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蠅(はえ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-25 15:56:18  点击:  切换到繁體中文


   第七話 蠅に喰われる


 机の上の、小さな蒸発皿(じょうはつざら)の上に、親子の蠅が止まっている。まるで死んだようになって、動かない。この二匹の親子の蠅は、私の垂(た)らしてやった僅(わず)かばかりの蜂蜜に、じッと取付いて離れなくなっているのだ。
 そこで私は、戸棚の中から、二本の小さい壜をとりだした。一方には赤いレッテルが貼ってあり、もう一つには青いレッテルが貼ってあった。この壜の中には、極めて貴重な秘薬(ひやく)が入っているのだった。赤レッテルの方には生長液(せいちょうえき)が入って居り、青レッテルの方には「縮小液(しゅくしょうえき)」が入っていた。これは或るところから手に入れた強烈な新薬である。私はこの秘薬をつかって、これからちょっとした実験をして見ようと思っているのだ。
 私は赤レッテルの壜の栓を抜くと、妻楊子(つまようじ)の先をソッと差し入れた。しばらくして出してみると、その楊子の尖端(せんたん)に、なんだか赤い液体が玉のようについていた。それが生長液の一滴(いってき)なのであった。
 私はその妻楊子の尖端を、蒸発皿の方へ動かした。そして親蠅(おやばえ)がとりついている蜂蜜の上に、生長液をポトンと垂(た)らした。それから息を殺して、私は親蠅の姿を見守った。
 ブルブルブルと、蠅は翅(はね)をゆり動かした。
「うふーン」
 と私は溜息をついた。蠅はしきりに腹のあたりを波うたせている。不図(ふと)隣りの仔蠅の方に眼をうつした私は、どンと胸をつかれたように思った。
「呀(あ)ッ。大きくなっている!」
 仔蠅の身体に較べて、親蠅はもう七八倍の大きさになっているのだ。そして尚(なお)もしきりに膨(ふく)れてゆくようであった。
「ほほう。蠅が生長してゆくぞ。なんという素晴らしい薬の効目(ききめ)だ」
 蠅は薬がだんだん利いて来たのであろうか。見る見る大きくなっていった。三十秒後には懐中時計ほどの大きさになった。それから更に三十秒のちには、亀(かめ)の子束子(こだわし)ほどに膨(ふく)れた。私はすこし気味が悪くなった。
 それでも蠅の生長は停まらなかった。亀の子束子ほどの蠅が、草履(ぞうり)ほどの大きさになり、やがてラグビーのフットポールほどの大きさになった。電球ぐらいもある両眼(りょうがん)はギラギラと輝き、おそろしい羽ばたきの音が、私の頬を強く打った。それでもまだ蠅はグングンと大きくなる。こんなになると、蠅の生長してゆくのがハッキリ目に見えた。私はすっかり恐(おそ)ろしくなった。
 蠅の身体が、やがて鷲(わし)ぐらいの大きさになるのは、間のないことであろうと思われた。
(これはもう猶予(ゆうよ)すべきときではない。早く叩き殺さねば危い!)
 なにか適当の武器もがなと思った私は、慌(あわ)てて身辺をふりかえったが、そこにはバット一本転がっていなかった。友人のところへ猟銃(りょうじゅう)を借りにゆく手はあるんだが、既にもう間に合わなかった。そんなに愚図愚図(ぐずぐず)手間どっていると、この蠅は象のように大きくなってしまうことだろう。
 狼狽(ろうばい)と後悔(こうかい)との二重苦のうちに、私は不図(ふと)一つの策略を思いついた。それはすこし無鉄砲なことではあったが、この上は躊躇(ちゅうちょ)している場合ではない。――と咄嗟(とっさ)に腹を極(き)めた私は、赤いレッテルの生長液の入った壜をとりあげて栓を抜くと、グッと一(ひ)と息(いき)に生長液を嚥(の)んだのであった。
 たちまち身体の中は、アルコールを炊(た)いたような温かさを感じた。と思ったら私の身体はもうブツブツ膨(ふく)れはじめた。シャボン玉のように面白いほど膨らみ始めた。
 あの親蠅はと見ると、先程に比べてなるほど小さく見えだした。これは私の身体が大きくなったのでそう見えるのであろう。室内の調度に比べると、彼(か)の蠅は土佐犬(とさいぬ)ほどの大きさになっているらしかった。大量の生長液を飲んだせいで私は尚(なお)もグングン大きくなっていった。そのうちに親蠅は私の両手でがっちりつかめそうになった。
「よオし、こいつが……」
 私はたちまち躍りかかると、親蠅の咽喉(のど)を締めつけた。蠅は大きな眼玉をグルグルさせ、口吻(こうふん)からベトベトした粘液(ねんえき)を垂らすと、遂(つい)にあえなくも、呼吸が絶(た)えはてた。そしてゴロリと上向(うわむ)きになると、ビクビクと宙に藻掻(もが)いていた六本の脚が、パンタグラフのような恰好(かっこう)になったまま動かなくなってしまった。私はほっと溜息をついた。
 そのときだった。私は頭をコツンとぶつけた。見ると私の頭は天井にぶつかったのであった。何しろグングン大きくなってゆくので、こんなことになってしまったのだ。私は元々坐っていたのであるが、蠅を殺すときに中腰(ちゅうごし)になっていた。このままでいると、天井を突き破るおそれがあるので、私はハッとして頭を下げて、再びドカリと坐った。
「ああ、危かった」
 だが、本当に危いのは、それから先であるということが直(す)ぐ解(わか)った。私の身体はドンドン膨(ふく)れてゆく。このままでは部屋の内に充満するに違いない。外へ出ようと思ったが、そのときに私は恐ろしいことを発見した。
「ああッ、これはいけない!」
 私は思わず叫んだ。もうこんなに身体が大きくなっては、窓からも扉(ドア)のある出入口からも外に出られなくなっているのだった。部屋から逃げだせないとしたら、これから先ず一体どうしたらいいのだろう。
 恐(おそ)らく私の身体は壁を外へ押し倒し、この家を壊してしまわないと外へ出られないだろう。だがこの部屋の構造は特別に丈夫に作らせてあるのだ。身体の方が負けてしまうかも知れない。内から生長してゆく恐ろしい力が巌丈(がんじょう)な壁や柱に圧された結果はどうなるのだろうか。私の五体は、両国(りょうごく)の花火のようになって、真紅(まっか)な血煙とともに爆発しなければならない。そのうちに肩のところがメリメリいって来た。
 私は二度の大狼狽(おおろうばい)に襲われた。
「これアいかん!」
 こうなっては、一秒も争う。私は神を念じ、痛い顎(あご)の骨を折って、あたりを見まわした。そのとき天の助けか、目についたのは一個の薬壜だった。青レッテルを貼った縮小液の入った壜だった。
「そうだ。あれを飲めば、身体が小ちゃくなるぞ!」
 私は指の尖端(さき)に唾(つば)をつけて、その青レッテルの壜をへばりつけた。それから爪の先で、いろいろやってみてやっと栓(せん)を抜いた。
「さあ、しめたッ」
 私はそのひとたらしもない薬液を、口の中へ滴(たら)しこんだ。それはたいへん苦(にが)い薬だった。
 スーッと身に涼風(りょうふう)が当るように感じたそのうちに、エレヴェーターで下に降りるような気がしてきた。それと共に身体が冷(ひえ)て、ガタガタ慄(ふる)えだした。しかし、ああ、私の身体はドンドン小さくなって行く。坐っていて箪笥(たんす)の上に首が載(の)ったのが、今は箪笥と同じ高さになった。
 ますます縮んでいった。立ち上っても、頭が鴨居(かもい)の下に来た。椅子に坐ってみても丁度(ちょうど)腰の下ろし具合がいい。もうこれで元のようになったと感じた。
 しかしである。また心配なことが起って来た。元のようになった身体は、まだグングン小さくなってゆくのだった。椅子に腰を下ろしていて、足の裏がいつの間にやら、絨毯(じゅうたん)から離れて来た。下へ降りようと思うと、窓から下へ飛び降りるように恐ろしくなってきた。私はお人形ほどの大きさになったのである。
 それ位に止(と)まるならば、まだよかったのであるが、更に更に、身体は小さく縮(ちぢ)まっていった。私はキャラメルの箱に蹴つまずいて、向う脛(ずね)をすりむいた。馬鹿馬鹿しいッたらなかった。そのうちに、私は不思議なものを発見した。それは一匹の豚(ぶた)ほどもある怪物が、私の方をじっと見て、いまにも飛びかかりそうに睨(にら)んでいるのだ。
「なにものだろう!」
 私は首を傾けた。そんな動物がこの部屋に居るとは、一向思っていなかったのだ。
 しかしよく見ると、その怪物は大きな翅(はね)があった。鏡のような眼があった。鉄骨のような肢(あし)があって、それに兵士の剣のような鋭い毛がところきらわず生えていた。私はそのときやっとのことで、その怪物の正体に気がついた。
「ああ、こいつは、私の先刻(さっき)殺した蠅の仔なのだ」
 仔蠅にしては、何という大きな巨獣(きょじゅう)(?)になったのであろうか。
 その恐ろしい仔蠅は、しずしずと私の方に躙(にじ)りよってきた。眼玉が探照灯(たんしょうとう)のようにクルクルと廻転した。地鳴りのような怪音が、その翅のあたりから聞えてきた。蓮池(はすいけ)のような口吻(こうふん)が、醜くゆがむと共に、異臭のある粘液がタラタラと垂(た)れた。
「ぎゃーッ」
 私の頭の上から、そのムカムカする蓮池(はすいけ)が逆さまになって降って来たのだ。私の横腹は、銃剣のような蠅の爪(つめ)でプスリと刺しとおされた。
「ぎゃーッ。――」
 そこで私は何にも判らなくなってしまった。その仔蠅に食われたことだけ判っていた。不思議にも、何時(いつ)までも何時(いつ)までも記憶の中にハッキリ凍りついて残っていた。





底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房
   1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行
初出:「ぷろふいる」
   1934(昭和9)年2月号~9月号
入力:tatsuki
校正:花田泰治郎
2005年5月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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