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墨汁一滴(ぼくじゅういってき)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-26 9:23:27  点击:  切换到繁體中文

病める枕辺まくらべに巻紙状袋じょうぶくろなど入れたる箱あり、その上に寒暖計を置けり。その寒暖計に小き輪飾わかざりをくくりつけたるは病中いささか新年をことほぐの心ながら歯朶しだの枝の左右にひろごりたるさまもいとめでたし。その下にだいだいを置き橙に並びてそれと同じ大きさほどの地球儀をゑたり。この地球儀は二十世紀の年玉なりとて鼠骨そこつの贈りくれたるなり。直径三寸の地球をつくづくと見てあればいささかながら日本の国も特別に赤くそめられてあり。台湾の下には新日本と記したり。朝鮮満洲吉林きつりん黒竜江こくりゅうこうなどは紫色の内にあれど北京とも天津とも書きたる処なきは余りに心細き思ひせらる。二十世紀末の地球儀はこの赤き色と紫色との如何いかに変りてあらんか、そは二十世紀はじめの地球儀の知る所にあらず。とにかくに状袋箱の上に並べられたる寒暖計と橙と地球儀と、これ我が病室の蓬莱ほうらいなり。

枕べの寒さばかりに新年の年ほぎ縄を掛けてほぐかも
(一月十六日)

 一月七日の会にふもとのもてしつとこそいとやさしく興あるものなれ。長き手つけたる竹のかごの小く浅きに木の葉にやあらん敷きなして土を盛り七草をいささかばかりづつぞ植ゑたる。一草ごとに三、四寸ばかりの札を立て添へたり。正面に亀野座かめのざといふ札あるはすみれごとき草なり。こはほとけとあるべきを縁喜物えんぎものなれば仏の字を忌みたる植木師のわざなるべし。その左に五行ごぎょうとあるは厚き細長き葉のやや白みを帯びたる、こは春になれば黄なる花の咲く草なり、これら皆寸にも足らず。その後に植ゑたるには田平子たびらこの札あり。はこべらの事か。真後まうしろせりなずなとあり。薺は二寸ばかりも伸びてはやつぼみのふふみたるもゆかし。右側に植ゑて鈴菜すずなとあるはたけ三寸ばかり小松菜のたぐひならん。真中に鈴白すずしろの札立てたるは葉五、六寸ばかりの赤蕪あかかぶらにてくれないの根を半ば土の上にあらはしたるさまことにきはだちて目もさめなん心地する。『源語げんご』『枕草子まくらのそうし』などにもあるべきおもむきなりかし。
あら玉の年のはじめの七くさを籠に植ゑてし病めるわがため
(一月十七日)

 この頃根岸倶楽部クラブより出版せられたる根岸の地図は大槻おおつき博士の製作にかかり、地理の細精さいせいに考証の確実なるのみならずわれら根岸人に取りてはいと面白く趣ある者なり。我らの住みたる処は今うぐいす横町といへど昔はたぬき横町といへりとぞ。
田舎路はまがりくねりておとづるる人のたづねわぶること吾が根岸のみかは、抱一ほういつが句に「山茶花さざんかや根岸はおなじ垣つゞき」また「さゞん花や根岸たづぬる革ふばこ」また一種の風趣ふうしゅならずや、さるに今は名物なりし山茶花かんちくの生垣もほとほとその影をとどめず今めかしき石煉瓦れんがの垣さへ作り出でられ名ある樹木はこじ去られいにしへの奥州路おうしゅうじの地蔵などもてはやされしも取りのけられ鶯の巣は鉄道のひびきにゆりおとされ※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)くいなの声も汽笛にたたきつぶされ、およそ風致といふ風致は次第に失せてただ細路のくねりたるのみぞ昔のままなり云々うんぬん
と博士はしるせり。中にも鶯横町はくねり曲りて殊に分りにくき処なるに尋ね迷ひてむなしく帰る俗客もあるべしかし。
(一月十八日)

 蕪村ぶそん天明てんめい三年十二月二十四日に歿したれば節季せっきの混雑の中にこの世を去りたるなり。しかるにこの忌日きじつを太陽暦に引き直せば西洋紀元千七百八十四年一月十六日金曜日に当るとぞ。即ち翌年の始に歿したる事となるなり。
(一月二十日)

 伊勢山田の商人あきんど勾玉こうぎょくより小包送りこしけるを開き見ればくさぐさの品をそろへて目録一枚添へたり。
祈平癒呈へいゆをいのりてていす
御両宮之真境(古版)              二
御神楽之図おかぐらのず(地紙)               五
五十鈴いすず川口のはぜ(薬といふうしの日にる)    六
高倉山のしだ                  一
いたつきのいゆといふなる高倉の御山みやまのしだぞはしとしたまへ
  辛丑かのとうしのはじめ
大内人匂玉
 まじめなる商人なるを思へば折にふれてのみやびもなかなかにゆかしくこそ。
(一月二十二日)

 病床苦痛に堪へずあがきつうめきつ身も世もあらぬ心地なり。かたわらに二、三の人あり。その内の一人、人の耳ばかり見て居るとよつぽど変だよ、など話して笑ふ。我はすこやかなる人は人の耳など見るものなることを始めて知りぬ。
(一月二十三日)

 年頃苦しみつる局部のいたみの外に左横腹の痛去年こぞより強くなりて今ははや筆取りて物書くあたはざるほどになりしかば思ふ事腹にたまりて心さへ苦しくなりぬ。かくては生けるかひもなし。はた如何いかにして病のとこのつれづれを慰めてんや。思ひくし居るほどにふと考へ得たるところありてつい墨汁一滴ぼくじゅういってきといふものを書かましと思ひたちぬ。こは長きも二十行をかぎりとし短きは十行五行あるは一行二行もあるべし。病のひまをうかがひてその時胸に浮びたる事何にてもあれ書きちらさんには全く書かざるには勝りなんかとなり。されどかかるわらべめきたるものをことさらに掲げて諸君にまみえんとにはあらず、朝々あさあさ病の牀にありて新聞紙をひらきし時我書ける小文章に対していささか自ら慰むのみ。
ふで禿びて返り咲くべき花もなし
(一月二十四日)

 去年の夏頃ある雑誌に短歌の事を論じて鉄幹てっかん子規しきと並記し両者同一趣味なるかの如くいへり。吾以為おもへらく両者の短歌全く標準を異にす、鉄幹ならば子規なり、子規是ならば鉄幹非なり、鉄幹と子規とは並称すべき者にあらずと。すなわち書を鉄幹に贈つて互に歌壇の敵となり我は『明星みょうじょう所載しょさいの短歌を評せん事を約す。けだし両者を混じて同一趣味の如く思へる者のためにもうを弁ぜんとなり。爾後じご病牀寧日ねいじつ少く自ら筆を取らざる事数月いまだ前約を果さざるに、この事世に誤り伝へられ鉄幹子規不可ふか並称へいしょうの説を以て尊卑そんぴ軽重けいちょうると為すに至る。しかれどもこれらの事件は他の事件と聯絡して一時歌界の問題となり、甲論乙駁こうろんおつばく喧擾けんじょうを極めたるは世人をしてやや歌界に注目せしめたる者あり。新年以後病苦益※(二の字点、1-2-22)加はり殊に筆を取るに悩む。ついに前約を果す能はざるをうらむ。もし墨汁一滴の許す限において時に批評を試むるの機を得んかなほさいわいなり。
(一月二十五日)

 俳句界は一般に一昨年の暮より昨年の前半に及びて勢をたくましうし後半はいたく衰へたり。わが短歌会は昨年の夏より秋にかけていちじるく進みたるが冬以後一頓挫とんざしたるが如し。こはもとより伎倆ぎりょう退しりぞきたるにあらず、されど進まざるなり。わが見る所にては短歌会諸子は今に至りて一の工夫もなく変化もなくただ半年前に作りたる歌の言葉をあそこここ取り集めてわずかに新作としつつあるにはあらざるか。かくいふわれもその中の一人なり。さはれ我は諸子に向つて強ひて反省せよとはいはず。反省する者は反省せよ。立つ者は立て。行く者は行け。もし心つかまなこ眠たき者はながき夜のねむりむさぼるにかず。眠さめたる時浦島うらしまの玉くしげくやしくも世は既に次の世と代りあるべきか如何いかん
(一月二十七日)

 人に物を贈るとて実用的の物を贈るは賄賂わいろに似て心よからぬ事あり。実用以外の物を贈りたるこそ贈りたる者は気安くして贈られたる者は興深けれ。今年の年玉とて鼠骨そこつのもたらせしは何々ぞ。三寸の地球儀、大黒だいこくのはがきさし、夷子えびすの絵はがき、千人児童の図、八幡太郎はちまんたろう一代記の絵草紙えぞうしなど。いとめづらし。これを取り彼をひろげてしばらくは見くらべ読みこころみなどするに贈りし人の趣味はおのずからこの取り合せの中にあらはれてきょう尽くる事を知らず。
年玉をならべて置くや枕もと
(一月二十八日)

 一本の扇子を以て自在に人を笑はしむるをわざとせる落語家の楽屋は存外厳格にして窮屈なる者なりとか聞きぬ。芳菲山人ほうひさんじん滑稽家こっけいかたるは人の知る所にして、狂歌に狂文に諧謔かいぎゃく百出ひゃくしゅつ尽くる所を知らず。しかもその人極めてまじめにしていつも腹立てて居るかと思はるるほどなり。我俳句仲間において俳句に滑稽趣味を発揮して成功したる者は漱石そうせきなり。漱石最もまじめの性質にて学校にありて生徒を率ゐるにも厳格を主として不規律に流るるを許さず。紫影しえいの文章俳句常に滑稽趣味を離れず。この人またはなはだまじめの方にて、大口をあけて笑ふ事すら余り見うけたる事なし。これを思ふに真の滑稽は真面目なる人にして始めてあたふ者にやあるべき。いにしえ蜀山しょくさん一九いっくは果して如何いかなる人なりしか知らず。俳句界第一の滑稽家として世に知られたる一茶いっさは必ずまじめくさりたる人にてありしなるべし。
(一月三十日)

 人の希望は初め漠然として大きく後ようやく小さく確実になるならひなり。我病牀びょうしょうにおける希望は初めより極めて小さく、遠く歩行あるき得ずともよし、庭の内だに歩行き得ばといひしは四、五年前の事なり。その後一、二年を経て、歩行き得ずとも立つ事を得ばうれしからん、と思ひしだに余りに小さきのぞみかなと人にも言ひて笑ひしが一昨年の夏よりは、立つ事は望まず坐るばかりは病の神も許されたきものぞ、などかこつほどになりぬ。しかも希望の縮小はなほここに止まらず。坐る事はともあれせめては一時間なりとも苦痛なく安らかにし得ば如何に嬉しからんとはきのふ今日の我希望なり。小さき望かな。最早もはや我望もこの上は小さくなり得ぬほどの極度にまで達したり。この次の時期は希望のゼロとなる時期なり。希望の零となる時期、釈迦しゃかはこれを涅槃ねはんといひ耶蘇ヤソはこれを救ひとやいふらん。
(一月三十一日)

大鏡おおかがみ』に花山かざん天皇の絵かき給ふ事を記して
さは走り車の輪には薄墨にぬらせ給ひておおきさのほどやなどしるしには墨をにほはせ給へりし。げにかくこそかくべかりけれ。あまりに走る車はいつかは黒さのほどやは見えはべる。またたけのこの皮を男のおよびごとに入れてめかかうしてちごをおどせば顔赤めてゆゆしうおぢたるかた云々
などあり。また俊頼としよりの歌の詞書ことばがきにも
大殿おおとのより歌絵うたえとおぼしく書たる絵をこれ歌によみなしてたてまつれとおおせありければ、屋のつまにおみなをとこに逢ひたる前に梅花風に従ひて男の直衣のうしの上に散りかかりたるに、をさなきちごむかひ居て散りかかりたる花を拾ひとるかたある所をよめる
などあるを見るにいにしえの人は皆実地を写さんとつとめたるからに趣向にも画法にもさまざま工夫して新しきを作りにけん。土佐派狩野派かのうはなどいふ流派さかんになりゆき古の画を学び師の筆をするに至りてまた画に新趣味といふ事なくなりたりと覚ゆ。こは画の上のみにはあらず歌もしかなり。
(二月一日)

 われ筆を執る事が不自由になりしより後は誰か代りて書く人もがなと常に思へりしがこの頃馬琴ばきんが『八犬伝』の某巻に附記せる文を見るに、初めに自己が失明の事、草稿を書くに困難なる事など述べ、次に
文渓堂ぶんけいどうまた貸本屋などいふ者さへ聞知りて皆うれはしく思はぬはなく、ために代写すべき人をたずぬるに意にかなふさる者のあるべくもあらず云々
とあるを見れば当時における馬琴の名望位地を以てしてもなほ思ふままにはならずと見えたり。なほその次に
わが興邦おきくにはなほ乳臭ちのか机心つくえごころ失せず。かつ武芸を好める本性なればかか幇助たすけになるべくもあらず。かれが母は人並ににじり書もすれば教へて代写させばやとやうやうに思ひかへしつ、第百七十七回の中音音おとね大茂林浜おおもりはまにて再生の段より代筆させて一字ごとに字を教へ一句ごとに仮名使かなづかいおしゆるに、婦人は普通の俗字だも知るはまれにて漢字からもじ雅言がげんを知らず仮名使てにをはだにもわきまへずへんつくりすらこころ得ざるに、ただ言語ことばをのみもて教へてかかするわが苦心はいふべうもあらず。まいおしえうけく者は夢路を辿たどる心地して困じて果はうち泣くめり云々
など書ける、この文昔はただ余所よそのあはれとのみ見しが今は一々身にしみて我上わがうえの事となり了んぬ。されど馬琴は年老い功成り今まさに『八犬伝』の完結を急ぎつつあるなり。我身のいまだ発端をも書きあへず早くすでに大団円に近づかんとするともとより同日に論ずべくもあらず。
(二月二日)

○伊藤圭助歿す九十余歳。英国女皇ほうず八十余歳。李鴻章りこうしょう逝く七十余歳。
星亨ほしとおる訴へられ、鳩山和夫はとやまかずお訴へられ、島田三郎しまださぶろう訴へらる。
朝汐あさしお負け、荒岩あらいわ負け、源氏山げんじやま負く。
○神田のとしの市に死傷あり。大阪の十日夷とおかえびすに死傷あり。大学第二医院の火事に死傷あり。
○背痛み、しり痛み、横腹痛む。
(二月三日)

 節分に豆をくは今もする人あれどそれすら大方はすたれたり。ましてそのほかの事はいふもおろかなり。我郷里(伊予)にて幼き時に見覚えたる様はなほをかしき事多かり。その日になれば男女なんにょ乞食こじきども、女はお多福たふくの面をかぶり、男は顔手足すべて真赤に塗り額に縄の角を結び手には竹のささらを持ちて鬼にいでたちたり。お多福先づ屋敷のかどの内に入り、手に持てるますの豆を撒くまねしながら、御繁昌様ごはんじょうさまには福は内鬼は外、といふ。この時鬼は門外にありてささらにて地を打ち、鬼にもくれねば這入はいらうか、と叫ぶ。そのいでたちの異様なるにその声さへ荒々しければ子供心にひたすら恐ろしく、もし門の内に這入りなばいかがはせんと思ひ惑へりし事今も記憶に残れり。鬼外にありてかくおびやかす時、お多福内より、福が一しよにもろてやろ、といふ。かくして彼らは餅、米、銭などもら歩行あるくなり。やがてその日もゆうべになれば主人は肩衣かたぎぬを掛け豆の入りたる升を持ち、先づ恵方えほうに向きて豆を撒き、福は内鬼は外と呼ぶ。それより四方に向ひ豆を撒き福は内を呼ぶ。これと同時にくりやにては田楽でんがくを焼き初む。味噌のにおいに鬼は逃ぐとぞいふなる。撒きたる豆はそを蒲団ふとんの下に敷きていぬれば腫物出づとて必ず拾ふ事なり。豆を家族の年の数ほど紙に包みてそれを厄払やくばらいにやるはいづこも同じ事ならん。たらの木にいわしの頭さしたるを戸口々々にはさむが多けれどひいらぎばかりさしたるもなきにあらず。それも今はた行はるるやいかに。
(二月四日)

 節分の夜に宝船の絵を敷寐して初夢をうらなふ事我郷里のみならず関西一般に同様なるべし。東京にては一月二日の夜に宝船を売りありくこそ心得ね。しかしこれも古き風俗と見え、『滑稽太平記こっけいたいへいき』といふふみ
  回禄以後鹿相成家居に越年して
去年こぞたちて家居もあらた丸太かな       卜養
宝の船も浮ぶ泉水              玄札
この宝の船は種々くさぐさの宝を船に積たる処をかき回文かいぶんの歌を書添へ元日か二日の夜しき寐してしき夢は川へ流す呪事まじないごとなりとぞ、また年越としこしの夜もしくことある故に冬季ともいひたり、しかるに二つある物は前の季に用る行年ゆくとしをとらんためなればこの理近かるべしといへるもあり、されども玄札老功たり既にする時は如何いかんとも春たるべしといふもありけり
と記せり。「元日か二日の夜」とあれば昔は二日の夜と限りたるにもあらざるか。
(二月五日)

 節分にはなほさまざまの事あり。わが昔の家に近かりし処に禅宗寺ありけるが星を祭るとてしょくあまたともし大般若だいはんにゃの転読とかをなす。本堂ののきの下には板を掲げて白星黒星半黒星などをえがき各人来年の吉凶を示す。我も立ち寄りて珍しげに見るを常とす。一人の幼き友が我は白星なり、とて喜べば他の一人が、白星は過ぎてかへつて悪きなり半黒こそよけれ、などいふ。我もそを聞きて半黒を善きもののやうに思ひし事あり。またこの夜四辻にきたなき犢鼻褌ふんどし炮烙ほうろく火吹竹ひふきだけなど捨つるもあり。犢鼻褌のたぐいを捨つるは厄年の男女その厄を脱ぎ落すの意とかや。それも手に持ちたもとに入れなどして往きたるはかいなし、腰につけたるままにて往き、懐より手を入れて解き落すものぞ、などいふも聞きぬ。炮烙を捨つるは頭痛を直すまじない、火吹竹はおこりの呪とかいへどたしかならず。
四十二の古ふんどしや厄落し
(二月六日)

 我国語の字書は『言海げんかい』の著述以後やうやうに進みつつあれどもなほ完全ならざるはいふに及ばず。我友竹村黄塔こうとうきたう)は常に眼をここに注ぎ一生の事業として完全なる一大字書を作らんとは彼が唯一の望にてありき。その字書は普通の国語の外に各専門語を網羅しかつ各語の歴史即ちその起原及び意義の変遷をも記さんとする者なり。されど資力なくしてはこの種の大事業を成就じょうじゅし得ざるを以て彼は字書編纂へんさんの約束を以て一時書肆しょし冨山房ふざんぼうに入りしかど教科書の事務に忙殺せられて志を遂ぐる能はず。終にここを捨てて女子高等師範学校の教官となりしは昨年春の事なりけん。ついで九月始めて肺患にかかり後赤十字社病院に入り療養をつくしかいもなく今年二月一日に亡き人の数には入りたりとぞ。社会のために好字書の成らざりしを悲しまんか。我二十年のまじわり一朝にして絶えたるを悲しまんか。はた我に先だつて彼の逝きたるは彼も我も世の人もつゆ思ひまうけざりしをや。
 我旧師河東静渓かわひがしせいけい先生に五子あり。黄塔はその第三子なり。出でて竹村氏をぐ。第四子は可全かぜん。第五子は碧梧桐へきごとう。黄塔三子あり皆幼。
(二月七日)

 雑誌を見る時我読む部分と読まざる部分とあり。我読まざる部分は小説、新体詩、歌、俳句、文学の批評、政治上の議論など。我読む部分は雑録、歴史、地理、人物月旦げったん、農業工業商業等の一部なり。新体詩は四句ほど読み、詩は圏点けんてんの多きを一首読み、随筆は二、三節読みて出来加減をためす事あり。俳句は一句か二句試みに読む事もあれど歌は読みて見んと思ひたる事もあらず。
(二月八日)

 近日我貧厨ひんちゅうをにぎはしたる諸国の名物は何々ぞ。大阪の天王寺かぶら、函館の赤蕪あかかぶら、秋田のはたはた魚、土佐のザボン及びかん類、越後えちごさけ粕漬かすづけ足柄あしがら唐黍とうきび餅、五十鈴いすず川の沙魚はぜ、山形ののし梅、青森の林檎羊羹りんごようかん越中えっちゅう干柿ほしがき、伊予の柚柑ゆずかん備前びぜんの沙魚、伊予のの蕪及び絹皮ザボン、大阪のおこし、京都の八橋煎餅やつはしせんべい上州じょうしゅう干饂飩ほしうどん野州やしゅうねぎ三河みかわの魚煎餅、石見いわみあゆの卵、大阪の奈良漬、駿州すんしゅう蜜柑みかん、仙台のたいの粕漬、伊予の鯛の粕漬、神戸の牛のミソ漬、下総しもうさきじ、甲州のつきしずく、伊勢のはまぐり、大阪の白味噌、大徳寺だいとくじの法論味噌、薩摩さつまの薩摩芋、北海道の林檎、熊本のあめ、横須賀の水飴、北海道の※(「魚+而」、第3水準1-94-40)はららご、そのほかアメリカの蜜柑とかいふはいと珍しき者なりき。
(二月九日)

 十返舎一九じっぺんしゃいっくの『金草鞋かねのわらじ』といふ絵草子二十四冊ほどあり。こは三都をはじめ六十余州の名所霊蹟巡覧記ともいふべき仕組なれど作者の知らぬ処を善きほどに書きなしたる者なれば実際を写し出さぬは勿論もちろん、驚くべき誤も多かるがごとし。試みに四国八十八ヶ所めぐりの部を見るに岩屋山海岸寺といふ札所の図あり、その図断崖だんがいの上に伽藍がらんそびえそのかたわらは海にして船舶を多くえがけり。こは海岸寺といふ名より想像して画きたりと思はるれど、その実この寺は海浜より十里余も隔りたる山の奥の奥にあるなり。寺の称をかくいふ故は此処ここみし歌に、松の風を波の音と聞きまがへて海辺にある思ひす、といふやうなる意の歌あるにるとか聞きたれど歌は忘れたり。
 この寺の建築は小き者なれど此処の地形は深山の中にありてあるいは千仞せんじん危巌きがん突兀とっこつとして奈落をみ九天を支ふるが如きもあり、あるいは絶壁、屏風びょうぶなす立ちつづきて一水潺々せんせんと流るる処もあり、とにかくこの辺無双の奇勝として好事家こうずかの杖をく者少からず。
(二月十日)

 朝起きて見れば一面の銀世界、雪はふりやみたれど空はなほ曇れり。余もおくれじと高等中学の運動場に至れば早く已に集まりし人々、各級各組そこここに打ち群れて思ひ思ひの旗、フラフをひるがえし、祝憲法発布、帝国万歳など書きたる中に、紅白の吹き流しを北風になびかせたるはことにきはだちていさましくぞ見えたる。二重橋の外に鳳輦ほうれんを拝みて万歳を三呼したる後余はまた学校の行列に加はらず、芝のなにがしやかたの園遊会に参らんとて行く途にて得たるは『日本』第一号なり。その附録にしたる憲法の表紙に三種の神器を画きたるは、今より見ればこそ幼稚ともいへ、その時はいと面白しと思へり。それより余は館に行きて仮店かりみせ太神楽だいかぐらなどの催しに興の尽くる時もなくけて泥の氷りたる上を踏みつつ帰りしは十二年前の二月十一日の事なりき。十二年の歳月ははなはだ短きにもあらず『日本』はいよいよ健全にして我は空しく足なへとぞなりける。その時生れ出でたる憲法は果してく歩行し得るや否や。
(二月十一日)

『日本』へ俳句寄稿に相成候あいなりそうろう諸君へ申上候もうしあげそうろう筆硯ひっけん※(二の字点、1-2-22)御清適ごせいてきの結果として小生の枕辺ちんぺん玉稿ぎょっこうの山を築きこの冬も大約一万句に達しそうろうこと誠に御出精ごしゅっせいの次第とかつ喜びかつたてまつり候。しかるところ玉稿拝読致候いたしそうろう御句おんくの多き割合に佳句の少きは小生の遺憾とする所にして『日本』の俳句欄も投句のみを以てうず兼候かねそうろう場合も不少すくなからず候。選抜の比例を申候もうしそうらはんに十分の一以上の比例を取り候は格堂かくどう寒楼かんろうら諸氏の作に候。その他は百分の一に当らざる者すら有之これあり候。多作第一とも称すべき八重桜やえざくら氏は毎季数千句を寄せられ一題の句数大方二十句より四、五十句に及び候。されどその句を見るにいたずらに多きをむさぼる者の如く平凡陳腐の句も剽窃ひょうせつの句もかまはずやたらに排列はいれつせられたるはやや厭はしく感じ申候。また一題百句など数多あまた寄せらるる人も有之候。一題百句は第一期の修行として極めて善き事なれどその中より佳句を抜き出す事は甚だ困難なるべく、ましてその題が火燵こたつ頭巾ずきん火鉢ひばち蒲団ふとんたぐいなるにおいては読まずしてその句の陳腐なること知れ申候。故に箇様かようなる場合においては初めの十句ほどを読みその中に佳句なくば全体に佳句なき者として没書致すべく候。小生も追々衰弱に赴き候につき二十句の佳什かじゅうを得るために千句以上を検閲せざるべからずとありては到底病脳の堪ふる所に非ず候。何卒なにとぞ御自身御選択ごせんたくの上御寄稿被下候様くだされそうろうよう希望候。以上。
(二月十二日)

 毎朝繃帯ほうたいの取換をするに多少の痛みを感ずるのがいやでならんから必ず新聞か雑誌か何かを読んで痛さをまぎらかして居る。痛みが烈しい時は新聞をにらんで居るけれど何を読んで居るのか少しも分らないといふやうな事もあるがまた新聞の方が面白い時はいつの間にか時間が経過して居る事もある。それで思ひ出したが昔関羽かんうの絵を見たのに、関羽が片手に外科の手術を受けながら本を読んで居たので、手術も痛いであらうに平気で本を読んで居る処を見ると関羽は馬鹿に強い人だと小供心にひどく感心して居たのであつた。ナアニ今考へて見ると関羽もやはり読書でもつて痛さをごまかして居たのに違ひない。
(二月十三日)

 徳川時代のありとある歌人を一堂に集め試みにこの歌人に向ひて、昔より伝へられたる数十百の歌集の中にてもっとも善き歌を多く集めたるは何の集ぞ、と問はん時、そは『万葉集』なり、と答へん者賀茂真淵かものまぶちを始め三、四人もあるべきか。その三、四人の中には余り世人に知られぬ平賀元義ひらがもとよしといふ人も必ず加はり居るなり。次にこれら歌人に向ひて、しからば我々の歌を作る手本として学ぶべきは何の集ぞ、と問はん時、そは『万葉集』なり、と躊躇ちゅうちょなく答へん者は平賀元義一人なるべし。万葉以後一千年の久しき間に万葉の真価を認めて万葉を模倣もほうし万葉調の歌を世に残したる者実に備前びぜんの歌人平賀元義一人のみ。真淵の如きはただ万葉の皮相を見たるに過ぎざるなり。世に羲之ぎしを尊敬せざる書家なく、杜甫とほを尊敬せざる詩家なく、芭蕉ばしょうを尊敬せざる俳家なし。しかも羲之に似たる書、杜甫に似たる詩、芭蕉に似たる俳句に至りては幾百千年の間絶無にして稀有けうなり。歌人の万葉におけるはこれに似てこれよりも更にはなはだしき者あり。彼らは万葉を尊敬し人丸ひとまろを歌聖とする事において全く一致しながらもごうも万葉調の歌を作らんとはせざりしなり。この間においてただ一人の平賀元義なる者出でて万葉調の歌を作りしはむしろ不思議にはあらざるか。彼に万葉調の歌を作れと教へし先輩あるに非ず、彼の万葉調の歌を歓迎したる後進あるに非ず、しかも彼は卓然たくぜんとして世俗の外に立ち独り喜んで万葉調の歌を作り少しも他をかえりみざりしはけだし心におおいに信ずる所なくんばあらざるなり。
(二月十四日)

 天下の歌人こぞつて古今調こきんちょうを学ぶ、元義笑つてかえりみざるなり。天下の歌人挙つて『新古今』を崇拝す、元義笑つて顧ざるなり。而して元義独り万葉をむねとす、天下の歌人笑つて顧ざるなり。かくの如くして元義の名はその万葉調の歌と共に当時衆愚の嘲笑のうちに葬られ今は全く世人に忘られ了らんとす。
 忘られ了らんとする時、平賀元義なる名は昨年の夏羽生はにゅう某によりて岡山の新聞紙上に現されぬ、しかれどもこの時世に紹介せられしは「恋の平賀元義」なる題号の下に奇矯ききょうなる歌人、潔癖ある国学者、恋の奴隷としての平賀元義にして、万葉以来唯一の歌人としての平賀元義にはあらざりき。幸にして備前児島こじま赤木格堂あかぎかくどうあり。元義かつてその地某家に寄寓せし縁故を以て元義の歌の散逸せる者を集めて一巻となしその真筆しんぴつ十数枚とかの羽生某の文をもあわせて余に示す。ここにおいて余は始めて平賀元義の名を知ると共にその歌の万葉調なるを見て一たびは驚き一たびは怪しみぬ。けだし余は幾多の歌集を見、幾多の歌人につきて研究したる結果、真箇しんこの万葉崇拝者をただ一人だに見出だす能はざるに失望し、歌人のふがひなく無見識なるはほとん罵詈ばりにも値せずと見くびり居る時に当りて始めて平賀元義の歌を得たるを以て余はむしろ不思議の感を起したるなり。まぬけのそろひともいふべき歌人らの中に万葉の趣味を解する者は半人もなきはずなるにそも元義は何に感じてかかく万葉には接近したる。ここ殆ど解すべからず。
(二月十五日)

 元義の歌は醇乎じゅんこたる万葉調なり。故に『古今集』以後の歌の如き理窟と修飾との厭ふべき者を見ず。また実事実景にあらざれば歌に詠みし事なし。故にその歌真摯しんしにして古雅ごうも後世繊巧せんこう※(「女+無」、第4水準2-5-80)ぶびの弊に染まず。今数首を抄して一斑を示さん。
 
  天保八年三月十八日自彦崎至長尾村途中
うしかひの子らにくはせと天地あめつちの神の盛りおける麦飯むぎいいの山

  五月三日望逢崎
柞葉ははそばの母をおもへば児島こじまの海逢崎おうさきの磯なみ立ちさわぐ

  五月九日過藤戸浦
あらたへの藤戸の浦に若和布わかめ売るおとひをとめは見れど飽かぬかも

  逢崎賞月
まそかゞみ清き月夜つくよに児島の海逢崎山に梅の散る見ゆ

  望父峰
父の峰雪ふりつみて浜風の寒けく吹けば母をしぞ思ふ

  小田渡口
いにしえのますらたけをが渡りけん小田の渡りをあれも渡りつ

  神崎博之宅小飲二首
こゝにして紅葉もみじを見つゝ酒のめば昔の秋し思ほゆるかも
盃に散りもみぢ葉みやびをの飲む盃に散り来もみぢ葉
(二月十六日)

 元義の歌
 
  児島備後びんご三郎大人うしの詩の心を
大君おおきみものなおもほし大君の御楯とならん我なけなくに

  失題
大君の御門みかど国守くにもりまなり坂つき面白しあれ独り行く(御門国守まなり坂は皆地名)
高島の神島山を見に来れば磯まの浦にたずさはに鳴く
妻ごみにこもりし神の神代よりすがの熊野に立てる雲かも
うへ山は山風寒しちゝのの父の命の足冷ゆらしも

  三家郷八幡大神の大御行幸おおみゆきを拝み奉りて
かけまくもあやかしこき、いはまくも穴に尊き、広幡ひろはた八幡やはた御神みかみ、此浦の行幸いでましの宮に、八百日日やおかびはありといへども、八月はつきの今日を足日たるひと、行幸して遊びいませば、神主かみぬしは御前に立ちて、幣帛みてぐらを捧げつかふれ、真子まなごなす御神の子等は、木綿ゆうあさね髪らし、胸乳むなぢをしあらはし出だし、裳緒もひもをばほとに押し垂れ、歌ひ舞ひ仕へまつらふ、今日の尊さ

  十一月三日芳野村看梅作歌
板倉と撫川なずかわさとの、中を行く芳野の川の、川岸に幾許ここら所開さけるは、たがうえし梅にかあるらん、十一月しもつきの月の始を、早も咲有流さきたる
(二月十七日)

 元義の歌

  送大西景枝
真金まがね吹く吉備きびの海に、朝なぎに来依きよ深海松ふかみる、夕なぎに来依る○みる、深みるのよせてし君、○みるのよせて来し君、いかなれや国へかへらす、ちゝのみの父を思へか、いとこやのいもを思へか、つるぎ太刀たち腰に取佩とりはき、いにしえふみにぎり、国へかへらす

  十二月五日御野郡の路上にて伊予の山を見てよめる歌并短歌
百足ももたらず伊予路を見れば、山の末島の崎々、真白にぞみ雪ふりたれ、並立なみたちの山のこと/″\、見渡みわたしの島のこと/″\、冬といへど雪だに見えぬ、山陽かげともの吉備の御国は、すみよくありけり

  反歌
吹風ものどに吹なり冬といへど雪だにふらぬ吉備の国内くぬち
(二月十八日)

 

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