三十九
別座敷に寝て居りましたお竹が、此の話を洩れ聞き大きに驚き、
竹「もし/\宗達様/\/\(揺起す)」
宗「あい/\/\、つい看病疲れで少し眠ました、はあー」
竹「よく御寝なっていらっしゃいますから、お起し申しましては誠に恐入りますが、少し気になることを向座敷で噂をしております、他の者の話は嘘のように存じますが、中に江戸屋敷へ出入る職人とか申す者の話は、少し心配になりますから、お目を覚してくださいまし」
宗「あい……はア……つい何うも……はア大分まだ降ってる様子で、ばら/\雨が戸へ当りますな」
竹「何卒あなた」
宗「はい/\……はア……何じゃ」
竹「其の話に春部と申す者が私の弟を新町河原で欺討にして甲府へ逃げたと云う事でございますが、何卒委しく尋ねて下さいまし、都合に寄っては又江戸へ帰るような事にもなろうと思いますから」
宗「それは怪しからん、図らず此処で聞くというは妙なことじゃ、江戸の、うん/\職人体の下屋敷へ出入る者、宜しい……えゝ御免ください」
と宗達和尚が向座敷の襖を開けて、大勢の中に入りました。見ると矢立を持って鼠無地の衣服に、綿の沢山入っております半纒を着て居り、月代が蓬々として看病疲れで顔色の悪い坊さんでございますから、一座の人々が驚きました。
○「はい、おいでなさい」
宗「あゝ江戸のお方は何方で」
○「江戸の者は私で、奥州仙台や常陸の竜ヶ崎や何か集ってるんで、へえ」
宗「只今向座敷で聞いておった処が、その江戸に久米野殿の屋敷へ出入りをなさる職人というはあなた方か」
○「えゝ私でござえやす」
鐵「えおい、だから余計なことを言うなって云うんだ、詰らねえ事を喋るからお互えに掛合になるよ」
宗「で、その久米野殿の御家来に渡邊織江と申す者があって人手にかゝり、其の子が親の敵を尋ねに歩いた処、春部梅三郎と申す者に欺かれて、新町とかで殺されたと云う話、八州が何うとかしたとの事じゃが、それを委しく話してください」
鐵「だから云わねえ事じゃアねえ、先方は彼な姿で来たって八州の隠密だよ」
と一人の連の者に云われ、一人は真蒼になり、ぶる/\と顫え出し、碌々口もきけません様子。
○「なに本当に知っている訳じゃアごぜえやせん、朦朧と知ってるんで、へえ一寸人に聞いたんで」
宗「聞いたら聞いたゞけの事を告げなさい、新町河原で渡邊祖五郎を殺害した春部梅三郎という者は何れへ逃げた」
○「あ彼方へ逃げて……それから秩父へ出たんで」
宗「うん成程、秩父へ出て」
○「それからこ甲府へ逃げたんで」
宗「秩父越しをいたして甲府の方へ八州が追掛けたのか」
鐵「おゝおゝ仕様がねえな、本当に手前は饒舌だな」
○「饒舌だって剣術の先生や何かも皆な喋ったじゃアねえか………何でごぜえやす……えゝ其の八州が追掛けて何したんで、当りを付けたんで」
宗「何ういう処に当りが付きましたな」
○「そりゃア何でごぜえやす、鴻の巣の宿屋でごぜえやす」
宗「はゝー鴻の巣の宿屋……(紙の端へ書留め)それは何という宿屋じゃ」
○「私ア知りやせん、其の宿屋へ女を連れて逃げたんで、其の宿屋が春部とかいう奴が勤めていた屋敷に奉公していて、私通いて連れて逃げた女の親里とかいう事で」
宗「うん…それから」
○「それっ切り知りやせん」
宗「知らん事は無かろう、知らんと云っても知らんでは通さん」
○「へえ……(泣声)御免なせえ、真平御免下さい」
宗「あなた方は江戸は何処だ」
○「真平御免…」
宗「御免も何もない、言わんければなりませんよ」
○「へえ外神田金沢町で」
宗「うん外神田金沢町…名前は」
○「甚太っ子」
宗「甚太っ子という名前がありますか、甚太郎かえ」
○「慥か然うで」
宗「甚太郎……其方にいるお方は」
鐵「私は喋ったんでもねえんで」
宗「言わんでも宜い、名前が宿帳と違うとなりませんぞ、宜いかえ」
鐵「へえ、下谷茅町二丁目で」
宗「お名前は」
鐵「ガラ鐵てえんで」
宗「ガラ鐵という名はない、鐵五郎かえ」
鐵「へえ」
宗「宜しい」
鐵「御免なさい」
と驚いて直に其の晩の内此処を逃出して、夜通し高崎まで逃げたという。其様なに逃げなくとも宜しいのに。此方はお竹が病苦の中にて此の話を聞き、どうか直に此処を立ちたいと云う。
宗「何うして今から立たれるものか、碓氷を越さなければならん」
と稍くの事で止めました。翌朝になると、お竹は尚更癪気が起って、病気は益々重体だが当人が何分にも肯きませんから、駕籠を傭い、碓氷を越して松井田から安中宿へ掛り、安中から新町河原まで来ますと、とっぷり日は暮れ、往来の人は途絶えた処で、駕籠から下りてがっかり致し、お竹はまたキヤ/\差込んで来ました。宗達は驚いて抱起したが、舁夫は此処までの約束だというので不人情にも病人を見棄てゝ、其の儘ずん/\往ってしまいました。宗達は持合せた薬を服ませ、水を汲んで来ようと致しましたが、他に仕方がないから、ろはつという禅宗坊主の持つ碗を出して、一杯流れの水を汲んで持って来ました。漸くお竹に水を飲ませ、頻りと介抱を致しましたが、中々烈しい事で、
竹「ウヽーン」
と河原の中へ其の儘反かえりました。
宗「あゝ困ったものじゃ、何うか助けたいものじゃ」
と又薬を飲まし、口移しに水を啣ませ、お竹を□□[#底本2字伏字]めて我肌の温かみで暖めて居ります内に、雪はぱったり止み、雲が切れて十四日の月が段々と差昇ってまいる内に、雪明りと月光りとで熟々お竹の顔を見ますと、出家でも木竹の身では無い、忽ち起る煩悩に春情が発動いたしました。御出家の方では先ず飲酒戒と云って酒を戒め、邪淫戒と申して不義の淫事を戒めてあります。つまり守り難いのは此の戒でございます。此の念を断切る事は何うも難い事です、修業中の行脚を致しましても、よく宿場女郎を買い、或は宿屋の下婢に戯れ、酒のためについ堕落して、折角積上げた修業も水の泡に致してしまう事があります、未だ壮んな宗達和尚、お竹の器量と云い、不断の心懸といい、実に惚れ/″\するような女、其の上侍の娘ゆえ中々凛々しい気象なれども、また柔しい処のあるは真に是が本当の女で、斯かる娘は容易に無いと疾から惚込んで、看病をする内にも度々起る煩悩を断切り/\公案をしては此の念を払って居りましたが、今は迷の道に踏入って、我ながら魔界へ落ちたと、ぐっとお竹を□□[#底本2字伏字]める途端に、温みでふと気が附いたお竹が、眼を開いて見ますと、力に思う宗達和尚が、常にもない不行跡、髭だらけの頬を我が顔へ当てゝ、肌を開いて□□[#底本2字伏字]めて居りますから、驚いて、
竹「アレー、何を遊ばします」
と宗達和尚を突退けて向うへ駆出しにかゝる袖を確かり押えて、
宗「お竹さん御道理じゃ、どうも迷うた、もうとても出家は遂げられん、私はお前の看病をして枕元に附添い、次の間に寐ていても、此の程はお前の身体が利かんによって、便所へ行くにも手を引いて連れて行き、足や腰を撫てあげると云うのも、実は私が迷いを起したからじゃ、とても此の煩悩が起きては私は出家が遂げられん、真に私はお前に惚れた、□□□□[#底本4字伏字]私の云う事を肯いてくだされば、衣も棄て珠数を切り、生えかゝった月代を幸いに一つ竈とやらに前を剃こぼって、お前の供をして美作国まで送って上げ、敵を討つような話も聞いたが、何の様な事か理由は知らんが、助太刀も仕ようし、又何の様な事でも御舎弟と倶に力を添える、誠に面目ない恥入った次第じゃが、何うぞ私の言う事を肯いてくだされ」
と云われ、呆れてお竹は宗達の顔を見ますと、宗達の顔色は変り、眼の色も変り、少し狂気している容子で、掴み付きにかゝるのを突退けて、お竹は腹立紛れに懐へ手を入れて、母の形見の合口の柄を握って、寄らば突殺すと云うけんまくゆえ、此方も顔の色が違いました。
竹「宗達さん、あなたは怪しからぬお方で、御出家のお身上で……御幼年の時分から御修業なすって、何年の間行脚をなすって、私は斯う云う修業をした、仏法は有難いものじゃ、斯ういうものじゃによって、お前も迷いを起してはならないと、宿に泊って居りましても臥床る迄は貴方の御教導、あゝ有難いお話で、大きに悟ることもありました、美作まで送って遣ろうとおっしゃっても、他の方なれば断る処なれど、御出家様ゆえ安心して願いました甲斐もなく、貴方が然う云うお心になってはなりません、何卒迷いを晴らして……憤りはしませんから、元々通り道連れの女と思召して、美作までお送り遊ばしてくださいまし、是迄の御真実は私が存じて居りますから」
宗「むゝう、是程に云ってもお聞済みはありませんか」
竹「どうして貴方大事を抱えている身の上で其様な事が出来ますものか」
宗「然うか……そうお前に強う云われたらもう是までじゃ、私もどうせ迷いを起し魔界に堕ちたれば、飽までも邪に行く、私はこれで別れる、あなたは煩うている身体で鴻の巣まで行きなさい、それも宜いが、道の勝手を知って居るまい、夜道にかゝって、女の一人旅は何の様な難儀があろうも知れぬ、さ、これで別れましょう」
竹「お別れ申しても仕方がございませんけれども、貴方の迷いの心を翻えしてさえくだされば、私に於てはお恨みとも何とも存じませんから」
宗「いや、お前は何ともあるまいが、此方に有るのじゃ、私は還俗してお前のためには力を添えて、何の様にも仕よう、長旅をして、お前を美作まで送って上げようとは、今迄した修業を水の泡にしてしまうのも皆なお前のためじゃ、何うぞ私の願を叶えてください、それとも肯かんければ詮方がない、もう此の上は鬼になって、何の様な事をしても此の念を晴さずには置かん、仕儀によっては手込にもせずばならん」
と飛付きに掛りますから、お竹は慌てゝ跡へ飛退って、
竹「迷うたか御出家、寄ると只は置きませんぞ」
と合口をすらりと引抜いて振上げ、けんまくを変えたから、
宗「おまえは私を斬る気になったのじゃな、最う此の上は可愛さ余って憎さが百倍、さ斬っておくれ」
と云いながら身を躱して飛付きにかゝる。
竹「そんなれば最う是迄」
と引払って突きにかゝる途端に、ころり足が辷って雪の中へ転ぶと一杯の血で、
宗「おゝ何処か怪我アせんか」
竹「私を斬ったな、法衣を着るお身で貴方は恐しい殺生戒を破って、ハッ/\、お前さんは鬼になった処じゃアない蛇になった、あゝ宗達という御出家は人殺しイ」
と云うが、ピーンと川へ響けます。
宗「あゝ悪い事をした、お竹さんが此様な怪我をする事になったのも畢竟我が迷い、実に仏罰は恐ろしいものである」
と思ったので宗達はカアーと取逆上せて、お竹が持っていた合口を捻取って、
「お前一人は殺しはせん、私も一緒に死んで、地獄の道案内をしましょう」
と云いながら我腹へプツリ。
宗「ウヽーン/\」
竹「もし/\……宗達さま」
宗「あい/\……あい……はアー」
竹「あなたは大層魘されていらっしゃいました」
宗「あい/\、あゝ……おゝ、お竹さま」
竹「はい」
宗[#「宗」は底本では「竹」]「あなたはお達者で」
竹「あなた怖い夢でも御覧なすったか、大層魘されて、お額へ汗が大変に」
宗「はい/\……お前は何うしたえ」
竹「はい、私は大きに熱が退れましたかして少し落着きました」
宗「左様か、ウヽン……煩悩経にある睡眠、あゝ夢中の夢じゃ、実に怖いものじゃの、あゝ悪い夢を視ました、悪い夢を視ました」
と心の中に公案を二十ばかり重ねて云いながら、手拭を出して額と胸の辺の汗を拭いて、ホッと息を吐き、
宗「あゝ迷いというものは甚いものじゃ」
四十
さて又粂野の屋敷では丁度八月の六日の事でございます。此の程は大殿様が余程御重症でございます。お医者も手に手を尽して種々の妙薬を用いるが、どうも効能が薄いことで、大殿様はお加減の悪い中にまた御舎弟紋之丞様は、只今で云えば疳労とか肺労とかいうような症で、漸々お痩せになりまして、勇気のお方がお咳が出るようになり、お手当は十分でございますが、どうも思うように薬の効能が無い、唯今で申せば空気の異った所へと申すのだが、其の頃では方位が悪いとか申す事で、小梅の中屋敷へいらっしゃるかと思うと、又お下屋敷へ入らっしゃいまして、谷中のお下屋敷で御養生中でありますと、若殿の御病気は変であるという噂が立って来ましたので、忠義の御家来などは心配して居られます。五百石取りの御家来秋月喜一郎というは、彼の春部梅三郎の伯父に当る人で、御内室はお浪と云って今年三十一で、色の浅黒い大柄でございますが、極柔和なお方でございます。或日良人に対い、
浪「いつもの婆がまいりました、あの大きな籠を脊負ってお芋だの大根だの、菜や何かを売りに来る婆でございます」
秋「あ、田端辺からまいる老婆か、久しく来んで居ったが、何ぞ買ってやったら宜かろう」
浪「貴方がお誂えだと申して塵だらけの瓢を持ってまいりましたが、彼はお花活に遊ばしましても余り好い姿ではございません」
秋「然うか、それはどうも……私が去年頼んで置いたのが出来たのだろう、それでも能く丹誠して……早速此処へ呼ぶが宜い、庭へ通した方が宜かろう」
浪「はい」
と是から下男が案内して庭口へ廻しますと、飛石を伝ってひょこ/\と婆さまが籠を脊負って入って来ました。縁先の敷物の上に座蒲団を敷き、前の処へ烟草盆が出ている、秋月殿は黒手の細かい縞の黄八丈の単衣に本献上の帯を締めて、下襦袢を着て居られました。誠にお堅い人でございます。目下の者にまで丁寧に、
秋「さア/\婆こゝへ来い/\」
婆「はい、誠に御無沙汰をしましてま今日はお庭へ通れとおっしゃって、此様なはア結構なお庭を見ることは容易にア出来ねえ事だから、ま遠慮申さねえばなんねえが、御遠慮申さずに見て、
っ子や忰に話して聞かせべいと思って参りました、皆様お変りもごぜえませんで」
秋「婆ア丈夫だの、幾歳になるの」
婆「はい、六十八になりますよ」
秋「六十八、左様か、アハヽヽヽいやどうも達者だな田端だっけな」
婆「はい、田端でごぜえます」
秋「名は何という」
婆「はい、お繩と申します」
秋「妙な名だな、お繩…フヽヽ余り聞かん名だの」
婆「はいあの私の村の鎮守様は八幡様でごぜえます、其の別当は真言宗で東覚寺と申します、其の脇に不動様のお堂がごぜえまして私の両親が子が無えって其の不動様へ心願を掛けました処が、不動様が出てござらっしゃって、左の手で母親の腹ア緊縛って、せつないと思って眼え覚めた、申子でゞもありますかえ、それから母親がおっ妊んで、だん/″\腹が大くなって、当る十月に私が生れたてえ話でごぜえます、縄で腹ア縛られたからお繩と命けたら宜かんべえと云って附けたでごぜえますが、是でも生れた時にゃア此様な婆アじゃアごぜえません」
秋「アハヽヽ田舎の者は正直だな、手前は久しく来なかったのう」
婆「はい、ま、ね、秋は一番忙がしゅうごぜえまして、それになに私などは田地を沢山持って居ねえもんだから、他人の田地を手伝をして、小畠で取上げたものを些とべえ売りに参ります、白山の駒込の市場へ参って、彼処で自分の物を広げるだけの場所を借りれば商いが出来ます」
秋「成程左様か、娘が有るかえ」
婆「いえ嫁っ子でごぜえます、是が心懸の宜いもので、忰と二人で能く稼ぎます、私は宅にばかり居ちゃア小遣取りが出来ましねえから、斯うやって小遣取りに出かけます」
秋「そうか、茶ア遣れ、さ菓子をやろう」
婆「有難う…おや/\まア是れだけおくんなさいますか、まア此様に沢山結構なお菓子を」
秋「宜いよ、また来たら遣ろう」
婆「はい、此の前参りました時、巨え御紋の附いたお菓子を戴きましたっけ、在所に居ちゃア迚も見ることも出来ねえ、お屋敷様から戴えた、有りがたい事だって村中の子供のある処へ些とずつ遣りましたよ、毎度はや誠に有難い事でござえます」
秋「どうだ、暑中の田の草取りは中々辛いだろうのう」
婆「はい、熱いと思っちゃア兎ても出来ませんが、草が生えると稲が痩せますから、何うしても除ってやらねえばなりませんが、此間儲けもんでござえまして、蝦夷虫一疋取れば銭い六百ずつくれると云うから、大概の前栽物を脊負い出すより其の方が楽だから、おまえさま捕つかめえて、毒なア虫でごぜえますから、籠へ入れて蓋をしては持って参ります」
秋「ムヽウ、それは何ういう虫だえ」
婆「あの斑猫てえ虫で」
秋「ムヽウ斑猫……何か一疋で六百文ずつ……どんな処にいるものだえ」
婆「はい、豆の葉に集って居ります、在所じゃア蝦夷虫と云って忌がりますよ」
秋「何にいたすのだ」
婆「何だかお医者が随いて来まして膏薬に練ると、これが大え薬になる、毒と云うものも、使いようで薬に成るだてえました」
秋「ムヽウ、何の位捕まった」
婆「左様でごぜえます、沢山でなければ利かねえって、何にするんだか沢山入るって、えら捕めえましたっけ」
秋「そりゃア妙だ、医者は何処の者だ」
婆「何処の者だか知んねえで、一人男を連れて来て、其の虫を捕まって置きさえすれば六百ずつ置いては持って往きます、其の人は今日お前様白山へ参りますと、白山様の門の坂の途中の処にある、小金屋という飴屋にいたゞよ、私は懇意だからお前様の家は此処かえと何気なしに聞くと、其の男が言っては悪いというように眼附をしましたっけ」
秋「はて、それから何う致した」
婆「私も小声で、今日は虫が沢山は捕れましねえと云うと、明日己が行くから今日は何も云うなって銭い袂へ入れたから、幾許だと思って見ると一貫呉れたから、あゝ是は内儀さんや奉公人に内証で毒虫を捕るのだと勘づきましたよ」
秋「ムヽウ白山前の小金屋という飴屋か」
婆「はい」
秋「あれは御当家の出入である……茶の好いのを入れてください、婆ア飯を馳走をしようかな」
婆「はい、有難う存じます」
秋「婆ア些と頼みたい事があるが、明日手前の家へ私が行くがな、其の飴屋という者を内々で私に会わしてくれんか」
婆「はい、殿様は彼の飴屋の御亭主を御存じで」
秋「いや/\知らんが、少し思うことがある、それゆえ貴様の家へ往くんだが、貴様の家は二間あるか、失礼な事を云うようだが、広いかえ」
婆「店の処は土間になって居りまして、折曲って内へ入るんでがすが、土間へは、薪を置いたり炭俵を積んどくですが、二間ぐれえはごぜえます、庭も些とばかりあって、奥が六畳になって、縁側附で爐も切ってあって、都合が宜うごぜえます、其の奥の方も畳を敷けば八畳もありましょうか、直に折曲って台所になって居ります」
秋「そんなら六畳の方でも八畳の方でも宜いが、その処に隠れていて、飴屋の亭主が来た時に私に知らしてくれ、それまで私を奥の方へ隠して置くような工夫をしてくれゝば辱けないが、隠れる処があるかえ」
婆「はい、狭うござえますし、それに殿様が入らっしたって、汚くって坐る処もないが、上の藤右衞門の処に屏風が有りますから、それを立廻してあげましょう」
秋「それは至極宜かろう、何でも宜しい、私が弁当を持って行くから別に厄介にはならん」
婆「旨えものは有りませんが、在郷のことですから焚立の御飯ぐらいは出来ます、畑物の茄子ぐらい煮て上げましょうよ」
秋「然うしてくれゝば千万辱けないが、事に寄ると私一人で往くがな、飴屋の亭主に知れちゃアならんのだが、何時ぐらいに飴屋の亭主は来るな」
婆「左様さ、大概お昼を喫ってから出て参りますが、彼でも未刻過ぐらいにはまいりましょうか、それとも早く来ますかも知れませんよ」
秋「そんなら私は正午前に弁当を持ってまいる、村方の者にも云っちゃアならん」
婆「ハア、それは何ういう理由で」
秋「此の方に少し訳があるんだ、注文をして置いた瓢覃を持って来たとな」
婆「誠に妙な形でお役に立つか知りませんが」
と差出すを見て、
秋「斯ういう形じゃア不都合じゃが」
婆「其の代り無代で宜うがんす、口を打欠えて種子え投込んで、担へ釣下げて置きましたから、銭も何も要らねえもんでごぜえますが、思召が有るなら十六文でも廿四文でも戴きたいもんで」
秋「是はほんの心ばかりだが、百疋遣る」
婆「いや何う致しまして、殿様此様なに戴いては済みません」
秋「いや、取とけ/\、お飯を喫べさせてやろう」
と是からお飯を喫べさせて帰しました。さて秋月喜一郎は翌日野掛の姿になり、弁当を持たせ、家来を一人召連れて婆の宅を尋ねてまいりました。彼の田端村から西の方へ深く切れてまいると、丁度東覚寺の裏手に当ります処で。
秋「此処かの、……婆は在宅か、此処かの、婆はいないか」
婆「ホーイ、おやおいでなせえましよ、さ此処でござえますよ、ままどうも…今朝っから忰も悦んで、殿様がおいでがあると云うので、待に待って居りました処でござえます、何卒直にお上んなすって……お供さん御苦労さまでごぜえました」
秋「其の様に大きな声をして構ってくれては困る、世間へ知れんように」
婆「心配ごぜえませんからお構えなく」
秋「左ようか……其の包を其の儘此方へ出してくれ」
婆「はい」
秋「これ婆ア、是は詰らんものだが、ほんの土産だ、是れは御新造が婆アが寒い時分に江戸へ出て来る時に着る半纏にでもしたら宜かろう、綿は其方にあろうと云って、有合せの裏をつけてよこしました」
婆「あれアまア……魂消ますなア、此様なに戴きましては済みませんでごぜえます、これやい此処へ来う忰や」
忰「へえ御免なせえまし……毎度ハヤ婆が出まして御贔屓になりまして、帰って来ましちゃア悦んで、何とハア有難え事で、己ような身の上でお屋敷へ出て、立派なアお方さまの側で以てからにお飯ア戴いたり、直接にお言葉を掛けて下さるてえのは冥加至極だと云って、毎度帰りますとお屋敷の噂ばかり致して居ります、へえ誠に有難い事で」
秋「いや/\婆に碌に手当もせんが、今日は少し迷惑だろうが、少しの間座敷を貸してくれ、弁当は持参してまいったから、決して心配をしてくれるな、兎や角構ってくれては却って困る、これは貴様の妻か」
嘉「へえ、私の嚊でごぜえます、ぞんぜえもので」
妻「お入来なせえまし、毎度お母が参りましては種々御厄介になります、何うかお支度を」
秋「いやもう構ってくれるな、早く屏風を立廻してくれ」
婆「畏りました、破けて居りますが、彼でも借りてめえりましょう、其処な家では自慢でごぜえます、村へ入る画工が描いたんで、立派というわけには参りません、お屋敷様のようじゃアないが、丹誠して描いたんだてえます」
秋「成程是は妙な画だ、福禄寿にしては形が変だな、成程大分宜い画だ」
婆「宅で拵えた新茶でがんす、嘉八や能くお礼を申上げろ」
嘉「誠に有難うごぜえます、貴方飴屋が参りますと、何かお尋ねなせえますで」
秋「其様なことを云っちゃアいけない」
嘉「実はその去年から頼まれて居りますが、婆さまの云うにア、それは宜えが訝しいじゃアなえか、何ういう理由か知んねえ、毒な虫を捕って六百文貰って宜えかえ、なに構ア事はなえが、黒い羽織を着て、立派なア人が来るです」
秋「まゝ其様なことを云っちゃアいけない」
嘉「へえ/\、なに此処は別に通る人もごぜえませんけれども、梅の時分には店へ腰をかけて、草臥足を休める人もありますから、些とべえ駄菓子を置いて、草履草鞋を吊下げて、商いをほんの片手間に致しますので、子供も滅多に遊びにも参りません、手習をしまって寺から帰って来ると、一文菓子をくれせえと云って参りますが、それまでは誰も参りませんから、安心して何でもおっしゃいまし、お帰りに重とうござえましょうが、芋茎が大く成りましたから五六把引こ抜いてお土産にお持ちなすって」
供「旦那さま、芋茎のお土産は御免を蒙りとうございます……御亭主旦那様は芋茎がお嫌いだからお土産は成るたけ軽いものが宜い」
嘉「軽いものと仰しゃっても今上げるものはごぜえません、南瓜がちっと残って居ますし、柿は未だ少し渋が切れないようですが、柿を」
供「柿の樹はお屋敷にもあります」
秋「今日は来ないかの」
嘉「いえ急度参るに相違ごぜえません」
と云っている内に、只今の午後三時とおもう頃に遣ってまいりましたのは、飴屋の源兵衞でございます。
源「あい御免よ」
婆「はい、お出でなせえまし、さ、お上んなせえまし」
源「あゝ何うも草臥れた、此処まで来るとがっかりする、あい誠に御亭主此間は」
嘉「へえ、是はいらっしゃいまし、久しくお出がごぜえませんでしたな、漸々秋も末になって参りまして、毒虫も思うように捕れねえで」
源「これ/\大きな声をするな、是れは毒の気を取って膏薬を拵えるんだ、私は前に薬種屋だと云ったが、昨日婆さんに会った、隠し事は出来ねえもんだ、これは口止めだよ、少しばかりだが」
嘉[#「嘉」は底本では「源」]「どうもこれは…」
源「其の代り他人に云うといけないよ」
嘉「いえ申しませんでごぜえます」
源「私も十露盤を取って商いをする身だから、沢山の礼も出来ないが、五両上げる」
嘉「えゝ、五両……魂消ますな、五両なんて戴く訳もなし、一疋捕まえて六百文ずつになれば立派な立前はあるのに、此様なに、大く戴きますのは止しましょうよ」
源「いや/\其様なことを云わないで取ってお置き、事に寄ると為めになる事もあるから、決して他人に云っちゃア成りませんよ、私が頼んだという事を」
婆「それは忰も嫁も心配打っていますが、他の者じゃアなし、毒な虫をお前様に六百ずつで売って、何ういう事で間違えでも出来やアしねえかと心配してえます」
源「其様な事は有りゃアしないよ、此の虫を沢山捕えて医者様が壜の中へ入れて製法すると、烈しい病も癒るというは、薬の毒と病の毒と衝突うから癒るというので、ま其様なに心配しないでも宜い」
婆「お金は戴きませんよ、なア忰」
嘉「えゝ、これは戴けません、此間から一疋で六百ずつの立前になるんでせえ途方も無え事だと思ってるくれえで、これが玉虫とか皀角虫とかを捕るのなれば大変だが、豆の葉に集ってゝ誰にでも捕れるものを大金を出して下さるだもの、其様なに戴いちゃア済みません」
源「これ/\其様な大きな声を出しちゃアいけない」
嘉「これは何うしても戴けません」
源「そこに種々理由があるんだ、其様なことを云っては困る、これは取って置いてくれ」
嘉「へえ立前は戴きます、ま此方へお上んなすって、なに其処を締めろぴったり締めて置け、砂が入っていかねえから……えゝゝ風が入りますから、ま此方へ……何もごぜえませんがお飯でも喰べてっておくんなせえまし」
源「お飯は喫べたくないが、礼を受けてくれんと誠に困るがな、受けませんか」
嘉「へえ」
と何う有っても受けない、百姓は堅いから何うしても受けません。源兵衞も困って、
源「そんなら茶代に」
と云って二分出しますと、
嘉「お構い申しもしませんのに……お茶代と云うだけに戴きましょう、誠にどうも、へえ」
源「今日は帰ります、婆さん又彼方へ来たらお寄り、だが、私が此処へ来たことは家内へ知れると悪いから、店へは寄らん方が宜い、店には奉公人もいるから」
婆「いえ、お寄り申しませんよ、はい左様なら、気を附けてお帰んなせえましよ」
源「あい」
是から麻裏草履を穿いて小金屋源兵衞が出にかゝる屏風の中で。
秋月「源兵衞源兵衞」
と呼ばれ、源兵衞は不審な顔をして振反り、
源「誰だ……何方でげす、私をお呼びなさるのは何方ですな」
秋「私じゃ、一寸上れ、ま此方へ入っても宜い、思い掛ない処で会ったな」
源「何方でげす」
と屏風を開けて入り、其の人を見ると、秋月喜一郎という重役ゆえ、源兵衞は肝を潰し、胸にぎっくりと応えたが、素知らぬ体にて。
源「誠に思い掛ない処で、御機嫌宜しゅう」
秋「少し手前に尋ねたい事があって、急ぐか知らんが、同道しても宜しい、暫く待ってくれ、少し問う事がある、源兵衞其の方は何ういう縁か、飴屋風情でお屋敷の出入町人となっている故、殿様の有難い辱ないという事を思うなら、又此の方が貴様を引廻しても遣わすが、真以て上を有難いと心得てお出入をするか、それから先へ聞いて、後は緩くり話そう」
源「へえ誠にどうも細い商いでございますが、御用向を仰付けられて誠に有難いことだ、冥加至極と存じまして、へえ結構な菓子屋や其の他のお出入もある中にて、飴屋風情がお出入とは実に冥加至極と存じて居ります、殿様が有難くないなどゝ誰が其様なことを申しました」
秋「いや然うじゃアない、真に有難いと心得て居るだろう」
源「それは仰しゃるまでもございません、此の後ともお引廻しを願いとう存じます」
秋「それでは源兵衞、手前が何の様に隠しても隠されん処の此方に確かな証拠がある、隠さずに云え、じゃが手前は何ういう訳で斑猫という毒虫を婆に頼んで一疋六百ずつで買うか、それを聞こう」
と源兵衞の顔を見詰めている中に、顔色が変ってまいると、秋月喜一郎は態とにや/\笑いかけました。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] ... 下一页 >> 尾页