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墨汁一滴(ぼくじゅういってき)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-26 9:23:27  点击:  切换到繁體中文



 元義の歌には妹(いも)または吾妹子(わぎもこ)の語を用ゐる極めて多し。故に吾妹子先生の諢名(あだな)を負へりとぞ。けだし元義は熱情の人なりしを以て婦女に対する愛の自(おのずか)ら詞藻(しそう)の上にあらはれしも多かるべく、彼が事実以外の事を歌に詠まざりきといふに思ひ合せても吾妹子の歌は必ず空想のみにも非(あらざ)るべし。『古今集』以後空想の文字に過ぎざりし恋の歌は元義に至りて万葉の昔に復(かえ)り再び基礎を感情の上に置くに至れり。吾妹子の歌左に

  失題
妹(いも)と二人暁(あかとき)露に立濡れて向(むか)つ峰上(おのえ)の月を看(み)るかも
妹が家の向(むかい)の山はま木の葉の若葉すゞしくおひいでにけり
鴨山(かもやま)の滝津(たきつ)白浪(しらなみ)さにつらふをとめと二人見れど飽かぬかも
久方(ひさかた)の天(あま)つ金山(かなやま)加佐米山(かさめやま)雪ふりつめり妹は見つるや
(二月十九日)

 元義吾妹子(わぎもこ)の歌

  遊于下原
石上(いそのかみ)ふりにし妹が園の梅見れどもあかず妹が園の梅

  正月晦日
皆人の得がてにすちふ君を得て吾(わが)率寝(いぬ)る夜は人な来(きた)りそ

  自玉島至下原途中
矢かたをうち出て見れば梅の花咲有(さける)山辺(やまべ)に妹が家見ゆ

  河辺渡口
若草の妻の子故に川辺(かわべ)川しば/\渡る嬬(つま)の子故に

  自下原至篠沖村路上
吾妹子(わぎもこ)を山北(そとも)に置きて吾(わが)くれば浜風寒し山南(かげとも)の海

  夜更けて女のもとに行きて
有明(ありあけ)の月夜(つくよ)をあかみ此園(このその)の紅葉(もみじ)見に来(き)つ其(その)戸令開(ひらかせ)

  従児島還一宮途中
妹(いも)に恋ひ汗入(あせり)の山をこえ来れば春の月夜に雁(かり)鳴きわたる

  失題
妹が家の板戸押(おし)ひらき吾(わが)入れば太刀の手上(たがみ)に花散りかゝる
夕闇の道は暗けど吾妹子に恋ひてすべなみ出(いで)てくるかも
遠くともいそげ大まろ吾妹子に早も見せまくほしき此文
吾妹児破(わぎもこは)都婆那乎(つばなを)許多(ここだ)食※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)良詩(くいけらし)昔見四従(むかしみしより)肥坐二※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)林(こえましにけり)

  讃岐(さぬき)の国に渡りける時吉備(きび)の児島の逢崎にて
逢崎(おうさき)は名にこそありけれはしけやし吾妹(わぎも)が家は雲井かくりぬ

  美作(みまさか)に在ける時故郷の酒妓のもとより文おこせければ
春の田をかへす/″\も妹が文見つゝし居れば夜ぞあけにける
 妹に関する歌は実に元義の歌の過半を占め居るなり。
(二月二十日)

 元義の熱情は彼の不平と共に澆(そそ)ぎ出されて時に狂態を演ぜし事なきに非(あらざ)るも、元来彼は堅固なる信仰と超絶せる識見の上に立ちて自己の主義を守るを本分としたる者にして、決して恋の奴隷となりて終るが如き者に非ず。さればその歌に吾妹子の語多きに対してますらをの語多きが如きまた以て彼が堂々たる大丈夫(だいじょうぶ)を以て自(みずか)ら任じたるを知るに足る。ますらをの歌

  西蕃漢張良賛
言(こと)あげて雖称(ほむとも)つきじ月の没(い)る西の戎(えみし)の大丈夫(ますらお)ごゝろ

  望加佐米山
高田のや加佐米(かさめ)の山のつむじ風ますらたけをが笠吹きはなつ

  自庭妹郷至松島途中
大井川朝風寒み大丈夫(ますらお)と念(おも)ひてありし吾ぞはなひる

  遊于梅園
丈夫(ますらお)はいたも痩(や)せりき梅の花心つくして相見つるから

  失題
天地(あめつち)の神に祈りて大丈夫を君にかならず令生(うませ)ざらめや
鳥が鳴くあづまの旅に丈夫が出立(いでたち)将行(ゆかん)春ぞ近づく
石竹(なでしこ)もにくゝはあらねど丈夫の見るべき花は夏菊の花

  業合大枝を訪ふ
弓柄(ゆつか)とるますらをのこし思ふこととげずほとほとかへるべきかは
 元義は妹(いも)といはでもあるべき歌に妹の語を濫用(らんよう)せしと同じく丈夫(ますらお)といはでもあるべき歌に丈夫の語を濫用せり。此(かく)の如き者即ち両面における元義の性情をあらはしたる者に外ならず。
(二月二十一日)

 元義は大丈夫を以て、日本男児を以て、国学者を以て自ら任じたるべく、詠歌(えいか)の如きは固(もと)よりその余技に属せしものならん。古学に対する彼の学説は必ず大いに聞くべきものありしならんも、今日において遺稿などの其(それ)を徴(ちょう)するに足るものなきは遺憾なり。今その歌について多少その主義を表したりと思ふものを挙げんに

  失題
おほろかに思ふな子ども皇祖(すめおや)の御書(みふみ)に載(の)れる神の宮処(みやどころ)

  喩高階騰麿
菅(すが)の根の長き春日(はるひ)を徒(いたずら)に暮らさん人は猿にかもおとる

  題西蕃寿老人画
ことさへぐ国の長人(ながひと)さかづきに其が影うつせ妹(いも)にのません

  和安田定三作
今日よりは朝廷(みかど)たふとみさひづるや唐国人(からくにびと)にへつらふなゆめ

  備中闇師城に学舎をたてゝ漢文よませらるゝときゝて
暗四鬼(くらしき)の司人等(つかさびとたち)ねがはくは皇御国(すめらみくに)の大道(おおみち)を行け

  失題
大君(おおきみ)の御稜威加賀焼(みいつかがやく)日之本荷(ひのもとに)狂業須流奈(たわわざするな)痴廼漢人(おそのからびと)
(二月二十二日)

 以上挙ぐる所を以て元義の歌の如何なるかはほぼこれを知る事を得べし。元義は終始万葉調を学ばんとしたるがためにその格調の高古(こうこ)にして些(いささか)の俗気なきと共にその趣向は平淡にして変化に乏しきの感あり。されど時としては情の発する所格調の如何(いかん)を顧みるに遑(いとま)あらずしてやや異様の歌となる事なきに非ず。例

  高階謙満宅宴飲
天照皇御神(あまてらすすめらみかみ)も酒に酔ひて吐き散らすをば許したまひき

  述懐
大(おお)な牟遅神(むちかみ)の命(みこと)は袋負(お)ひをけの命は牛かひましき

  失題
足引(あしびき)の山中治左(じさ)が佩(は)ける太刀(たち)神代(かみよ)もきかずあはれ長太刀
五番町石橋の上で我(わが)○○をたぐさにとりし我妹子(わぎもこ)あはれ
弥兵衛(やひょうえ)が十(と)つかの剣(つるぎ)遂に抜きて富子(とみこ)を斬(き)りて二(ふた)きだとなす
弥兵衛がこやせる屍(かばね)うじたかれ見る我さへにたぐりすらしも
吾独(ひとり)知るとまをさばかむろぎのすくなひこなにつらくはれんか
弓削破只(ゆげはただ)名二社在※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)列(なにこそありけれ)弓削人八(ゆげびとは)田乎婆雖作(たをばつくれど)弓八不削(ゆみはけずらず)
 これらの歌多くは事に逢ふて率爾(そつじ)に作りし者なるべく文字の排列(はいれつ)などには注意せざりしがために歌としては善きも悪きもあれどとにかく天真爛漫(てんしんらんまん)なる処に元義の人物性情は躍如(やくじょ)としてあらはれ居るを見る。
(二月二十三日)

 羽生(はにゅう)某の記する所に拠(よ)るに元義は岡山藩中老池田勘解由(かげゆ)の臣(しん)平尾新兵衛長治(ながはる)の子、壮年にして沖津氏の厄介人(やっかいにん)(家の子)となりて沖津新吉直義(退去の際元義と改む)と名のりまた源猫彦と号したり。弘化(こうか)四年四月三十一日(卅日の誤か)藩籍を脱して(この時年卅六、七)四方に流寓(りゅうぐう)し後遂(つい)に上道(じょうとう)郡大多羅(おおたら)村の路傍(ろぼう)に倒死せり。こは明治五、六年の事にして六十五、六歳なりきといふ。
格堂(かくどう)の写し置ける元義の歌を見るに皆天保(てんぽう)八年後の製作に係(かか)るが如く天保八年の歌は既に老成して毫(ごう)も生硬渋滞の処を見ず。されば元義が一家の見識を立てて歌の上にも悟る所ありしは天保八年頃なりしなるべく弘化四年を卅六、七歳とすれば天保八年は其廿六、七歳に当るべし。されど弘化四年を卅六、七歳として推算すれば明治五、六年は六十二、三歳に当る訳なればここに記する年齢には違算ありて精確の者に非(あらざ)るが如し。
(二月二十四日)

 元義の岡山を去りたるは人を斬(き)りしためなりともいひ不平のためなりともいふ。
 元義は片足不具なりしため夏といへどもその片足に足袋(たび)を穿(うが)ちたり。よつて沖津の片足袋といふ諢名(あだな)を負ひたりといふ。
 元義には妻なく時に婦女子に対して狂態を演ずる事あり。晩年磐梨(いわなし)郡某社の巫女(みこ)のもとに入夫(にゅうふ)の如く入りこみて男子二人を挙げしが後長子(ちょうし)は窃盗(せっとう)罪にて捕へられ次子もまた不肖の者にて元義の稿本抔(こうほんなど)は散佚(さんいつ)して尋ぬべからずといふ。
 元義には潔癖あり。毎朝歯を磨くにも多量の塩を用ゐ厠(かわや)用の紙さへも少からず費すが如き有様なりしかば誰も元義の寄食し居るを好まざりきといふ。
 元義は髪の結ひ方に好みありて数里の路を厭(いと)はずある髪結師のもとに通ひたりといふ。
 元義ある時刀の鞘(さや)があやまつて僧の衣に触れたりとて漆(うるし)の剥(は)ぐるまでに鞘を磨きたりといふは必ずしも潔癖のみにはあらず彼の主義としてひたぶるに仏教を嫌ひたるがためなるべし。
 元義は藤井高尚(ふじいたかなお)の門人業合大枝(なりあいおおえ)を訪ひて、志を話さんとせしに大枝は拒みて逢はざりきといふ。
 元義には師匠なく弟子なしといふ。
 元義に万葉の講義を請ひしに元義は人丸(ひとまろ)の太子(たいし)追悼の長歌を幾度も朗詠して、歌は幾度も読めば自(おのずか)ら分るものなり、といひきといふ。
 脱藩の者は藩中に住むを許さざりしが元義は黙許の姿にて備前の田舎に住みきといふ。
 元義の足跡は山陰山陽四国の外に出でず。京にも上りし事なしといふ。
 以上事実の断片を集め見ば元義の性質と境遇とはほぼこれを知るを得べし。国学者としての元義は知らず、少くとも歌につきて箇程(かほど)の卓見を有せる元義が一人の同感者を持たざりしを思ひ、その境遇の箇程に不幸なりしを思ひ、その不平の如何に大なりしやを思ひ、その不平を漏らす所なきを思ひ、而して後に婦女に対するその熱情を思はば時に彼の狂態を演ずる者むしろ憐(あわれ)むべく悲しむべきにあらずや。
(二月二十五日)

 格堂の集録せる元義の歌を見るに短歌二百余首長歌十余首あり。この他は存否知るべからず。
 元義の筆跡を見るに和様にあらずむしろ唐様(からよう)なり。多く習ひて得たる様にはあらでただ無造作に書きなせるものから大字も小字も一様にして渋滞の処を見ず。上手にはあらねど俗気なし。
 万葉以後において歌人四人を得たり。源実朝(みなもとのさねとも)、徳川宗武(とくがわむねたけ)、井手曙覧(いであけみ)、平賀元義(ひらがもとよし)これなり。実朝と宗武は貴人に生れて共に志を伸ばす能はざりし人、曙覧と元義は固(もと)より賤(いや)しききはにていづれも世に容(い)れられざりし人なり。宗武の将軍たる能はざりしに引きかへ実朝が名のみの将軍たりしはなほ慰むるに足るとせんか、しかも遂に天年(てんねん)を全うするに至らざりしは千古の惨事とすべし。元義の終始不遇なるに対して曙覧が春嶽(しゅんがく)の知遇を得たるは晩年やや意を得たるに近し、しかも二人共に王家の臣たる能はざりしは死してもなほ遺憾あるべきにや。
 曙覧は汚穢(おわい)を嫌はざりし人、されど身のまはりは小奇麗(こぎれい)にありしかと思はる。元義は潔癖の人、されど何となくきたなき人には非(あらざ)りしか。
 四家の歌を見るに、実朝と宗武とは気高くして時に独造の処ある相似たり。但(ただし)宗武の方、覇気やや強きが如し。曙覧は見識の進歩的なる処、元義の保守的なるに勝れりとせんか、但伎倆の点において調子を解する点において曙覧は遂に元義に如かず。故に曙覧の歌の調子ととのはぬが多きに反して元義の歌は殆(ほとん)ど皆調子ととのひたり。されど元義の歌はその取る所の趣向材料の範囲余りに狭きに過ぎて従つて変化に乏しきは彼の大歌人たる能はざる所以(ゆえん)なり。彼にしてもし自(みずか)ら大歌人たらんとする野心あらんかその歌の発達は固(もと)より此(ここ)に止まらざりしや必せり。その歌の時に常則を脱する者あるは彼に発達し得べき材能の潜伏しありし事を証して余(あまり)あり。惜しいかな。
(二月二十六日)

 近来雑誌の表紙を模様色摺(いろずり)となしかつ用紙を舶来紙となす事流行す。体裁上の一進歩となす。
 雑誌『目不酔草(めざましぐさ)』の表紙模様不折(ふせつ)の意匠に成る。面白し。但(ただし)何にでも梅の花や桜の花をくつつけるは不折の癖と知るべし。
 雑誌『明星(みょうじょう)』は体裁の美麗(びれい)なる事普通雑誌中第一のものなりしが遂に廃刊せし由(よし)気の毒の至なり。今廃刊するほどならば最後の基本金募集の広告なからましかば、死際一層花を添へたらんかと思ふ。是非なし。
 雑誌『精神界』は仏教の雑誌なり。始に髑髏(どくろ)を画(えが)きてその上に精神界の三字を書す。その様何とやら物質的に開剖(かいぼう)的に心理を研究する意かと思はれて仏教らしき感起らず。髑髏の画(え)のやや精細なるにも因(よ)るならん。
 雑誌『みのむし』は伊賀より出づる俳諧の雑誌なり。表紙に芭蕪(ばしょう)の葉を画けるにその画拙(つたな)くしてどうやら蕪(かぶら)の葉に似たるやう思はる。蕪村(ぶそん)流行のこの頃なれば芭蕉翁も蕪村化したるにやといと可笑(おか)し。
 雑誌『太陽』の陽の字のつくり時に易(えき)に从(したが)ふものあり。そんな字は字引になし。
(二月二十七日)

『日本』へ寄せらるる俳句を見るに地方々々にて俳句の調にもその他の事にも多少の特色あり、従つて同地方の人は万事をかしきほどに似よりたる者あり。同一の俳句または最も善く似たる俳句が同地方の人二人の稿に殆ど同時に見出ださるる事などしばしばあれど、この場合にはいづれを原作としいづれを剽窃(ひょうせつ)とせんか、ほとほと定めかねて打ち捨つるを常とす。総じてその地方の俳句会盛(さかん)なる時はその会員の句皆面白く俳句会衰ふる時はあるだけの会員悉(ことごと)く下手になる事不思議なるほどなり。
 句風以外の特色をいはんか、鳥取の俳人は皆四方太(しほうだ)流の書体巧(たくみ)なるに反して、取手(とりで)(下総(しもうさ))辺の俳人はきたなき読みにくき字を書けり。出雲(いずも)の人は無暗(むやみ)に多く作る癖ありて、京都の人の投書は四、五十句より多からず。大阪の人の用紙には大阪紙と称(とな)ふるきめ粗き紙多く、能代(のしろ)(羽後(うご))の人は必ず馬鹿に光沢多き紙を用ゐる。越中の人に限りて皆半紙を二つ切にしたるを二つに折りて小く句を書くなり。はがきに二句か三句認めあるはいづれの地方に限らず初心なる人の必ずする事なり。
(二月二十八日)

 黄塔(こうとう)まだ世にありし頃余が書ける漢字の画(かく)の誤(あやまり)を正しくれし事あり。それより後よりより余も注意して字引をしらべ見るに余らの書ける楷書(かいしょ)は大半誤れる事を知りたれば左に一つ二つ誤りやすき字を記して世の誤を同じくする人に示す。
 菫謹勤などの終りの横画は三本なり。二本に書くは非なり。活字にもこの頃二本の者を拵(こしら)へたり。
 達の字の下の処の横画も三本なり、二本に非ず。
 切の字の扁(へん)は七なり。土扁に書く人多し。
 助の字の扁は且なり。目扁に書く人多し。
 ※[#「麾-毛」、42-8]※[#「麾」の「毛」に代えて「手」」、42-8]※[#「麾」の「毛」に代えて「石」」、42-8]※[#「麾」の「毛」に代えて「鬼」」、42-8]などの中の方を林の字に書くは誤なり。この頃活字にもこの誤字を拵(こしら)へたれば注意あるべし。
 ※[#「兎」の「儿」を「兔」のそれのように、42-10]※[#「免」の「儿」を「兔」のそれのように、42-10]共に四角の中の劃(かく)を外まで引き出すなり。活字を見るに兎(と)の字は正しけれど免(めん)の字はことさらに二画に離したるが多し。しかしこれらは誤といふにも非(あらざ)るか。
「つか」といふ字は冢※(「土へん+冢」、第3水準1-15-55)にして豕(いのこ)に点を打つなり。しかるに多少漢字を知る人にして※[#「わかんむり/一/豕」、42-12]※[#「塚のつくりのわかんむりと豕の間に一」、42-12]の如く豕の上に一を引く人多し。されど※(ぼう)[#「わかんむり/一/豕」、42-13]※(ほう)[#「塚のつくりのわかんむりと豕の間に一」、42-13]皆東韻(とういん)にして「つか」の字にはあらず。
 ※[#「入/王」、42-14]※[#「兪/心」、42-14]などの冠(かんむり)は入なり。人冠に非ず。
 分貧などの冠は八なり。人にも入にも非ず。
 神※[#「示+氏」、43-1]の※[#「示+氏」、43-1]の字は音「ぎ」にして示扁(しめすへん)に氏の字を書く。普通に祗(し)(氏の下に一を引く者)の字を書くは誤なり。祗は音「し」にして祗候(しこう)などの祗なり。
 廢は広く「すたる」の意に用ゐる。※(「やまいだれ」、第3水準1-88-44)(やまい)だれの癈は不具の人をいふ。何処にでも※(「やまいだれ」、第3水準1-88-44)だれの方を用ゐる人多し。
○正誤 前々号墨汁一滴にある人に聞けるまま雑誌『明星』廃刊の由(よし)記したるに、廃刊にあらず、只今印刷中なり、と与謝野(よさの)氏より通知ありたり。余はこの雑誌の健在を喜ぶと共にたやすく人言(じんげん)を信じたる粗相(そそう)とを謝す。
(三月一日)

 二月二十八日 晴。朝六時半病牀(びょうしょう)眠起。家人暖炉(だんろ)を焚(た)く。新聞を見る。昨日帝国議会停会を命ぜられし時の記事あり。繃帯(ほうたい)を取りかふ。粥(かゆ)二碗(わん)を啜(すす)る。梅の俳句を閲(けみ)す。
 今日は会席料理のもてなしを受くる約あり。水仙を漬物の小桶(こおけ)に活(い)けかへよと命ずれば桶なしといふ。さらば水仙も竹の掛物も取りのけて雛(ひな)を祭れと命ず。古紙雛(ふるかみびな)と同じ画(え)の掛物、傍(かたわら)に桃と連翹(れんぎょう)を乱れさす。
 左千夫(さちお)来り秀真(ほつま)来り麓(ふもと)来る。左千夫は大きなる古釜を携へ来りて茶をもてなさんといふ。釜の蓋(ふた)は近頃秀真の鋳(い)たる者にしてつまみの車形は左千夫の意匠なり。麓は利休(りきゅう)手簡(しゅかん)の軸を持ち来りて釜の上に掛く。その手紙の文に牧渓(もっけい)の画(え)をほめて
我見ても久しくなりぬすみの絵のきちの掛物幾代(いくよ)出ぬらん
といふ狂歌を書けり。書法たしかなり。
 左千夫茶を立つ。余も菓子一つ薄茶一碗。
 五時頃料理出づ。麓主人役を勤む。献立左の如し。
味噌汁は三州(さんしゅう)味噌の煮漉(にごし)、実(み)は嫁菜(よめな)、二椀代ふ。
鱠(なます)は鯉(こい)の甘酢、この酢の加減伝授なりと。余は皆喰ひて摺山葵(すりわさび)ばかり残し置きしが茶の料理は喰ひ尽して一物を余さぬものとの掟(おきて)に心づきて俄(にわか)に当惑し山葵(わさび)を味噌汁の中にかきまぜて飲む。大笑ひとなる。
平(ひら)は小鯛(こだい)の骨抜四尾。独活(うど)、花菜(はなな)、山椒(さんしょう)の芽、小鳥の叩き肉。
肴(さかな)は鰈(かれい)を焼いて煮(に)たるやうなる者鰭(ひれ)と頭と尾とは取りのけあり。
口取は焼玉子、栄螺(さざえ)(?)栗、杏(あんず)及び青き柑(かん)類の煮(に)たる者。
香の物は奈良漬の大根。
 飯と味噌汁とはいくらにても喰ひ次第、酒はつけきりにて平と同時に出しかつ飯かつ酒とちびちびやる。飯は太鼓飯つぎに盛りて出し各※(二の字点、1-2-22)椀にて食ふ。後の肴を待つ間は椀に一口の飯を残し置くものなりと。余は遂に料理の半(なかば)を残して得(え)喰はず。飯終りて湯桶(ゆとう)に塩湯を入れて出す。余は始めての会席料理なれば七十五日の長生すべしとて心覚(こころおぼえ)のため書きつけ置く。
 点燈(てんとう)後茶菓(さか)雑談。左千夫、その釜に一首を題せよといふ。余問ふ、湯のたぎる音如何(いかん)。左千夫いふ、釜大きけれど音かすかなり、波の遠音にも似たらんかと。乃(すなわ)ち
  題釜
氷(こおり)解けて水の流るゝ音すなり     子規
(三月二日)

 料理人帰り去りし後に聞けば会席料理のたましひは味噌汁にある由(よし)、味噌汁の善悪にてその日の料理の優劣は定まるといへば我らの毎朝吸ふ味噌汁とは雲泥の差あることいふまでもなし。味噌を選ぶは勿論(もちろん)、ダシに用ゐる鰹節(かつおぶし)は土佐節の上物(じょうもの)三本位、それも善き部分だけを用ゐる、それ故味噌汁だけの価(あたい)三円以上にも上るといふ。(料理は総て五人前宛なれど汁は多く拵(こしら)へて余す例(ためし)なれば一鍋の汁の価と見るべし)その汁の中へ、知らざる事とはいへ、山葵(わさび)をまぜて啜(すす)りたるは余りに心なきわざなりと料理人も呆(あき)れつらん。この話を聞きて今更に臍(ほぞ)を噬(か)む。
 茶の道には一定の方式あり。その方式をつくりたる精神を考ふれば皆相当の理(ことわり)ある事なれどただその方式に拘(かかわ)るために伝授とか許しとかいふ事まで出来て遂に茶の活趣味は人に知られぬ事となりたり。茶道(さどう)はなるべく自己の意匠(いしょう)によりて新方式を作らざるべからず。その新方式といへども二度用ゐれば陳腐に堕(お)つる事あるべし。故に茶人の茶を玩(もてあそ)ぶは歌人の歌をつくり俳人の俳句をつくるが如く常に新鮮なる意匠を案出し臨機応変の材を要す。四畳半の茶室は甚だ妙なり。されど百畳の広間にて茶を玩ぶの工夫もなかるべからず。掛軸と挿花(そうか)と同時にせずといふも道理ある事なり。されど掛軸と挿花と同時にするの工夫もなかるべからず。室(へや)の構造装飾より茶器の選択に至るまで方式にかかはらず時の宜(よろ)しきに従ふを賞玩(しょうがん)すべき事なり。
 何事にも半可通(はんかつう)といふ俗人あり。茶の道にても茶器の伝来を説きて価の高きを善しと思へる半可通少からず。茶の料理なども料理として非常に進歩せるものなれど進歩の極、堅魚節(かつおぶし)の二本と三本とによりて味噌汁の優劣を争ふに至りてはいはゆる半可通のひとりよがりに堕ちて余り好ましき事にあらず。凡(すべ)て物は極端に走るは可なれどその結果の有効なる程度に止めざるべからず。
 茶道に配合上の調和を論ずる処は俳句の趣味に似たり。茶道は物事にきまりありて主客各※(二の字点、1-2-22)そのきまりを乱さざる処甚だ西洋の礼に似たりとある人いふ。
(三月三日)

 誤りやすき字左に
 盡は書畫の字よりは横画一本少きなり。聿(いつ)の如く書くは誤れり。行書(ぎょうしょ)にて聿の如く書くことあれどもその場合には四箇の点を打たぬなり。
 ※(「二点しんにょう+兔」、第3水準1-92-57)と※(「寛の「儿」を「兔」のそれのように、第3水準1-47-58)とには点あり。この点を知らぬ人多し。
 學覺などいふ「かく」の字と與譽などいふ「よ」の字とは上半(じょうはん)の中の処異なり。しかるに両者を混同して書ける者たとへば學の字の上半を與(よ)の字の如く書ける者書籍の表題抔にも少からず。
 ※[#「内」の「人」に代えて「入」、47-7]兩共に入(にゅう)を誤りて人に書くが多し。
 喬の夭(よう)を天に誤り、※[#「聖」の「王」に代えて「壬」の下の横棒が長いもの、47-8]※[#「門<壬」、47-8]の壬(じん)を王に誤るが多し。
 傘は人冠に人四箇に十なり。しかるに十字の上にも中にも横の棒を引く事古きよりの習ひと見えたり。
 吉の士(さむらい)を土に誤り書く者多し。
 舍は人冠に舌なり。されど人冠に土に口を書きし字も古き法帖(ほうじょう)に見ゆ。
 臼の下の処は一を引くなり。兒も同じ。されどこの一の棒の中を切りて二画に書くは書きやすきためにや。
 鼠(ねずみ)の上の処は臼(うす)なり。しかるにこの頃※(「獵のつくり」、第4水準2-8-77)(ろう)の字を書く人あり。後者は※(「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71)獵臘などの字の旁(つくり)にて「ろふ」「れふ」の音なり。
 易は日に勿なり。賜の字。※(「りっしんべん+易」、第3水準1-84-53)の字など皆同じ。されど陽揚腸場楊湯など陽韻(よういん)に属する字の旁は易(えき)の字の真中に横の棒を加へたるなり。
 ※(「懶-りっしんべん」、第3水準1-92-26)獺※(「さんずい+懶のつくり」、第3水準1-87-30)懶などの旁は負なり頁(おおがい)に非ず。
「ちり」は塵なり。しかるに艸冠(くさかんむり)をつけて※(「くさかんむり/塵」、第4水準2-87-4)の字を書く人あり。後者は艸名(そうめい)(よもぎの訓あり)ならん、「ちり」の字にはあらず。こは塵(ちり)の草体(そうたい)が艸冠の如く見ゆるより誤りしか。
 解は角(つの)に刀に牛なり。牛の字を井(せい)に誤るが多し。
 漢字廃止論のあるこの頃かかる些少(さしょう)の誤謬(ごびゅう)を正すなど愚の至(いたり)なりと笑ふ人もあるべし。されど一日なりとも漢字を用ゐる上は誤なからんを期するは当然の事なり。いはんや国文に漢字を廃するも漢字は永久に滅びざるをや。但かかる事は数十年慣れ来りし誤を一朝に改めんとすれば非常に困難を覚ゆれど初め教へらるる時に正しき字を教へこまるれば何の困難もなき事なり。小学校の先生たちなるべく正しき字を教へたまへ。
(三月四日)

 誤りやすき字左に
 段鍛は「たん」にして假蝦鰕霞遐は「か」なり。段と※(「蝦-虫」、第4水準2-3-64)(か)と扁(へん)もつくりも異なるを混同して書く人多し。
 蒹葭は「あし」「よし」の類なるべし。葭簀張(よしずばり)の葭も同字なり。しかるに近頃葮の字を用ゐる人あり。後者は字引に「むくげ」とあるはたしかならねど「よし」にあらざるは勿論なり。
「おき」は沖なり。しかるにこの頃は二水(にすい)の冲の字を用ゐる人多し。両字とも水深の意なきにあらねど我邦(わがくに)にて「おき」の意に用ゐるは字義より来るに非ずしてむしろ水の真中といふ字の組立より来るに非(あらざ)るか。
 汽車の汽を※(「さんずい+氣」、第4水準2-79-6)と書く人多し。字引に汽は水气(すいき)也とあるを福沢翁の見つけ出して訳字に当てたるなりと。※(「さんずい+氣」、第4水準2-79-6)の字もあれど意義異なり。
 四の字の中は片仮名のルの字の如く右へ曲ぐるなり。讀贖などのつくりの中の処も四を書くなり。されど賣の字の中の処は四の字に非ず。右へ曲ぐる事なく真直に引くなり。いささかの事故どうでもよけれどただ讀(とく)のつくりが賣(ばい)の字に非ることを知るべし。
 奇の字の上の処は大の字なり。奇の字を字引で引かんとならば大の部を見ざるべからず。されど立の字の如く書くも古き代(よ)よりの事なるべし。
 逢蓬峯は「ほう」にして降絳は「こう」なり。終りの処少し違へり。
 ※[#「女+※(「臣」の「コ」に代えて「口」、第4水準2-85-54)」、49-15](ひめ)の字のつくりは臣に非ず。
 士と土、爪と瓜、岡と罔(もう)、齊と齋、戊(ぼ)と戌(じゅつ)、これらの区別は大方知らぬ人もなけれど商(あきなひ)と※(「摘のつくり」、第4水準2-4-4)(音テキ)、班(わかつ)と斑(まだら)の区別はなほ知らぬ人少なからず。
 以上挙げたる誤字の中にも古くより書きならはして一般に通ずる者は必ずしも改むるにも及ばざるべし。但甲の字と乙の字と取り違へたるは是非とも正さざるべからず。
 甲の字と乙の字と取り違へたる場合は致し方なけれど或る字の画を誤りたる場合はこれを印刷に附する時は自(おのずか)ら正しき活字に直る故印刷物には誤字少き訳なり。けだし活字の初は『康熙字典(こうきじてん)』によりて一字々々作りたりといへば活字は極めて正しき者にてありき。しかるに近来出来たる活字は無学なる人の杜撰(ずさん)に作りしものありと見えて往々偽字(ぎじ)を発見する事あり。せめては活字だけにても正しくして世の惑(まどい)を増さざるやうしたき者なり。
(三月五日)

 自分は子供の時から湯に入る事が大嫌ひだ。熱き湯に入ると体がくたびれてその日は仕事が出来ぬ。一日汗を流して労働した者が労働がすんでから湯に入るのは如何にも愉快さうで草臥(くたびれ)が直るであらうと思はれるがその他の者で毎日のやうに湯に行くのは男にせよ女にせよ必ずなまけ者にきまつて居る。殊に楊枝(ようじ)をくはへて朝湯に出かけるなどといふのは堕落の極である。東京の銭湯は余り熱いから少しぬるくしたら善からうとも思ふたがいつそ銭湯などは罷(や)めてしまふて皆々冷水摩擦をやつたら日本人も少しは活溌になるであらう。熱い湯に酔ふて熟柿(じゅくし)のやうになつて、ああ善い心持だ、などといふて居る内に日本銀行の金貨はどんどんと皆外国へ出て往てしまふ。
(三月六日)

 自分が病気になつて後ある人が病牀のなぐさめにもと心がけて鉄網(かなあみ)の大鳥籠を借りて来てくれたのでそれを窓先に据ゑて小鳥を十羽ばかり入れて置いた。その中にある水鉢の水をかへてやると総ての鳥が下りて来て争ふて水をあびる様が面白いので病牀からながめて楽しんで居る。水鉢を置いてまだ手を引かぬ内にヒワが一番先に下りて浴びる。浴び様も一番上手だ。ヒワが浴びるのは勢ひが善いので目(ま)たたく間に鉢の水を半分位羽ではたき散らしてしまふ。そこで外の鳥は残りの乏しい水で順々に浴びなくてはならぬやうになる。それを予防するつもりでもあるまいが後にはヒワが先づ浴びようとするとキンバラが二羽で下りて来てヒワを追ひ出し二羽並んで浴びてしまふ。その後でジヤガタラ雀が浴びる。キンカ鳥も浴びる。カナリヤも浴びる。暫(しばら)くは水鉢のほとりには先番後番と鳥が詰めかけて居る。浴びてすんだ奴は皆高いとまり木にとまつて頻(しき)りに羽ばたきして居る。その様が実に愉快さうに見える。考へて見ると自分が湯に入る事が出来ぬやうになつてからもう五年になる。
(三月七日)

 余は漢字を知る者に非ず。知らざるが故に今更に誤字に気のつきしほどの事なれば余の言ふ所必ず誤あらんとあやぶみしが果してある人より教をたまはりたり。因(よ)つて正誤かたがたこれを載せ併(あわ)せてその好意を謝す。
(略)※(「懶-りっしんべん」、第3水準1-92-26)※(さんずい+懶のつくり、第3水準1-87-30)獺懶等の旁(つくり)は負なり頁(おおがい)にあらずとせられ候へども負にあらず※[#「刀/貝」、52-4]の字にて貝の上は刀に候勝負の負とは少しく異なり候右等の字は剌(らつ)より音生じ候また※[#「聖」の「王」に代えて「壬」の下の横棒が長いもの、52-5]の下は壬にあらず※[#「壬」の下の横棒が長いもの、52-5](音テイ)に候※[#「呈」の「王」に代えて「壬」の下の横棒が長いもの、52-6]※[#「望」の「王」に代えて「壬」の下の横棒が長いもの、52-6]等皆同様に御座候右些細の事に候へども気付たるまま(一老人投(とうず))
 またある人より
(略)菩薩(ぼさつ)薩摩の薩は字原薛(せつ)なり博愛堂『集古印譜』に薩摩国印は薛……とあり訳経師(やっきょうし)が仮釈(かしゃく)にて薛に二点添付したるを元明(げんみん)より産の字に作り字典は薩としあるなり唐には決して産に書せず云々
 右の誤は字典にもあり麑島(かごしま)人も仏教家も一般に知らであれば正したき由(よし)いひこされたり。
(三月八日)

 雑誌『日本人』に「春」を論じて「我国は旧(も)と太陰暦を用ゐ正月を以て春の初めと為ししが」云々とあり。語簡(かん)に過ぎて解しかぬる点もあれど昔は歳の初(はじめ)即正月元旦を以て春の初となしたりとの意ならん。陰暦時代には便宜上一、二、三の三箇月を以て春とし四、五、六の三箇月を以て夏となし乃至(ないし)秋冬も同例に三箇月宛を取りしこといふまでもなし。されど陰暦にては一年十二箇月に限らず、十三箇月なる事も多ければその場合には四季の内いづれか四箇月を取らざるべからず。これがために気候と月日と一致せず、去年の正月初と今年の正月初といたく気候の相異を来すに至るを以て陰暦時代にても厳格にいへば歳の初を春の初とはなさず、立春(冬至後約四十五日)を以て春の初と定めたるなり。その証は古くより年内立春などいふ歌の題あり、『古今集』開巻第一に
年の内に春は来にけり一年(ひととせ)を去年(こぞ)とやいはむ今年とやいはむ
とあるもこの事なり。この歌の意は歳の初と春の初とは異なり、さればいづれを計算の初となすべきかと疑へる者なればこれを裏面より見ればこの頃にても普通には便宜上歳の初を春の初となしたる事なるべし。されど朝廷の儀式にも特に立春の日を選びてする事あり。『公事根源(くじこんげん)』に
     供若水(わかみずをそなう)               立春日
若水といふ事は去年(こぞ)御生気の方の井をてんして蓋をして人に汲(くま)せず、春立つ日主水司(もんどのつかさ)内裏(だいり)に奉れば朝餉(あさがれい)にてこれをきこしめすなり、荒玉の春立つ日これを奉れば若水とは申すにや云々
とあるを見ても知るべし。平民社会にては立春の儀式といふ事は知らねど節分(立春前一夜)の儀式は種々ありて今日に至るまでその幾分を存せり。中にもこの夜各※(二の字点、1-2-22)の年齢の数に一つ増したるだけの熬豆(いりまめ)を紙に包みて厄払(やくばらい)に与へ来年の厄を払はしむるが如きは明かに立春を以て計算の初となし立春に入る事によりて新たに齢一つを加ふる者と定めたるを見るべし。(陰暦の正月元日は立春に最も近き朔日(ついたち)を取りたる者なれば元日と立春と十五日以上の差違ある事なし。されど元日前十五日立春の年と元日後十五日立春の年とを比較すれば気候に三十日の遅速あり)
 右の如く昔は歳初と春初と区別あるが如くなきが如く曖昧に過ぎ来りしが明治に至り陽暦の頒布(はんぷ)と共に陰暦は公式上廃せられたれば両者は断然と区別せられて一月一日は毎年冬季中に来る者と定まれり。この際に当りて春夏秋冬の限界については何らの規定する所なければ余は依然として立春立夏立秋立冬を以て四季の限界とする説に従ひ居るなり。元来この立春立夏等の節は陰暦時代にも用ゐられたれどその実月の盈虧(えいき)には何らの関係もなくかへつて太陽の位置より算出せし者なればこれを太陽暦と並び用ゐて毫(ごう)も矛盾せざるのみならず毎年ほぼ同一の日に当るを以て記憶にも甚だ便利あり。
 雑誌『日本人』の説は西洋流に三、四、五の三箇月を春とせんとの事なれども、我邦には二千年来の習慣ありてその習慣上定まりたる四季の限界を今日に至り忽(たちま)ち変更せられては気候の感厚き詩人文人に取りて迷惑少からず。されど細かにいへば今日までの規定も習慣上に得たる四季の感と多少一致せざるかの疑なきに非ず。もつとも気候は地方によりて非常の差違あり、殊に我邦の如く南北に長き国は千島のはてと台湾のはてと同様に論ずべきにあらねど、試に中央東京の地についていはんに(京都も大差なかるべし)立春(二月四日頃)後半月位は寒気強くして冬の感去らず。立秋(八月八日頃)後半月位は暑気強くして秋の感起らず。また菊と紅葉とは古来秋に定めたれど実際は立冬(十一月八日頃)後半月位の間に盛なり。故に東京の気候を以ていはんには立春も立夏も立秋も立冬も十五日宛繰り下げてかへつて善きかと思はるるなり。されば西洋の規定と実際は大差なき訳となる。しかしながらこは私(わたくし)に定むべき事にもあらねば無論旧例に依るを可とすべきか。(西洋の規定は東京よりはやや寒き地方より出でし規定に非るか)
(三月九日)

 自個の著作を売りて原稿料を取るは少しも悪き事に非ず。されどその著作の目的が原稿料を取るといふ事より外に何もなかりしとすれば、著者の心の賤(いや)しき事いふまでもなし。近頃出版せられたる秋竹(しゅうちく)の『明治俳句』は果して何らの目的を以て作りたるか。秋竹は俳句を善くする者なり。俳句に堪能なる秋竹が俳句の集を選びたるは似つかはしき事にして、素人の杜撰(ずさん)なるものと同日に見るべからず。されど秋竹は始めより俳書編纂(へんさん)の志ありしか、近来俳句に疎遠なる秋竹が何故に俄(にわか)に俳句編纂を思ひ立ちたるか。この句集が如何なる手段によつて集められしかは問ふ所に非ず。この書物を出版するにつき、秋竹が何故に苦しき序文を書きしかは余の問ふ所に非ず。もし余の邪推を明(あきらか)にいはば、秋竹は金まうけのためにこの編纂を思ひつきたるならん。秋竹もし一点の誠意を以て俳句の編纂に従事せんか、その手段の如何にかかはらずこれを賛成せん。されど余は秋竹の腐敗せざるかを疑ふなり。さはれ余は個人として秋竹を攻撃せんとには非ず。今の新著作かくの如きもの十の九に居る故に特に秋竹を仮りていふのみ。
(三月十日)

 漢字廃止、羅馬(ローマ)字採用または新字製造などの遼遠(りょうえん)なる論は知らず。余は極めて手近なる必要に応ぜんために至急新仮字(しんかな)の製造を望む者なり。その新仮字に二種あり。一は拗音(ようおん)促音(そくおん)を一字にて現はし得るやうなる者にして例せば茶の仮字を「ちや」「チヤ」などの如く二字に書かずして一字に書くやうにするなり。「しよ」(書)「きよ」(虚)「くわ」(花)「しゆ」(朱)の如き類皆同じ。促音は普通「つ」の字を以て現はせどもこは仮字を用ゐずして他の符号を用ゐるやうにしたしと思ふ。しかし「しゆ」「ちゆ」等の拗音の韻文上一音なると違ひ促音は二音なればその符号をしてやはり一字分の面積を与ふるも可ならん。
 他の一種は外国語にある音にして我邦になき者を書きあらはし得る新字なり。
 これらの新字を作るは極めて容易の事にして殆ど考案を費さずして出来得べしと信ず。試にいはんか朱の仮字は「し」と「ユ」または「ゆ」の二字を結びつけたる如き者を少し変化して用ゐ、著の仮字は「ち」と「ヨ」または「よ」の二字を結びつけたるを少し変化して用ゐるが如くこの例を以て他の字をも作らば名は新字といへどその実旧字の変化に過ぎずして新に新字を学ぶの必要もなく極めて便利なるべしと信ず。また外国音の方は外国の原字をそのまま用ゐるかまたは多少変化してこれを用ゐ、五母音の変化を示すためには速記法の符号を用ゐるかまたは拗音の場合に言ひし如く仮字(かな)をくつつけても可なるべし。とにかくに仕事は簡単にして容易なり。かつ新仮字増補の主意は、強制的に行はぬ以上は、唯一人反対する者なかるべし。余は二、三十人の学者たちが集りて試に新仮字を作りこれを世に公にせられん事を望むなり。
(三月十一日)

 不平十ヶ条
一、元老の死にさうで死なぬ不平
一、いくさの始まりさうで始まらぬ不平
一、大きな頭の出ぬ不平
一、郵便の消印が読めぬ不平
一、白米小売相場の容易に下落せぬ不平
一、板ガラスの日本で出来ぬ不平
一、日本画家に油絵の味が分らぬ不平
一、西洋人に日本酒の味が分らぬ不平
一、野道の真直について居らぬ不平
一、人間に羽の生えて居らぬ不平
(三月十二日)

 

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