十一
大「足下掌を何うした、穴が開いているようだが」
權「これか、是は殿様が槍を突掛けて掌で受けるか何うだと云うから、受けなくってというので、掌で受けたゞ」
大「むゝ、そうか、そして御家来の中仁は渡邊織江、勇は秋月、智は戸村、成程斯ういう事は珍らしいから書付けて往きましょう」
と細かに書いて暇乞を致し、帰る時に權六が門まで送り出してまいりますと、お役所から帰る渡邊に出会いましたから、權六も挨拶する事ぐらいのことは心得て居りますから、丁寧に挨拶する。渡邊も答礼して行過ぎるを見済して、
大「彼は」
權「彼が渡邊織江様よ、慈悲深い方で、家来に難儀いする者が有ると命懸で殿様に詫言をしてくれるだ、困るなら銭い持って行けと助けてくれると云うだ、どうも彼の人には敵わねえ」
大「成程寛仁大度、見上げれば立派な人だね」
權「なにい、韓信が股ア潜りだと」
大「いえ中々お立派なお方だ、最う五十五六にもなろうか……拙者も近い所にいるから、また度々お尋ね下さい、拙者も亦お尋ね申します」
權「お前辛抱しなよ、お女郎買におっ溺ってはいかねえよ、国と違ってお女郎が方々に在るから、随分身体を大事にしねば成んねえ」
大「誠に辱けない、左様なら」
と松蔭大藏は帰りました。其の後渡邊織江が同年の三月五日に一人の娘を連れて、喜六という老僕に供をさせて、飛鳥山へまいりました。尤も花見ではない、初桜故余り人は出ません、其の頃には海老屋、扇屋の他に宜い料理茶屋がありまして、柏屋というは可なり小綺麗にして居りました。織江殿は娘を連れて此の茶屋の二階へ上り、御酒は飲みませんから御飯を上っていました。此の娘は年頃十八九になりましょうか、色のくっきり白い、鼻筋の通った、口元の可愛らしい、眼のきょろりとした……と云うと大きな眼付で、少し眼に怖味はありますが、是も巾着切のような眼付では有りません、堅いお屋敷でございますから好い服装は出来ません、小紋の変り裏ぐらいのことで、厚板の帯などを締めたもので、お父さまは小紋の野掛装束で、お供は看板を着て、真鍮巻の木刀を差して上端に腰をかけ、お膳に酒が一合附いたのを有難く頂戴して居ります。二階の梯子段の下に三人車座になって御酒を飲んでいる侍は、其の頃流行った玉紬の藍の小弁慶の袖口がぼつ/\いったのを着て、砂糖のすけない切山椒で、焦茶色の一本独鈷の帯を締め、木刀を差して居るものが有ります。火の燃え付きそうな髪をして居るものも有り、大小を差した者も有り、大髷の連中がそろ/\花見に出る者もあるが、金がないので往かれないのを残念に思いまして、少しばかり散財を仕ようと、味噌吸物に菜のひたし物香物沢山という酷い誂えもので、グビーリ/\と大盃で酒を飲んで居ります。二階では渡邊織江が娘お竹と御飯が済んで、
織「これ/\女中」
下婢「はい」
織「下に従者が居るから小包を持って来いと云えば分るから、然う云ってくれ」
下婢「はい畏まりました」
とん/\/\と階下へ下りまして、
下婢「あの、お供さん、旦那があの小さい風呂敷包を持って二階へ昇れと仰しゃいましたよ」
喜「はい畏まりました」
と喜六と云う六十四才になる爺さんが、よぼ/\して片手に小包を提げ、正直な人ゆえ下足番が有るのに、傍に置いた主人の雪踏とお嬢様の雪踏と自分の福草履三足一緒に懐中へ入れたから、飴細工の狸見たようになって、梯子を上ろうとする時、微酔機嫌で少し身体が斜になる途端に、懐の雪踏が辷って落ると、間の悪い時には悪いもので、彼の喧嘩でも吹掛けて、此の勘定を持たせようと思っている悪浪人の一人が、手に持っていた吸物椀の中へ雪踏がぼちゃりと入ったから驚いて顔を上げ、
甲「これ怪しからん奴だ、やい下ろ、二階へ上る奴下ろ」
と云いながら喜六の裾を取ってぐいと引いたから、ドヽトンと落ち、
喜「あ痛いやい……」
甲「不礼至極な奴だ、人が酒を飲んでいる所へ、屎草履を投込むとは何の事だ」
と云いながら二つ三つ喜六の頭を打つ喜六は頭を押えながら、
喜「あ痛い……誠に済みませんが、懐から落ちたゞから御勘弁を願えます」
甲「これ彼処に下足を預る番人があって、銘々下足を預けて上るのに、懐へ入れて上る奴があるものか、是には何か此の方に意趣遺恨があるに相違ない」
喜「いえ意趣も遺恨もある訳じゃねえ、お前様には始めてお目に懸って意趣遺恨のある理由がござえません、私は何にも知んねえ田舎漢で、年も取ってるし、御馳走の酒を戴き、酔払いになったもんだから、身体が横になる機みに懐から雪踏が落ちただから、どうか御勘弁を」
と詫びましたが、浪人は肩を怒らせまして、
甲「勘弁罷りならん、能く考えて見ろ、人の吸物の中へ斯様に屎草履を投込んで、泥だらけにして、これを何うして喰うのだ」
喜「誠に御道理……併し屎草履と仰しゃるが、米でも麦でも大概土から出来ねえものはねえ、それには肥料いしねえものは有りますめえ、あ痛い、又打ったね」
甲「なに肥料をしないものはないが、直接に肥料を喰物に打かけて喰う奴があるか、怪しからん理由の分らん奴じゃアないか」
乙「これ/\其様な者に何を云ったって、痛いも痒いも分るものじゃアない、家来の不調法は主人の粗相だから、主人が此処へ来て詫るならば勘弁して遣ろう、それまで其の小包を此方へ取上げて置け、なに娘を連れて年を老っている奴だと、それ/\今も云う通り家来の不調法は主人の不調法だから、主人が此処へ来て、手前に成り代って詫るなれば勘弁を仕まいものでもないが、それ迄包を此方へ預かる、一体家来の不調法を主人が詫んという事は無い」
喜「詫ん事は無いたって、私が不調法をして、旦那様を詫に出しては済みません、それに包を取上げられてしまっては旦那様に申訳がないから、どうか堪忍しておくんなせえましな、私が不調法を為たんだから、二つも三つも打叩かれても黙って居やすんだ、人間の頭には神様が附いて居ますぞ、其処を叩くてえ事はねえ」
甲「なに……」
と又打つ。
喜「あ痛い、又打ったな」
甲「なにを云う、其様な小理窟ばかり云っても仕様がねえ、もっと分る奴を出せ」
喜「あ痛い……だからま一つ堪忍しておくんなせえましよ」
甲「勘弁罷りならん」
喜「勘弁ならんて、此の包を取られゝば私がしくじるだ」
甲「手前が不調法をしてしくじるのは当然だ、手前が門前払いになったて己の知った事かえ、さ此方へ出さんか」
喜「あ……あれ……取っちまった、其の包を取られちゃア私が済まねえと云うに、あのまア慈悲知らずの野郎め」
甲「なに野郎だ……」
と尚お事が大きくなって、見ちゃア居られませんから茶屋の女中が、
下婢「鎌どんを遣っておくれな」
鎌「なに斯ういう事は矢張り女が宜いよ」
下婢「其様なことを云わずに往っておくれよ」
鎌「客種が悪い筋だ、何かごたつこうとして居る機みだから、どうも仕様がない」
下婢どもがそれへ参り、
下婢「ね、あなた方」
甲「何だ、何だ手前は」
下婢「貴方申しお供さん、お気を附けなさらないといけませんよ、貴方ね、此方は下足番の有るのを御存じないものですから、履物を懐へ入れて梯子段を昇ろうとした処を、つい酔っていらっしゃるもんですから、不調法で落ちたのでしょう、実にお気の毒さま、何卒ね、ま斯ういうお花見時分で、お客さまが立込んで居りますから、御機嫌を直していらっしゃいよ、何ですよう、ちょいと貴方ア」
甲「なんだ不礼至極な奴め、愛敬が有るとか器量が好いとか云うならまだしも、手前の面を見ろい、手前じゃア分らんから分る人間を出せ」
下婢「誠にどうも、あのちょいと清次どん」
清「そら、己の方へ来た」
下婢「取っても附けないよ、変な奴だよ」
清「女でも宜いのに、仕様がないね」
と若い者が悪浪人の前へ来て、額へ手を当て、
若「えへゝゝ」
甲「変な奴が出て来た、手前は何だ」
若「今日は生憎主人が下町までまいって居りませんから、手前は帳場に坐っている番頭で、御立腹の処は重々御尤さまでございますが、何分にもへえ、全体お前さんが逆らっては悪い、此方で御立腹なさるのは御尤もで仕方がない謝まんなさい、えへ……誠に此の通り何も御存じないお方で相済みませんが…」
甲「只相済まん/\と云って何う致すのだ」
若「どうか旦那さま」
甲「うん何だと、何が何うしたと、此椀を何う致すよ、只勘弁しろたって、泥ぽっけにした物が喰えるかい」
清「左様なら旦那さま、斯様致しましょう、お料理を取換えましょう、ちょいとお芳どん、是をずっと下げて、何か乙な、ちょいとさっぱりとしたお刺身と云ったような[#「ような」は底本では「なうな」]もので、えへゝゝ」
甲「忌な奴だな、空笑いをしやアがって」
清「ずっとお料理を取換え、お燗の宜い処を召上り、お心持を直してお帰りを願います」
それより他に致し方がないので、酒肴を出しまして、
清「是は手前の方の不調法から出来ました事でげすから、其のお代は戴きません、皆様へ御馳走の心得で」
乙「黙れ、不礼至極なことを云うな、御馳走なんて、汝に酒肴を振舞って貰いたいから立腹致したと心得て居るか、振舞って貰いたい下心で怒ってる次第じゃアなえぞ」
清「いえその最初は上げて置いて、あとで代を戴きます」
甲「汝では分らんもっと分る者を遣せ」
二階では織江殿も心配して居りますところへ、喜六が泣きながら昇ってまいりました。
十二
喜六は力無げに二階へ上ってまいり、
喜「はい御免下せえまし」
織「おゝ喜六か、是へ来い/\」
喜「はい、誠に何ともはア申訳のねえ事をしました、悪い奴にお包を奪られて」
織「困ったものじゃアないか、何故草履を懐へ入れて二階へ上ったのだよ、草履を懐へ入れて上へ昇るなどという事があるかえ」
喜「はい、田舎者で何も心得ませんから」
織「何も心得んとて、先方で立腹するところは尤もじゃアないか、喰物の中へ泥草履を投入れゝば、誰だって立腹致すのは当然のことじゃ、それから何う致した」
喜「へえ、三人ながら意地の悪い奴が揃ってゝ、家来の不調法は主人の不調法だから、余所目に見て二階に居ることはねえ、此処へまいり、成り代って詫をしたら堪忍してくれると云いまして、お包を取上げましたから、渡すめえと確かり押えると、あんた傍に居た奴が私の頭を叩いて、無理やりに引奪られましたから、大切な物でも入って居ろうかと心配して居ります」
織「何も入って居らん空風呂敷ではあるが、不調法をして詫をせずに置く訳にもいかん、手前の事から己が出ると、拙者は粂野美作守家来渡邊織江と申す者でござると、斯う姓名を明かさんければならん、己の名前は兎も角も御主人の名を汚す事になっちゃア誠に済まん訳じゃアないか、手前は長く奉公しても山出しの習慣が脱けん男だ、誠に困ったもんだの」
喜「へえ、誠に困りました、然うして私が頭ア五つくらしました」
織「打たれながら勘定などをする奴が有りますか」
喜「余り口惜うございます、中央にいた奴の叩くのが一番痛うござえました」
織「誠に困るの」
竹「お父さま、斯う致しましょうか、却って先方が食酔って居りますところへ貴方が入らっしゃいますより、私は女のことで取上げもいたすまいから、私が出て見ましょうか」
織「いや、己がいなければ宜いが、己がいて其の方を出しては宜しくない」
竹[#「竹」は底本では「喜」]「いゝえ、喜六と私と二人で此処へまいりました積りで、誠に不調法を致しましたと一言申したら宜かろうと存じます、のう喜六」
喜「はい、お嬢様が出れば屹度勘弁します、皆な助平そうなものばかりで」
織[#「織」は底本では「竹」]「こら、其様なことを云うから物の間違になるんだ」
竹「じゃア二人の積りで宜いかえ、私は手前を連れてお寺参りに来た積りで」
喜「どうか何分にも願います」
とお竹の後に附いて悄々と二階を下りる。此方は益々哮り立って、
甲「さア何時までべん/\と棄置くのだ、二階へ折助が昇った限り下りて来んが、さ、これを何う致すのだ」
と申して居るところへお竹がまいり、しとやかに、
竹「御免遊ばしませ」
甲「へえお出でなさい、何方さまで」
竹「只今は家来共が不調法をいたして申訳もない事で、何も存じません田舎者ゆえ、盗られるとわるいと存じまして、草履を懐へ入れて居って、つい不調法をいたし、御立腹をかけて何とも恐入ります、少し遅く成りましたから早く帰りませんと両親が案じますから、何卒御勘弁遊ばしまして、それは詰らん包ではございますが、これに成り代りまして私からお詫を致します事で」
甲「どうも是は恐入りましたね、是はどうも御自身にお出では恐入りましたね、誠にどうもお麗わしい事でありますな、へゝゝ、なに腹の立つ訳ではないが、ちょっと三人で花見という訳でもなく、ふらりと洗湯の帰り掛けに一口やっておる処で、へゝゝ」
竹「家来どもが不調法をいたし、嘸御立腹ではございましょうが……」
甲「いや貴方のおいでまでの事はないが、お出で下されば千万有難いことで、何とも恐入りました、へゝゝ、ま一盃召上れ」
と眼を細くしてお竹を見詰めて居りますから、一人が気をもみ、
乙「何だえ、仕方がないな、貴公ぐらい女を見ると惚い人間はないよ、女を見ると勘弁なり難い事でも直にでれ/\と許してしまう、それも宜いが、後の勘定を何うする、勘定をよ、前に親娘連れで昇った立派な侍が二階に居るじゃアないか、然るを女を詫によこすてえ次第があるかえ、其の廉を押したら宜かろう、勘定を何うするよ」
甲「うん成程、気が付かんだったが、前に昇っていたか、至極どうも御尤もだから然う致そうじゃアないか」
丙「何だか分らんことを云ってる、兎に角御主人がお詫に来たから、それで宜いじゃアないか、斯様な人ざかしい処で兎や斯う云えば貴公の恥お嬢様の辱になるから、甚だ見苦しいが拙宅へお招ぎ申して、一口差上げ、にっこり笑ってお別れにしたら宜かろう」
甲「これは至極宜しい、宅は手狭だが、是なる者は拙者の朋友で、可なり宅も広いから、ちょっと一献飲直してお別れと致しましょう」
と柔しい真白な手を真黒な穢い手で引張ったから、喜六は驚き、
喜「なにをする、お嬢様の手を引張って此の助平野郎」
甲「なに、此ん畜生」
と又騒動が大きくなりましたから、流石の渡邊も弱って何うする事も出来ません。打棄って密と逃げるなどというは武家の法にないから、困却を致して居りました。すると次の間に居りました客が出て参りました。黒の羽織に藍微塵の小袖を着大小を差し、料理の入った折を提げて来まして、
浪人「えゝ卒爾ながら手前は此の隣席に食事を致して、只今帰ろうと存じて居ると、何か御家来の少しの不調法を廉に取りまして、暴々しき事を申掛け、御迷惑の御様子、実は彼処にて聞兼て居りましたが、如何にも相手が悪いから、お嬢様をお連れ遊ばして嘸かし御迷惑でござろうとお察し申します、入らざる事と思召すかしらんが、尊公の代りに手前が出ましたら如何で」
織「これは何ともはや、折角の思召ではござるが、先方では柄のない所へ柄をすげて申掛けを致すのだから、貴殿へ御迷惑が掛っては相済まん折角の御親切ではござるが、平にお捨置きを願いたい」
浪人「いえ/\、手前は無禄無住の者で、浪々の身の上、決して御心配には及びません、御主名を明すのを甚く御心配の御様子、誠に御無礼な事を申すようでござるが、お嬢様を手前の妹の積りにして、手前は不加減で二階に寝ていたとして詫入れゝば宜しい」
織「何ともそれでは恐入ります事で、併し御迷惑だ……」
浪「その御心配には及びませんから手前にお任せなされ」
と提げ刀で下へ下ると、三人の悪浪人はいよ/\哮り立って、吸物椀を投付けなど乱暴をして居ります所へ、
浪人「御免を……」
甲「何だ」
浪人「手前家来が不調法をいたしまして、妹がお詫に出ました由怪しからん事で、女の身でお詫をいたし、却って御立腹を増すばかり、手前少々腹痛が致しまして、横になって居りまする内に、妹が罷り出て重々恐入りますが、何卒御勘弁を願います」
甲「むゝ、尊公は先刻此の方の吸物椀の中へ雪踏を投込んだ奴の御主人かえ」
浪「左様家来の粗相は主人が届かんゆえで有りますから、手前成り代ってお詫を致します、どうか御勘弁を願います、此の如く両手を突いてお詫を……」
甲「此奴かえ/\」
乙「此者じゃアなえよ、其奴は前に昇っていた奴だ、もっと年を老ってる奴だア、此奴は彼の娘へ
諛に入って来たんだ、其様な奴をなじらなくっちゃア仕様がねえ、えゝ始めて御意得ます、御尊名を承わりたいね……手前は谷山藤十郎と申す至って武骨なのんだくれで、御家来の不調法にもせよ、主人が成代って詫をいたせば勘弁いたさんでもないが、斯の如く泥だらけになった物が喰えますかよ、此の汁が吸えるかえ」
と半分残っていた吸物椀を打掛けましたから、すっと味噌汁が流れました。流石温和の仁も忽ち疳癖が高ぶりましたが、じっと耐え、
浪「どうか御勘弁を願います、それゆえ身不肖ながら主人たる手前が成代ってお詫をいたすので、幾重にも此の通り……手を突く」
甲「手を突いたって不礼を働いた家来を此方へ申し受けよう、然うして此方の存じ寄にいたそう」
浪「それは貴方御無理と申すもの、何も心得ん山出しの老人ゆえ、相手になすった処がお恥辱になればとて誉れにもなりますまい、斬ったところが狗を斬るも同様、御勘弁下さる訳には相成りませんか」
乙「ならんければ何ういたした」
浪「ならんければ致し方がない」
甲「斯う致そう、当家でも迷惑をいたそうから、表へ出て、広々した飛鳥山の上にて果合いに及ぼう」
浪「何も果合いをする程の無礼を致した訳ではござらん」
甲「無いたって食物の中へ泥草履を投込んで置きながら」
浪「手前は此の通り病身で迚もお相手が出来ません」
甲「出来んなら尚宜しい、さ出ろ、病身結構だ、広々した飛鳥山へ出て華々しく果合いをしなせえ、最う了簡罷りならん、篦棒め」
と侍の面部へ唾を吐掛けました。
十三
斯うなると幾ら柔和でも腹が立ちます、唾を吐き掛けられた時には物も云わず半手拭を出して顔を拭く内に、眼がきりゝと吊し上りました。相手の三人は酔っているから気が附きませんが、傍の人は直気が附きまして、
○「安さん出掛けよう、斯んな処で酒を呑んでも身になりませんよ、彼の位妹が出て謝って、御主人が塩梅の悪いのに出て来て詫びているのに、酷い事をするじゃアないか、汁を打掛けたばかりで誰でも大概怒っちまう、我慢してえるが今に始まるよ、怪我でも仕ねえ中に出掛けよう、他に逃げ処がないから往こう/\」
△「折を然う云ったっけが間に合わねえから、此の玉子焼に鰆の照焼は紙を敷いて、手拭に包み、猪口を二つばかり瞞かして往こう」
と皆逃支度をいたします。此方の浪人は屹度身を構えまして、
浪「いよ/\御勘弁相成んとあれば止むを得ざる事で、表へ出てお相手になろう」
とずいと提げ刀で立つと、他の者が之を見て。
○「泥棒ッ」
△「人殺しい/\」
と自分が斬られる訳ではないが、遽てゝ逃出すから、煙草盆を蹴散かす、土瓶を踏毀すものがあり、料理代を払って往く者は一人もありません、中に素早い者は料理番へ駈込んで鰆を三本担ぎ出す奴があります。彼の三人は真赤な顔をして、
甲「さ来い」
浪「然らばお相手は致しますが、宜くお心を静めて御覧じろ、さして御立腹のあるべき程の粗相でもないに、果合いに及んでは双方の恥辱になるが宜しいか」
乙「えゝ、やれ/\」
と何うしても肯きません、酒の上で気が立って居ります、一人が握拳を振って打掛るを早くも身をかわし、
浪「えい」
と逆に捻倒した手練を見ると、余の二人がばら/\/\と逃げました。前に倒れた奴が口惜しいから又起上って組附いて来る処を、拳を固めて脇腹の三枚目(芝居でいたす当身をくわせるので)余り食ったって旨いものでは有りません。
甲「うゝーん」
と倒れた、詰らんものを食ったので、見物の弥次馬が、
△「其方へ二人逃げた、威張った野郎の癖に容ア見やアがれ、殴れ/\」
と何だか知りもしないのに無茶苦茶に草履草鞋を投付ける。
織「これ喜六、よくお礼を申せ」
喜「へえ、誠に有難えことで、初りは心配して居りました、若し貴方に怪我でもあらば仕様がねえから飛出そうと思ってやしたが、此の通りおっ死ぬまで威張りアがって野郎」
二つ三つ打つを押止め、
浪「いや打ったって致し方がありません罪も報いもない此奴を殺しても仕様がないから、御家来憚りだが彼方で手桶を借り水を汲んで来て下さい」
喜「はい畏まりました」
彼の侍は其処に倒れた浪人の双方の脇の下へ手を入れ、脇肋へ一活入れる。
甲「あっ……」
と息を吹反す処へ水を打掛ける。
甲「あっ/\/\……」
浪「其様な弱い事じゃアいけません、果合いをなさるなら立上って尋常に華々しく」
甲「いえ/\誠に恐入りました、酔に乗じ甚だ詰らん事を申して、お気に障ったら幾重にもお詫を致します、どうか御勘弁を願います」
喜「今度は詫るか、詫るというなら堪忍してやるが、弱え奴だな、己ような年い老った弱えもんだと馬鹿にして、三つも四つも殴りアがって、斯う云う旦那に捉まると魂消てやアがる、我身を捻って他人の痛さが分るだろう、初まりの二つは我慢が出来なかったぞ、己も殴るから然う思え」
と握拳を固めてこん/\と続けて二つ打つ。
甲「誠に先程は御無礼で」
と這々の体で逃げて行くと、弥次馬に追掛けられて又打たれる、意気地のない事。
織「どうか一寸旧の席へ、まア/\何卒…」
浪「いえ、些と取急ぎますから」
織「でもござろうが」
と無理に旧の茶屋へ連戻り、上座へ直し、慇懃に両手を突き、
織「斯ようの中ゆえ拙者の姓名等も申上げず、恐入りましたが、拙者は粂野美作守家来渡邊織江と申す者、今日仏参の帰途、是なる娘が飛鳥山の花を見たいと申すので連れまいり、図らず貴殿の御助力を得て無事に相納まり、何ともお礼の申上げようもござりません、併しどうも起倒流のお腕前お立派な事で感服いたしました、いずれ由あるお方と心得ます、御尊名をどうか」
浪「手前は名もなき浪人でございます、いえ恐入ります、左様でございますか、実は拙者は松蔭大藏と申して、根岸の日暮が岡の脇の、乞食坂を下りまして左へ折れた処に、見る蔭もない茅屋に佗住居を致して居ります、此の後とも幾久しく……」
織「左様で、あゝ惜しいお方さまで、只今のお身の上は」
大「誠に恥入りました儀でござるが、浪人の生計致し方なく売卜を致して居ります」
織「売卜を……易を……成程惜しい事で」
喜「お前さまは売卜者か、どうもえらいもんだね、売卜者だから負けるか負けねえかを占て置いて掛るから大丈夫だ、誠に有難うござえました」
織「何れ御尊宅へお礼に出ます」
と宿所姓名を書付けて別れて帰ったのが縁となり、渡邊織江方へ松蔭大藏が入込み、遂に粂野美作守様へ取入って、どうか侍に成りたい念があって企んで致した罠にかゝり、渡邊織江の大難に成ります所のお話でございます。此の松蔭大藏と申す者は前に述べました通り、従前美作国津山の御城主松平越後様の家来で、宜い役柄を勤めた人の子でありますが、浪人して図らず江戸表へ出てまいりましたが、彼の權六とも馴染の事でございますゆえ、權六方へも再三訪れ、權六もまた大藏方へまいりまして、大藏は織江を存じておりますから喧嘩の仲裁へ入りました事でございます。屋敷へ帰っても物堅い渡邊織江ですから早く礼に往かんければ気が済みませんので、お竹と喜六を伴れ、結構な進物を携えまして日暮ヶ岡へまいって見ると、売卜の看板が出て居りますから、
織「あ此家だ、喜六一寸其の玄関口で訪れて、松蔭大藏様というのは此方かと云って伺ってみろ」
喜「はい畏りました、えゝお頼み申します/\」
大「ドーレ有助何方か取次があるぜ」
有「はい畏りました」
つか/\/\と出て来ました男は、少し小侠な男でございます。子持縞の布子を着て、無地小倉の帯を締め、千住の河原の煙草入を提げ、不粋の打扮のようだが、もと江戸子だから何処か気が利いて居ります。
有「え、おいでなさえまし、何でござえます」
喜「えゝ松蔭大藏様と仰しゃるは此方さまで」
有「え、松蔭は手前でござえますが、何か当用か身の上を御覧なさるなれば丁度今余り人も居ねえ処で宜しゅうござえます、ま、お上んなせえまし」
喜「いや、然うじゃアござえません、旦那さまア此方さまですと」
織「あい、御免くだされ」
と立派な侍が入って来ましたから、有助も少し容を正して、
有「へえ、おいでなせえまし」
織「えゝ拙者は粂野美作守家来渡邊織江と申す者、えゝ早々お礼に罷り出ずべきでござったが、主用繁多に就き存じながら大きにお礼が延引いたしました、稍く今日番退きの帰りに罷出ました儀で、先生御在宅なれば目通りを致しとうござる」
有「はい畏りました……えゝ先生」
大「何だ」
有「何んだか飛鳥山でお前さんがお助けなすった粂野美作守の御家来の渡邊織江とかいう人がお嬢さんを連れて礼に来ましたよ」
大「左様か直に茶の良いのを入れて莨盆、に火を埋けて、宜いか己が出迎うから……いや是は/\どうか見苦しい処へ何とも恐入りました、どうか直にお通りを……」
織「今日は宜く御在宅で」
大「宜うこそ……是れはお嬢様も御一緒で、此の通りの手狭で何とも恥入りましたことで、さ何卒お通りを……」
織「えゝ御家来誠に恐入りましたが、一寸お台を……何でも宜しい、いえ/\其様な大きな物でなくとも宜しい、これ/\其の包の大きな方を此処へ」
と風呂敷を開きまして、中から取出したは白羽二重一匹に金子が十両と云っては、其の頃では大した進物で、これを大藏の前へ差出しました。
十四
尚も織江は慇懃に、
織「先ず御機嫌宜しゅう、えゝ過日は図らずも飛鳥山で何とも御迷惑をかけ、彼の折はあゝいう場所でござって、碌々お礼も申上げることが出来んで、屋敷へ帰っても此娘が又どうか早うお礼に出たいと申しまして、実に容易ならん御恩で、実に辱けない事で、彼の折は主名を明すことも出来ず、怖い事も恐ろしい事もござらんが、女連ゆえ大きに心配いたし居りました、実に其の折は意外の御迷惑をかけまして誠に相済みません事で」
大「いえ/\何う致しまして、再度お礼では却って恐入ります、殊に御親子お揃いで斯様な処へおいでは何とも痛入りましてござる」
織「えゝ此品は(と盆へ載せた品を前へ出し)[#「)」は底本では脱落]何ぞと存じましたが、御案内の通りで、下屋敷から是までまいる間には何か調えます処もなく、殊に番退けから間を見て抜けて参りましたことで、広小路へでも出たら何ぞ有りましょうが、是は誠にほんの到来物で、粗末ではござるが、どうか御受納下さらば……」
大「いや是は恐入ったことで……斯様な御心配を戴く理由もなし、お辞のお礼で十分、どうか品物の所は御免を蒙りとう、思召だけ頂戴致す」
織「いえ、それは貴方の御気象、誠に御無礼な次第ではあるけれども、ほんのお礼のしるしまでゞございますから、どうかお受け下さるように……甚だ何でござるが御意に適った色にでもお染めなすって、お召し下されば有難いことで、甚だ御無礼ではござるが……」
大「何ともどうも恐入りました訳でござる然らば折角の思召ゆえ此の羽二重だけは頂戴致しますが、只今の身の上では斯様な結構な品を購るわけには迚もまいりません、併し此のお肴料とお記しの包は戴く訳にはまいりません」
織「左様でもござろうが、貴方が何でございますなら御奉公人にでもお遣わしなすって下さるように」
大「それは誠に恐入ります、嬢さま誠に何とも……」
竹「いえ親共と早くお礼に上りたいと申し暮し、私も種々心ならず居りましたが、何分にも番がせわしく、それ故大きに遅れました、彼の節は何ともお礼の申そうようもございません、喜六やお前一寸此方へ出て、宜くお礼を」
喜「はい旦那さま、彼の折は何ともはアお礼の云う様もござえません、私なんざアこれもう六十四になりますから、何もこれ彼奴等に打殺されても命の惜いわけはなし、只私の不調法から旦那様の御名義ばかりじゃアねえ、お屋敷のお名前まで出るような事があっちゃア済まねえと覚悟を極めて、私一人打殺されたら事が済もうと思ってる所へ、旦那様が出て何ともはアお礼の申ようはありません、見掛けは綺麗な優しげな、力も何もねえようなお前様が、大の野郎を打殺しただから、お侍は異ったものだと噂をして居りました」
大「然う云われては却って困る、これは御奉公人で」
喜「はい私ア何でござえます、お嬢さまが五才の時から御奉公をして居り、長え間これ十五年もお附き申していますからお馴染でがす、彼の時お酒が一口出たもんだから、お供だで少し加減をすれば宜かったが、急いで飲っつけたで、えら腹が空ったから、二合出たのを皆な酌飲んじまい、酔ぱらいになって、つい身体が横になったところから不調法をして、旦那様に御迷惑をかけましたが、先生さまのお蔭さまで助かりましたは、何ともお礼の申上げようはござえません」
織「えゝ今日は直にお暇を」
大「何はなくとも折角の御入来、素より斯様な茅屋なれば別に差上るようなお下物もありませんが、一寸詰らん支度を申し付けて置きましたから、一口上ってお帰りを」
織「いや思召は辱けないが、今日は少々急ぎますから、併し貴方様はお品格といい、先達て三人を相手になすったお腕前は余程武芸の道もお心懸け、御熟練と御無礼ながら存じました、どうか承わりますれば新規お抱えに相成った權六と申す者と前々から知るお間柄ということを一寸屋敷で聞きましたが、御生国は矢張美作で」
大「はい、手前は津山の越後守家来で、父は松蔭大之進と申して、聊か高も取りました者でござるが、父に少し届かん所がありまして、お暇になりまして、暫くの間黒戸の方へまいって居り又は權六の居りました村方にも居りました、それゆえに彼とは知る仲でございます」
織「実にどうも貴方は惜いことで、大概忠臣二君に事えずと云う堅い御気象であらっしゃるから、立派な処から抱えられても、再び主は持たんというところの御決心でござるか」
大「いえ/\二君に仕えんなどと申すは立派な武士の申すことで、どうか斯うやって店借を致して、売卜者で生涯朽果るも心外なことで、仮令何様な下役小禄でも主取りをして家名を立てたい心懸もござりますが、これという知己もなく、手蔓等もないことで、先達て權六に会いまして、これ/\だと承わり、お前は羨しい事で、遠山の苗字を継いでもと米搗をしていた身の上の者が大禄を取るようになったも、全くお前の心懸が良いので自然に左様な事になったので、拙者などは早く親に別れるくらいな不幸の生れゆえ、とても然ういう身の上には成れんが、何様な処でも宜しいから再び武家になりたい、口が有ったら世話をしてくれんかと權六にも頼んで置きましたくらいで、何の様な小禄の旗下でも宜しいが、お手蔓があるならば、どうか御推挙を願いたい、此の儀は權六にも頼んで置ましたが、御重役の尊公定めしお交際もお広いことゝ心得ますから」
織「承知致しました、えゝ宜しい、いや実に昔は何か貞女両夫に見えずの教訓を守って居りましたが、却ってそれでは御先祖へ対しても不孝にも相成ること、拙者主人美作守は小禄でござるけれども、拙者これから屋敷へ立帰って主人へも話をいたしましょう、貴方の御器量は拙者は宜く承知しておるが、家老共は未だ知らんことゆえ、始めから貴方が越後様においでの時のように大禄という訳にはまいりません、小禄でも宜しくば心配をして御推挙いたしましょう」
大「どうもそれは辱けない事で」
と是から互に酒を飲合って、快く其の日は別れましたが、妙な物で、助けられた恩が有るゆえ、織江が種々周旋いたしたところから、丁度十日目に松蔭大藏の許へお召状が到来致しましたことで、大藏披いて見ると。
御面談申度儀有之候間明十一日朝五つ時当屋敷へ御入来有之候様美作守申付候此段得御意候以上
美作守内[#地付き、地より8字アキ]
三月十日
寺島兵庫
松蔭大藏殿
という文面で、文箱に入って参りましたから、当人の悦びは一通りでございません、先ず請書をいたし、是から急に支度にかゝり、小清潔した紋付の着物が無ければなりません、紋が少し異っていても宜い、昌平に描かせても直に出来るだろうが、今日一日のことだからと有助を駈けさせて買いに遣わし、大小は素より用意がありますから之を佩して、翌朝の五つ時に虎の門のお上屋敷へまいりますと、御門番には予て其の筋から通知がしてありますから、大藏を中の口へ通し中の口から書院へ通しました。
十五
御書院の正面には家老寺嶋兵庫、お留守居渡邊織江其の外お目附列座で新規お抱えのことを言渡し、拾俵五人扶持を下し置かるゝ旨のお書付を渡されました。其のお書付には高拾俵五人扶持と筆太に書いて、宛名は隅の方へ小さく記してござります。織江から来る十五日御登城の節お通り掛けお目見え仰付けらるゝ旨、且上屋敷に於てお長家を下し置かるゝ旨をも併せて達しましたので、大藏は有難きよしのお受をして拝領の長家へ下りました。織江が飛鳥山で世話になった恩返しの心で、御不自由だろうから是もお持ちなさい、彼もお持ちなさいと種々な品物を送ってくれたので、大藏は有難く心得て居りました。其の中十五日がまいると、朝五つ時の御登城で、其の日大藏は麻上下でお廊下に控えていると、軈てごそり/\と申す麻上下と足の音がいたす、平伏をする、というのでお目見えというから読んで字の如く目で見るのかと存じますと、足音を聞くばかり、寧ろお足音拝聴と申す方が適当であるかと存じます。併し当時では是すら容易に出来ませんことで、先ず滞りなくお目見えも済み、是から重役の宅を廻勤いたすことで、是等は総て渡邊織江の指図でございますが、羽振の宜い渡邊織江の引力でございますから、自から人の用いも宜しゅうございますが、新参のことで、谷中のお下屋敷詰を申付けられました。始りはお屋敷外を槍持六尺棒持を連れて見廻らんければなりません、槍持は仲間部屋から出ます、棒持の方は足軽部屋から出て[#「出て」は底本では「出で」]、甃石の処をとん/\とん/\敲いて歩るく、余り宜い役ではありません、芝居で演じましても上等役者は致しません所の役で、それでも拾俵の高持になりました。所が大藏如才ない人で、品格があって弁舌愛敬がありまして、一寸いう一言に人を感心させるのが得意でございますから、家中一般の評判が宜しく、
甲「流石は渡邊氏の見立だ、あれは拾俵では安い、百石がものはあるよ」
乙「いゝえ何でげす、家老や用人よりは中々腕前が良いそうだが、全体彼を家老にしたら宜かろう」
などと種々なことを云います。大藏は素より気が利いて居りますから、雨でも降るとか雪でも降ります時には、部屋へ来まして
大「一盃飲むが宜い、今日は雪が降って寒いから巡検は私一人で廻ろう、なに槍持ばかりで宜しい、此の雪では誰も通るまいから咎める者も無かろう、私一人で宜しい、これで一盃飲んでくれ」
と金びらを切りまして、誠に手当が届くから、寄ると触ると大藏の評判で、
甲「野上イ」
乙「えゝ」
甲「今度新規お抱えになった松蔭様はえらいお方だね」
乙「彼は別だね一寸来ても寒かろう、一盃飲んだら宜かろうと、仮令二百でも三百でも銭を投出して目鼻の明く処は、どうも苦労した人は違うな、一体御当家様よりは立派な大名の御家来で立派なお方が貧乏して困って苦労した人だから、物が届いている、感心な事だ、夜は寒いから止せ/\と御自分ばかりで見廻りをして勤めに怠りはない、それから見ると此方等は寝たがってばかりいて扨て仕様がないの」
甲「本当にどうも……おゝ噂をすれば影とやらで、おいでなすった」
と仲間共は大藏を見まして、
「えゝどうもお寒うございます」
大「あゝ大きに御苦労だが、又廻りの刻限が来たから往ってもらわなければならん、昼間お客来で又た遺失物でもあるといかんから、仁助私が一人で見廻ろう、雪がちらちらと来たようだから」
仁「成程降って来ましたね」
大「よほど降って来たな、提灯も別に要るまい、廻りさえすれば宜いのだ、私は新役だからこれが務めで、貴様達は私に連れられる身の上だ、殊に一人や二人狼藉者が出ても取って押えるだけの力はある、といって何も誇るわけではないが、此の雪の降るに、連れて往かれるのも迷惑だろうから」
仁「面目次第もありませんが、此方等は狼藉者でも出ると、真先に逃出し、悪くすると石へ蹴つまずいて膝ア毀すたちでありますよ、恐入りますな」
大「御家中で万事に心附のある方は渡邊殿と秋月殿である、寒かろうから寒さ凌ぎに酒を用いたら宜かろうと云って、御酒を下すったが、斯様な結構な酒はお下屋敷にはないから、此の通り徳利を提げて来た、一升ばかり分けてやろう別に下物はないから、此銭で何ぞ嗜な物を買って、夜蕎麦売が来たら窓から買え」
仁「恐れ入りましたな、何ともお礼の申そうようはございません、毎もお噂ばかり申しております実に余り十分過ぎまして……」
大「雪が甚く降るので手前達も難儀だろう、私一人で宜しい提灯と赤合羽を貸せ/\」
と竹の饅頭笠を被り、提灯を提げ、一人で窃かに廻りましたが却ってどか/\多勢で廻ると盗賊は逃げますが、窃かに廻ると盗賊も油断して居りますから、却って取押えることがあります。無提灯でのそ/\一人で歩くのは結句用心になります。或日お客来で御殿の方は混雑致しています時、大藏が長局の塀の外を一人で窃かに廻ってまいりますと、沢山ではありませんが、ちら/\と雪が顔へ当り、なか/\寒うござります、雪も降止みそうで、風がフッと吹込む途端、提灯の火が消えましたから、
大「あゝ困ったもの」
と後へ退ると、長局の板塀の外に立って居る人があります。無地の頭巾を目深に被りまして、塀に身を寄せて、小長い刀を一本差し、小刀は付けているかいないか判然分りませんが、鞘の光りが見えます。
大「はてな」
と大藏は後へ退って様子を見ていました。すると三尺の開口がギイーと開き、内から出て来ました女はお小姓姿、文金の高髷、模様は確と分りませんが、華美な振袖で、大和錦の帯を締め、はこせこと云うものを帯へ挟んで居ります。器量も判然分りませんが、只色の真白いだけは分ります。大藏は心の中で、ヤア女が出たな、お客来の時分に芸人を呼ぶと、毎も下屋敷のお女中方が附いて来るが、是は上屋敷の女中かしらん、はてな何うして出たろう、此の掟の厳しいのに、今日のお客来で御蔵から道具を出入れするお掃除番が、粗忽で此の締りを開けて置いたかしらん、何にしろ怪しからん事だと、段々側へ来て見ますと、塀外に今の男が立って居りますからハヽア、さてはお側近く勤むる侍と奥を勤めるお女中と密通をいたして居るのではないかと存じましたから、後へ退って息を屏して、密と見て居りますと、彼の女は四辺をきょろ/\見廻しまして声を潜め、
女「春部さま、春部さま」
春「シッ/\、声を出してはなりません」
と制しました。
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