「金しゅう、どうだ、見えたか、面白いだろう」
と云ってる。病人は、
「うん、見えたから、床ん所まで連れてって、寝かしてくれよ。後生だから」
と頼んでいる。さっきの二人は再び病人を中へ挟んで、
「よっしょいよっしょい」
と云いながら、刻み足に、布団の敷いてある所まで連れて行った。
この時曇った空が、粉になって落ちて来たかと思われるような雨が降り出した。ジャンボーはこの雨の中を敲き立てて町の方へ下って行く。大勢は
「また雨だ」
と云いながら、窓を立て切って、各々囲炉裏の傍へ帰る。この混雑紛に自分もいつの間にか獰猛の仲間入りをして、火の近所まで寄る事が出来た。これは偶然の結果でもあり、また故意の所作でもあった。と云うものは火の気がなくってははなはだ寒い。袷一枚ではとても凌ぎ兼ねるほどの山の中だ。それに雨さえ降り出した。雨と云えば雨、霧と云えば霧と云われるくらいな微かな粒であるが、四方の禿山を罩め尽した上に、筒抜けの空を塗り潰して、しとどと落ちて来るんだから、家の中に坐っていてさえ、糠よりも小さい湿り気が、毛穴から腹の底へ沁み込むような心持である。火の気がなくってはとうていやり切れるものじゃない。
自分が好い加減な所へ席を占めて、いささかながら囲炉裏のほとぼりを顔に受けていると、今度は存外にも度外視されて、思ったよりも調戯われずに済んだ。これはこっちから進んで獰猛の仲間入りをしたため、向うでも普通の獰猛として取扱うべき奴だと勘弁してくれたのか、それとも先刻のジャンボーで不意に気が変った成行として、自分の事をしばらく忘れてくれたのか、または冷笑の種が尽きたか、あるいは毒突くのに飽きたんだか、――何しろ自分が席を改めてから、自分の気は比較的楽になった。そうして囲炉裏の傍の話はやっぱりジャンボーで持ち切っていた。いろいろな声がこんな事を云う。――
「あのジャンボーはどこから出たんだろう」
「どこから出たって御ジャンボーだ」
「ことによると黒市組かも知れねえ。見当がそうだ」
「全体ジャンボーになったらどこへ行くもんだろう」
「御寺よ。きまってらあ」
「馬鹿にするねえ。御寺の先を聞いてるんだあな」
「そうよ、そりゃ寺限で留りっこねえ訳だ。どっかへ行くに違えねえ」
「だからよ。その行く先はどんな所だろうてえんだ。やっぱしこんな所かしら」
「そりゃ、人間の魂の行く所だもの、大抵は似た所に違えねえ」
「己もそう思ってる。行くとなりゃ、どうもほかへ行く訳がねえからな」
「いくら地獄だって極楽だって、やっぱり飯は食うんだろう」
「女もいるだろうか」
「女のいねえ国が世界にあるもんか」
ざっと、こんな談話だから、聞いているとめちゃめちゃである。それで始めのうちは冗談だと思った。笑っても差支ないものと心得て、口の端をむずつかせながら、ちょっと様子を見渡したくらいであった。ところが笑いたいのは自分だけで、囲炉裏を取り捲いている顔はいずれも、彫りつけたように堅くなっている。彼らは真剣の真面目で未来と云う大問題を論じていたんである。実に嘘としか受け取れないほどの熱心が、各々の眉の間に見えた。自分はこの時、この有様を一瞥して、さっきの笑いたかった念慮をたちまちのうちに一変した。こんな向う見ずの無鉄砲な人間が――カンテラを提げて、シキの中へ下りれば、もう二度と日の目を見ない料簡でいる人間が――人間の器械で、器械の獣とも云うべきこの獰猛組が、かほどに未来の事を気にしていようとは、まことに予想外であった。して見ると、世間には、未来の保証をしてくれる宗教というものが入用のはずだ。実際自分が眼を上げて、囲炉裏のぐるりに胡坐をかいて並んだ連中を見渡した時には、遠慮に畏縮が手伝って、七分方でき上った笑いを急に崩したと云う自覚は無論なかった。ただ寄席を聞いてるつもりで眼を開けて見たら鼻の先に毘沙門様が大勢いて、これはと威儀を正さなければならない気持であった。一口に云うと、自分はこの時始めて、真面目な宗教心の種を見て、半獣半人の前にも厳格の念を起したんだろう。その癖自分はいまだに宗教心と云うものを持っていない。
この時さっきの病人が、向うの隅でううんと唸り出した。その唸り声には無論特別の意味はない。単に普通の病人の唸り声に過ぎんのだが、ジャンボーの未来に屈託している連中には、一種のあやしい響のように思われたんだろう。みんな眼と眼を見合した。
「金公苦しいのか」
と一人が大きな声で聞いた。病人は、ただ、
「ううん」
と云う。唸ってるのか、返事をしているのか判然しない。するとまた一人の坑夫が、
「そんなに嚊の事ばかり気にするなよ。どうせ取られちまったんだ。今更唸ったってどうなるもんか。質に入れた嚊だ。受出さなけりゃ流れるなあ当り前だ」
と、やっぱり囲炉裏の傍へ坐ったまま、大きな声で慰めている。慰めてるんだか、悪口を吐いているんだか疑わしいくらいである。坑夫から云うと、どっちも同じ事なんだろう。病人はただううんと挨拶――挨拶にもならない声を微かに出すばかりであった。そこで大勢は懸合にならない慰藉をやめて、囲炉裏の周囲だけで舌の用を弁じていた。しかし話題はまだ金さんを離れない。
「なあに、病気せえしなけりゃ、金公だって嚊を取られずに済むんだあな。元を云やあ、やっぱり自分が悪いからよ」
と一人が、金さんの病気をさも罪悪のように評するや否や、
「全くだ。自分が病気をして金を借りて、その金が返せねえから、嚊を抵当に取られちまったんだから、正直のところ文句の附けようがねえ」
と賛成したものがある。
「若干で抵当に入れたんだ」
と聞くと、向側から、
「五両だ」
と誰だか、簡潔に教えた。
「それで市の野郎が長屋へ下がって、金しゅうと入れ代った訳か。ハハハハ」
自分は囲炉裏の側に坐ってるのが苦痛であった。背中の方がぞくぞくするほど寒いのに、腋の下から汗が出る。
「金しゅうも早く癒って、嚊を受け出したら好かろう」
「また、市と入れ代りか。世話あねえ」
「それよりか、うんと稼いで、もっと価に踏める抵当でも取った方が、気が利いてらあ」
「違ねえ」
と一人が云い出すのを相図に、みんなどっと笑った。自分はこの笑の中に包まれながら、どうしても笑い切れずに下を向いてしまった。見ると膝を並べて畏まっていた。馬鹿らしいと気がついて、胡坐に組み直して見た。しかし腹の中はけっして胡坐をかくほど悠長ではなかった。
その内だんだん日暮に近くなって来る。時間が移るばかりじゃない、天気の具合と、山が囲んでるせいで早く暗くなる。黙って聞いていると、雨垂の音もしないようだから、ことによると、雨はもう歇んだのかも知れない。しかしこの暗さでは、やっぱり降ってると云う方が当るだろう。窓は固り締め切ってある。戸外の模様は分りようがない。しかし暗くって湿ッぽい空気が障子の紙を透して、一面に囲炉裏の周囲を襲って来た。並んでいる十四五人の顔がしだいしだいに漠然する。同時に囲炉裏の真中に山のようにくべた炭の色が、ほてり返って、少しずつ赤く浮き出すように思われた。まるで、自分は坑の底へ滅入込んで行く、火はこれに反して坑からだんだん競り上がって来る、――ざっと、そんな気分がした。時にぱっと部屋中が明るくなった。見ると電気灯が点いた。
「飯でも食うべえ」
と一人が云うと、みんな忘れものを思い出したように、
「飯を食って、また交替か」
「今日は少し寒いぞ」
「雨はまだ降ってるのか」
「どうだか、表へ出て仰向いて見な」
などと、口々に罵りながら、立って、階下段を下りて行った。自分は広い部屋にたった一人残された。自分のほかにいるものは病人の金さんばかりである。この金さんがやっぱり微な声を出して唸ってるようだ。自分は囲炉裏の前に手を翳して胡坐を組みながら、横を向いて、金さんの方を見た。頭は出ていない。足も引っ込ましている。金さんの身体は一枚の布団の中で、小さく平ったくなっている。気の毒なほど小さく平ったく見えた。その内唸り声も、どうにか、こうにかやんだようだから、また顔の向を易えて、囲炉裏の中を見詰めた。ところがなんだか金さんが気に掛かってたまらないから、また横を向いた。すると金さんはやっぱり一枚の布団の中で、小さく平ったくなっている。そうして、森としている。生きてるのか、死んでるのか、ただ森としている。唸られるのも、あんまり気味の好いもんじゃないが、こう静かにしていられるとなお心配になる。心配の極は怖くなって、ちょっと立ち懸けたが、まあ大丈夫だろう、人間はそう急に死ぬもんじゃないと、度胸を据えてまた尻を落ちつけた。
ところへ二三人、下からどやどやと階下段を上がって来た。もう飯を済ましたんだろうか、それにしては非常に早いがと、心持上がり段の方を眺めていると、思も寄らないものが、現れた。――黒か紺か色の判然しない筒服を着ている。足は職人の穿くような細い股引で、色はやはり同じ紺である。それでカンテラを提げている。のみならず二人が二人とも泥だらけになって、濡れてる。そうして、口を利かない。突っ立ったまま自分の方をぎろりと見た。まるで強盗としきゃあ思えない。やがて、カンテラを抛り出すと、釦を外して、筒袖を脱いだ。股引も脱いだ。壁に掛けてある広袖を、めりやすの上から着て、尻の先に三尺帯をぐるりと回しながら、やっぱり無言のまま、二人してずしりずしりと降りて行った。するとまた上がって来た。今度のも濡れている。泥だらけである。カンテラを抛り出す。着物を着換える。ずしんずしんと降りて行く。とまた上がって来る。こう云う風に入代り、入代りして、何でもよほど来た。いずれも底の方から眼球を光らして、一遍だけはきっと自分を見た。中には、
「手前は新前だな」
と云ったものもある。自分はただ、
「ええ」
と答えて置いた。幸い今度はさっきのようにむやみには冷やかされずに、まあ無難に済んだ。上がって来るものも、来るものも、みんな急いで降りて行くんで、調戯う暇がなかったんだろう。その代り一人に一度ずつは必ず睨まれた。そうこうしている内に、上がって来るものがようやく絶えたから、自分はようやく寛容いだ思いをして、囲炉裏の炭の赤くなったのを見詰めて、いろいろ考え出した。もちろん纏まりようのない、かつ考えれば考えるほど馬鹿になる考えだが、火を見詰ていると、炭の中にそう云う妄想がちらちらちらちら燃えてくるんだから仕方がない。とうとう自分の魂が赤い炭の中へ抜出して、火気に煽られながら、むやみに踊をおどってるような変な心持になった時に、突然、
「草臥れたろうから、もう御休みなさい」
と云われた。
見ると、さっきの婆さんが、立っている。やっぱり襷掛のままである。いつの間に上がって来たものか、ちっとも気がつかなかった。自分の魂が遠慮なく火の中を馳け廻って、艶子さんになったり、澄江さんになったり、親爺になったり、金さんになったり、――被布やら、廂髪やら、赤毛布やら、唸り声やら、揚饅頭やら、華厳の滝やら――幾多無数の幻影が、囲炉裏の中に躍り狂って、立ち騰る火の気の裏に追いつ追われつ、日向に浮かぶ塵と思われるまで夥しく出て来た最中に、はっと気がついたんだから、眼の前にいる婆さんが、不思議なくらい変であった。しかし寝ろと云う注意だけは明かに耳に聞えたに違ないから、自分はただ、
「ええ」
と答えた。すると婆さんは後ろの戸棚を指して、
「布団は、あすこに這入ってるから、独で出して御掛けなさい。一枚三銭ずつだ。寒いから二枚はいるでしょう」
と聞くから、また
「ええ」
と答えたら、婆さんは、それ限何にも云わずに、降りて行った。これで、自分は寝てもいいと云う許可を得たから、正式に横になっても剣突を食う恐れはあるまいと思って、婆さんの指図通り戸棚を明けて見ると、あった。布団がたくさんあった。しかしいずれも薄汚いものばかりである。自宅で敷いていたのとはまるで比較にならない。自分は一番上に乗ってるのを二枚、そっとおろした。そうして、電気灯の光で見た。地は浅黄である。模様は白である。その上に垢が一面に塗りつけてあるから、六分方色変りがして、白い所などは、通例なら我慢のできにくいほどどろんと、化けている。その上すこぶる堅い。搗き立ての伸し餅を、金巾に包んだように、綿は綿でかたまって、表布とはまるで縁故がないほどの、こちこちしたものである。
自分はこの布団を畳の上へ平く敷いた。それから残る一枚を平く掛けた。そうして、襯衣だけになって、その間に潜り込んだ。湿っぽい中を割り込んで、両足をうんと伸ばしたら踵が畳の上へ出たから、また心持引っ込ました。延ばす時も曲げる時も、不断のように軽くしなやかには行かない。みしりと音がするほど、関節が窮屈に硬張って、動きたがらない。じっとして、布団の中に膝頭を横たえていると、倦怠のを通り越して重い。腿から下を切り取って、その代りに筋金入りの義足をつけられたように重い。まるで感覚のある二本の棒である。自分は冷たくって重たい足を苦に病んで、頭を布団の中に突っ込んだ。せめて頭だけでも暖にしたら、足の方でも折れ合ってくれるだろうとの、はかない望みから出た窮策であった。
しかしさすがに疲れている。寒さよりも、足よりも、布団の臭いよりも、煩悶よりも、厭世よりも――疲れている。実に死ぬ方が楽なほど疲れ切っていた。それで、横になるとすぐ――畳から足を引っ込まして、頭を布団に入れるだけの所作を仕遂げたと思うが早いか、眠てしまった。ぐうぐう正体なく眠てしまった。これから先きは自分の事ながらとうてい書けない。……
すると、突然針で背中を刺された。夢に刺されたのか、起きていて、刺されたのか、感じはすこぶる曖昧であった。だからそれだけの事ならば、針だろうが刺だろうが、頓着はなかったろう。正気の針を夢の中に引摺り込んで、夢の中の刺を前後不覚の床の下に埋めてしまう分の事である。ところがそうは行かなかった。と云うものは、刺されたなと思いながらも、針の事を忘れるほどにうっとりとなると、また一つ、ちくりとやられた。
今度は大きな眼を開いた。ところへまたちくりと来た。おやと驚く途端にまたちくりと刺した。これは大変だとようやく気がつきがけに、飛び上るほど劇しく股の辺をやられた。自分はこの時始めて、普通の人間に帰った。そうして身体中至る所がちくちくしているのを発見した。そこでそっと襯衣の間から手を入れて、背中を撫でて見ると、一面にざらざらする。最初指先が肌に触れた時は、てっきり劇烈な皮膚病に罹ったんだと思った。ところが指を肌に着けたまま、二三寸引いて見ると、何だか、ばらばらと落ちた。これはただ事でないとたちまち跳ね起きて、襯衣一枚の見苦しい姿ながら囲炉裏の傍へ行って、親指と人差指の間に押えた、米粒ほどのものを、検査して見ると、異様の虫であった。実はこの時分には、まだ南京虫を見た事がないんだから、はたしてこれがそうだとは断言出来なかったが――何だか直覚的に南京虫らしいと思った。こう云う下卑た所に直覚の二字を濫用しては済まんが、ほかに言葉がないから、やむを得ず高尚な術語を使った。さてその虫を検査しているうちに、非常に悪らしくなって来た。囲炉裏の縁へ乗せて、ぴちりと親指の爪で圧し潰したら、云うに云われぬ青臭い虫であった。この青臭い臭気を嗅ぐと、何となく好い心持になる。――自分はこんな醜い事を真面目にかかねばならぬほど狂違染みていた。実を云うと、この青臭い臭気を嗅ぐまでは、恨を霽らしたような気がしなかったのである。それだから捕っては潰し、捕っては潰し、潰すたんびに親指の爪を鼻へあてがって嗅いでいた。すると鼻の奥へ詰って来た。今にも涙が出そうになる。非常に情ない。それだのに、爪を嗅ぐと愉快である。この時二階下で大勢が一度にどっと笑う声がした。自分は急に虫を潰すのをやめた。広間を見渡すと誰もいない。金さんだけが、平たくなって静かに寝ている。頭も足も見えない。そのほかにたった一人いた。もっとも始めて気がついた時は人間とは思わなかった。向うの柱の中途から、窓の敷居へかけて、帆木綿のようなものを白く渡して、その幅のなかに包まっていたから、何だか気味が悪かった。しかしよく見ると、白い中から黒いものが斜に出ている。そうしてそれが人間の毬栗頭であった。――広い部屋には、自分とこの二人を除いて、誰もいない。ただ電気灯がかんかん点いている。大変静かだ、と思うとまた下座敷でわっと笑った。さっきの連中か、または作業を済まして帰って来たものが、大勢寄ってふざけ散らしているに違ない。自分はぼんやりして布団のある所まで帰って来た。そうして裸体になって、襯衣を振るって、枕元にある着物を着て、帯を締めて、一番しまいに敷いてある布団を叮嚀に畳んで戸棚へ入れた。それから後はどうして好いか分らない。時間は何時だか、夜はとうていまだ明けそうにしない。腕組をして立って考えていると、足の甲がまたむずむずする。自分は堪え切れずに、
「えっ畜生」
と云いながら二三度小踊をした。それから、右の足の甲で、左の上を擦って、左の足の甲で右の上を擦って、これでもかと歯軋をした。しかし表へ飛び出す訳にも行かず、寝る勇気はなし、と云って、下へ降りて、車座の中へ割り込んで見る元気は固りない。さっき毒突かれた事を思い出すと、南京虫よりよっぽど厭だ。夜が明ければいい、夜が明ければいいと思いながら、自分は表へ向いた窓の方へ歩いて行った。するとそこに柱があった。自分は立ちながら、この柱に倚っ掛った。背中をつけて腰を浮かして、足の裏で身体を持たしていると、両足がずるずる畳の目を滑ってだんだん遠くへ行っちまう。それからまた真直に立つ。またずるずる滑る。また立つ。まずこんな事をしていた。幸い南京虫は出て来なかった。下では時々どっと笑う。
いても立ってもと云うのは喩だが、そのいても立ってもを、実際に経験したのはこの時である。だから坐るとも立つとも方のつかない運動をして、中途半端に紛らかしていた。ところがその運動をいつまで根気にやったものか覚えていない。いとど疲れている上に、なお手足を疲らして、いかな南京虫でも応えないほど疲れ切ったんで、始めて寝たもんだろう。夜が明けたら、自分が摺り落ちた柱の下に、足だけ延ばして、背を丸く蹲踞っていた。
これほど苦しめられた南京虫も、二日三日と過つにつれて、だんだん痛くなくなったのは妙である。その実、一箇月ばかりしたら、いくら南京虫がいようと、まるで米粒でも、ぞろぞろ転がってるくらいに思って、夜はいつでも、ぐっすり安眠した。もっとも南京虫の方でも日数を積むに従って遠慮してくるそうである。その証拠には新来のお客には、べた一面にたかって、夜通し苛めるが、少し辛抱していると、向うから、愛想をつかして、あまり寄りつかなくなるもんだと云う。毎日食ってる人間の肉は自然鼻につくからだとも教えたものがあるし、いや肉の方にそれだけの品格が出来て、シキ臭くなるから、虫も恐れ入るんだとも説明したものがある。そうして見るとこの南京虫と坑夫とは、性質がよく似ている。おそらく坑夫ばかりじゃあるまい、一般の人類の傾向と、この南京虫とはやはり同様の心理に支配されてるんだろう。だからこの解釈は人間と虫けらを概括するところに面白味があって、哲学者の喜びそうな、美しいものであるが、自分の考えを云うと全くそうじゃないらしい。虫の方で気兼をしたり、贅沢を云ったりするんじゃなくって、食われる人間の方で習慣の結果、無神経になるんだろうと思う。虫は依然として食ってるが、食われても平気でいるに違ない、もっとも食われて感じないのも、食われなくって感じないのも、趣こそ違え、結果は同じ事であるから、これは実際上議論をしても、あまり役に立たない話である。
そんな無用の弁は、どうでもいいとして、自分が眼を開けて見たら、夜は全く明け放れていた。下ではもうがやがや云っている。嬉しかった。窓から首を出して見ると、また雨だ。もっとも判然とは降っていない。雲の濃いのが糸になり損なって、なっただけが、細く地へ落ちる気色だ。だからむやみに濛々とはしていない。しだいしだいに雨の方に片づいて、片づくに従って糸の間が透いて見える。と云っても見えるものは山ばかりである。しかも草も木も至って乏しい、潤のない山である。これが夏の日に照りつけられたら、山の奥でもさぞ暑かろうと思われるほど赤く禿げてぐるりと自分を取り捲いている。そうして残らず雨に濡れている。潤い気のないものが、濡れているんだから、土器に霧を吹いたように、いくら濡れても濡れ足りない。その癖寒い気持がする。それで自分は首を引っ込めようとしたら、ちょっと眼についた。――手拭を被って、藁を腰に当てて、筒服を着た男が二三人、向うの石垣の下にあらわれた。ちょうど昨日ジャンボーの通った路を逆に歩いて来る。遠くから見ると、いかにもしょぼしょぼして気の毒なほど憐れである。自分も今朝からああなるんだなと、ふと気がついて見ると、人事とは思われないほど、向へ行く手拭の影――雨に濡れた手拭の影が情なかった。すると雨の間からまた古帽子が出て来た。その後からまた筒袖姿があらわれた。何でも朝の番に当った坑夫がシキへ這入る時間に相違ない。自分はようやく窓から首を引き込めた。すると、下から五六人一度にどやどやと階下段を上って来る。来たなと思ったが仕方がないから懐手をして、柱にもたれていた。五六人は見る間に、同じ出立に着更えて下りて行った。後からまた上がってくる。また筒袖になって下りて行く。とうとう飯場にいる当番はことごとく出払ったようだ
こう飯場中活動して来ると、自分も安閑としちゃいられない。と云って誰も顔を御洗いなさいとも、御飯を御上がんなさいとも云いに来てくれない。いかな坊っちゃんも、あまり手持無沙汰過ぎて困っちまったから、思い切って、のこのこ下りて行った。心は無論落ついちゃいないが、態度だけはまるで宿屋へ泊って、茶代を置いた御客のようであった。いくら恐縮しても自分には、これより以外の態度が出来ないんだから全くの生息子である。下りて見ると例の婆さんが、襷がけをして、草鞋を一足ぶら下げて奥から駆けて来たところへ、ばったり出逢った。
「顔はどこで洗うんですか」
と聞くと、婆さんは、ちょっと自分を見たなりで、
「あっち」
と云い捨てて門口の方へ行った。まるで相手にしちゃいない。自分にはあっちの見当がわからなかったが、とにかく婆さんの出て来た方角だろうと思って、奥の方へ歩いて行ったら、大きな台所へ出た。真中に四斗樽を輪切にしたようなお櫃が据えてある。あの中に南京米の炊いたのがいっぱい詰ってるのかと思ったら、――何しろ自分が三度三度一箇月食っても食い切れないほどの南京米なんだから、食わない前からうんざりしちまった。――顔を洗う所も見つけた。台所を下りて長い流の前へ立って、冷たい水で、申し訳のために頬辺を撫でて置いた。こうなると叮嚀に顔なんか洗うのは馬鹿馬鹿しくなる。これが一歩進むと、顔は洗わなくっても宜いものと度胸が坐ってくるんだろう。昨日の赤毛布や小僧は全くこう云う順序を踏んで進化したものに違ない。
顔はようやく自力で洗った。飯はどうなる事かと、またのそのそ台所へ上った。ところへ幸い婆さんが表から帰って来て膳立てをしてくれた。ありがたい事に味噌汁がついていたんで、こいつを南京米の上から、ざっと掛けて、ざくざくと掻き込んだんで、今度は壁土の味を噛み分ないで済んだ。すると婆さんが、
「御飯が済んだら、初さんがシキへ連れて行くって待ってるから、早くおいでなさい」
と、箸も置かない先から急き立てる。実はもう一杯くらい食わないと身体が持つまいと思ってたところだが、こう催促されて見ると、無論御代りなんか盛う必要はない。自分は、
「はあ、そうですか」
と立ち上がった。表へ出て見ると、なるほど上り口に一人掛けている。自分の顔を見て、
「御前か、シキへ行くなあ」
と、石でもぶっ欠くような勢いで聞いた。
「ええ」
と素直に答えたら、
「じゃ、いっしょに来ねえ」
と云う。
「この服装でも好いんですか」
と叮嚀に聞き返すと、
「いけねえ、いけねえ。そんな服装で這入れるもんか。ここへ親分とこから一枚借りて来てやったから、此服を着るがいい」
と云いながら、例の筒袖を抛り出した。
「そいつが上だ。こいつが股引だ。そら」
とまた股引を抛げつけた。取りあげて見ると、じめじめする。所々に泥が着いている。地は小倉らしい。自分もとうとうこの御仕着を着る始末になったんだなと思いながら、絣を脱いで上下とも紺揃になった。ちょっと見ると内閣の小使のようだが、心持から云うと、小使を拝命した時よりも遥に不景気であった。これで支度は出来たものと思込んで土間へ下りると、
「おっと待った」
と、初さんがまた勇み肌の声を掛けた。
「これを尻の所へ当てるんだ」
初さんが出してくれたものを見ると、三斗俵坊っちのような藁布団に紐をつけた変挺なものだ。自分は初さんの云う通り、これを臀部へ縛りつけた。
「それが、アテシコだ。好しか。それから鑿だ。こいつを腰ん所へ差してと……」
初さんの出した鑿を受け取って見ると、長さ一尺四五寸もあろうと云う鉄の棒で、先が少し尖っている。これを腰へ差す。
「ついでにこれも差すんだ。少し重いぜ。大丈夫か。しっかり受け取らねえと怪我をする」
なるほど重い。こんな槌を差してよく坑の中が歩けるもんだと思う。
「どうだ重いか」
「ええ」
「それでも軽いうちだ。重いのになると五斤ある。――いいか、差せたか、そこでちょっと腰を振って見な。大丈夫か。大丈夫ならこれを提げるんだ」
とカンテラを出しかけたが、
「待ったり。カンテラの前に一つ草鞋を穿いちまいねえ」
草鞋の新しいのが、上り口にある。さっき婆さんが振ら下げてたのは、大方これだろう。自分は素足の上へ草鞋を穿いた。緒を踵へ通してぐっと引くと、
「駑癡だなあ。そんなに締める奴があるかい。もっと指の股を寛めろい」
と叱られた。叱られながら、どうにか、こうにか穿いてしまう。
「さあ、これでいよいよおしまいだ」
と初さんは饅頭笠とカンテラを渡した。饅頭笠と云うのか筍笠というのか知らないが、何でも懲役人の被るような笠であった。その笠を神妙に被る。それからカンテラを提げる。このカンテラは提げるようにできている。恰好は二合入りの石油缶とも云うべきもので、そこへ油を注す口と、心を出す孔が開いてる上に、細長い管が食っついて、その管の先がちょっと横へ曲がると、すぐ膨らんだカップになる。このカップへ親指を突っ込んで、その親指の力で提げるんだから、指五本の代りに一本で事を済ますはなはだ実用的のものである。
「こう、穿めるんだ」
と初さんが、勝栗のような親指を、カンテラの孔の中へ突込んだ。旨い具合にはまる。
「そうら」
初さんは指一本で、カンテラを柱時計の振子のように、二三度振って見せた。なかなか落ちない。そこで自分も、同じように、調子をとって揺して見たがやっぱり落ちなかった。
「そうだ。なかなか器用だ。じゃ行くぜ、いいか」
「ええ、好ござんす」
自分は初さんに連れられて表へ出た。所が降っている。一番先へ笠へあたった。仰向いて、空模様を見ようとしたら、顎と、口と、鼻へぽつぽつとあたった。それからあとは、肩へもあたる。足へもあたる。少し歩くうちには、身体中じめじめして、肌へ抜けた湿気が、皮膚の活気で蒸し返される。しかし雨の方が寒いんで、身体のほとぼりがだんだん冷めて行くような心持であったが、坂へかかると初さんがむやみに急ぎ出したんで、濡れながらも、毛穴から、雨を弾き出す勢いで、とうとうシキの入口まで来た。
入口はまず汽車の隧道の大きいものと云って宜しい。蒲鉾形の天辺は二間くらいの高さはあるだろう。中から軌道が出て来るところも汽車の隧道に似ている。これは電車が通う路なんだそうだ。自分は入口の前に立って、奥の方を透かして見た。奥は暗かった。
「どうだここが地獄の入口だ。這入れるか」
と初さんが聞いた。何だか嘲弄の語気を帯びている。さっき飯場を出て、ここまで来る途中でも、方々の長屋の窓から首を出して、
「昨日のだ」
「新来だ」
と口々に罵っていたが、その様子を見ると単に山の中に閉じ込められて物珍らしさの好奇心とは思えなかった。その言葉の奥底にはきっと愚弄の意味がある。これを布衍して云うと、一つには貴様もとうとうこんな所へ転げ込んで来た、いい気味だ、ざまあ見ろと云う事になる。もう一つは御気の毒だが来たって駄目だよ。そんな脂っこい身体で何が勤まるものかと云う事にもなる。だから「昨日のだ」「新来だ」と騒ぐうちには、自分が彼らと同様の苦痛を甞めなければならないほど堕落したのを快く感ずると共に、とうていこの苦痛には堪えがたい奴だとの軽蔑さえ加わっている。彼らは他人を彼らと同程度に引き摺り落して喝采するのみか、ひとたび引き摺り落したものを、もう一返足の下まで蹴落して、堕落は同程度だが、堕落に堪える力は彼らの方がかえって上だとの自信をほのめかして満足するらしい。自分は途上「昨日のだ」と聞くたんびに、懲役笠で顔を半分隠しながら通り抜けて、シキの入口まで来た。そこで初さんがまた愚弄したんだから、自分は少しむっとして、
「這入れますとも。電車さえ通ってるじゃありませんか」
と答えた。すると初さんが、
「なに這入れる? 豪義な事を云うない」
と云った。ここで「這入れません」と恐れ入ったら、「それ見ろ」と直こなされるにきまってる。どっちへ転んでも駄目なんだから別に後悔もしなかった。初さんは、いきなり、シキの中へ飛び込んだ。自分も続いて這入った。這入って見ると、思ったよりも急に暗くなる。何だか足元がおっかなくなり出したには降参した。雨が降っていても外は明かるいものだ。その上軌道の上はとにかく、両側はすこぶる泥っている。それだのに初さんは中っ腹でずんずん行く。自分も負けない気でずんずん行く。
「シキの中でおとなしくしねえと、すのこの中へ抛り込まれるから、用心しなくっちゃあいけねえ」
と云いながら初さんは突然暗い中で立ち留った。初さんの腰には鑿がある。五斤の槌がある。自分は暗い中で小さくなって、
「はい」
と返事をした。
「よしか、分ったか。生きて出る料簡なら生意気にシキなんかへ這入らねえ方が増しだ」
これは向うむきになって、初さんが歩き出した時に、半分は独り言のように話した言葉である。自分は少からず驚いた。坑の中は反響が強いので、初さんの言葉がわんわんわんと自分の耳へ跳ねっ返って来る。はたして初さんの言う通りなら、飛んだ所へ這入ったもんだ。実は死ぬのも同然な職業であればこそ坑夫になろうと云う気も起して見たんだが、本当に死ぬなら――こんな怖い商売なら――殺されるんなら――すのこの中へ抛げ込まれるなら――すのことは全体どんなもんだろうと思い出した。
「すのことはどんなもんですか」
「なに?」
と初さんが後を振り向いた。
「すのことはどんなもんですか」
「穴だ」
「え?」
「穴だよ。――鉱を抛り込んで、纏めて下へ降げる穴だ。鉱といっしょに抛り込まれて見ねえ……」
で言葉を切ってまたずんずん行く。
自分はちょっと立ち留った。振り返ると、入口が小さい月のように見える。這入るときは、これがシキならと思った。聞いたほどでもないと思った。ところが初さんに威嚇かされてから、いかな平凡な隧道も、大いに容子が変って来た。懲役笠をたたく冷たい雨が恋しくなった。そこで振り返ると、入口が小さい月のように見える。小さい月のように見えるほど奥へ這入ったなと、振り返って始めて気がついた。いくら曇っていてもやっぱり外が懐かしい。真黒な天井が上から抑えつけてるのは心持のわるいものだ。しかもこの天井がだんだん低くなって来るように感ぜられる。と思うと、軌道を横へ切れて、右へ曲った。だらだら坂の下りになる。もう入口は見えない。振返っても真暗だ。小さい月のような浮世の窓は遠慮なくぴしゃりと閉って、初さんと自分はだんだん下の方へ降りて行く。降りながら手を延ばして壁へ触って見ると、雨が降ったように濡れている。
「どうだ、尾いて来るか」
と、初さんが聞いた。
「ええ」
とおとなしく答えたら、
「もう少しで地獄の三丁目へ来る」
と云ったなり、また二人とも無言になった。この時行く手の方に一点の灯が見えた。暗闇の中の黒猫の片眼のように光ってる。カンテラの灯なら散らつくはずだが、ちっとも動かない。距離もよく分らない。方角も真直じゃないが、とにかく見える。もし坑の中が一本道だとすれば、この灯を目懸けて、初さんも自分も進んで行くに違ない。自分は何にも聞かなかったが、大方これが地獄の三丁目なんだろうと思って、這入って行った。すると、だらだら坂がようやく尽きた。路は平らに向うへ廻り込む。その突き当りに例の灯が点いている。さっきは鼻の下に見えたが、今では眼と擦々の所まで来た。距離も間近くなった。
「いよいよ三丁目へ着いた」
と、初さんが云う。着いて見ると、坑が四五畳ほどの大さに広がって、そこに交番くらいな小屋がある。そうしてその中に電気灯が点いている。洋服を着た役人が二人ほど、椅子の対い合せに洋卓を隔てて腰を掛けていた。表には第一見張所とあった。これは坑夫の出入だの労働の時間だのを検査する所だと後から聞いて、始めて分ったんだが、その当時には何のための設備だか知らなかったもんだから、六七人の坑夫が、どす黒い顔を揃えて無言のまま、見張所の前に立っていたのを不審に思った。これは時間を待ち合わして交替するためである。自分は腰に鑿と槌を差してカンテラさえ提げてはいるが、坑夫志願というんで、シキの様子を見に這入っただけだから、まだ見習にさえ採用されていないと云う訳で、待ち合わす必要もないものと見えて、すぐこの溜を通り越した。その時初さんが見張所の硝子窓へ首を突っ込んで、ちょいと役人に断ったが、役人は別に自分の方を見向もしなかった。その代り立っていた坑夫はみんな見た。しかし役人の前を憚ってだろう、全く一言も口を利いたものはなかった。
溜を出るや否や坑の様子が突然変った。今までは立ってあるいても、背延びをしても届きそうにもしなかった天井が急に落ちて来て、真直に歩くと時々頭へ触るような気持がする。これがものの二寸も低かろうものなら、岩へぶつかって眉間から血が出るに違ないと思うと、松原をあるくように、ありったけの背で、野風雑にゃやって行けない。おっかないから、なるべく首を肩の中へ縮め込んで、初さんに食っついて行った。もっともカンテラはさっき点けた。
すると三尺ばかり前にいる初さんが急に四ん這いになった。おや、滑って転んだ。と思って、後から突っ掛かりそうなところを、ぐっと足を踏ん張った。このくらいにして喰い留めないと、坂だから、前へのめる恐がある。心持腰から上を反らすようにして、初さんの起きるのを待ち合わしていると、初さんはなかなか起きない。やっぱり這っている。
「どうか、しましたか」
と後から聞いた。初さんは返事もしない。――はてな――怪我でもしやしないかしら――もう一遍聞いて見ようか――すると初さんはのこのこ歩き出した。
「何ともなかったですか」
「這うんだ」
「え?」
「這うのだてえ事よ」
と初さんの声はだんだん遠くなってしまう。その声で自分は不審を打った。いくら向うむきでも、普通なら明かに聞きとられべき距離から出るのに、急に潜ってしまう。声が細いんじゃない。当り前の初さんの声が袋のなかに閉じ込められたように曖昧になる。こりゃただ事じゃないと気がついたから、透して見るとようやく分った。今までは尋常に歩けた坑が、ここでたちまち狭くなって、這わなくっちゃ抜けられなくなっている。その狭い入口から、初さんの足が二本出ている。初さんは今胴を入れたばかりである。やがて出ていた足が一本這入った。見ているうちにまた一本這入った。これで自分も四つん這いにならなくっちゃ仕方がないと諦めをつけた。「這うんだ」と初さんの教えたのもけっして無理じゃないんだから、教えられた通り這った。ところが右にはカンテラを提げている。左の手の平だけを惜気もなく氷のような泥だか岩だかへな土だか分らない上へぐしゃりと突いた時は、寒さが二の腕を伝わって肩口から心臓へ飛び込んだような気持がした。それでカンテラを下へ着けまいとすると、右の手が顔とすれすれになって、はなはだ不便である。どうしたもんだろうと、この姿勢のままじっとしていた。そうして、右の手で宙に釣っているカンテラを見た。ところへぽたりと天井からしずくが垂れた。カンテラの灯がじいと鳴った。油煙が顎から頬へかかる。眼へも這入った。それでもこの灯を見詰めていた。すると遠くの方でかあん、かあん、と云う音がする。坑夫が作業をしているに違ないが、どのくらい距離があるんだか、どの見当にあたるんだか、いっこう分らない。東西南北のある浮世の音じゃない。自分はこの姿勢でともかくも二三歩歩き出した。不便は無論不便だが、歩けない事はない。ただ時々しずくが落ちてカンテラのじいと鳴るのが気にかかる。初さんは先へ行ってしまった。頼はカンテラ一つである。そのカンテラがじいと鳴って水のために消えそうになる。かと思うとまた明かるくなる。まあよかったと安心する時分に、またぽたりと落ちて来る。じいと鳴る。消えそうになる。非常に心細い。実は今までも、しずくは始終垂れていたんだが、灯が腰から下にあるんで、いっこう気がつかなかったんだろう。灯が耳の近くへ来て、じいと云う音が聞えるようになってから急に神経が起って来た。だから這う方はなお遅くなる。しかもまだ三足しか歩いちゃいない。ところへ突然初さんの声がした。
「やい、好い加減に出て来ねえか。何をぐずぐずしているんだ。――早くしないと日が暮れちまうよ」
暗いなかで初さんはたしかに日が暮れちまうと云った。
自分は這いながら、咽喉仏の角を尖らすほどに顎を突き出して、初さんの方を見た。すると一間ばかり向うに熊の穴見たようなものがあって、その穴から、初さんの顔が――顔らしいものが出ている。自分があまり手間取るんで、初さんが屈んでこっちを覗き込んでるところであった。この一間をどうして抜け出したか、今じゃ善く覚えていない。何しろできるだけ早く穴まで来て、首だけ出すと、もう初さんは顔を引っ込まして穴の外に立っている。その足が二本自分の鼻の先に見えた。自分はやれ嬉しやと狭い所を潜り抜けた。
「何をしていたんだ」
「あんまり狭いもんだから」
「狭いんで驚いちゃ、シキへは一足だって踏ん込めっこはねえ。陸のように地面はねえ所だくらいは、どんな頓珍漢だって知ってるはずだ」
初さんはたしかに坑の中は陸のように地面のない所だと云った。この人は時々思い掛けない事を云うから、今度もたしかにとただし書をつけて、その確実な事を保証して置くんである。自分は何か云い訳をするたんびに、初さんから容赦なくやっつけられるんで、大抵は黙っていたが、この時はつい、
「でもカンテラが消えそうで、心配したもんですから」
と云っちまった。すると初さんは、自分の鼻の先へカンテラを差しつけて、徐に自分の顔を検査し始めた。そうして、命令を下した。
「消して見ねえ」
「どうしてですか」
「どうしてでも好いから、消して見ねえ」
「吹くんですか」
初さんはこの時大きな声を出して笑った。
自分は喫驚して稀有な顔をしていた。
「冗談じゃねえ。何が這入てると思う。種油だよ、しずくぐらいで消てたまるもんか」
自分はこれでやっと安心した。
「安心したか。ハハハハ」
と初さんがまた笑った。初さんが笑うたんびに、坑の中がみんな響き出す。その響が収まると前よりも倍静かになる。ところへかあん、かあんとどこかで鑿と槌を使ってる音が伝わって来る。
「聞えるか」
と、初さんが顋で相図をした。
「聞えます」
と耳を峙てていると、たちまち催促を受けた。
「さあ行こう。今度あ後れないように跟いて来な」
初さんはなかなか機嫌がいい。これは自分が一も二もなく初さんにやられているせいだろうと思った。いくら手苛くきめつけられても、初さんの機嫌がいいうちは結構であった。こうなると得になる事がすなわち結構という意味になる。自分はこれほど堕落して、おめおめ初さんの尻を嗅いで行ったら、路が左の方に曲り込んでまた峻しい坂になった。
「おい下りるよ」
と初さんが、後も向かず声を掛けた。その時自分は何となく東京の車夫を思い出して苦しいうちにもおかしかった。が初さんはそれとも気がつかず下り出した。自分も負けずに降りる。路は地面を刻んで段々になっている。四五間ずつに折れてはいるが、勘定したら愛宕様の高さぐらいはあるだろう。これは一生懸命になって、いっしょに降りた。降りた時にほっと息を吐くと、その息が何となく苦しかった。しかしこれは深い坑のなかで、空気の流通が悪いからとばかり考えた。実はこの時すでに身体も冒されていたんである。この苦しい息で二三十間来るとまた模様が変った。
今度は初さんが仰向けに手を突いて、腰から先を入れる。腰から入れるような芸をしなければ通れないほど、坑の幅も高さも逼って来たのである。
「こうして抜けるんだ。好く見て置きねえ」
と初さんが云ったと思ったら、胴も頭もずる、ずると抜けて見えなくなった。さすが熟練の功はえらいもんだと思いながら、自分もまず足だけ前へ出して、草鞋で探を入れた。ところが全く宙に浮いてるようで足掛りがちっともない。何でも穴の向うは、がっくり落か、それでなくても、よほど勾配の急な坂に違ないと見当をつけた。だから頭から先へ突っ込めばのめって怪我をするばかり、また足をむやみに出せば引っ繰り返るだけと覚ったから、足を棒のように前へ寝かして、そうして後へ手を突いた。ところがこの所作がはなはだ不味かったので、手を突くと同時に、尻もべったり突いてしまった。ぴちゃりと云った。アテシコを伝わって臀部へ少々感じがあった。それほど強く尻餅を搗いたと見える。自分はしまったと思いながらも直両足を前の方へ出した。ずるりと一尺ばかり振ら下げたが、まだどこへも届かない。仕方がないから、今度は手の方を前へ運ばせて、腰を押し出すように足を伸ばした。すると腿の所まで摺り落ちて、草鞋の裏がようやく堅いものに乗った。自分は念のためこの堅いものをぴちゃぴちゃ足の裏で敲いて見た。大丈夫なら手を離してこの堅いものの上へ立とうと云う料簡であった。
「何で足ばかり、ばたばたやってるんだ。大丈夫だから、うんと踏ん張って立ちねえな。意久地のねえ」
と、下から初さんの声がする。自分の胴から上は叱られると同時に、穴を抜けて真直に立った。
「まるで傘の化物のようだよ」
と初さんが、自分の顔を見て云った。自分は傘の化物とは何の意味だか分らなかったから、別に笑う気にもならなかった。ただ
「そうですか」
と真面目に答えた。妙な事にこの返事が面白かったと見えて、初さんは、また大きな声を出して笑った。そうして、この時から態度が変って、前よりは幾分か親切になった。偶然の事がどんな拍子で他の気に入らないとも限らない。かえって、気に入ってやろうと思って仕出かす芸術は大抵駄目なようだ。天巧を奪うような御世辞使はいまだかつて見た事がない。自分も我が身が可愛さに、その後いろいろ人の御機嫌を取って見たが、どうも旨い結果が出て来ない。相手がいくら馬鹿でも、いつか露見するから怖いもんだ。用意をして置いた挨拶で、この傘の化物に対する返事くらいに成功した場合はほとんどない。骨を折って失敗するのは愚だと悟ったから、近頃では宿命論者の立脚地から人と交際をしている。ただ困るのは演舌と文章である。あいつは骨を折って準備をしないと失敗する。その代りいくら骨を折ってもやっぱり失敗する。つまりは同じ事なんだが、骨を折った失敗は、人の気に入らないでも、自分の弱点が出ないから、まあ準備をしてからやる事にしている。いつかは初さんの気に入ったような演説をしたり、文章を書いて見たいが、――どうも馬鹿にされそうでいけないから、いまだにやらずにいる。――それはここには余計な事だから、このくらいでやめてまた初さんの話を続けて行く。
その時初さんは、笑いながら、下から、自分に向って、
「おい、そう真面目くさらねえで、早く下りて来ねえな。日は短えやな」
と云った。坑の中でカンテラを点けた、初さんはたしかに日は短えやなと云った。
自分が土の段を一二間下りて、初さんの立ってる所まで行くと、初さんは、右へ曲った。また段々が四五間続いている。それを降り切ると、今度は初さんが左へ折れる。そうしてまた段々がある。右へ折れたり左へ折れたり稲妻のように歩いて、段々を――さあ何町降りたか分らない。始めての道ではあるし、ことに暗い坑の中の事であるから自分には非常に長く思われた。ようやく段々を降り切って、だいぶ浮世とは縁が遠くなったと思ったら急に五六畳の部屋に出た。部屋と云っても坑を切り広げたもので、上と下がすぼまって、腹の所が膨らんでいるから、まるで酒甕の中へでも落込んだ有様である。あとから分った話だが、これは作事場と云うんで、技師の鑑定で、ここには鉱脈があるとなると、そこを掘り拡げて作事場にするんである。だから通り路よりは自然広い訳で、この作事場を坑夫が三人一組で、請負仕事に引受ける。二週間と見積ったのが、四日で済む事もあり、高が五日くらいと踏んだ作事に半月以上食い込む事もある。こう云う訳で、シキのなかに路ができて、路のはたに銅脈さえ見つかれば、御構なくそこだけを掘り抜いて行くんだから、電車の通るシキの入口こそ、平らでもあり、また一条でもあるが、下へ折れて第一見張所のあたりからは、右へも左へも条路ができて、方々に作事場が建つ。その作事をしまうと、また銅脈を見つけては掘り抜いて行くんだから、シキの中は細い路だらけで、また暗い坑だらけである。ちょうど蟻が地面を縦横に抜いて歩くようなものだろう。または書蠹が本を食うと見立てても差し支ない。つまり人間が土の中で、銅を食って、食い尽すと、また銅を探し出して食いにゆくんでむやみに路がたくさんできてしまったんである。だから、いくらシキの中を通っても、ただ通るだけで作事場へ出なければ坑夫には逢わない。かあんかあんという音はするが、音だけでは極めて淋しいものである。自分は初さんに連れられて、シキへ這入ったが、ただシキの様子を見るのが第一の目的であったためか、廻り道をして作事場へは寄らなかったと見えて、坑夫の仕事をしているところは、この段々の下へ来て、初めて見た。――稲妻形に段々を下りるときは、むやみに下りるばかりで、いくら下りても尽きないのみか、人っ子一人に逢わないものだから、はなはだ心細かったが、はじめて作事場へ出て、人間に逢ったら、大いに嬉しかった。
見ると丸太の上に腰をかけている。数は三人だった。丸太は四つや丸太で、軌道の枕木くらいなものだから、随分の重さである。どうして、ここまで運んで来たかとうてい想像がつかない。これは天井の陥落を防ぐため、少し広い所になると突っかい棒に張るために、シチュウが必要な作事場へ置いて行くんだそうだ。その上に二人腰を掛けて、残る一人が屈んで丸太へ向いている。そうして三人の間には小さな木の壺がある。伏せてある。一人がこの壺を上から抑えている。三人が妙な叫び声を出した。抑えた壺をたちまち挙げた。下から賽が出た。――ところへ自分と初さんが這入った。
三人はひとしく眼を上げて、自分と初さんを見た。カンテラが土の壁に突き刺してある。暗い灯が、ぎろりと光る三人の眼球を照らした。光ったものは実際眼球だけである。坑は固より暗い。明かるくなくっちゃならない灯も暗い。どす黒く燃えて煙を吹いている所は、濁った液体が動いてるように見えた。濁った先が黒くなって、煙と変化するや否や、この煙が暗いものの中に吸い込まれてしまう。だから坑の中がぼうとしている。そうして動いている。
カンテラは三人の頭の上に刺さっていた。だから三人のうちで比較的判然見えたのは、頭だけである。ところが三人共頭が黒いので、つまりは、見えないのと同じ事である。しかも三つとも集っていたから、なおさら変であったが、自分が這入るや否や、三つの頭はたちまち離れた。その間から、壺が見えたんである。壺の下から賽が見えたんである。壺と、賽と、三人の異な叫び声を聞いた自分は、次に三人の顔を見たんである。よくはわからない顔であった。一人の男は頬骨の一点と、小鼻の片傍だけが、灯に映った。次の男は額と眉の半分に光が落ちた。残る一人は総体にぼんやりしている。ただ自分の持っていた、カンテラを四五尺手前から真向に浴びただけである。――三人はこの姿勢で、ぎろりと眼を据えた。自分の方に。
ようやく人間に逢って、やれ嬉しやと思った自分は、この三対の眼球を見るや否や、思わずぴたりと立ち留った。
「手前は……」
と云い掛けて、一人が言葉を切った。残る二人はまだ口を開かない。自分も立ち留まったなり、答えなかった。――答えられなかった。すると
「新めえだ」
と、初さんが、威勢のいい返事をしてくれた。本当のところを白状すると、三人の眼球が光って、「手前は……」と聞かれた時は、初さんの傍にいる事も忘れて、ただおやっと思った。立すくむと云うのはこれだろう。立ちすくんで、硬くこわ張り掛けたところへ「新めえだ」と云う声がした。この声が自分の左の耳の、つい後から出て、向うへ通り抜けた時、なるほど初さんがついてたなと思い出した。それがため、こわ張りかけた手足も、中途でもとへ引き返した。自分は一歩傍へ退いた。初さんに前へ出てもらうつもりであった。初さんは注文通り出た。
「相変らずやってるな」
とカンテラを提げたまま、上から三人の真中に転がってる、壺と賽を眺めた。
「どうだ仲間入は」
「まあよそう。今日は案内だから」
と初さんは取り合わなかった。やがて、四つや丸太の上へうんとこしょと腰をおろして、
「少し休んで行くかな」
と自分の方を見た。立ちすくむまで恐ろしかった、自分は急に嬉しくなって元気が出て来た。初さんの側へ腰をおろす。アテシコの利目は、ここで始めて分った。旨い具合に尻が乗って、柔らかに局部へ応える。かつ冷えないで、結構だ。実はさっきから、眼が少し眩らんで――眩らんだか、眩らまないんだか、坑の中ではよく分らないが、何しろ好い気持ではなかったが、こう尻を掛けて落ちつくと、大きに楽になる。四人がいろいろな話をしている。
「広本へは新らしい玉が来たが知ってるか」
「うん、知ってる」
「まだ、買わねえか」
「買わねえ、お前は」
「おれか。おれは――ハハハハ」
と笑った。これは這入って来た時、顔中ぼんやり見えた男である。今でもぼんやり見える。その証拠には、笑っても笑わなくっても、顔の輪廓がほとんど同じである。
「随分手廻しがいいな」
と初さんもいささか笑っている。
「シキへ這入ると、いつ死ぬか分らねえからな。だれだって、そうだろう」
と云う答があった。この時、
「御互に死なねえうちの事だなあ」
と一人が云った。その語調には妙に咏嘆の意が寓してあった。自分はあまり突然のように感じた。
そうしているうちに、一間置いて隣りの男が突然自分に話しかけた。
「御前はどこから来た」
「東京です」
「ここへ来て儲けようたって駄目だぜ」
と他のが、すぐ教えてくれた。自分は長蔵さんに逢うや否や儲かる儲かるを何遍となく聞かせられて驚いたが、飯場へ着くが早いか、今度は反対に、儲からない儲からないで立てつづけに責められるんで、大いに辟易した。しかし地の底ではよもやそんな話も出まいと思ってここまで降りて来たが、人に逢えばまた儲からないを繰り返された。あんまり馬鹿馬鹿しいんで何とか答弁をしようかとも考えたが、滅多な事を云えば擲りつけられるだけだから、まあやめにして置いた。さればと云って返事をしなければまたやりつけられる。そこで、こう云った。
「なぜ儲からないんです」
「この銅山には神様がいる。いくら金を蓄めて出ようとしたって駄目だ。金は必ず戻ってくる」
「何の神様ですか」
と聞いて見たら、
「達磨だ」
と云って、四人ながら面白そうに笑った。自分は黙っていた。すると四人は自分を措いてしきりに達磨の話を始めた。約十分余りも続いたろう。その間自分はほかの事を考えていた。いろいろ考えたうちに一番感じたのは、自分がこんな泥だらけの服を着て、真暗な坑のなかに屈んでるところを、艶子さんと澄江さんに見せたらばと云う問題であった。気の毒がるだろうか、泣くだろうか、それともあさましいと云って愛想を尽かすだろうかと疑って見たが、これは難なく気の毒がって、泣くに違ないと結論してしまった。それで一目くらいはこの姿を二人に見せたいような気がした。それから昨夜囲炉裏の傍でさんざん馬鹿にされた事を思い出して、あの有様を二人に見せたらばと考えた。ところが今度は正反対で、二人共傍にいてくれないで仕合せだと思った。もし見られたらと想像して眼前に、意気地のない、大いに苛められている自分の風体と、ハイカラの女を二人描き出したら、はなはだ気恥ずかしくなって腋の下から汗が出そうになった。これで見ると、坑夫に堕落すると云う事実その物はさほど苦にならぬのみか、少しは得意の気味で、ただ坑夫になりたての幅の利かないところだけを、女に見せたくなかった訳になる。自分の器量を下げるところは、誰にも隠したいが、ことに女には隠したい。女は自分を頼るほどの弱いものだから、頼られるだけに、自分は器量のある男だと云う証拠をどこまでも見せたいものと思われる。結婚前の男はことにこの感じが深いようだ。人間はいくら窮した場合でも、時々は芝居気を出す。自分がアテシコを臀に敷いて、深い坑のなかで、カンテラを提げたまま、休んだ時の考えは、全く芝居じみていた。ある意味から云うと、これが苦痛の骨休めである。公然の骨休めとも云うべき芝居は全くここから発達したものと思う。自分は発達しない芝居の主人公を腹の中で演じて、落胆しながら得意がっていた。
ところへ突然肺臓を打ち抜かれたと思うくらいの大きな音がした。その音は自分の足の下で起ったのか、頭の上で起ったのか、尻を懸けた丸太も、黒い天井も一度に躍り上ったから、分からない。自分の頸と手と足が一度に動いた。縁側に脛をぶらさげて、膝頭を丁と叩くと、膝から下がぴくんと跳ねる事がある。この時自分の身体の動き方は全くこれに似ている。しかしこれよりも倍以上劇烈に来たような気がした。身体ばかりじゃない、精神がその通りである。一人芝居の真最中でとんぼ返りを打って、たちまち我れに帰った。音はまだつづいている。落雷を、土中に埋めて、自由の響きを束縛したように、渋って、焦って、陰に籠って、抑えられて、岩にあたって、包まれて、激して、跳ね返されて、出端を失って、ごうと吼えている。
「驚いちゃいけねえ」
と初さんが云った。そうして立ち上がった。自分も立ち上がった。三人の坑夫も立ち上がった。
「もう少しだ。やっちまうかな」
と、鑿を取り上げた。初さんと自分は作事場を出る。ところへ煙が来た。煙硝の臭が、眼へも鼻へも口へも這入った。噎せっぽくって苦しいから、後を向いたら、作事場ではかあん、かあんともう仕事を始めだした。
「なんですか」
と苦しい中で、初さんに聞いて見た。実はさっきの音が耳に応えた時、こりゃ坑内で大破裂が起ったに違ないから、逃げないと生命が危ないとまで思い詰めたくらいだのに、初さんはますます深く這入る気色だから、気味が悪いとは思ったが、何しろ自由行動のとれる身体ではなし、精神は無論独立の気象を具えていないんだから、いかに先輩だって逃げていい時分には、逃げてくれるだろうと安心して、後をつけて出ると、むっとするほどの煙が向うから吹いて来たんで、こりゃ迂濶深入はできないわと云う腹もあって、かたがた後を向く途端に、さっきの連中がもう、煙の中でかあん、かあん、鉱を叩いているのが聞えたんで、それじゃやっぱり安心なのかと、不審のあまりこの質問を起して見たんである。すると初さんは、煙の中で、咳を二つ三つしながら、
「驚かなくってもいい。ダイナマイトだ」
と教えてくれた。
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