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忠義(ちゅうぎ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-16 14:12:24  点击:  切换到繁體中文

底本: 芥川龍之介全集1
出版社: ちくま文庫、筑摩書房
初版発行日: 1986(昭和61)年9月24日
入力に使用: 1995(平成7)年10月5日第13刷
校正に使用: 1997(平成9)年4月15日第14刷


底本の親本: 筑摩全集類聚版芥川龍之介全集
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月

 

 一 前島林右衛門まえじまりんえもん

 板倉修理いたくらしゅりは、病後の疲労がやや恢復すると同時に、はげしい神経衰弱に襲われた。―― 
 肩がはる。頭痛がする。日頃好んでする書見にさえ、身がはいらない。廊下ろうかを通る人の足音とか、家中かちゅうの者の話声とかが聞えただけで、すぐ注意がみだされてしまう。それがだんだんこうじて来ると、今度はごく些細ささいな刺戟からも、絶えず神経をさいなまれるような姿になった。
 第一、莨盆たばこぼん蒔絵まきえなどが、黒地にきん唐草からくさわせていると、その細いつるや葉がどうも気になって仕方がない。そのほか象牙ぞうげはしとか、青銅の火箸とか云う先のとがった物を見ても、やはり不安になって来る。しまいには、畳のへりの交叉したかどや、天井の四隅よすみまでが、丁度刃物はものを見つめている時のような切ない神経の緊張を、感じさせるようになった。
 修理しゅりは、止むを得ず、毎日陰気な顔をして、じっと居間にいすくまっていた。何をどうするのも苦しい。出来る事なら、このまま存在の意識もなくなしてしまいたいと思う事が、度々ある。が、それは、ささくれた神経の方で、許さない。彼は、蟻地獄ありじごくに落ちた蟻のような、いら立たしい心で、彼の周囲を見まわした。しかも、そこにあるのは、彼の心もちに何の理解もない、いたずらに万一をおそれている「譜代ふだいの臣」ばかりである。「おれは苦しんでいる。が、誰も己の苦しみを察してくれるものがない。」――そう思う事が、既に彼には一倍の苦痛であった。
 修理の神経衰弱は、この周囲の無理解のために、一層昂進の度を早めたらしい。彼は、事毎ことごとに興奮した。隣屋敷まで聞えそうな声で、わめき立てた事も一再ではない。刀架かたなかけの刀に手のかかった事も、度々ある。そう云う時の彼はほとんど誰の眼にも、別人のようになってしまう。ふだん黄いろく肉の落ちた顔が、どこと云う事なく痙攣けいれんして眼の色まで妙に殺気立って来る。そうして、発作ほっさが甚しくなると、必ず左右のびんの毛を、ふるえる両手で、かきむしり始める。――近習きんじゅの者は、皆この鬢をむしるのを、彼の逆上した索引さくいんにした。そう云う時には、互にいましめ合って、誰も彼の側へ近づくものがない。
 発狂――こう云う怖れは、修理自身にもあった。周囲が、それを感じていたのは云うまでもない。修理は勿論、この周囲の持っている怖れには反感を抱いている。しかし彼自身の感ずる怖れには、始めから反抗のしようがない。彼は、発作が止んで、前よりも一層幽鬱な心が重く頭を圧して来ると、時としてこの怖れが、稲妻のように、おのれおびやかすのを意識した。そうして、同時にまた、そう云う怖れを抱くことが、既に発狂の予告のような、不吉ふきつな不安にさえ、襲われた。「発狂したらどうする。」
 ――そう思うと、彼は、にわかに眼の前が、暗くなるような心もちがした。
 勿論この怖れは、一方絶えず、外界の刺戟から来るいら立たしさに、かき消された。が、そのいら立たしさがまた、他方では、ややもすると、この怖れを眼ざめさせた。――云わば、修理の心は、自分の尾を追いかける猫のように、休みなく、不安から不安へと、廻転していたのである。

       ―――――――――――――――――――――――――

 修理しゅりのこの逆上は、少からず一家中の憂慮する所となった。中でも、これがために最も心を労したのは、家老の前島林右衛門りんえもんである。
 林右衛門は、家老と云っても、実は本家の板倉式部いたくらしきぶから、附人つけびととして来ているので、修理も彼には、日頃から一目いちもく置いていた。これはほとんど病苦と云うものの経験のない、あから顔の大男で、文武の両道にひいでている点では、家中かちゅうの侍で、彼の右に出るものは、幾人もない。そう云う関係上、彼はこれまで、始終修理に対して、意見番の役を勤めていた。彼が「板倉家の大久保彦左おおくぼひこざ」などと呼ばれていたのも、まったくこの忠諫ちゅうかんを進める所から来た渾名あだなである。
 林右衛門は、修理の逆上が眼に見えて、進み出して以来、夜の目も寝ないくらい、主家のために、心をわずらわした。――既に病気が本復した以上、修理は近日中に病緩びょうかんの御礼として、登城とじょうしなければならない筈である。所が、この逆上では、登城の際、附合つきあいの諸大名、座席同列の旗本仲間へ、どんな無礼を働くか知れたものではない。万一それから刃傷沙汰にんじょうざたにでもなった日には、板倉家七千石は、そのまま「お取りつぶし」になってしまう。殷鑑いんかんは遠からず、堀田稲葉ほったいなば喧嘩けんかにあるではないか。
 林右衛門は、こう思うと、居ても立っても、いられないような心もちがした。しかし彼に云わせると、逆上は「体の病」ではない。全く「心の病」である――彼はそこで、放肆ほうしいさめたり、奢侈しゃしを諫めたりするのと同じように、敢然として、修理の神経衰弱を諫めようとした。
 だから、林右衛門は、爾来じらい、機会さえあれば修理に苦諫くかんを進めた。が、修理の逆上は、少しも鎮まるけはいがない。むしろ、いさめれば諫めるほど、れれば焦れるほど、眼に見えて、進んで来る。現に一度などは、危く林右衛門を手討ちにさえ、しようとした。「しゅうしゅうとも思わぬ奴じゃ。本家の手前さえなくば、切ってすてようものを。」――そう云う修理の眼の中にあったものは、既に怒りばかりではない。林右衛門は、そこに、また消し難い憎しみの色をも、読んだのである。
 そのうちに、主従の間に纏綿てんめんする感情は、林右衛門の重ねる苦諫に従って、いつとなくすさんで来た。と云うのは、独り修理が林右衛門を憎むようになったと云うばかりではない。林右衛門の心にもまた、知らず知らず、修理に対する憎しみが、芽をふいて来た事を云うのである。勿論、彼は、この憎しみを意識してはいなかった。少くとも、最後の一刻を除いて、修理に対する彼の忠心は、終始変らないものと信じていた。「きみ君為きみたらざれば、臣臣為らず」――これは孟子もうしの「道」だったばかりではない。そのうしろには、人間の自然の「道」がある。しかし、林右衛門は、それを認めようとしなかった。……
 彼は、くまでも、臣節を尽そうとした。が、苦諫の効がない事は、既に苦い経験をめている。そこで、彼は、今まで胸中に秘していた、最後の手段に訴える覚悟をした。最後の手段と云うのは、ほかでもない。修理を押込め隠居にして、板倉一族の中から養子をむかえようと云うのである。――
 何よりもまず、「家」である。(林右衛門はこう思った。)当主は「家」の前に、犠牲にしなければならない。ことに、板倉本家は、乃祖だいそ板倉四郎左衛門勝重かつしげ以来、未嘗いまだかつて瑕瑾かきんを受けた事のない名家である。二代又左衛門重宗しげむねが、父の跡をうけて、所司代しょしだいとして令聞れいぶんがあったのは、数えるまでもない。その弟の主水重昌もんどしげまさは、慶長十九年大阪冬の陣の和がこうぜられた時に、判元見届はんもとみとどけの重任をかたじけなくしたのを始めとして、寛永十四年島原の乱に際しては西国さいごくの軍に将として、将軍家御名代ごみょうだいの旗を、天草あまくさ征伐の陣中にひるがえした。その名家に、万一汚辱を蒙らせるような事があったならば、どうしよう。臣子の分として、九原きゅうげんもと、板倉家累代るいだいの父祖にまみゆべきかんばせは、どこにもない。
 こう思った林右衛門は、ひそかに一族のうちを物色した。すると幸い、当時若年寄を勤めている板倉佐渡守さどのかみには、部屋住へやずみの子息が三人ある。その子息の一人を跡目あとめにして、養子願さえすれば、公辺こうへんの首尾は、どうにでもなろう。もっともこれは、事件の性質上修理や修理の内室には、密々で行わなければならない。彼は、ここまで思案をめぐらした時に、始めて、明るみへ出たような心もちがした。そうして、それと同時に今までに覚えなかったある悲しみが、おのずからその心もちを曇らせようとするのが、感じられた。「皆御家のためじゃ。」――そう云う彼の決心の中には、彼自身おぼろげにしか意識しない、何ものかを弁護しようとするある努力が、月のかさのようにそれとなく、つきまとっていたからである。

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