泉鏡花集成7 |
ちくま文庫、筑摩書房 |
1995(平成7)年12月4日 |
1995(平成7)年12月4日第1刷 |
2003(平成15)年5月15日第2刷 |
鏡花全集 第二十一卷 |
岩波書店 |
1941(昭和16)年9月30日 |
一
機会がおのずから来ました。
今度の旅は、一体はじめは、仲仙道線で故郷へ着いて、そこで、一事を済したあとを、姫路行の汽車で東京へ帰ろうとしたのでありました。――この列車は、米原で一体分身して、分れて東西へ馳ります。
それが大雪のために進行が続けられなくなって、晩方武生駅(越前)へ留ったのです。強いて一町場ぐらいは前進出来ない事はない。が、そうすると、深山の小駅ですから、旅舎にも食料にも、乗客に対する設備が不足で、危険であるからとの事でありました。
元来――帰途にこの線をたよって東海道へ大廻りをしようとしたのは、……実は途中で決心が出来たら、武生へ降りて許されない事ながら、そこから虎杖の里に、もとの蔦屋(旅館)のお米さんを訪ねようという……見る見る積る雪の中に、淡雪の消えるような、あだなのぞみがあったのです。でその望を煽るために、もう福井あたりから酒さえ飲んだのでありますが、酔いもしなければ、心も定らないのでありました。
ただ一夜、徒らに、思出の武生の町に宿っても構わない。が、宿りつつ、そこに虎杖の里を彼方に視て、心も足も運べない時の儚さにはなお堪えられまい、と思いなやんでいますうちに――
汽車は着きました。
目をつむって、耳を圧えて、発車を待つのが、三分、五分、十分十五分――やや三十分過ぎて、やがて、駅員にその不通の通達を聞いた時は!
雪がそのままの待女郎になって、手を取って導くようで、まんじ巴の中空を渡る橋は、さながらに玉の桟橋かと思われました。
人間は増長します。――積雪のために汽車が留って難儀をすると言えば――旅籠は取らないで、すぐにお米さんの許へ、そうだ、行って行けなそうな事はない、が、しかし……と、そんな事を思って、早や壁も天井も雪の空のようになった停車場に、しばらく考えていましたが、余り不躾だと己を制して、やっぱり一旦は宿に着く事にしましたのです。ですから、同列車の乗客の中で、停車場を離れましたのは、多分私が一番あとだったろうと思います。
大雪です。
「雪やこんこ、
霰やこんこ。」
大雪です――が、停車場前の茶店では、まだ小児たちの、そんな声が聞えていました。その時分は、山の根笹を吹くように、風もさらさらと鳴りましたっけ。町へ入るまでに日もとっぷりと暮果てますと、
「爺さイのウ婆さイのウ、
綿雪小雪が降るわいのウ、
雨炉も小窓もしめさっし。」
と寂しい侘しい唄の声――雪も、小児が爺婆に化けました。――風も次第に、ごうごうと樹ながら山を揺りました。
店屋さえもう戸が閉る。……旅籠屋も門を閉しました。
家名も何も構わず、いまそこも閉めようとする一軒の旅籠屋へ駈込みましたのですから、場所は町の目貫の向へは遠いけれど、鎮守の方へは近かったのです。
座敷は二階で、だだっ広い、人気の少ないさみしい家で、夕餉もさびしゅうございました。
若狭鰈――大すきですが、それが附木のように凍っています――白子魚乾、切干大根の酢、椀はまた白子魚乾に、とろろ昆布の吸もの――しかし、何となく可懐くって涙ぐまるるようでした、なぜですか。……
酒も呼んだが酔いません。むかしの事を考えると、病苦を救われたお米さんに対して、生意気らしく恥かしい。
両手を炬燵にさして、俯向いていました、濡れるように涙が出ます。
さっという吹雪であります。さっと吹くあとを、ごうーと鳴る。……次第に家ごと揺るほどになりましたのに、何という寂寞だか、あの、ひっそりと障子の鳴る音。カタカタカタ、白い魔が忍んで来る、雪入道が透見する。カタカタカタカタ、さーッ、さーッ、ごうごうと吹くなかに――見る見るうちに障子の桟がパッパッと白くなります、雨戸の隙へ鳥の嘴程吹込む雪です。
「大雪の降る夜など、町の路が絶えますと、三日も四日も私一人――」
三年以前に逢った時、……お米さんが言ったのです。
……………………
「路の絶える。大雪の夜。」
お米さんが、あの虎杖の里の、この吹雪に……
「……ただ一人。」――
私は決然として、身ごしらえをしたのであります。
「電報を――」
と言って、旅宿を出ました。
実はなくなりました父が、その危篤の時、東京から帰りますのに、(タダイマココマデキマシタ)とこの町から発信した……偶とそれを口実に――時間は遅くはありませんが、目口もあかない、この吹雪に、何と言って外へ出ようと、放火か強盗、人殺に疑われはしまいかと危むまでに、さんざん思い惑ったあとです。
ころ柿のような髪を結った霜げた女中が、雑炊でもするのでしょう――土間で大釜の下を焚いていました。番頭は帳場に青い顔をしていました。が、無論、自分たちがその使に出ようとは怪我にも言わないのでありました。
二
「どうなるのだろう……とにかくこれは尋常事じゃない。」
私は幾度となく雪に転び、風に倒れながら思ったのであります。
「天狗の為す業だ、――魔の業だ。」
何しろ可恐い大な手が、白い指紋の大渦を巻いているのだと思いました。
いのちとりの吹雪の中に――
最後に倒れたのは一つの雪の丘です。――そうは言っても、小高い場所に雪が積ったのではありません、粉雪の吹溜りがこんもりと積ったのを、哄と吹く風が根こそぎにその吹く方へ吹飛ばして運ぶのであります。一つ二つの数ではない。波の重るような、幾つも幾つも、颯と吹いて、むらむらと位置を乱して、八方へ高くなります。
私はもう、それまでに、幾度もその渦にくるくると巻かれて、大な水の輪に、孑孑虫が引くりかえるような形で、取っては投げられ、掴んでは倒され、捲き上げては倒されました。
私は――白昼、北海の荒波の上で起る処のこの吹雪の渦を見た事があります。――一度は、たとえば、敦賀湾でありました――絵にかいた雨竜のぐるぐると輪を巻いて、一条、ゆったりと尾を下に垂れたような形のものが、降りしきり、吹煽って空中に薄黒い列を造ります。
見ているうちに、その一つが、ぱっと消えるかと思うと、たちまち、ぽっと、続いて同じ形が顕れます。消えるのではない、幽に見える若狭の岬へ矢のごとく白くなって飛ぶのです。一つ一つがみなそうでした。――吹雪の渦は湧いては飛び、湧いては飛びます。
私の耳を打ち、鼻を捩じつつ、いま、その渦が乗っては飛び、掠めては走るんです。
大波に漂う小舟は、宙天に揺上らるる時は、ただ波ばかり、白き黒き雲の一片をも見ず、奈落に揉落さるる時は、海底の巌の根なる藻の、紅き碧きをさえ見ると言います。
風の一息死ぬ、真空の一瞬時には、町も、屋根も、軒下の流も、その屋根を圧して果しなく十重二十重に高く聳ち、遥に連る雪の山脈も、旅籠の炬燵も、釜も、釜の下なる火も、果は虎杖の家、お米さんの薄色の袖、紫陽花、紫の花も……お米さんの素足さえ、きっぱりと見えました。が、脈を打って吹雪が来ると、呼吸は咽んで、目は盲のようになるのでありました。
最早、最後かと思う時に、鎮守の社が目の前にあることに心着いたのであります。同時に峰の尖ったような真白な杉の大木を見ました。
雪難之碑のある処――
天狗――魔の手など意識しましたのは、その樹のせいかも知れません。ただしこれに目標が出来たためか、背に根が生えたようになって、倒れている雪の丘の飛移るような思いはなくなりました。
まことは、両側にまだ家のありました頃は、――中に旅籠も交っています――一面識はなくっても、同じ汽車に乗った人たちが、疎にも、それぞれの二階に籠っているらしい、それこそ親友が附添っているように、気丈夫に頼母しかったのであります。もっともそれを心あてに、頼む。――助けて――助けて――と幾度か呼びました。けれども、窓一つ、ちらりと燈火の影の漏れて答うる光もありませんでした。聞える筈もありますまい。
いまは、ただお米さんと、間に千尺の雪を隔つるのみで、一人死を待つ、……むしろ目を瞑るばかりになりました。
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