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敵討札所の霊験(かたきうちふだしょのれいげん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-12 9:22:13  点击:  切换到繁體中文


        三十五

傳「あれ、それじゃア姉(ねえ)さん、だがね、困るねどうも、然(そ)うお前さん言ってしまっては……何とか云い様が有りそうなものだ、何(ど)うも困るね、左様(そう)じゃア」
やま「左様じゃアって考えて御覧なさい、お前さんは頼まれたか知らないが、此処(こゝ)にいらっしゃる方は大小を差した立派なお武家様で、人の娘を知りもしない処(ところ)へ無理遣(むりや)りに引摺込(ひきずりこ)んで、飲めもしない者に盃をさして何うなさる、彼(あ)の方は本当に馬鹿々々しくて、私(わたくし)も武士の家に生れたが、武家はそんな乱暴な馬鹿な真似は為(し)はしません、余(あんま)り馬鹿な事で呆れて愛想もこそも尽果てた厚かましい人だ」
典「なに厚かましいと、何(なん)だ、馬鹿々々しいとは何だ、否(いや)なら否で宜しい、無理に嫁に貰おうと云う訳ではないが、手前が……」
やま「厚かましいから厚かましいと申しました、袖をお放しなさいよ」
 と袖を引張るのを、
やま「お放しなさい」
 と立上りながら振切って百度の籤(くじ)をぽんと投付けると、柳田典藏の顔へ中(あた)ったから痛(いと)うございます。はっと面(つら)を押えて居るうち戸外(おもて)へ駈出しました。
典「傳次々々」
傳「へえ、何うも彼(あ)の通りで仕様がねえ」
典「だからいけぬと云うに、無理遣りに連れ出して、内々(ない/\)ならば仕様も無いが、斯(こ)ういう茶見世へ参って恥を与えるとは怪(け)しからん事」
傳「お前さん、そう怒っちゃアいけねえ」
典「貴様は最(も)う己(おれ)の家(うち)へ来るな」
傳「そんな事を言ってはいけねえ、旦那腹を立ってはいけません、婆(ばゝあ)がね、娘の跡を追掛(おっか)けたが、居ないから最う仕方がないが、お前さん腹を立っちゃアいけません、そこは処女(きむすめ)で、仮令(たとい)向うが惚れていても、気障(きざ)だよお止しよと振払うのは娘っ子の情で、殊(こと)には二十二まで何だって島田で居る様な変り者(もん)だから、気短かに何う斯うと云うなア、からもう色をした事もないようで、極りが悪いじゃア有りませんか、何でも気長に往(い)かなければいけません、旦那斯うしましょう」
典「もう手前の云う事は聴かぬ、種々(いろ/\)の事を云って籤(さし)を投付けて」
傳「籤(さし)なんぞは何でも無い、此の前張倒されて溝(どぶ)へ落ちた人も有るそうでねえ、斯うなさい、娘を何うかして、そーッと他処(わき)へ連れて行こう」
典「連れて行って何うする」
傳「何うすると云ってまアお聞きなさい、何処(どこ)かへ夜連出して、酷(ひど)い様だが私(わっち)一人ではいけねえ、ぎゃア/\云わねえ様に猿轡(さるぐつわ)でも箝(は)めて、庄吉と二人で葉広山(はびろやま)へ担(かつ)いで行って、芝原(しばはら)の綺麗な人の来(こ)ねえ処で、さて姉さん、是程惚れて居る者を宜く此間(こないだ)は大滝村で恥を掻かしたな、殺して仕舞うと云うのだが、可愛くって殺せねえ、若(も)し云う事を聴かぬ時は武士が立たぬとか男が立たぬとか云って、何でも女房(にょうぼ)に成って呉れ否(いや)てえば仕方がねえから、腕を押えても□□□寝るが何うだ、それよりは得心して知れない様にと云えば命が惜(おし)いから造作アねえ、それから家(うち)へ連れて来て、得心ずくでお前さん□□□寝ちゃア何うです宜うがすか、それで娘の方で屹度(きっと)惚れるねえ、初めて男の味を覚えて、真にあゝ云う人ならと先方(むこう)から惚れて、伯父さん嫁に遣(や)ってようと先方から云うよ」
典「うーん然(そ)う旨く往(い)くかえ」
傳「それは大丈夫いきますとも」
 とそれから様子を窺(うかゞ)って居ると、八月の十八日は白島村の鎮守の祭礼で、今日は屹度来るに相違ない、何うかして担ぎ出そうと昼から附けて居ると、昼の中(うち)は用が有るから物見遊山にも出ず、不動様へお参りに行(ゆ)くだけで、夜(よ)に入(い)って山之助と二人で、祭礼だから見て来ようと云って来ると、突然(だしぬけ)に竹藪の茂みから駈出して来て、おやまを担ぎ上げて、どん/\/\/\林の小路(こみち)へ駈上りました事でございますから、山之助は盗賊(どろぼう)……勾引(かどわかし)……と呼んで跣足(はだし)で追掛(おっか)けると山之助は典藏に胸をどんと突かれましたから、田の中へ仰向(あおむけ)に転がり落ちます。其の中(うち)にどん/\と路(みち)を走り、葉広山まで担いで駈上ります。折から雨がざあー/\と降出して来ましたが、その中をどん/\滑る路を漸々(よう/\)と登りまして芝原へおやまを引据(ひきす)えて、三人で取巻く途端、秋の空の変り易(やす)く忽(たちまち)に雲は晴れ、木(こ)の間(ま)を漏れる月影に三人の顔を睨(にら)み詰め、おやまは口惜(くやし)いから身を慄(ふる)わして芝原へ泣倒れました。

        三十六

傳「おい姉(ねえ)さん、泣いたっていけねえ、おい、お前(めえ)本当に今日斯(こ)う遣(や)って担(かつ)ぎ上げたのは酷(ひど)い、盗賊(どろぼう)勾引(かどわかし)と思うだろうが、然(そ)うでない、実は旦那が又惚れたんだ、お前が籤(さし)をぽんと投付けて否(いや)だと云ったので、何うも堅い娘だ、感心だ、あんな女を女房(にょうぼ)に貰わないでは己(おれ)が一旦口を出したのが恥だから、お父(とっ)さんの帰った時はどの様にも詫(わび)をする……担ぎ上げたのは酷いが、話を為(し)たいからの事だが、これから柳田の旦那の処(ところ)へ行って……なに泊めやアしない、一寸(ちょっと)彼処(あすこ)で酒の相手をして、な、否てえば仕方がねえ、私(わっち)が中へ這入って旦那に済まねえ、済まねえから二人で腕を押え足を押えて居ても、否でも応でも旦那に思いを遂げさせなくちゃアならねえが、左様(そう)すればお前得心ずくでなく疵(きず)を付けられて、他(ほか)へ縁付く事も出来ねえ、それよりはうんと云って得心さえすれば弟御(おとうとご)も仕合(しあわせ)、旦那も斯(こ)んな挙動(まね)を為たくはねえが、お前があゝ云う気性だから仕方がねえ、よう後生だ、ようそれで連れて来たんだ、私が困るから諾(うん)と云って、よう後生だから諾と云って呉んねえ」
やま「さア殺しておしまい、何うも恐しい悪党だ、徒党をして山へ連れて来て慰さもうとする気か、舌を噛んでも人に肌身を汚(けが)されるものか、さア殺してしまえ」
傳「それじゃア仕様がねえ、おいそんな事を……お前(めえ)が否だと云えば手足を押えても□□ぜ」
やま「慰めば舌を喰切って」
典「なに」
傳「旦那腹を立ってはいけねえ、おい姉(ねえ)さん、お前(めえ)否だと云えば仕方がない」
 と無理遣(むりやり)に手を取りますると、
やま「何を、放せえ」
 と手に喰付きますから、
傳「いけねえ、此のあまっちょ、おい庄吉さん□□□□□□」
 と□□□押転(おしこか)し、庄吉は足を押える。
やま「ひー殺してしまえ、殺せえ」
 と云う声は谺(こだま)に響きます、後(うしろ)の三峰堂(みみねどう)の中に雨止(あまやみ)をしていた行脚(あんぎゃ)の旅僧(たびそう)、今一人は供と見えて菅(すげ)の深い三度笠(さんどうがさ)に廻し合羽で、柄前(つかまえ)へ皮を巻いて、鉄拵(てつごしら)えの胴金(どうがね)に手を掛け、千草木綿(ちくさもめん)の股引に甲掛草鞋穿(こうがけわらじばき)で旅馴れた姿、明荷(あけに)を脇に置き、一人は鼠の頭陀(ずだ)を頸(くび)に掛け、白い脚半(きゃはん)に甲掛草鞋。
男「あゝ気の毒な、助けて遣(や)らん」
 と飛出しましたのは前(ぜん)申上げました水司又市の永禪和尚、彼(か)の川口の薬師堂に寺男になって居ると、尼様に寺男が御経を教えて居る、あれは寺男が本当の坊主の果で有ろうと段々噂が高くなり、薄気味が悪いから、川口を去って越後から倉下道(くらげみち)を山越をして信濃路へ掛って、葉広山の根方を通り掛ると村雨に逢い、少しの間雨止(あまやみ)と三峰堂へ這入って居ると、雨も止みましたから、支度をして出ようと思う処へ人殺し、殺してしまえと云う女の鉄切(かなき)り声ゆえ、つか/\と飛出しまして、又市は物をも言わずに、娘の腕を押えて居りました傳次の襟髪(えりがみ)を取って引倒し、足を押えて居た庄吉の頤(あご)を土足で蹴倒しますると、柳田典藏は驚き、何者だと長いのを引抜いて振上げる。此方(こちら)も透(すか)さず道中差をすらりっと引抜き、
又「何者とは何(なん)だ、悪い奴らだ、繊弱(かよわ)い女を連れて来て、手前達(てまいたち)が何か慰もうと云うのか、ひい/\泣く者を不埓な奴だ、旅だから許してやる、さっ/\と行(い)け、兎(と)や角(こ)う云えば承知致さぬぞ、さっさっと行け」
傳「あゝ痛(いた)え、突然(だしぬけ)に無闇と蹴やアがって、飛んだ奴だ、手前(てめえ)は訳を知るめえが己達は勾引(かどわかし)でも何でもねえ、この女(あまっちょ)には訳があって旦那に済まねえ廉(かど)が有るから、此方(こっち)が為になる様に納得させようと思って居るのに、きいきい云やアがるから嚇(おど)しに押えるのだ、お前(めえ)は何も知らねえで、何もいらざる所へ邪魔アしやアがるな、旅の者だと吐(ぬか)しやアがる手前は」
 と月影で顔を見合せると、互に見忘れませぬ。又市も傳次も見たようなと思うと、庄吉は宗慈寺に旧来奉公して居りましたから永禪和尚の顔を能(よ)く知って居りますから、
庄「えゝ/\/\貴方は高岡の永禪様」
永「庄吉か」
庄「永禪様か」
 と此の時は又市も驚きまして、此奴(こいつ)らは吾(わが)身上(みのうえ)を知って居る上からは助けて置いては二人の難儀と思い、永禪和尚と声を掛けられるや否や持って居た刀で庄吉の肩へ深く切付ける、庄吉はきゃアと云って倒れる。傳次は驚いて逃げに掛る処を袈裟掛(けさがけ)に切りましたから、ばったり倒れると、柳田典藏は残念に思い、この乱暴人と自分の乱暴人を忘れ振冠(ふりかぶ)って切掛ける。又市は受損じ、蹌(よろ)めく機(はず)みに又市が小鬢(こびん)をはすって頭(かしら)へ少し切込まれたが、又市は覚えの腕前返す刀に典藏が肱(ひじ)の辺(あたり)へ切込みますと、典藏は驚き、抜刀を持ちながらばら/\/\/\山から駈下(かけお)りました。傳次は面部へ疵(きず)を受けながら、
「太(ふて)え奴だ人殺し」
 と又市の足へ縋(すが)り付く処を。
又「放せえ、うーん」
 と止(とゞ)めを刺しましたから、其の儘息は絶えました。
永「惠梅々々」
梅「はい恟(びっく)りしました」
又「宜(い)いかえ」
梅「あゝ怖い」
又「お前は嘸(さぞ)怖かったで有ろうのう、斯様(かよう)な奴を助けて置くと村方を騒がして何(ど)の様(よう)なる事を為(す)るかも知れぬから、土地の助けに殺したのだ」
やま「有難うございます、命の親でございます」
 と手を合せたが、おやまは後(あと)へ下(さが)る、是は又市が刃物を持って居りますから気味が悪いから後へ下る。
又「何も心配は無いから」
 と血(のり)を拭(ぬぐ)って鞘(さや)に納め、額の疵へ頭陀の中より膏薬(こうやく)を出して貼付け、後鉢巻(うしろはちまき)をして、
又「さア是から家(うち)まで送ろう」
 とおやまの手を取って白島村へ帰ろうとする途中、山之助が帰って伯父に知らせたから、村方の百姓二十人許(ばか)りおやまの行方を捜しに来る者に途中で出逢い、これから家まで送り届けると云う。是が縁に成って惠梅と水司又市の二人がおやま山之助の家へ来て永く足を留める。これが又一つ仇討(あだうち)に成りまする端緒(いとぐち)でございます。

        三十七

 おやまの危(あやう)い処(ところ)を助けて、水司又市と惠梅比丘尼は彼(か)のおやまの家(うち)まで送って参る途中で出会いました者は、弟山之助に村方の者でございます。
山「姉は何処(どこ)へ担がれて参ったかと、伯父多右衞門と大きに心配して尋ねに参る処で、貴方が助けて下すったか有難う存じます」
 皆々も大悦びでございます。
又「実は斯(こ)う云う訳で、図(はか)らずも通り掛ってお助け申したが実に危(あぶな)い事であった、併(しか)しお怪我もなくて幸いの事で有りましたが、就(つい)ては私(わし)も止むを得ず二人まで殺したからは其の届を出さなければ成るまいが」
多「はい/\届けましても御心配はございません、重々悪い事が有る奴でございますから」
 と是から名主へ届けました処が、素(もと)より悪人という事は村方で大概ほしの付いて居ります旅魚屋の傳次なり、おやまを辱(はず)かしめようとした廉(かど)があり、直(すぐ)に桑名川村へ調べに参ると、典藏は家を畳み、急に逐電致しました故、此の事は山家ではあるし、事なく済みましたが、此方(こっち)は急ぐ旅でないから疵(きず)の癒(なお)る間逗留して下さいと云われ、おやま山之助二人暮しの田舎住居(ずまい)、又市は幸いにして膏薬を貼って此の家(いえ)に逗留して居る間は、惠梅比丘尼は方々へ斎(とき)に頼まれて参り、種々(いろ/\)な因縁話を致しまして、
梅「私も因縁あって尼になり、誠に私は若い時分種々の苦労も有ったが、只今では仏道に入(い)って胸の雲も晴れて、実に世の中を気楽に渡る、是が極楽と申します」
 などと、尤(もっと)もらしい事を云うと、田舎の百姓衆は此方(こちら)へ何卒(どうぞ)いらっしゃって、私の親類が三里先に有りますが、是へもと云ってお布施を貰い、諸方へ参ってお斎を致しますと、お布施の外(ほか)に割麦(ひきわり)或(あるい)は粟(あわ)稗(ひえ)などを貰って、おやまの家(うち)の物を食って居るから、実は何時(いつ)までも置いて貰いたいと思って居りますうちに疵も癒り、或日(あるひ)惠梅比丘尼は山之助と隣村まで参りまして、又市は疵口の膏薬を貼替えまして、白布で巻いては居りますが、疵も大方癒(いえ)たから酒好(さけずき)と云う事を知り、膳立(ぜんだて)をして種々の肴を拵(こしら)えまして、
やま「もしあなた、一杯お酒を癇(つ)けましたから召上りませんか、お医者様も少し位召上っても障(さわ)りには成らないと仰しゃりますから、一口召上りまして」
又「いや誠に有難う、大した事ではなし、一体酒が好(すき)で旅をするには一杯飲めば気が晴れるから、宿で一杯出せば尼様に隠して内所(ないしょ)で飲むこともある、これは/\有難う……えゝお前はまア姉弟衆(きょうだいしゅう)二人ながら仲よう稼ぎなさる、暗いうちから起きて糸を繰ったり機(はた)を織ったり、また山之助さんは牛馬(ぎゅうば)を牽(ひ)いて姉弟で斯う稼ぐ人は余り見た事がない、実に感心の事じゃ」
やま「いゝえもう二人ながら未だ子供のようでございます、彼(あれ)が年も往(い)きませんから届きません、只私を大事にして呉れます、日々あゝやって御城下へ参りまして、荷を置いて参ります、又彼方(あちら)から参る物は此方(こちら)へ積んで参りまして少々の賃銭(ちんせん)を戴きます、はい宜く稼ぎますが、丁度飯山の御城下へまいり、お酒の美(よ)いのを買って参りましたが、お肴は何(なん)にもございませんが、召上って下さいまし」
又「いや此処(こゝ)らは山家でも御城下近いから便利でございます、一杯頂戴致しましょう、是ははい御馳走に成ります……一杯酌(つ)いで下さい、四五日酒を止(や)めて居たので酔いはせんかな」
やま「どうぞ召上って」
 となみ/\とつぐ。素(もと)より好きな酒、又市二三杯飲むうち、少し止めて居たから顔へ色がぼうと出ましたけれども、桜色という訳にはいきません、栗皮茶(くりかわちゃ)のような色に成りましたが、だん/\酔(えい)が廻りますと、もとより邪淫奸智(じゃいんかんち)の曲者(くせもの)、おやまは年齢(とし)二十二でございます、美くしい盛りで、莞爾(にっこり)と笑います顔を、余念なく見て居りましたが、
又「あゝ見惚(みと)れますねえ、お前さんの其の、品の良いこっちゃなア…あゝ最う十分に酔(え)いました、もしおやまさん/\」
やま「はい」
又「あの何(なん)で、この先に伯父さんが有るが、彼(あれ)はあなたの真実の伯父さんかえ」
やま「はい私(わたくし)の真実の伯父でございます」
又「御両親はないのかえ」
やま「はい両親はまアない様なものでございます、母は亡なりましたが、親父は私(わたくし)の少(ちい)さい時分行方知れずに成りましてから、いまだに音沙汰がございません、死んだと存じまして出た日を命日として居りますが、ひょっとして存命で帰って来たらと姉弟(きょうだい)で信心して居ります位で」
又「はア左様かえ、お前さんまだ御亭主(ごていし)は持たずに」
やま「はい」
又「二十二に成って亭主(ていしゅ)を持たずに、此のどうも花なら半開という処その何うも露を含める処を、斯う遣(や)って置くは実に惜しいものじゃアね、お前さん」
やま「はい」
又「お前まアねえ、一杯飲みなさいな」
やま「いゝえ私(わたくし)は御酒は少しも戴きません」
又「其様(そん)な事云わんでも宜(よ)い、私(わし)のじゃアに依(よ)って半分ぐらい飲んで呉れても宜いじゃないか」

        三十八

やま「いゝえ半分などと仰しゃっては困ります、お厭なれば何卒(どうぞ)其処(そこ)へお残し遊ばして」
又「おやまさん、私(わし)は最うこれ四十に近い年をして、お前のような若い女子(おなご)を想うても是は無駄と知っては居るが、真実お前のような柔(やさ)しい、器量といい、其のどうも取廻しなり口の利きようといい別じゃアて、心に想うて居ても私はまア今まで口に出して言やせぬが何(ど)うだえ、私は真実お前に惚れたぜ」
 とおやまの手を取ってぐっと引寄せに掛りましたから堅い娘で驚きまして、振払って後(あと)へずうと下(さが)りまして、呆れて又市の顔を見て居りました。
又「怖がって逃げんでも宜(え)いじゃないか」
やま「あらまア貴方(あなた)御冗談ばかり仰しゃって困りますよ」
又「困る訳はない、宜(よ)いじゃアないか、えゝ只(たっ)た一度でもお前私(わし)の云う事を聴いて呉れたら、お前の為には何(ど)の様(よう)にも情合(じょうあい)を尽そうと思うて居る」
やま「御冗談でございましょう、貴方の様な方が私(わたくし)の様な者にそんな事を仰しゃっても私は本当とは思いません」
又「何故(なぜ)、私(わし)は年を取って冗談やおどけにお前さん此様(こん)な事を言掛ける事はない、お前さん、実は疾(と)うから真に想うても云出し兼ていたが、酔うた紛れに云うじゃアないけれども、お前さん私は只(たっ)た一度で諦めますぜ」
やま「あなた本当に仰しゃるのですか」
又「本当だって今まで如何(いか)にも好(よ)い娘じゃアと思うても色気も何も出やアせぬが、けれども朝夕膏薬を貼替えて呉れる其の優しい手で額を斯(こ)う押えて呉れまする、其のどうも手当に私(わし)は惚れた、さア最う斯う云い出したら恥も外聞もないじゃア、誰(たれ)も居(お)らぬは幸いじゃア、只(たっ)た一度で諦めるから」
やま「あら呆れたお方様で、それでは折角の貴方御親切も水の泡になります、伯父も彼様(あん)なお方はない、額に疵(きず)を受けるまで命懸で助けて下すったから、その御恩を忘れては済まないよと伯父も申しますから、私(わたくし)も有難いお方と存じて居りまして、実に届かぬながらお世話致します心得でございますに、そんな事を仰しゃって下さると実に腹が立ちます」
又「腹が立ちますと云ったって、恩義に掛けるわけではないが、けれども、宜(よ)いじゃアないか、私(わし)も命懸で彼処(あすこ)へ這入って助け、私が通り掛らぬ時は、悪者に押え付けられて、否(いや)でも応でも三人のため瑕瑾(きず)が付くじゃアないか、それを助けて上げたから、彼処で□□□□れたと思うて素性の知れた私に一度ぐらい云う事を聴いても宜いじゃアないか」
やま「貴方にはお内儀(かみさん)がお有んなさるではございませんか」
又「女房は有りやせん」
やま「あら惠梅様は貴方のお内儀でございます、お比丘尼様に済みませんから貴方の側へは参りません」
又「比丘だって彼(あ)れは女房ではない、彼れは山口の薬師堂に居た時に私(わし)は寺男に這入ったので」
やま「それでも夜分は一緒に御寝(げし)なるじゃアございませんか」
又「御寝なるたって彼奴(あいつ)が薬師堂に居た時、私(わし)は奉公に這入ったが、彼奴も未だ老朽(おいくち)る年でもないから、肌寒いよって、この夜着の中へ這入って寝ろと云うので、拠(よんどこ)ろなく這入って寝たが、婆ア比丘尼じゃアから厭で/\ならん、お前がうんと云うてくれゝば、惠梅に別れて、私は此処(こゝ)の家へ這入って働き男になり、牛(うし)馬(うま)を牽(ひ)いたり、山で麁朶(そだ)をこなし、田畑へ出て鋤(すき)鍬(くわ)取っても随分お前の手助けしようじゃアないか、然(そ)うして置いて下さい」
やま「そんな事を仰しゃっては困ります、それでは明日(あした)にも直(すぐ)にお発足(たち)遊ばして下さい、私(わたくし)は御恩になったお方ゆえ大事と思うから手厚くお世話をするのでございます、それを恩に掛けるなれば、私も随分貴方へ御恩報じと思って出来ないながらも看病して居る心得でございます、はい」
又「お前のように堅く出られては面白くない、そんな事を云わずに」
 と無理遣りに手を取って引寄せまする。この時は腹が立ちますから殴付(はりつ)けてやりたいと思うが、そこは命を助けられた恩義が有るから、余り無下にしても愛想尽(あいそうづか)し気の毒と存じまして、おやまは何うしようかともじ/\して居ります。

        三十九

 又市は増長して無理に引付け、髯(ひげ)だらけの頬片(ほうぺた)をおやまに擦(こす)り付けようとする処(ところ)へ、帰って来たは惠梅に山之助でございますが、山之助は気の毒だから後(あと)へ下(さが)る。惠梅は腹を立って、麁朶(そだ)を持って二三度続けて殴ったから胆(きも)を潰(つぶ)して、
又「いや帰ったか」
梅「まことに呆れてしまって……おやまさん、さぞ腹が立ちましたろう、私も恟(びっく)りしました、山之助さんにも誠にお気の毒で、お前さん何をするのだよ、おやまさんにさ」
又「誠に困ったなア、今御馳走が出たので一杯遣(や)った処(ところ)、つい酔うてそのな、酒を飲めば若い女子(おなご)に冗談をするは酒飲(さけのみ)の当り前だ、突然(いきなり)打(ぶ)ちやアがって、打たんでも宜(え)いわ」
梅「おやまさんお腹も立ちましたろうが堪忍して下さいよ、私は少し云う事が有りますから彼方(あちら)へ行って居て下さい、余(あん)まりやれこれ云って下さると増長するのでございますから、どうぞ其方(そちら)へ……又市さん今の真似はあれは何(なん)だえ」
又「酔うたのだよ、酔うて居るから宥(ゆる)せと云うに……困ったね、突然(いきなり)打(ぶ)つとは酷(えら)い、疵(きず)が出来たらどうも成らん、みともないわ」
梅「何だえ今の真似は、ようお前幾歳(いくつ)にお成りだよ、命を助けたの何のと恩義に掛けて、あの娘(こ)が彼様(あんな)に厭がるものを無理に引寄せてなぐさむ了簡かえ、呆れた人だね、怖い人だね」
又「怖い事は有りやせん、若い娘にからかうは酒飲の当り前だ」
梅「当り前だって宿屋の女中や芸者じゃアない、一軒の主(あるじ)じゃアないか、然(そ)うして姉弟(きょうだい)で堅くして彼(あ)アやって、温和(おとな)しくして居る堅人(かたじん)だよ、伯父さんも村方で何(なん)とか彼(かん)とか云われる人で失礼ではないか、お前さんを主人の様に、姉弟二人で私の事を尼様々々と大事に云って呉れるじゃアないか、それに恩を被(き)せてあんな真似をすれば、今までの事は水の泡に成るじゃアないか」
又「己が悪いから宥せ」
梅「宥せじゃアない、お前さんは何だね、あの娘(こ)がもし義理に引かされて、仕方なしにあいと云ったら、あの娘をなぐさんで、あの娘と訝(おか)しい中になると、私を見捨る気だね」
又「いゝや見捨てやアせんじゃア、そのような心ではない」
梅「おとぼけでない、嘘ばかり吐(つ)いて、越後の山口でお前の処へ這込んだ助倍(すけべい)比丘尼と云ったろう」
又「あゝ聞いて居たな、酔うた紛れだ……打(ぶ)つな、血が染(にじ)んで来た」
梅「私はお前さん故で斯様(こんな)に馴れない旅をして、峠を越したり、夜夜中(よるよなか)歩いて怖い思いをするのはお前さん故だよ、お前さんも元は榊原様の藩中で、水司又市と云う立派な侍では有りませんか、武士に二言はない、決して見捨てない、おれも今までの坊主とは違い、元の武士の了簡に成ったから見捨てないと云うから、亭主にしたけれども、お前さん何だろう、浮気をして私を見捨る人だと思うと心細くって、附いて居るも何だかどうも案じられて、見捨られたら何うしようと思うと、こんな山の中へ来てと考えると心細くなるよ」
又「見捨てやアせん」
梅「見捨てかねないじゃアないか、見捨てられて難儀するも罰(ばち)と思うのさ、終(つい)には七兵衞さんの祟(たゝり)でも、私の身も末(すえ)始終碌な事はないと思っては居りますけれどもね」
又「愚痴をいうな、一寸(ちょっと)酔うた紛れに云うたのだ…大きな声をするなよ」
梅「お前さんも高岡の大工町で永禪和尚という一箇寺の住職の身の上で有りながら、亭主のある私に無理な事を云うから、否(いや)とも云えない義理詰に、お前さんと斯(こ)ういう訳に成ったのが私の因果さ、それで七兵衞さんを薪割で殺して」
又「これ馬鹿、大きな声をするな」
梅「云いたくもないけれどもさ、先刻(さっき)云う事を聞けば、比丘尼を打捨(うっちゃ)ってしもうても、お前がうんと云う事を聴けば、おれは此の家(うち)へ這入って、寺男同様な働きをして牛(うし)馬(うま)を牽(ひ)いて百姓にもなろうと云ったが、能(よ)くそんな事が云われた義理だと思って居るよう」

        四十

又「それは悪いよ、悪いが大きな声をして聞えると悪いやアな」
梅「いったって宜(い)いよ」
又「馬鹿いうなよ」
梅「言ったって宜(よ)うございます」
又「宜(よ)いたって、此の事が世間に知れちゃアお互に」
梅「お互だって当りまえで、馬鹿々々しいね、本当に能(よ)くあんなことが云われたと思うのだよ、私は本当に高岡を出て、お前に連れられて飛騨の高山越(ごえ)に」
又「そんな事を云うな、己が悪いよ」
梅「唯(たゞ)悪いと云えば宜(い)ゝかと思って、お前は見捨る了簡になったね」
又「あいた/\/\痛い、捻(ねじ)り上げて痛いわ、何(なん)じゃア」
梅「痛いてえ余(あん)まりで」
又「また殴付(はりつ)けやアがる、これ己が悪いから宥(ゆる)せと云うに、おれが酔うたのだ、はっと云う機(はず)みじゃア」
梅「わたしはもう厭だ、此処(こゝ)に居るのは厭だよ、立つよ」
又「おれも立つよ、おれが悪いから宥せ」
 と悋気(りんき)でいうが、世間へ漏れては成りませんから、又市は種々(いろ/\)に宥(なだ)めて、その晩は共に臥(ふせ)りましたことで、先(ま)ず機嫌も直りましたが、翌朝(よくあさ)になり、又市は此処に長く居ては都合が悪いと心得、正午(ひる)時分までは何事もなくって居りましたが、昼飯を食ってしまって急に出立と成りましたから、おやまも悦び、いやな奴だから早く立った方が宜(よ)い、それでも義理だから伯父を喚(よ)んで詰らぬ物でも餞別など致します。これを又市が脊負(しょ)いまして暇乞(いとまごい)をして出立致しました。御案内の通りあれから白島村を出まして、青倉(あおくら)より横倉(よこくら)へ掛り、筑摩川(ちくまがわ)の川上を越えまして月岡村(つきおかむら)へ出まして、あれから城坂峠(しろさかとうげ)へ掛ります。此方(こちら)を遅く立ちましたから、月岡へ泊れば少し早いなれども丁度宜(よ)いのを、長い峠を越そうと無暗(むやみ)に峠へ掛りますると、松柏(しょうはく)生茂(おいしげ)り、下を見ると谷川の流れも木(こ)の間(ま)より見え、月岡の市街(まち)を振返って見ると、最うちら/\灯(あかり)のつく刻限。
又「あゝまだ月が出ねえで、真闇(まっくら)になったのう」
梅「ちょっと/\又市さん、私は斯様(こんな)に暗い処(ところ)ではないと思ったが、斯様に暗くなっては提灯(ちょうちん)がなくっては歩けないよ」
又「提灯は持っている」
梅「灯火(あかり)をお点(つ)けな」
又「もう些(ちっ)と先へ行って」
梅「先へ行(ゆ)くたって真暗(まっくら)で仕様がない、全体月岡へ泊れば宜(い)いに、この峠を夜越して来たから仕様がないよ」
又「己も越したくも何ともないわ、えゝ汝(てめえ)がぎゃア/\騒ぎ立てるから彼処(あすこ)の家(うち)にも居(お)られず、急ぐ旅ではなし、彼処に泊って彼処の物を喰って居て、お斎(とき)に出て貰った物が溜(たま)れば、後(あと)の旅をするにも宜(よ)い、後の旅が楽じゃア、それを詰らぬ事に嫉妬(やきもち)でぎゃア/\云うから居(お)られないで、拠(よんどころ)なく立って来たのだ」
梅「よんどころなく立ったにもしろ月岡へ泊れば宜(い)いのに、夜になって峠を越すのは困るね」
又「困って悪ければ是から別れよう」
梅「別れて何(ど)うするの」
又「汝(てめえ)おれが横面(よこッつら)を宜くも人中で打(ぶ)ったな」
梅「打ったってお前そんな事を何時(いつ)までも腹を立って居るがね、私も腹立紛れに打ったのじゃアないか、彼(あ)の娘(こ)が義理ずくで、命を助けられた恩義が有るから、お前の云う事を聴けば見捨てかねないよ」
又「仮令(たとえ)見捨てると云ったにもせよ、何故苟(かりそめ)にも亭主の横面を打(う)つという事が有るか」
梅「打(ぶ)ったのは悪いが、お前さんも彼様(あん)な事をお云いだから、私も打ったのじゃアないか」
又「打ったで済むか、殊(こと)に面部の此の疵(きず)縫うた処が綻(ほころ)びたら何うもならん、亭主の横面を麁朶(そだ)で打つてえ事が有るか、太(ふて)え奴じゃア汝(おのれ)」
 と拳を固めて、ぽんと惠梅比丘尼の横面(よこつら)を打ったから眼から火が出るよう。
梅「あゝ……痛い、何をするのだね、何を打つのだよ」
又「打ったが何うした」
梅「呆れてしまう、腹が立つなればね、宿屋へ泊って落著(おちつ)いてお云いな、何もこんな夜道の峠へかゝって、人も居ない処へ来て打擲(ぶちたゝ)きするは余(あんま)りじゃアないか、此処(こゝ)で別れるとお云いのはお前見捨てる了簡かえ」

        四十一

又「己は愛想(あいそ)が尽きて厭になった、ふつ/\厭になった、坊主頭を抱えて好(よ)い年をして嫉妬(やきもち)を云やアがるし、いやらしい事ばかり云うから腹が立って堪(たま)らんわい、人中だから耐(こら)えて居た、殊(こと)に亭主の頭を打(ぶ)ちやアがって、さア是れで別れよう」
梅「呆れてしまった、私を見捨てる…あ痛い何をするのだね、何(ど)うも怖ろしい人じゃアないか、腹立紛れに打ったのは悪いと謝まるじゃアないか、こんな峠へ来て何だねえ、私を見捨てゝ行処(ゆきどころ)のない様にして何うする気だねえ」
又「何うも斯(こ)うもない、一大事の事を嫉妬紛(やきもちまぎ)れにぎゃア/\云って、二人の首の落るを知らぬか、余(あんま)り馬鹿で愛想が尽きた」
梅「愛想が尽きたってお前さん」
又「さっ/\と行(ゆ)け」
梅「あれ危い、胸を突いて谷へでも落ちたら何うするのだね、本当に怖い人だ、それじゃア何だね私にお前愛想がつきて邪魔になるから、お前の身の上を知って居るから谷へ突落して殺す了簡かえ」
又「えゝ知れた事だ」
 と云いながら道中差の小長いのを引抜きましたから、お梅は驚きまして、ばた/\/\/\逃げかゝりましたなれども、足場の悪い城坂峠、殊には夜道でございますから、あれ人殺しと声を立てに掛ったが、相手は亭主、そこは情と云うものが有るから、人殺しと云ったら人でも出て来て、二人の難儀に成りはしないかと思い、
梅「あれ気を静めないか、全く別れるなら話合いに」
 と言掛けまするが、最(も)う取上(とりのぼ)せて居りますから、木の根に躓(つまづ)き倒れる処を此方(こちら)は駈下(かけお)りながら一刀浴せ掛ければ、惠梅比丘尼の肩先深く切付けました。
梅「あゝ私を切ったな悪党、お前は私を殺して彼(あ)のおやまさんを又口説こうという了簡だな」
 と足にしがみ付くを、
又「おゝ知れた事だ」
 と云いながら、刀を逆手(さかて)に持直し、肩胛(かいがらぼね)の所からうんと力に任して突きながら抉(こじ)り廻したから、只(たっ)た一突きでぶる/\と身を慄わして、其の儘息は絶えましたが、麓(ふもと)から人は来はせぬかと見ましたが、誰(たれ)あって来る様子もないから、まず谷へ死骸を突落そうと思うと、又市の裾に縋(すが)り付いたなりで狂い死(じに)を致しました故中々放す事が出来ませんから、惠梅の指を二三本切落して、非道にも谷川へごろ/\/\/\どんと突落し、餞別に貰いました小豆(あずき)や稗(ひえ)は邪魔になりますから谷へ捨て、血(のり)を拭って鞘に納め、これから支度をして、元来た道を白島村へ帰って来ました。悪い奴は悪い奴で、おやまの家(うち)の軒下へ佇(たゝず)んで様子を聞くと、おやま山之助は、何かこそ/\話をしている様子でございます。とん/\/\/\。
又「おやまさん」
山「はい誰だえ」
又「一寸(ちょっと)開けてお呉んなさい、又市じゃア明けてお呉んなさい」
やま「又来たよ、又市が何うして来たねえ」
山「はい何でございますか、昼間お立ちなすった方ですか」
又「一寸開けて下さい、災難事が有って来たから」
山「はい/\」
 と山之助が表の半戸(はんど)を開けますと、きょと/\しながら這入って、
又「此方(こちら)へ惠梅比丘尼は来ませんか」
山「いゝえお出(いで)なさいません」
又「はてな何うも、今に此方へ来るに相違ないが、城坂峠へ掛るとね、全体月岡へ泊れば宜かったが、修行の身の上路銀も乏しいから一二里は踏越そうと思ったから、峠の中ばまで掛ると、四人ばかり追剥が出まして、身ぐるみ脱いで置いて往(い)けという故、此方(こっち)は修行者でございますから路銀は有りませぬ、お比丘尼を助けてと云うに、然(そ)うは往かぬときら/\する刀を抜いて威(おど)す故、私(わし)がお比丘に目配(めくば)せしたら惠梅比丘尼は林の中へ駈込んで逃げたから、最う宜(よ)いと思い、種々(いろ/\)云って透(すき)を見て逃げようと思い、只今上げます、些(ちっ)とばかり旅銀(ろぎん)も有るから差上げますから、手をお放しなさいと云うと、ほっと手が放れるが否(いな)[#ルビの「いな」は底本では「いや」]や、転がり落ちて死ぬるか生(いき)るか二つ一つと、一生懸命谷へ駈け下(お)り逃げたが、比丘尼は外(ほか)へ行(ゆ)く処はない、お前さんの処(とこ)へ来るに相違ないと思ったが、未だ来ませんか」

        四十二

やま「あれまア、余(あん)まり遅うお立で、途中で間違が有ってはいけませんと思いましたが、それは/\お比丘様は今にお出(いで)でしょうからお上りなすって……山之助お草鞋(わらじ)でおいでなさるから足を洗って」
又「いや怖い目に遭いました、あゝ心持が悪い、二三人できら/\するのを抜きました故な、此方(こっち)も命がけで切抜けました故、疵(きず)を受けたかも知れぬ、着物に血が着いて居るようで」
山「足を洗ってお上りなさい」
又「はい、私(わし)は怖くて胸の動気が止まらない、どうぞ度胸定めに酒を一杯下さい」
 と是から酒を飲んで空々しい事を云って寝ましたが、此方(こちら)は真実(まこと)と心得伯父に話をすると、惠梅比丘尼の行方(ゆくえ)を尋ねますと、月岡村の雪崩法寿院(なだれほうじゅいん)という寺の山清水の流れに尼の死骸が有ると云うので、その村の人々が気の毒な事と云うて、彼方(あちら)へ是を葬りました事が、翌日の日暮方に分りましたので、
山「何(なに)ともお気の毒様で申そう様(よう)もございません」
又「いや私(わし)も今聞きましたが、山之助さん、まア情ないことに成りました、私は盗人(ぬすびと)に胸倉を取られて居る、惠梅は取られた胸倉を振切って先へ駈下りたなれどなア、女子(おなご)で足は弱し、悪い奴に取囲まれ、切られて死んだかと思えば憫然(ふびん)じゃなア、月岡の寺へ葬りになりましたとは知らずに居りましたが、左様かえ、致し方はない、何うも情ないことで」
山「誠にお気の毒様、嘸(さぞ)お力落しでございましょう」
又「年を取って女房に別れるは誠に厭な心持じゃア、大きに御苦労を掛けましたが何うも仕方がない、不思議の因縁じゃアに依って山之助さん、お前さん方も月岡まで寺参りに往って下さい、私(わし)も比丘を葬りました其のお寺で法事でも為(し)て貰いたい、よく/\因縁の悪いと見えてまア是れ情ない、出家を遂げても剣難に遭うて死ぬは、何ぞ前世の約束で有りましょう、実に胸が痛うて成らん、お酒を一杯下さらんか」
 と其様(そん)な事を云っては酒ばかり飲んで居りますが其の夜部屋に這入って寝ますと、水司又市はぐう/\と空鼾(そらいびき)を掻いて寝た振りをして居ります。山之助おやまも寝ました様子でございますから、そうッと起きまして、おやまの寝て居ります後(うしろ)の処へ来まして、横にころりと寝まして、おやまの□□襟の間へ手を入れましたから。おやまは眼を覚(さま)し、
やま「何をなさる」
又「静かに」
やま「えゝ恟(びっく)り致しました、何をなさるので」
又「おやまさん、私(わし)はお前さんに面目ないが、実は命がけで年にも恥じずお前さんに惚れました、それ故に此の間酔った紛れに彼様(あん)な猥(いや)らしい事を云かけて、お前さんが腹を立てゝ愛想尽(あいそづか)しを云うたが、何と云われても致し方はないと私は真実お前に惚れて、是からは何処へも行く処はない身の上じゃアに依って、私がお前さんの家(うち)の厄介者になり、まア年も往(い)かぬ若い姉弟(きょうだい)衆の力になる心得で、何(ど)の様にも真実を尽すが、なれどもお互いに此の気の置けぬ様に生涯一つ処に居る事は、□□れて居ないでは居られるものではないなア、本(もと)が他人じゃアが年を取って居るから亭主(ていし)に成ろうとは云わぬが、只(たっ)た一度でも□触れて居れば、是から先お前が亭主を持とうとも、どう成っても其処(そこ)が義理じゃ、追出しもせまい、是程まで思詰めたから只た一度云う事を聴いて下さい」
 と云われ余りの事に腹が立ちますから起上って、おやまは又市の顔を睨(にら)みつけ、
やま「只た今出て行って下さい、呆れたお方だ、怖いお方だ、何ぞと云うと命を助けた疵が出来たと恩がましい事を仰しゃって猥(いや)らしい、此の間は御酒の機嫌と思いましたが、今の様子のは御酒も飲まずに白面(しらふ)の狂人(きちがい)、そんな事を仰しゃっては実に困ります、そんなお方とは存じませんで伯父も見損じました、只(たっ)た今出て行って下さい」
又「お前、何で私(わし)が是程まで惚れたに愛想尽しを云って、年を取って男は醜(わる)くも、それ程まで思うてくれるか憫然(ふびん)な人という情(じょう)がなければ成らぬが何んで其の様に憎いかえ」


 

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