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外科室(げかしつ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-22 13:19:40  点击:  切换到繁體中文


 夫人の面は蒼然そうぜんとして、
「どうしてもきませんか。それじゃ全快なおっても死んでしまいます。いいからこのままで手術をなさいと申すのに」
 と真白く細き手を動かし、かろうじて衣紋えもんを少しくつろげつつ、玉のごとき胸部をあらわし、
「さ、殺されても痛かあない。ちっとも動きやしないから、だいじょうぶだよ。切ってもいい」
 決然として言い放てる、辞色ともに動かすべからず。さすが高位の御身とて、威厳あたりを払うにぞ、満堂ひとしく声をみ、高きしわぶきをも漏らさずして、寂然せきぜんたりしその瞬間、先刻さきよりちとの身動きだもせで、死灰のごとく、見えたる高峰、軽く見を起こして椅子いすを離れ、
「看護婦、メスを」
「ええ」と看護婦の一人は、目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはりて猶予ためらえり。一同斉しく愕然がくぜんとして、医学士の面をみまもるとき、他の一人の看護婦は少しく震えながら、消毒したるメスを取りてこれを高峰に渡したり。
 医学士は取るとそのまま、靴音くつおと軽く歩を移してつと手術台に近接せり。
 看護婦はおどおどしながら、
「先生、このままでいいんですか」
「ああ、いいだろう」
「じゃあ、お押え申しましょう」
 医学士はちょっと手をげて、軽く押しとどめ、
「なに、それにも及ぶまい」
 謂う時はやくその手はすでに病者の胸をけたり。夫人は両手を肩に組みて身動きだもせず。
 かかりしとき医学士は、誓うがごとく、深重厳粛たる音調もて、
「夫人、責任を負って手術します」
 ときに高峰の風采ふうさいは一種神聖にして犯すべからざる異様のものにてありしなり。
「どうぞ」と一言いらえたる、夫人が蒼白なる両のほおけるがごとき紅を潮しつ。じっと高峰を見詰めたるまま、胸に臨めるナイフにもまなこふさがんとはなさざりき。
 と見れば雪の寒紅梅、血汐ちしおは胸よりつと流れて、さと白衣びゃくえを染むるとともに、夫人の顔はもとのごとく、いと蒼白あおじろくなりけるが、はたせるかな自若として、足の指をも動かさざりき。
 ことのここに及べるまで、医学士の挙動脱兎だっとのごとく神速にしていささかかんなく、伯爵夫人の胸をくや、一同はもとよりかの医博士にいたるまで、ことばさしはさむべき寸隙すんげきとてもなかりしなるが、ここにおいてか、わななくあり、面をおおうあり、背向そがいになるあり、あるいはこうべるるあり、予のごとき、われを忘れて、ほとんど心臓まで寒くなりぬ。
 三セコンドにして渠が手術は、ハヤその佳境に進みつつ、メス骨に達すと覚しきとき、
「あ」と深刻なる声を絞りて、二十日以来寝返りさえもえせずと聞きたる、夫人は俄然がぜん器械のごとく、その半身を跳ね起きつつ、とう取れる高峰が右手めてかいなに両手をしかと取りすがりぬ。
「痛みますか」
「いいえ、あなただから、あなただから」
 かく言いけて伯爵夫人は、がっくりと仰向あおむきつつ、凄冷せいれいきわまりなき最後のまなこに、国手こくしゅをじっとみまもりて、
「でも、あなたは、あなたは、わたくしを知りますまい!」
 謂うときおそし、高峰が手にせるメスに片手を添えて、乳の下深く掻き切りぬ。医学士は真蒼まっさおになりておののきつつ、
「忘れません」
 その声、その呼吸いき、その姿、その声、その呼吸、その姿。伯爵夫人はうれしげに、いとあどけなき微笑えみを含みて高峰の手より手をはなし、ばったり、枕に伏すとぞ見えし、くちびるの色変わりたり。
 そのときの二人がさま、あたかも二人の身辺には、天なく、地なく、社会なく、全く人なきがごとくなりし。

       下

 数うれば、はや九年前なり。高峰がそのころはまだ医科大学に学生なりしみぎりなりき。一日あるひ予はかれとともに、小石川なる植物園に散策しつ。五月五日躑躅つつじの花盛んなりし。渠とともに手を携え、芳草の間を出つ、入りつ、園内の公園なる池をめぐりて、咲きそろいたるふじを見つ。
 歩を転じてかしこなる躑躅の丘に上らんとて、池に添いつつ歩めるとき、かなたより来たりたる、一群れの観客あり。
 一個ひとり洋服の扮装いでたちにて煙突帽をいただきたる蓄髯ちくぜんおとこ前衛して、中に三人の婦人を囲みて、あとよりもまた同一おなじ様なる漢来れり。渠らは貴族の御者なりし。中なる三人の婦人等おんなたちは、一様に深張りの涼傘ひがさを指しかざして、裾捌すそさばきの音いとさやかに、するすると練り来たれる、と行き違いざま高峰は、思わず後を見返りたり。
「見たか」
 高峰はうなずきぬ。「むむ」
 かくて丘に上りて躑躅を見たり。躑躅は美なりしなり。されどただ赤かりしのみ。
 かたわらのベンチに腰懸こしかけたる、商人あきゅうど体の壮者わかものあり。
「吉さん、今日はいいことをしたぜなあ」
「そうさね、たまにゃおまえの謂うことを聞くもいいかな、浅草へ行ってここへ来なかったろうもんなら、拝まれるんじゃなかったっけ」
「なにしろ、三人とも揃ってらあ、どれが桃やら桜やらだ」
「一人は丸髷まるまげじゃあないか」
「どのみちはや御相談になるんじゃなし、丸髷でも、束髪でも、ないししゃぐまでもなんでもいい」
「ところでと、あのふうじゃあ、ぜひ、高島田ぶんきんとくるところを、銀杏いちょうと出たなあどういう気だろう」
「銀杏、合点がてんがいかぬかい」
「ええ、わりい洒落しゃれだ」
「なんでも、あなたがたがお忍びで、目立たぬようにというはらだ。ね、それ、まん中の水ぎわが立ってたろう。いま一人が影武者というのだ」
「そこでお召し物はなんと踏んだ」
「藤色と踏んだよ」
「え、藤色とばかりじゃ、本読みが納まらねえぜ。足下そこのようでもないじゃないか」
まばゆくってうなだれたね、おのずと天窓あたまが上がらなかった」
「そこで帯から下へ目をつけたろう」
「ばかをいわっし、もったいない。見しやそれとも分かぬ間だったよ。ああ残り惜しい」
「あのまた、歩行あるきぶりといったらなかったよ。ただもう、すうっとこうかすみに乗って行くようだっけ。裾捌き、つまはずれなんということを、なるほどと見たは今日がはじめてよ。どうもお育ちがらはまた格別違ったもんだ。ありゃもう自然、天然と雲上うんじょうになったんだな。どうして下界のやつばらが真似まねようたってできるものか」
「ひどくいうな」
「ほんのこったがわっしゃそれご存じのとおり、北廓なかを三年が間、金毘羅こんぴら様にったというもんだ。ところが、なんのこたあない。はだ守りを懸けて、夜中に土堤どてを通ろうじゃあないか。罰のあたらないのが不思議さね。もうもう今日という今日は発心切った。あの醜婦すべったどもどうするものか。見なさい、アレアレちらほらとこうそこいらに、赤いものがちらつくが、どうだ。まるでそら、芥塵ごみか、うじうごめいているように見えるじゃあないか。ばかばかしい」
「これはきびしいね」
串戯じょうだんじゃあない。あれ見な、やっぱりそれ、手があって、足で立って、着物も羽織もぞろりとお召しで、おんなじような蝙蝠傘こうもりがさで立ってるところは、はばかりながらこれ人間の女だ。しかも女の新造しんぞだ。女の新造に違いはないが、今拝んだのとくらべて、どうだい。まるでもって、くすぶって、なんといっていいかよごれ切っていらあ。あれでもおんなじ女だっさ、へん、聞いてあきれらい」
「おやおや、どうした大変なことを謂い出したぜ。しかし全くだよ。私もさ、今まではこう、ちょいとした女を見ると、ついそのなんだ。いっしょに歩くおまえにも、ずいぶん迷惑を懸けたっけが、今のを見てからもうもう胸がすっきりした。なんだかせいせいとする、以来女はふっつりだ」
「それじゃあ生涯しょうがいありつけまいぜ。源吉とやら、みずからは、とあの姫様ひいさまが、言いそうもないからね」
「罰があたらあ、あてこともない」
「でも、あなたやあ、ときたらどうする」
「正直なところ、わっしはげるよ」
足下そこもか」
「え、君は」
「私も遁げるよ」と目を合わせつ。しばらくことば途絶えたり。
「高峰、ちっと歩こうか」
 予は高峰とともに立ち上がりて、遠くかの壮佼わかものを離れしとき、高峰はさも感じたる面色おももちにて、
「ああ、真の美の人を動かすことあのとおりさ、君はお手のものだ、勉強したまえ」
 予は画師たるがゆえに動かされぬ。行くこと百歩、あのくすの大樹の鬱蓊うつおうたる下蔭したかげの、やや薄暗きあたりを行く藤色のきぬの端を遠くよりちらとぞ見たる。
 園をずればたけ高く肥えたる馬二頭立ちて、りガラス入りたる馬車に、三個みたり馬丁べっとう休らいたりき。その後九年を経て病院のかのことありしまで、高峰はかの婦人のことにつきて、予にすら一言ことをも語らざりしかど、年齢においても、地位においても、高峰は室あらざるべからざる身なるにもかかわらず、家を納むる夫人なく、しかも渠は学生たりし時代より品行いっそう謹厳にてありしなり。予は多くを謂わざるべし。
 青山の墓地と、谷中やなかの墓地と所こそは変わりたれ、同一おなじ日に前後して相けり。
 語を寄す、天下の宗教家、渠ら二人は罪悪ありて、天に行くことを得ざるべきか。





底本:「高野聖」角川文庫、角川書店
   1971(昭和46)年4月20日改版初版発行
   1979(昭和54)年11月30日改版第14刷発行
入力:今中一時
校正:浜野 智
2005年9月16日修正
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