日本文学全集12 国木田独歩・石川啄木集 |
集英社 |
1967(昭和42)年9月7日 |
1972(昭和47)年9月10日第9版 |
呼吸すれば、
胸の中にて鳴る音あり。
凩よりもさびしきその音!
眼閉づれど、
心にうかぶ何もなし。
さびしくも、また、眼をあけるかな。
途中にてふと気が変り、
つとめ先を休みて、今日も、
河岸をさまよへり。
咽喉がかわき、
まだ起きてゐる果物屋を探しに行きぬ。
秋の夜ふけに。
遊びに出て子供かへらず、
取り出して
走らせて見る玩具の機関車。
本を買ひたし、本を買ひたしと、
あてつけのつもりではなけれど、
妻に言ひてみる。
旅を思ふ夫の心!
叱り、泣く、妻子の心!
朝の食卓!
家を出て五町ばかりは、
用のある人のごとくに
歩いてみたれど――
痛む歯をおさへつつ、
日が赤赤と、
冬の靄の中にのぼるを見たり。
いつまでも歩いてゐねばならぬごとき
思ひ湧き来ぬ、
深夜の町町。
なつかしき冬の朝かな。
湯をのめば、
湯気がやはらかに、顔にかかれり。
何となく、
今朝は少しく、わが心明るきごとし。
手の爪を切る。
うっとりと
本の挿絵に眺め入り、
煙草の煙吹きかけてみる。
途中にて乗換の電車なくなりしに、
泣かうかと思ひき。
雨も降りてゐき。
二晩おきに、
夜の一時頃に切通の坂を上りしも――
勤めなればかな。
しっとりと
酒のかをりにひたりたる
脳の重みを感じて帰る。
今日もまた酒のめるかな!
酒のめば
胸のむかつく癖を知りつつ。
何事か今我つぶやけり。
かく思ひ、
目をうちつぶり、酔ひを味ふ。
すっきりと酔ひのさめたる心地よさよ!
夜中に起きて、
墨を磨るかな。
真夜中の出窓に出でて、
欄干の霜に
手先を冷やしけるかな。
どうなりと勝手になれといふごとき
わがこのごろを
ひとり恐るる。
手も足もはなればなれにあるごとき
ものうき寝覚!
かなしき寝覚!
朝な朝な
撫でてかなしむ、
下にして寝た方の腿のかろきしびれを。
曠野ゆく汽車のごとくに、
このなやみ、
ときどき我の心を通る。
みすぼらしき郷里の新聞ひろげつつ、
誤植ひろへり。
今朝のかなしみ。
誰か我を
思ふ存分叱りつくる人あれと思ふ。
何の心ぞ。
何がなく
初恋人のおくつきに詣づるごとし。
郊外に来ぬ。
なつかしき
故郷にかへる思ひあり、
久し振りにて汽車に乗りしに。
新しき明日の来るを信ずといふ
自分の言葉に
嘘はなけれど――
考へれば、
ほんとに欲しと思ふこと有るやうで無し。
煙管をみがく。
今日ひょいと山が恋しくて
山に来ぬ。
去年腰掛けし石をさがすかな。
朝寝して新聞読む間なかりしを
負債のごとく
今日も感ずる。
よごれたる手をみる――
ちゃうど
この頃の自分の心に対ふがごとし。
よごれたる手を洗ひし時の
かすかなる満足が
今日の満足なりき。
年明けてゆるめる心!
うっとりと
来し方をすべて忘れしごとし。
昨日まで朝から晩まで張りつめし
あのこころもち
忘れじと思へど。
戸の面には羽子突く音す。
笑う声す。
去年の正月にかへれるごとし。
何となく、
今年はよい事あるごとし。
元日の朝、晴れて風無し。
腹の底より欠伸もよほし
ながながと欠伸してみぬ、
今年の元日。
いつの年も、
似たよな歌を二つ三つ
年賀の文に書いてよこす友。
正月の四日になりて
あの人の
年に一度の葉書も来にけり。
世におこなひがたき事のみ考へる
われの頭よ!
今年もしかるか。
人がみな
同じ方角に向いて行く。
それを横より見てゐる心。
いつまでか、
この見飽きたる懸額を
このまま懸けておくことやらむ。
ぢりぢりと、
蝋燭の燃えつくるごとく、
夜となりたる大晦日かな。
青塗の瀬戸の火鉢によりかかり、
眼閉ぢ、眼を開け、
時を惜めり。
何となく明日はよき事あるごとく
思ふ心を
叱りて眠る。
過ぎゆける一年のつかれ出しものか、
元日といふに
うとうと眠し。
それとなく
その由るところ悲しまる、
元日の午後の眠たき心。
ぢっとして、
蜜柑のつゆに染まりたる爪を見つむる
心もとなさ!
手を打ちて
眠気の返事きくまでの
そのもどかしさに似たるもどかしさ!
やみがたき用を忘れ来ぬ――
途中にて口に入れたる
ゼムのためなりし。
すっぽりと蒲団をかぶり、
足をちぢめ、
舌を出してみぬ、誰にともなしに。
いつしかに正月も過ぎて、
わが生活が
またもとの道にはまり来れり。
神様と議論して泣きし――
あの夢よ!
四日ばかりも前の朝なりし。
家にかへる時間となるを、
ただ一つの待つことにして、
今日も働けり。
いろいろの人の思はく
はかりかねて、
今日もおとなしく暮らしたるかな。
おれが若しこの新聞の主筆ならば、
やらむ――と思ひし
いろいろの事!
石狩の空知郡の
牧場のお嫁さんより送り来し
バタかな。
外套の襟に頤を埋め、
夜ふけに立どまりて聞く。
よく似た声かな。
Yといふ符牒、
古日記の処処にあり――
Yとはあの人の事なりしかな。
百姓の多くは酒をやめしといふ。
もっと困らば、
何をやめるらむ。
目さまして直ぐの心よ!
年よりの家出の記事にも
涙出でたり。
人とともに事をはかるに
適せざる、
わが性格を思ふ寝覚かな。
何となく、
案外に多き気もせらる、
自分と同じこと思ふ人。
自分よりも年若き人に、
半日も気焔を吐きて、
つかれし心!
珍らしく、今日は、
議会を罵りつつ涙出でたり。
うれしと思ふ。
ひと晩に咲かせてみむと、
梅の鉢を火に焙りしが、
咲かざりしかな。
あやまちて茶碗をこはし、
物をこはす気持のよさを、
今朝も思へる。
猫の耳を引っぱりてみて、
にゃと啼けば、
びっくりして喜ぶ子供の顔かな。
何故かうかとなさけなくなり、
弱い心を何度も叱り、
金かりに行く。
待てど待てど、
来る筈の人の来ぬ日なりき、
机の位置を此処に変へしは。
古新聞!
おやここにおれの歌の事を賞めて書いてあり、
二三行なれど。
引越しの朝の足もとに落ちてゐぬ、
女の写真!
忘れゐし写真!
その頃は気もつかざりし
仮名ちがひの多きことかな、
昔の恋文!
八年前の
今のわが妻の手紙の束!
何処に蔵ひしかと気にかかるかな。
眠られぬ癖のかなしさよ!
すこしでも
眠気がさせば、うろたへて寝る。
笑ふにも笑はれざりき――
長いこと捜したナイフの
手の中にありしに。
この四五年、
空を仰ぐといふことが一度もなかりき。
かうもなるものか?
原稿紙にでなくては
字を書かぬものと、
かたく信ずる我が児のあどけなさ!
どうかかうか、今月も無事に暮らしたりと、
外に欲もなき
晦日の晩かな。
あの頃はよく嘘を言ひき。
平気にてよく嘘を言ひき。
汗が出づるかな。
古手紙よ!
あの男とも、五年前は、
かほど親しく交はりしかな。
名は何と言ひけむ。
姓は鈴木なりき。
今はどうして何処にゐるらむ。
生れたといふ葉書みて、
ひとしきり、
顔をはれやかにしてゐたるかな。
そうれみろ、
あの人も子をこしらへたと、
何か気の済む心地にて寝る。
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