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辻永は大変興奮してきたようだった。この分では今に酔払って前後がわからなくなるのであろう。私は今のうちに、先刻の話を聞いて置こうと考えた。
「あの話ネ、かゆくなるというのは、どういうわけなのだ」
「かゆくなるわけかい。ウン、話をしてやろう。――西洋に不思議な酒作りがある。それは禁止の酒を作っては、高価ですき者に売りつけるのだ。法網をくぐるために、酒瓶の如きも普通のウイスキーの壜に入れ、ただレッテルの上に、玄人でなければ判らない目印を入れてある。こうした妖酒のあることは君にも判るだろう」
「……」私は黙って肯いた。それは例の媚薬などを入れた密造酒のことを指すのであろう。
「これは大変に高価なもので、到底日本などには入って来ないわけのものだが、だが一本だけ間違ってこの銀座に来ているのだ。或るバーの棚の或る一隅にあるんだ。ところがそのバーの主人も、その酒の本当の効目というものを知らないのだから可笑しな話じゃないか」
「それでは若しや……」
「まア聞けよ」と辻永は私を遮った。「その酒は滅多に客に売らないのだ。だが特別のお客に売ることがあるし、また間違って売る場合もある。それはバーの主人がときどき休む月曜日の夜に、不馴れなマダムが時々こいつを客に飲ませるのだ。勿論マダムはそんな妖酒とは知らず、安ウイスキーだと思って使ってしまうのだ。――ところでこの酒を飲まされたが最後大変なことになる」
「ナニ大変なこと!」
「そうだ。大変も大変だ、自分の身体が箱詰めになってしまうんだ。無論息の根はない。再び陽の光は仰げなくなるのだ」
「オイ辻永。その洋酒の名を早く云ってしまえよ」と私は卓子から立ち上った。
「まア鎮まれ。鎮まれというに」彼はいよいよ赤とも黄とも区別のつかぬ顔色になって、眼を輝かせた。「おれ様の探偵眼の鋭さについて君は駭かないのか。いいかネ。その妖酒を飲んで例のバーを出るとフラフラと歩き出すころ一時に効目が現れてくるのだ。まず第一に尿意を催す。第二に怪しい興奮にどうにもしきれなくなる。ところでそのバーを出てから尿意を催すと、どこかで始末をつけねばならぬが、適当なところがない。どこかで――と考えると、頭に浮かんでくるのは、その直ぐ先の川っぷちだ。その川っぷちへ行って用を足す。ところがその辺に桜ン坊という例のストリート・ガールが網を張っているのだ。これはカフェ崩れの青年たちを目当てのガールなのだが、たまたまバー・カナリヤから出て来た彼の妖酒に酔いしれたお客さんだとて差閊えない。客の方では差閊えないどころかもう半分気が変になっている。だから桜ン坊の捕虜になって、円タクを拾うと、例の女の家の方面へ飛ぶのだ。そのうちに、又々妖しの酒の反応が現れて、こんどは全身がかゆくなる。かゆくて苦しみ出すころ、自動車は彼女の家の近くに来ている。隠れ家をくらますために家の近所で降りて、あとはお歩いだ。しかし何分にもかゆくて藻掻きだす。そこであの近所にある一軒の薬屋を叩き起して、かゆみ止めの薬を売って貰う。――どうだ、この先はどこへ続いていると思う」
「いや、それはあまりに独断すぎる筋道だと思う」私は最初のうちは彼の鋭い探偵眼に酔わされていたような気持だったが、話を訊いているうちに、なんだかあまりにうまく組立てられているところが気になった。
「独想ではない、厳然たる事実なのだ、いいか」と辻永は圧迫するような口調で云った。「そのかゆみ止めの薬が又大変な薬で、かゆみを止めはするけれど、例の妖酒に対して副作用を生じるのだ。その結果夜中になって、その男を桜ン坊の寝床から脱け出させる。現とも幻ともなく彼は服を着て、家の外にとび出すのだ。一寸夢遊病者のようになる」
「まさか――」
「事実なんだから仕方がない。その擬似夢遊病者はフラフラとさまよい出でて、必ず例のユダヤ横丁に迷いこむ」
「それは偶然だろう」
「イヤ地形がユダヤ横丁へ引張りこむのだ。あとは簡単だ。あの夢遊病者のような歩き方が、団員の認識手段なのだ。夢遊病者がやって来た。それ団員だといって、その男を本部へ引張りこむ。その上で尋ねてみると、どうも様子がおかしい。遂に正体が露見するが、結社の本部を知られてはもう生かして置けぬということになる。やっつけられて気を失ったところを、黒塀の向うへ投げこみあの吊り籠に載せて、ギリギリとビール会社の高い窓へ送る。あとは器械に自然に捲きこまれて息の根も止れば、屍体も箱詰めになって、ビールと一緒に積み出される――」
「そんな歯車仕掛けのようにうまくゆくものか。行けば奇蹟だ」
「奇蹟が三人の犠牲者を作るものか。ゆくかゆかないか。第四番目の犠牲者はもう出発を始めているのだ」
「なに?」
「考えても見給え。例の妖酒から始まって、川っぷち、薬屋、ガールの家、ユダヤ横丁、黒塀、クレーンと吊り籠、ビール工場の高窓、箱詰め器械、それかち貨物駅と、これだけのものは次から次へとつながっているのだ。切迫した尿意と慾情とかゆみと夢遊と地形とユダヤ横丁の掟と動くクレーンと動く箱詰め器械と、これだけのものが長いトンネルのように繋がっている。トンネルの入口はあの妖酒で、出口はビール箱だ。入口を入ったが最後、箱詰め屍体になるまで逃げることはできないのだ。なんと恐ろしいことではないか」
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