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下へ降りてみるとなるほど石炭の山の中を、吊り籠が通る度ごとに、籠一杯の石炭を詰めこんで、上に昇ってゆく。辻永は石炭庫の周りをしきりに探していたが、
「いいものを見付けたぞ」と辻永はいよいよ元気になった。「ハテこれは綿やの広告だ。それも塀に貼ってあるのを引き剥いだものらしい」
辻永は石炭庫の傍から、真黒になった紙片を拾い出して、私に示した。
「塀というと――」
「塀というと、あれだ。あの黒い塀だッ。あの塀に、これが貼ってあったのだ」
石炭庫の向うに、大分痛んだ塀が見える。辻永は身を翻すと駈け出した。機械体操をするように、彼はヒョイと塀に手をかけるとヒラリと身体を塀の上にのせた。
「これは大変なところだぞ」
彼は声をかえて駭いた。そして俄かに身体を浮かすと、ドッと地上に飛び下りた。
「オイどうしたんだ」
「イヤこれは実に大変な場所だよ、君」
そういって辻永は、心持顔色を蒼くして説明をした。それによると、彼がいまよじのぼった塀の外は「ユダヤ横丁」という俗称をもって或る方面には聞えている場所だった。それは通りぬけのできる三丁あまりの横丁にすぎなかったが、ユダヤ秘密結社の入口があった。なんでも夜中の或る時刻に団員をその入口へ案内してくれる機関があるらしかったが、その様子は分明でない。多分団員の服装か顔かに目印をつけて、その団員が通るところを家の中から見ている。ソレ来たというので、スイッチかなにかを入れると、地面がパッと二つに割れて、団員の身体を呑んでしまう――といったやり方で、団員を結社本部へ導いているのじゃないかという話だった。なにしろどうにも手をつけかねるユダヤ結社のことだった。知る人ばかりは知っていて、其の不気味な底の知れない恐怖に戦慄をしていたわけだった。その「ユダヤ横丁」がすぐ塀の外になっているというので、これは辻永が顔色をかえるのも無理ではないことだと思った。
「これはことによると――」と辻永は云い澱んだ末「例の三人の青年はユダヤ結社のものにやっつけられたのじゃないかと思う」
「うむ。しかし屍体には短刀の跡もなかったじゃないか」と私はわかりきったことをわざと訊ねた。
「僕ならこう考える。青年たちはこの横丁をとおりかかって誤って団員と間違えられた。そのとき結社の内部を青年たちに見られたものだから、これを死刑にしたのだ。方法は簡単だ。散々撲って気絶させ、それからあの塀を越えてあの石炭の吊り籠に載せる。それだけでよいのだ。あとはあの殺人器械がドンドン片づけてくれる。ここのところを見給え。奴等の乗り越えてきたあとがあるぜ」
そういって辻永は、まだ塀の新しい裂け傷や、跳ねかかった泥跡を指した。
「青年たちはどうしてこの横丁へなぞ入ってきたのだろう」私は不審に思った。
「そいつはこれから探すのだ」
辻永の探偵眼に圧倒された気味で、私はそのうしろについてユダヤ横丁を通りぬけた。まだ空は薄明るかったが、いい気持はしなかった。
辻永は左右へ眼を配りながら、黙々と歩いてゆく。
そのうちに、あたりはいよいよ暗くなってきた。どこからかピストルの弾丸が風をきって飛んできそうな気がしてならぬ。わが友はその中を恐れもせず、三度ユダヤ横丁を徘徊した。
「オヤッ――」
私は駭きを思わず声に出した。辻永が急に活発に歩きだしたのだ。どうやら何か又新しい手懸りを掴んだものらしい。
その辻永が再びゆっくりした歩調に返ったのは、ユダヤ横丁をとおり抜けた先に沢山に押並んだ小さい二階家の前通りだった。歩いてゆくと、とある家の薄暗い軒下に一人の女が立っていた。まるまると肥った色の白そうな女だった。年の頃は十八か九であろう。透きとおるような薄物のワンピースで。――向うではこっちを急に見つけた様子をして、ものなれたウィンクを送った。
「上ろう。いいか」
辻永は私の耳許に早口で囁いた。しかし私は辻永のような実践的度胸に欠けていた。
「やめちゃいけないか」
「じゃ斯うしろ」辻永はやや声を震わせて云った。
「バー・カナリヤで待っていろ」
バー・カナリヤは銀座裏にある小さい酒場だった。私たちが友情をもつようになる前から二人は別々に客だったのだ。随って銀座方面へ出るたびに、二人は手に手をとってカナリヤの小さい扉を押したものだ。
ふりかえってみると、桜ン坊のような例の女は、白い腕をしなやかに辻永の腰に廻して艶然と笑っていた。そして二人の姿は吸いこまれるように格子の中に消えてしまった。
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