間もなく塩引の
小十郎はちゃんとかしこまってそこへ腰掛けていかの切り込みを手の甲にのせてべろりとなめたりうやうやしく黄いろな酒を小さな
こんなふうだったから小十郎は熊どもは殺してはいても決してそれを憎んではいなかったのだ。ところがある年の夏こんなようなおかしなことが起ったのだ。
小十郎が谷をばちゃばちゃ
すると樹の上の熊はしばらくの間おりて小十郎に飛びかかろうかそのまま
「おまえは何がほしくておれを殺すんだ」
「ああ、おれはお前の毛皮と、
「もう二年ばかり待ってくれ、おれも死ぬのはもうかまわないようなもんだけれども少しし残した仕事もあるしただ二年だけ待ってくれ。二年目にはおれもおまえの家の前でちゃんと死んでいてやるから。毛皮も胃袋もやってしまうから」
小十郎は変な気がしてじっと考えて立ってしまいました。熊はそのひまに足うらを全体地面につけてごくゆっくりと歩き出した。小十郎はやっぱりぼんやり立っていた。熊はもう小十郎がいきなりうしろから鉄砲を射ったり決してしないことがよくわかってるというふうでうしろも見ないでゆっくりゆっくり歩いて行った。そしてその広い赤黒いせなかが木の枝の間から落ちた日光にちらっと光ったとき小十郎は、う、うとせつなそうにうなって谷をわたって帰りはじめた。それからちょうど二年目だったがある朝小十郎があんまり風が烈しくて木もかきねも倒れたろうと思って外へ出たらひのきのかきねはいつものようにかわりなくその下のところに始終見たことのある赤黒いものが横になっているのでした。ちょうど二年目だしあの熊がやって来るかと少し心配するようにしていたときでしたから小十郎はどきっとしてしまいました。そばに寄って見ましたらちゃんとあのこの前の熊が口からいっぱいに血を吐いて倒れていた。小十郎は思わず拝むようにした。
一月のある日のことだった。小十郎は朝うちを出るときいままで言ったことのないことを言った。
「
すると縁側の日なたで糸を紡いでいた九十になる小十郎の母はその見えないような眼をあげてちょっと小十郎を見て何か笑うか泣くかするような顔つきをした。小十郎はわらじを結えてうんとこさと立ちあがって出かけた。子供らはかわるがわる
小十郎はまっ白な堅雪の上を白沢の方へのぼって行った。
犬はもう息をはあはあし赤い舌を出しながら走ってはとまり走ってはとまりして行った。間もなく小十郎の影は丘の向うへ沈んで見えなくなってしまい子供らは
小十郎は白沢の岸を
白沢から峯を一つ越えたとこに一疋の大きなやつが
小十郎は谷に入って来る小さな支流を五つ越えて何べんも何べんも右から左左から右へ水をわたって溯って行った。そこに小さな滝があった。小十郎はその滝のすぐ下から長根の方へかけてのぼりはじめた。雪はあんまりまばゆくて燃えているくらい。小十郎は眼がすっかり紫の
小十郎は落ちついて足をふんばって鉄砲を構えた。熊は棒のような両手をびっこにあげてまっすぐに走って来た。さすがの小十郎もちょっと顔いろを変えた。
ぴしゃというように鉄砲の音が小十郎に聞えた。ところが熊は少しも倒れないで
「おお小十郎おまえを殺すつもりはなかった」
もうおれは死んだと小十郎は思った。そしてちらちらちらちら青い星のような光がそこらいちめんに見えた。
「これが死んだしるしだ。死ぬとき見る火だ。熊ども、ゆるせよ」と小十郎は思った。それからあとの小十郎の心持はもう私にはわからない。
とにかくそれから三日目の晩だった。まるで氷の玉のような月がそらにかかっていた。雪は青白く明るく水は
その栗の木と白い雪の峯々にかこまれた山の上の平らに黒い大きなものがたくさん
思いなしかその死んで凍えてしまった小十郎の顔はまるで生きてるときのように
底本:「風の又三郎」角川文庫、角川書店
1988(昭和63)年12月10日初版発行
1990(平成2)年10月20日8版発行
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2005年6月15日作成
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