『石川はふびんな奴だ。』
ときにかう自分で言ひて、
かなしみてみる。
ドア推してひと足出れば、
病人の目にはてもなき
長廊下かな。
重い荷を下したやうな、
気持なりき、
この寝台の上に来ていねしとき。
そんならば生命が欲しくないのかと、
医者に言はれて、
だまりし心!
真夜中にふと目がさめて、
わけもなく泣きたくなりて、
蒲団をかぶれる。
話しかけて返事のなきに
よく見れば、
泣いてゐたりき、隣の患者。
病室の窓にもたれて、
久しぶりに巡査を見たりと、
よろこべるかな。
晴れし日のかなしみの一つ!
病室の窓にもたれて
煙草を味ふ。
夜おそく何処やらの室の騒がしきは
人や死にたらむと、
息をひそむる。
脉をとる看護婦の手の、
あたたかき日あり、
つめたく堅き日もあり。
病院に入りて初めての夜といふに、
すぐ寝入りしが、
物足らぬかな。
何となく自分をえらい人のやうに
思ひてゐたりき。
子供なりしかな。
ふくれたる腹を撫でつつ、
病院の寝台に、ひとり、
かなしみてあり。
目さませば、からだ痛くて
動かれず。
泣きたくなりて、夜明くるを待つ。
びっしょりと寝汗出てゐる
あけがたの
まだ覚めやらぬ重きかなしみ。
ぼんやりとした悲しみが、
夜となれば、
寝台の上にそっと来て乗る。
病院の窓によりつつ、
いろいろの人の
元気に歩くを眺む。
もうお前の心底をよく見届けたと、
夢に母来て
泣いてゆきしかな。
思ふこと盗みきかるる如くにて、
つと胸を引きぬ――
聴診器より。
看護婦の徹夜するまで、
わが病ひ、
わるくなれとも、ひそかに願へる。
病院に来て、
妻や子をいつくしむ
まことの我にかへりけるかな。
もう嘘をいはじと思ひき――
それは今朝――
今また一つ嘘をいへるかな。
何となく、
自分を嘘のかたまりの如く思ひて、
目をばつぶれる。
今までのことを
みな嘘にしてみれど、
心すこしも慰まざりき。
軍人になると言ひ出して、
父母に
苦労させたる昔の我かな。
うっとりとなりて、
剣をさげ、馬にのれる己が姿を
胸に描ける。
藤沢といふ代議士を
弟のごとく思ひて、
泣いてやりしかな。
何か一つ
大いなる悪事しておいて、
知らぬ顔してゐたき気持かな。
ぢっとして寝ていらっしゃいと
子供にでもいふがごとくに
医者のいふ日かな。
氷嚢の下より
まなこ光らせて、
寝られぬ夜は人をにくめる。
春の雪みだれて降るを
熱のある目に
かなしくも眺め入りたる。
人間のその最大のかなしみが
これかと
ふっと目をばつぶれる。
廻診の医者の遅さよ!
痛みある胸に手をおきて
かたく眼をとづ。
医者の顔色をぢっと見し外に
何も見ざりき――
胸の痛み募る日。
病みてあれば心も弱るらむ!
さまざまの
泣きたきことが胸にあつまる。
寝つつ読む本の重さに
つかれたる
手を休めては、物を思へり。
今日はなぜか、
二度も、三度も、
金側の時計を一つ欲しと思へり。
いつか是非、出さんと思ふ本のこと、
表紙のことなど、
妻に語れる。
胸いたみ、
春の霙の降る日なり。
薬に噎せて、伏して眼をとづ。
あたらしきサラドの色の
うれしさに、
箸をとりあげて見は見つれども――
子を叱る、あはれ、この心よ。
熱高き日の癖とのみ
妻よ、思ふな。
運命の来て乗れるかと
うたがひぬ――
蒲団の重き夜半の寝覚めに。
たへがたき渇き覚ゆれど、
手をのべて
林檎とるだにものうき日かな。
氷嚢のとけて温めば、
おのづから目がさめ来り、
からだ痛める。
いま、夢に閑古鳥を聞けり。
閑古鳥を忘れざりしが
かなしくあるかな。
ふるさとを出でて五年、
病をえて、
かの閑古鳥を夢にきけるかな。
閑古鳥――
渋民村の山荘をめぐる林の
あかつきなつかし。
ふるさとの寺の畔の
ひばの木の
いただきに来て啼きし閑古鳥!
脈をとる手のふるひこそ
かなしけれ――
医者に叱られし若き看護婦!
いつとなく記憶に残りぬ――
Fといふ看護婦の手の
つめたさなども。
はづれまで一度ゆきたしと
思ひゐし
かの病院の長廊下かな。
起きてみて、
また直ぐ寝たくなる時の
力なき眼に愛でしチュリップ!
堅く握るだけの力も無くなりし
やせし我が手の
いとほしさかな。
わが病の
その因るところ深く且つ遠きを思ふ。
目をとぢて思ふ。
かなしくも、
病いゆるを願はざる心我に在り。
何の心ぞ。
新しきからだを欲しと思ひけり、
手術の傷の
痕を撫でつつ。
薬のむことを忘るるを、
それとなく、
たのしみに思ふ長病かな。
ボロオヂンといふ露西亜名が、
何故ともなく、
幾度も思ひ出さるる日なり。
いつとなく我にあゆみ寄り、
手を握り、
またいつとなく去りゆく人人!
友も妻もかなしと思ふらし――
病みても猶、
革命のこと口に絶たねば。
やや遠きものに思ひし
テロリストの悲しき心も――
近づく日のあり。
かかる目に
すでに幾度会へることぞ!
成るがままに成れと今は思ふなり。
月に三十円もあれば、田舎にては、
楽に暮せると――
ひょっと思へる。
今日もまた胸に痛みあり。
死ぬならば、
ふるさとに行きて死なむと思ふ。
いつしかに夏となれりけり。
やみあがりの目にこころよき
雨の明るさ!
病みて四月――
そのときどきに変りたる
くすりの味もなつかしきかな。
病みて四月――
その間にも、猶、目に見えて、
わが子の背丈のびしかなしみ。
すこやかに、
背丈のびゆく子を見つつ、
われの日毎にさびしきは何ぞ。
まくら辺に子を坐らせて、
まじまじとその顔を見れば、
逃げてゆきしかな。
いつも子を
うるさきものに思ひゐし間に、
その子、五歳になれり。
その親にも、
親の親にも似るなかれ――
かく汝が父は思へるぞ、子よ。
かなしきは、
(われもしかりき)
叱れども、打てども泣かぬ児の心なる。
「労働者」「革命」などといふ言葉を
聞きおぼえたる
五歳の子かな。
時として、
あらん限りの声を出し、
唱歌をうたふ子をほめてみる。
何思ひけむ――
玩具をすてておとなしく、
わが側に来て子の坐りたる。
お菓子貰ふ時も忘れて、
二階より、
町の往来を眺むる子かな。
新しきインクの匂ひ、
目に沁むもかなしや。
いつか庭の青めり。
ひとところ、畳を見つめてありし間の
その思ひを、
妻よ、語れといふか。
あの年のゆく春のころ、
眼をやみてかけし黒眼鏡――
こはしやしにけむ。
薬のむことを忘れて、
ひさしぶりに、
母に叱られしをうれしと思へる。
枕辺の障子あけさせて、
空を見る癖もつけるかな――
長き病に。
おとなしき家畜のごとき
心となる、
熱やや高き日のたよりなさ。
何か、かう、書いてみたくなりて、
ペンを取りぬ――
花活の花あたらしき朝。
放たれし女のごとく、
わが妻の振舞ふ日なり。
ダリヤを見入る。
あてもなき金などを待つ思ひかな。
寝つ起きつして、
今日も暮したり。
何もかもいやになりゆく
この気持よ。
思ひ出しては煙草を吸ふなり。
或る市にゐし頃の事として、
友の語る
恋がたりに嘘の交るかなしさ。
ひさしぶりに、
ふと声を出して笑ひてみぬ――
蝿の両手を揉むが可笑しさに。
胸いたむ日のかなしみも、
かをりよき煙草の如く、
棄てがたきかな。
何か一つ騒ぎを起してみたかりし、
先刻の我を
いとしと思へる。
五歳になる子に、何故ともなく、
ソニヤといふ露西亜名をつけて、
呼びてはよろこぶ。
*
解けがたき
不和のあひだに身を処して、
ひとりかなしく今日も怒れり。
猫を飼はば、
その猫がまた争ひの種となるらむ、
かなしきわが家。
俺ひとり下宿屋にやりてくれぬかと、
今日もあやふく、
いひ出でしかな。
ある日、ふと、やまひを忘れ、
牛の啼く真似をしてみぬ、――
妻子の留守に。
かなしきは我が父!
今日も新聞を読みあきて、
庭に小蟻と遊べり。
ただ一人の
をとこの子なる我はかく育てり。
父母もかなしかるらむ。
茶まで断ちて、
わが平復を祈りたまふ
母の今日また何か怒れる。
今日ひょっと近所の子等と遊びたくなり、
呼べど来らず。
こころむづかし。
やまひ癒えず、
死なず、
日毎にこころのみ険しくなれる七八月かな。
買ひおきし
薬つきたる朝に来し
友のなさけの為替のかなしさ。
児を叱れば、
泣いて、寝入りぬ。
口すこしあけし寝顔にさはりてみるかな。
何がなしに
肺が小さくなれる如く思ひて起きぬ――
秋近き朝。
秋近し!
電燈の球のぬくもりの
さはれば指の皮膚に親しき。
ひる寝せし児の枕辺に
人形を買ひ来てかざり、
ひとり楽しむ。
クリストを人なりといへば、
妹の眼がかなしくも、
われをあはれむ。
縁先にまくら出させて、
ひさしぶりに、
ゆふべの空にしたしめるかな。
庭のそとを白き犬ゆけり。
ふりむきて、
犬を飼はむと妻にはかれる。
●表記について
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