、有為転変の人の世を飛鳥川になぞらえて、昨日の淵は今日は瀬となる、と詠歎し、彼らの生活に於て変化の甚しきものは川の流れであることを素朴に表現しているのである。ジュウタン・バクゲキも鉄砲すらもなかった古代に於て、川の流れが、彼らの生命である土地に最も大きな変化を与える怪物であったことは、ジュウタン・バクゲキを数度にわたって経験した小生に於てすらも、文句なしにこれを認めることができる。早川口に於て、利根川に於て胆を冷やし、下っては書物で黄河を読んで舌を巻いたからである。
 しかしながら、飛鳥川というものは、川の幅が三間ぐらいしかないのである。山から流れてくるけれども、耳成山だの天ノ香具山だのウネビ山だのという箱庭程度の小づくりの山からチョロ/\と流れてきて、いにしえの帝都の盆地を走っているにすぎない。
 私が小田原で胆を冷やした早川は、谷底を九十九にまがった分を勘定しても、全長五里か七里ぐらいのものだろう。けれども、これは、千米の蘆ノ湖からたった五里か七里ぐらいで海へ突ッこんでしまうのだから、大雨至るや、ジュウタン・バクゲキをくらった男が改めてドギモをぬかれるほどの大きなことをやらかすのである。
 飛鳥川は玉川上水と同じぐらいの小川にすぎない。
 大黄河にもみまくられて育ったシナの歴史や文化にくらべれば、飛鳥川に有為転変の感懐を託していた日本文化の源流というものは、温室育ちも極端であり、あまりにも小さすぎて、いじらしく、悲しく、おかしく、異様ですらある。

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