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忠義(ちゅうぎ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-16 14:12:24  点击:  切换到繁體中文



「主(しゅう)」の意に従えば、「家」が危(あやう)い。「家」を立てようとすれば、「主」の意に悖(もと)る事になる。嘗(かつて)は、林右衛門も、この苦境に陥っていた。が、彼には「家」のために「主」を捨てる勇気がある。と云うよりは、むしろ、始からそれほど「主」を大事に思っていない。だから、彼は、容易(たやす)く、「家」のために「主」を犠牲(ぎせい)にした。
 しかし、自分には、それが出来ない。自分は、「家」の利害だけを計るには、余りに「主(しゅう)」に親しみすぎている。「家」のために、ただ、「家」と云う名のために、どうして、現在の「主」を無理に隠居などさせられよう。自分の眼から見れば、今の修理も、破魔弓(はまゆみ)こそ持たないものの、幼少の修理と変りがない。自分が絵解(えど)きをした絵本、自分が手をとって習わせた難波津(なにわづ)の歌、それから、自分が尾をつけた紙鳶(いかのぼり)――そう云う物も、まざまざと、自分の記憶に残っている。……
 そうかと云って、「主(しゅう)」をそのままにして置けば、独り「家」が亡びるだけではない。「主」自身にも凶事(きょうじ)が起りそうである。利害の打算から云えば、林右衛門のとった策は、唯一(ゆいいつ)の、そうしてまた、最も賢明なものに相違ない。自分も、それは認めている。その癖、それが、自分には、どうしても実行する事が出来ないのである。
 遠くで稲妻(いなずま)のする空の下を、修理の屋敷へ帰りながら、宇左衛門は悄然(しょうぜん)と腕を組んで、こんな事を何度となく胸の中で繰り返えした。

       ―――――――――――――――――――――――――

 修理(しゅり)は、翌日、宇左衛門から、佐渡守の云い渡した一部始終を聞くと、忽ち顔を曇らせた。が、それぎりで、格別いつものように、とり上(のぼ)せる気色(けしき)もない。宇左衛門は、気づかいながら、幾分か安堵(あんど)して、その日はそのまま、下って来た。
 それから、かれこれ十日ばかりの間、修理は、居間にとじこもって、毎日ぼんやり考え事に耽っていた。宇左衛門の顔を見ても、口を利(き)かない。いや、ただ一度、小雨(こさめ)のふる日に、時鳥(ほととぎす)の啼く声を聞いて、「あれは鶯の巣をぬすむそうじゃな。」とつぶやいた事がある。その時でさえ、宇左衛門が、それを潮(しお)に、話しかけたが、彼は、また黙って、うす暗い空へ眼をやってしまった。そのほかは、勿論、唖(おし)のように口をつぐんで、じっと襖障子(ふすましょうじ)を見つめている。顔には、何の感情も浮んでいない。
 所が、ある夜、十五日の総出仕が二三日の中に迫った時の事である。修理は突然宇左衛門をよびよせて、人払いの上、陰気な顔をしながら、こんな事を云った。
「先達(せんだって)、佐渡殿も云われた通り、この病体では、とても御奉公は覚束(おぼつか)ないようじゃ。ついては、身共もいっそ隠居しようかと思う。」
 宇左衛門は、ためらった。これが本心なら、元よりこれに越した事はないが、どうして、修理はそれほど容易に、家督を譲る気になれたのであろう。――
「御尤(ごもっと)もでございます。佐渡守様もあのように、仰せられますからは、残念ながら、そうなさるよりほかはございますまい。が、まず一応は、御一門衆へも……」
「いや、いや、隠居の儀なら、林右衛門の成敗とは変って、相談せずとも、一門衆は同意の筈じゃ。」
 修理、こう云って、苦々(にがにが)しげに、微笑した。
「さようでもございますまい。」
 宇左衛門は、傷(いたま)しそうな顔をして、修理を見た。が、相手は、さらに耳へ入れる容子(ようす)もない。
「さて、隠居すれば、出仕しようと思うても出仕する事は出来ぬ。されば、」修理はじっと宇左衛門の顔を見ながら、一句一句、重みを量(はか)るように、「その前に、今一度出仕して、西丸の大御所様(吉宗)へ、御目通りがしたい。どうじゃ。十五日に、登城(とじょう)させてはくれまいか。」
 宇左衛門は、黙って、眉をひそめた。
「それも、たった一度じゃ。」
「恐れながら、その儀ばかりは。」
「いかぬか。」
 二人は、顔を見合せながら、黙った。しんとした部屋の中には、油を吸う燈心の音よりほかに、聞えるものはない。――宇左衛門は、この暫くの間を、一年のように長く感じた。佐渡守へ云い切った手前、それを修理に許しては自分の武士がたたないからである。
「佐渡殿の云われた事は、承知の上での頼みじゃ。」
 ほどを経て、修理が云った。
「登城を許せば、その方が、一門衆の不興(ふきょう)をうける事も、修理は、よう存じているが、思うて見い。修理は一門衆はもとより、家来(けらい)にも見離された乱心者じゃ。」
 そう云いながら、彼の声は、次第に感動のふるえを帯びて来た。見れば、眼も涙ぐんでいる。
「世の嘲(あざけ)りはうける。家督は人の手に渡す。天道の光さえ、修理にはささぬかと思うような身の上じゃ。その修理が、今生の望にただ一度、出仕したいと云う、それをこばむような宇左衛門ではあるまい。宇左衛門なら、この修理を、あわれとこそ思え、憎いとは思わぬ筈じゃ。修理は、宇左衛門を親とも思う。兄弟とも思う。親兄弟よりも、猶更(なおさら)なつかしいものと思う。広い世界に、修理がたのみに思うのは、ただその方一人きりじゃ。さればこそ、無理な頼みもする。が、これも決して、一生に二度とは云わぬ。ただ、今度(こんど)一度だけじゃ。宇左衛門、どうかこの心を察してくれい。どうかこの無理を許してくれい。これ、この通りじゃ。」
 彼は、家老の前へ両手をついて、涙を落しながら、額(ひたい)を畳へつけようとした。宇左衛門は、感動した。
「御手をおあげ下さいまし。御手をおあげ下さいまし。勿体(もったい)のうございます。」
 彼は、修理(しゅり)の手をとって、無理に畳から離させた。そうして泣いた。すると、泣くに従って、彼の心には次第にある安心が、溢(あふ)れるともなく、溢れて来る。――彼は涙の中(なか)に、佐渡守の前で云い切った語(ことば)を、再びありありと思い浮べた。
「よろしゅうございまする。佐渡守様が何とおっしゃりましょうとも、万一の場合には、宇左衛門皺腹(しわばら)を仕(つかまつ)れば、すむ事でございまする。私(わたくし)一人(ひとり)の粗忽(そこつ)にして、きっと御登城おさせ申しましょう。」
 これを聞くと、修理の顔は、急に別人の如く喜びにかがやいた。その変り方には、役者のような巧みさがある。がまた、役者にないような自然さもある。――彼は、突然調子の外(はず)れた笑い声を洩(も)らした。
「おお、許してくれるか。忝(かたじけな)い。忝いぞよ。」
 そう云って、彼は嬉しそうに、左右を顧みた。
「皆のもの、よう聞け。宇左衛門は、登城を許してくれたぞ。」
 人払いをした居間には、彼と宇左衛門のほかに誰もいない。皆のもの――宇左衛門は、気づかわしそうに膝(ひざ)を進めて、行燈(あんどう)の火影(ほかげ)に恐る恐る、修理の眼の中を窺(うかが)った。

     三 刃傷(にんじょう)

 延享(えんきょう)四年八月十五日の朝、五つ時過ぎに、修理(しゅり)は、殿中で、何の恩怨(おんえん)もない。肥後国熊本の城主、細川越中守宗教(ほそかわえっちゅうのかみむねのり)を殺害(せつがい)した。その顛末(てんまつ)は、こうである。

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