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墨汁一滴(ぼくじゅういってき)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-26 9:23:27  点击:  切换到繁體中文


 余は閻魔えんまの大王の構へて居る卓子テーブルの下に立つて
「お願ひでござりまする。
といふと閻魔は耳をつんざくやうな声で
「何だ。
と答へた。そこで私は根岸の病人何がしであるが最早御庁おんちょうよりの御迎へが来るだらうと待つて居ても一向に来んのはどうしたものであらうか来るならいつ来るであらうかそれを聞きに来たのである、と訳を話して丁寧に頼んだ。すると閻魔はいやさうな顔もせずすぐに明治三十四年と五年の帖面を調べたが、そんな名は見当らぬといふ事で、閻魔先生少しやつきになつて珠数じゅず玉のやうな汗を流して調べた結果、その名前は既に明治三十年の五月に帳消しになつて居るといふ事が分つた。それからその時の迎へに往たのは五号の青鬼であるといふ事も書いてあるのでその青鬼を呼んで聞いて見ると、その時迎へに往たのは自分であるが根岸の道は曲りくねつて居るのでとうとう家が分らないで引つ返して来たのだ、といふ答であつた。次に再度の迎へに往たといふ十一号の赤鬼を呼び出して聞いて見ると、なるほどその時往たことは往たがうぐいす横町といふ立札の処まで来ると町幅が狭くて火の車が通らぬから引つ返した、といふ答である。これを聞いた閻魔様は甚だ当惑顔に見えたので、傍から地蔵様が
「それでは事のついでにもう十年ばかり寿命を延べてやりなさい、この地蔵の顔に免じて。
などとしやべり出された。余はあわてて
滅相めっそうなことおっしやりますな。病気なしの十年延命なら誰しもいやはございません、この頃のやうに痛み通されては一日も早くお迎への来るのを待つて居るばかりでございます。この上十年も苦しめられてはやるせがございません。
 閻王えんおうは直に余に同情をよせたらしく
「それならば今夜すぐ迎へをやろ。
といはれたのでちよつと驚いた。
「今夜は余り早うございますな。
「それでは明日の晩か。
「そんな意地のわるい事をいはずに、いつとなく突然来てもらひたいものですな。
 閻王はせせら笑ひして
「よろしい、それでは突然とやるよ。しかし突然といふ中には今夜も含まれて居るといふ事は承知して居てもらひたい。
閻魔えんま様。そんなにおどかしちやあ困りますよ。(この一句菊五きくご調)
 閻王からから笑ふて
「こいつなかなか我儘わがままツ子ぢやわい。(この一句左団さだん調)

拍子木ひょうしぎ         幕
(五月二十一日)

 遠洋へ乗り出してくじらの群を追ひ廻すのは壮快に感ぜられるが佃島つくだじま白魚舟しらうおぶねかがりいて居る景色などは甚だ美しく感ぜられる。太公望たいこうぼう然として百本杭にこいを釣つて居るのも面白いが小い子が破れたざるを持つてしじみを掘つて居るのも面白い。しかし竹の先に輪をつけて臭い泥溝をつついてアカイコ(東京でボーフラ)を取つては金魚のえさに売るといふ商売に至つては実に一点の風流気もない。それでも分類するとこれもやはり漁業といふ部に属するのださうな。
(五月二十二日)

 漱石が倫敦ロンドンの場末の下宿屋にくすぶつて居ると、下宿屋のかみさんが、お前トンネルといふ字を知つてるかだの、ストロー(わら)といふ字の意味を知つてるか、などと問はれるのでさすがの文学士も返答に困るさうだ。この頃伯林ベルリン灌仏会かんぶつえ滔々とうとうとして独逸ドイツ語で演説した文学士なんかにくらべると倫敦の日本人はよほど不景気と見える。
(五月二十三日)

 病床に寐て一人聞いて居ると、垣の外でよその細君の立話がおもしろい。
あなたネ提灯ちょうちんを借りたら新しい蝋燭ろうそくをつけて返すのがあたりまへですネそれをあなた前の蝋燭も取つてしまふ人がありますヨ同じ事ですけれどもネさういつたやうな事がネ……
などとどつかの悪口をいつて居る。今の政治家実業家などは皆提灯を借りて蝋燭を分捕ぶんどりする方の側だ。もっともづうづうしいやつは提灯ぐるみに取つてしまつて平気で居るやつもある。
提灯を返せ/\と時鳥ほととぎす
(五月二十四日)

 余は『春夏秋冬』をむに当り四季の題を四季にわかつに困難せり。そは陽暦を用ゐる地方(または家)と陰暦を用ゐる地方(または家)と両様ありてそれがために季の相異を来す事多ければなり。たとへば
 陽暦を用ゐれば       陰暦を用ゐれば
春┌灌仏かんぶつ          春┌新年
 └端午たんご           └やぶ入
夏┌七夕          夏┌灌仏
 └盂蘭盆会うらぼんえ         └端午
秋┌十夜じゅうや御命講おめいこう      秋┌七夕
 └芭蕉忌ばしょうき          └盂蘭盆会
冬┌新年          冬┌十夜、御命講
 └やぶ入          └芭蕉忌
の如きものにして東京は全く新暦を用ゐ居れど地方にては全く旧暦に従ひ居るもあり、または半ば新暦を用ゐ半ば旧暦を用ゐ居るもあり。この際に当りて東京に従はんか地方に従はんかは新旧暦いづれが全国の大部分を占め居るかを研究しての後ならざるべからず。余はこの事につきていまだ研究する所あらざれども恐らくは「新年」の行事ばかりは新暦を用ゐる者全国中その過半に居るべしと信じこれを冬の部に附けたり。その他は旧歳時記さいじきの定むる所に従へり。但こは類別上の便宜をいふ者なれば実地の作句はその時の情況によりて作るべく、四季の名目などにかかはるべきに非ず。
(五月二十五日)

『近古名流手蹟しゅせき』を見ると昔の人は皆むつかしい手紙を書いたもので今の人には甚だ読みにくいが、これは時代の変遷でおのずからかうなつたのであらう。今の人の手紙でも二、三百年後に『近古名流手蹟』となつて出た時にはその時の人はむつかしがつて得読まぬかも知れぬ。それからもう一時代後の事を想像して明治百年頃の名家の手紙が『近古名流手蹟』となつて出たらどんな者であらうか。その手紙といふ者は恐らくは片仮名平仮名羅馬ローマ字などのごたごたと混雑した者でとても今日の我々には読めぬやうな書きやうであらうと思はれる。
(五月二十六日)

 羽後うご能代のしろ方公ほうこう手紙をよこしてその中にいふ、
御著『俳諧大要』に言水ごんすい
うば捨てん湯婆たんぽかんせ星月夜
の句につきて「湯婆に燗せとは果して何のためにするにや」云々と有之これあり候、その湯婆につき思ひ当れるは、当地方にて銚子ちょうしの事をタンポと申候事にてお銚子持つて来いをタンポ持つて来いと申候、これにて思ふに言水の句も銚子の事をいへるにて作者の地方かまたは信州地方の方言を用ゐたるにはあらざるかとぞんじ候云々
 この解正しからん。
(五月二十七日)

 今は東京の小学校で子供を教へて居る人の話に、東京の子供は田舎の子供に比べると見聞の広い事は非常な者であるが何事をさせても田舎の子よりは鈍で不器用である、たとへば半紙で帳面をぢさせて見るに高等科の生徒でありながら殆ど満足に綴ぢ得る者はない。これには種々な原因もあらうが総ての事が発達して居る東京の事であるから百事それぞれの機関が備つて居て、田舎のやうに一人で何も彼もやるといふやうな仕組でないのもその一原因であらう、これは子供の事ではないが余は東京に来て東京の女が魚の料理を為し得ざるを見て驚いた、けれども東京では魚屋が魚の料理をする事になつて居るからそれで済んで行く、済んで行くから料理法は知らぬのである、云々との話であつた。道理のある話でよほど面白い。自分も田舎に住んだ年よりは東京に住んだ年の方が多くなつたので大分東京じみて来て田舎の事を忘れたが、なるほど考へて見ると田舎には何でも一家の内でやるから雅趣のあることが多い。洗濯は勿論、著物きものも縫ふ、はたも織る、糸も引く、明日は氏神うじがみのお祭ぢやといふので女が出刃庖刀を荒砥あらとにかけていささか買ふてあるたいうろこを引いたり腹綿はらわたをつかみ出したりする様は思ひ出して見るほど面白い。しかし田舎も段々東京化するから仕方がない。
(五月二十八日)

 その先生のまたいふには、田舎の子供は男女に限らず唱歌とか体操とかいふ課をいやがるくせがあるに東京の子供は唱歌体操などを好む傾きがある、といふ事であつた。これらも実に善く都鄙とひの特色をあらはして居る。東京の子は活溌でおてんばで陽気な事を好み田舎の子は陰気でおとなしくてはでな事をはづかしがるといふ反対の性質が既に萌芽ほうがを発して居る。かういふ風であるから大人に成つて後東京の者は愛嬌あいきょうがあつてつき合ひやすくて何事にもさかしく気がきいて居るのに反して田舎の者は甚だどんくさいけれどしかし国家の大事とか一世の大事業といふ事になるとかへつて田舎の者に先鞭せんべんをつけられ東京ツ子はむなしくその後塵こうじんを望む事が多い。一得一失。
(五月二十九日)

 東京に生れた女で四十にも成つて浅草の観音様を知らんといふのがある。嵐雪らんせつの句に
五十にて四谷を見たり花の春
といふのがあるから嵐雪も五十で初めて四谷を見たのかも知れない。これも四十位になる東京の女に余がたけのこの話をしたらその女は驚いて、筍が竹になるのですかと不思議さうにいふて居た。この女は筍も竹も知つて居たのだけれど二つの者が同じものであるといふ事を知らなかつたのである。しかしこの女らは無智文盲だから特にかうであると思ふ人も多いであらうが決してさういふわけではない。余が漱石そうせきと共に高等中学に居た頃漱石の内をおとづれた。漱石の内は牛込うしごめ喜久井町きくいちょう田圃たんぼからは一丁か二丁しかへだたつてゐない処である。漱石は子供の時からそこに成長したのだ。余は漱石と二人田圃を散歩して早稲田わせだから関口の方へ往たが大方六月頃の事であつたらう、そこらの水田に植ゑられたばかりの苗がそよいで居るのは誠に善い心持であつた。この時余が驚いた事は、漱石は、我々が平生へいぜい喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかつたといふ事である。都人士とじんし菽麦しゅくばくを弁ぜざる事は往々この類である。もしみやこの人が一匹の人間にならうといふのはどうしても一度は鄙住居ひなずまいをせねばならぬ。
(五月三十日)

 わずかにでた南京豆なんきんまめの芽が豆をかぶつたままで鉢の中に五つばかり並んで居る。渾沌こんとん
(五月三十一日)

 ガラス玉に十二匹の金魚を入れて置いたら或る同じ朝に八匹一所に死んでしまつた。無惨。
(六月一日)

 この頃碧梧桐へきごとうの俳句一種の新調をなす。その中に「も」の字最も多く用ゐらる。たとへば
桐の木に鳴くうぐいす茶山かな     碧梧桐
の類なり。その可否はしばらき、碧梧桐が一種自家の調をなすはさすがに碧梧桐たる所以ゆえんにして余はこの種の句を好まざるも好まざる故を以てこれを排斥せんとは思はず。しかるに俳人の中には何がな新奇をろうし少しも流行におくれまじとする連中ありて早く既にこの「も」の字を摸せんとするはその敏捷びんしょうその軽薄実に驚くべきなり。近日ある人はがきをよこしていふ、前日投書したる句の中に
いちご売る世辞せじよき美女や峠茶屋
とありしは「美女」の誤につき正し置く、一字といへどもおろそかにはなしがたき故わざわざ申し送る云々とあり。これ碧梧桐調を摸する者と覚えたり。碧梧桐調は専売特許の如き者いち早くこれを摸して世に誇らんとするは不徳義といはんか不見識といはんかしてその句が平々凡々「も」の一字によりてごうも価を増さざるをや。一字といへどもおろそかにはなしがたきなどいふは老練の上にあるべし、まだ東西も知らぬ初学の上にては生意気にも片腹痛き言分といふべきなり。一字の助字じょじ「や」と「も」とがどう間違ひたりとて句の価にいくばくの差をも生ずる者にあらず、そんな出過ぎた考を起さうよりも先づ大体の趣向に今少し骨を折るべし。大体の趣向出来たらばその次は句作の上に前後錯雑のへいなきやう、言葉の並べ方即ち順序に注意すべし。かくして大体の句作出来たらばその次は肝心かんじんなる動詞形容詞等の善くこの句に適当し居るや否やを考へ見るべし。これだけに念を入れて考ふれば「てにをは」の如き助字はその間に自らきまる者なり。出鱈目でたらめの趣向、出鱈目の句作にことさらに「も」の一字を添へて物めかしたるいやみ加減は少しひかへてもらひたき者にこそ。
(六月二日)

 先日牡丹ぼたんの俳句を募集したる時「ぼうたん」と四字に長くよみたる句の殆ど過半数を占めたるは実に意外なりき。いつの間にかく全国にこの語がひろがりけんと驚かるるのみ。されどこの語余には耳なれぬ故いづれの句も皆変に感じたり。或人いふ蕪村ぶそん既にこの語を用ゐたれば何の差支さしつかえもあるまじと思ひて我らも平気に使ひ居たるなり云々。余いふ。蕪村既に用ゐたればこれを用ゐることにつき余がくちばしるべきにあらず、しかしながら蕪村は牡丹の句二十もある中に「ぼうたん」と読みたるはただ一句あるのみ。しかもその句は
ぼうたんやしろがねの猫こがねのちょう
といふ風変りの句なり、これを見れば蕪村も特にこの句にのみ用ゐたるが如く決して普通に用ゐたるにあらず。それを蕪村が常に用ゐたるが如く思ひて蕪村がこの語を用ゐたりなどいふ口実を設けこれを濫用らんようすること蕪村は定めて迷惑に思ふなるべし、この事は特に蕪村のために弁じ置く。
(六月三日)

 募集の俳句は句数に制限なければとて二十句三十句四十句五十句六十句七十句も出す人あり。出す人の心持はこれだけに多ければどれか一句はぬかれるであらうといふ事なり。故にこれを富鬮とみくじ的応募といふ。かやうなる句は初め四、五句読めば終まで読まずともその可否は分るなり。いな一句も読まざる内に佳句かくなき事は分るなり。およそ何の題にて俳句を作るも無造作に一題五、六十句作れるほどならば俳句は誰にでもたやすく作れる誠につまらぬ者なるべし。そんなつまらぬ俳句の作りやうを知らうより糸瓜へちまの作り方でも研究したがましなるべし。
(六月四日)

 松宇しょうう氏来りて蕪村ぶそん文台ぶんだいといふを示さる。あま橋立はしだての松にて作りけるとか。木理もくめあらく上に二見ふたみの岩と扇子せんすの中に松とを画がけり。筆法無邪気にして蕪村若き時の筆かとも思はる。文台の裏面には短文と発句とありて宝暦五年蕪村と署名あり。その字普通に見る所の蕪村の字といたく異なり。宝暦五年は蕪村四十一の年なれば蕪村の書方しょほうもいまだ定まりをらざりしにや。しばらく記して疑を存す。
(六月五日)

 この頃の短夜みじかよとはいへど病ある身の寐られねば行燈あんどんの下の時計のみ眺めていと永きここちす。
 午前一時、隣の赤児あかご泣く。
 午前二時、遠くに※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)聞ゆ。
 午前三時、単行の汽缶車きかんしゃ通る。
 午前四時、紙をりたる壁の穴わずかにしらみて窓外の追込籠おいこみかごに鳥ちちと鳴く、やがてすずめやがてからす
 午前五時、戸をあける音水汲む音世の中はやうやうに音がちになる。
 午前六時、靴の音茶碗ちゃわんの音子を叱る声拍手の声善の声悪の声千声せんせい万響ばんきょう遂に余の苦痛の声をうずめ終る。
(六月六日)

 俳句を作る人大体の趣向を得て後言葉のつかひ方をおろそかにする故主意の分らぬやうになるが多し。
浮いて居る小便桶や柿の花
といふ句の如きは、作者の意は柿の花が小便桶に浮いて居るつもりなるべけれどこのいひやうにては小便桶が水にでも浮いて居るやうに見えるなり。この例の句投書の中に甚だ多し。
 つけていふ、浮いて居るを散つて居ると直してもやはり分らぬなり。
(六月七日)

『心の花』に大塚氏の日本服の美術的価値といふ演説筆記がある。この中に西洋の婦人服と日本の婦人服とを比較して最後の断案が
始終動いて居る優美の挙動やまた動くにつれて現はれて来る変化無限の姿を見せるといふ点で日本服はドウしても西洋服にまさつて居ります
としてある。これは「運動を見せる」事の多いといふ理窟から推して日本服は西洋服よりも美なりと断定せられたのであらうか。万一さういふ次第ならばそれは不都合な論であると思ふ。いふまでもなく我々が物の美醜を判断するのは理窟の上からではなく、ただ感情の上からである。如何に理窟づめに出来上つた者でも感情が美と承知せぬからは美とはいはれぬ。「運動を見せる」とかいふ事を仮りに衣服の美の標準としたところで、而して日本服が余計にその美を現すやうに出来て居ると理窟の上で判断せられたところで、さて感情の方でそれを美と感じなければ美といはれぬのは当然である。論者は果して感情の上で先づ美と感ぜられて而して後にこの理窟を開析かいせきし出されたのであらうか。
 論者もし感情の上から先づ日本女服の美を感ぜられたとならば余の感情は論者のと一致して居らぬといふ事を告白せねばならぬ。西洋日本両様の婦人服を取つてどつちが善いかといはれても、それはちよつと言ひかぬる事であるが、しかし「運動を見せる」とかいふ理窟一点張で日本服を以て勝れりとするのは感服が出来ぬ。まして「運動を見せる」といふ事は一方よりいへば日本服にはビラビラした部分が多いといふ事で、さてそのビラビラした部分が多い日本服には「だらりとして取締のない」といふ欠点があるのだ。そこへ行くと西洋服の方は善くしまりがついて居る。しまりがあるといふてもいはゆる「運動を見せる」部分がないといふのではない。胴で細く引きしめた反対にすそは思ひきつて広げてある。日本服の全体がだらりとして居るのとは趣が違ふ。
「運動を見せる」とかいふのも善いけれど、美な運動を見せてくれなければ困る。日本服には美な運動も見えるけれど醜な運動も見える。即ち運動する部分(そでとか裾とか)が自由に出来て居るだけは運動のために醜な形を現す場合が多いのも必然である。
 純粋の美の上からいへばそんなものであるが、実際衣服はなかば以上必要に迫られてその制がおのずから定まつた者であるから、それをいはずに日本服と西洋服を比較するといふのは如何に理論上とはいへ無理な話である。現に論者は運動といふけれどその運動といふ事は歩行とか舞踏とかいふ事から出て来たのでそれは西洋人を主としての議論である。日本では中流以上の女は舞踏歩行は勿論、真直に立つて居る場合すら少いのであるから「運動を見せる」といふ一点で日本服を論ずるのは斟酌しんしゃくをせねばならぬ処がある。日本の女は坐つて居るのが普通だから衣服も坐れるやうに造らねばならぬ。美の上からいへば日本服は立つても坐つても美なやうに造らねばならぬといふむつかしい条件がある。(西洋服は膝を折つて坐る必要はない)西洋服は裾の部分に装飾が多いに反して、日本服には袖の部分に装飾が多いのは皆膝を折つて坐るといふ必要より出て来たのである。それだから立つた時の形を比較して西洋服をほめ日本服をおとすのは残酷である。(しかしこの論者のは日本服をほめるのだから別だ)
(六月八日)

 熱高く身苦し。初めは呻吟しんぎん、中頃は叫喚きょうかん、終りは吟声ぎんせいとなり放歌となり都々逸どどいつ端唄はうた謡曲仮声こわいろ片々へんぺん寸々すんずん又継又続倏忽しゅっこつ変化みずから測る能はず。一夜例の如く発熱詩の如くの如き囈語げいご一句二句重畳ちょうじょうして来る、一たび口を出づればまた記する所なし。中につきて僅かに記する所の一、二句を取り補ふて四句となす。ただ解すべく解すべからざる処奇妙。
星落白蓮池。 池塘ちとう草色ひとし。 行々不仏。 一路失東西
(六月九日)

 東京にすばしこき俳人あり。運座の席に出て先輩の句に注意しまたどのやうな句が多数の選に入るかを注意しその句を書きつけ帰りただちにその句の特色を模倣してむしろ剽窃ひょうせつして東京の新聞雑誌に投じまたは地方の新聞雑誌に投じただそのおくれん事を恐る。一般の世人はまたその模倣を模倣しその剽窃を剽窃しかくしてその特色はたちまち天下に広がり原句いまだ世に出でざる先に既に陳腐に属し、たとへこれを世に出すも誰も返り見る者なきに至る。これでは俳句界にも専売特許局がほしくなるなり。
(六月十日)

 病室の片側には綱を掛けて陸中りくちゅう小坂おさかの木同より送り来し雪沓ゆきぐつ十種ばかりそのほかかんじきみの帽子など掛け並べ、そのつづきには満洲にありしといふ曼陀羅まんだら一幅極彩色ごくさいしきにて青き仏赤き仏様々の仏たちを画がきしを掛け、ガラス戸の外は雨後の空心よく晴れて庭の緑したたらんとす。昨日歯齦はぐきを切りて膿汁うみじるつひえ出でたるためにや今日は頬のはれも引き、身内の痛みさへ常よりは軽く堪へやすき今日の只今、半杯のココアに牛乳を加へ一匕ひとさじまた一匕、これほどの心よさこの数十日絶えてなき事なり。
(六月十一日)

 植木屋二人来て病室の前に高き棚を作る。日おさへの役は糸瓜へちま殿夕顔殿に頼むつもり。
 碧梧桐へきごとう来て謡曲二番うたひ去る。いは清経きよつね曰く蟻通ありどおし
(六月十二日)

 日本の牛は改良せねばならぬといふから日本牛の乳は悪いかといふと、少しも悪い事はない、ただ乳の分量が少いから不経済であるといふのだ。また牛肉は悪いかといふとこれも、牛肉は少しも悪い事はないのみならず神戸牛と来たら世界の牛の中で第一等の美味であるのだ、それをなぜ改良するかといふに今の日本牛では肉の分量が少いのに食物は割合に多く食ふからつまり不経済であるといふのだ。
 西洋いちごよりは日本のいちごの方が甘味が多い、けれども日本のいちごは畑につくつて食卓に上すやうに仕組まれぬから遂に西洋種ばかり跋扈ばっこするのだ。桜の実でも西洋のよりは日本の方が小いが甘味は多い、けれども日本では桜の実をつくつて売るといふものがないのでこの頃では西洋種の桜の実がそろそろ這入はいつて来た。
 余の郷里四国などにても東京だねの大根を植ゑる者がある。もし味の上からいへば土地固有の大根の方が甘味が多いのであるけれど東京大根は二倍大の大きさがあるから経済的なのであらう。
 何でも大きな者は大味で、小さな者は小味だ。うまみからいふと小い者の方が何でもうまい。余の郷里にはホゴ、メバルなどいふ四、五寸ばかりの雑魚ざこくずつらぬいて売つて居る。さういふのを煮て食ふと実にうまい。しかし小骨が多くて肉が少くて、食ふのに骨の折れるやうなわけだから料理に使ふことも出来ず客に出すことも出来ぬ。
 日本は島国だけに何もかも小さく出来て居る代りにいはゆる小味などいふうまみがある。詩文でも小品短篇が発達して居て絵画でも疎画そが略筆りゃくひつが発達して居る。しかし今日のやうな世界一家といふ有様では不経済な事ばかりして居ては生存競争で負けてしまふから牛でも馬でもいちごでも桜んぼでも何でも彼でも輸入して来て、小い者を大きくし、不経済的な者を経済的にするのは大賛成であるが、それがために日本固有のうまみを全滅する事のないやうにしたいものだ。
 それについて思ひ出すのは前年やかましかつた人種改良問題である。もし人種の改良が牛の改良のやうに出来る者とすれば幾年かの後に日本人は西洋人に負けぬやうな大きな体格となり力も強く病もなく一人で今の人の三人前も働くやうな経済的な人種になるであらう。しかしその時日本人固有の稟性ひんせいのうまみは存して居るであらうか、何だか覚束おぼつかないやうにも思はれる。
(六月十三日)

『日本人』に「試験」といふ問題が出て居たのではしなく試験といふ極めて不愉快な事件を想ひ起した。
 余は昔から学校はそれほどいやでもなかつたが試験といふいやな事のあるためついには学校といふ語が既に一種の不愉快な感を起すほどになつてしまふた。
 余が大学予備門の試験を受けたのは明治十七年の九月であつたと思ふ。この時余は共立学校(今の開成中学)の第二級でまだ受験の力はない、殊に英語の力が足らないのであつたが、場馴ばなれのために試験受けようぢやないかといふ同級生が沢山あつたのでもとより落第のつもりでたわむれに受けて見た。用意などは露もしない。ところが科によると存外たやすいのがあつたが一番困つたのは果して英語であつた。活版ずりの問題が配られたので恐る恐るそれを取つて一見すると五問ほどある英文の中で自分に読めるのは殆どない。第一に知らない字が多いのだから考へやうもこじつけやうもない。この時余の同級生は皆片隅の机に並んで坐つて居たが(これは始より互に気脈を通ずる約束があつたためだ)余の隣の方から問題中のむつかしい字の訳を伝へて来てくれるので、それで少しは目鼻が明いたやうな心持がして善い加減に答へて置いた。その時或字が分らぬので困つて居ると隣の男はそれを「幇間ほうかん」と教へてくれた、もつとも隣の男も英語不案内の方で二、三人隣の方から順々に伝へて来たのだ、しかしどう考へても幇間ではその文の意味がさつぱり分らぬのでこの訳は疑はしかつたけれど自分の知らぬ字だから別に仕方もないので幇間と訳して置いた。今になつて考へて見るとそれは「法官」であつたのであらう、それを口伝へに「ホーカン」といふたのが「幇間」と間違ふたので、法官と幇間の誤などは非常の大滑稽であつた。
 それから及落きゅうらくの掲示が出るといふ日になつて、まさかに予備門(一ツ橋外)まで往て見るほどの心頼みはなかつたが同級の男が是非行かうといふので往て見ると意外のまた意外に及第して居た。かへつて余らに英語など教へてくれた男は落第して居て気の毒でたまらなかつた。試験受けた同級生は五、六人あつたが及第したのは菊池仙湖(謙二郎)と余と二人であつた。この時は試験はの如しだと思ふた。
 こんな有様でなかばは人の力を借りて入学して見ると英語の力が乏しいので非常の困難であつた。それもそのはず共立学校では余はやうやう高橋(是清これきよ)先生にパーレーの『万国史』を教へられて居た位であつた。それで十七年の夏休みの間は本郷町の進文学舎とかいふ処へ英語を習ひに往つた。本はユニオン読本とくほんの第四で先生は坪内(雄蔵ゆうぞう)先生であつた。先生の講義は落語家の話のやうで面白いから聞く時は夢中で聞いて居る、その代り余らのやうな初学な者には英語修業の助けにはならなんだ。(これは『書生気質しょせいかたぎ』が出るより一年前の事だ)
 とにかくに予備門に入学が出来たのだから勉強してやらうといふので英語だけは少し勉強した。もつとも余の勉強といふのは月に一度位徹夜して勉強するので毎日の下読などは殆どして往かない。それで学校から帰つて毎日何をして居るかといふと友と雑談するか春水しゅんすいの人情本でも読んで居た。それでも時々は良心にとがめられて勉強する、その法は英語を一語々々覚えるのが第一の必要だといふので、洋紙の小片こぎれに一つ宛英語を書いてそれを繰り返し繰り返し見ては暗記するまでやる。しかし月に一度位の徹夜ではとても学校で毎日やるだけを追つ付いて行くわけには往かぬ。
 ある時何かの試験の時に余の隣に居た人は答案を英文で書いて居たのを見た。勿論英文なんかで書かなくても善いのをその人は自分の勝手ですらすらと書いて居るのだから余は驚いた。この様子では余の英語の力は他の同級生とどれだけ違ふか分らぬのでいよいよ心細くなつた。この人はその後間もなく美妙斎びみょうさいとして世に名のつて出た。
 しかし余の最も困つたのは英語の科でなくて数学の科であつた。この時数学の先生は隈本くまもと有尚ありひさ)先生であつて数学の時間には英語より外の語は使はれぬといふ制規であつた。数学の説明を英語でやる位の事は格別むつかしい事でもないのであるが余にはそれが非常にむつかしい。つまり数学と英語と二つの敵を一時に引き受けたからたまらない、とうとう学年試験の結果幾何きか学の点が足らないで落第した。
(六月十四日)

 余が落第したのは幾何学に落第したといふよりもむしろ英語に落第したといふ方が適当であらう。それは幾何学の初にあるコンヴアース、オツポジトなどといふ事を英語で言ふのが余には出来なんだのでそのほか二行三行のセンテンスは暗記する事も容易でなかつた位に英語が分らなかつた。落第してからは二度目の復習であるから初のやうにない、よほど分りやすい。コンヴアースやオツポジトを英語でしやべる位は無造作に出来るやうになつたが、惜しい事にはこの時の先生はもう隈本先生ではなく、日本語づくめの平凡な先生であつた。しかしこの落第のために幾何学の初歩が心に会得せられ、従つてこの幾何学の初歩に非常に趣味を感ずるやうになり、それにつづいては、数学は非常に下手でかつ無知識であるけれど試験さへなくば理論を聞くのも面白いであらうといふ考を今に持つて居る。これは隈本先生の御蔭おかげかも知れない。
 今日は知らないがその頃試験の際にズルをやる者は随分沢山あつた。ズルとは試験の時に先生の眼をぬすんで手控を見たり隣の人に聞いたりする事である。余も入学試験の時に始めてその味を知つてから後はズルをやる事を何とも思はなんだが入学後二年目位にふと気がついて考へて見るとズルといふ事は人の力を借りて試験に応ずるのであるから不正な上に極めて卑劣な事であると始めて感じた。それ以後は如何なる場合にもズルはやらなかつた。
 明治二十二年の五月に始めて咯血かっけつした。その後は脳が悪くなつて試験がいよいよいやになつた。
 明治二十四年の春哲学の試験があるのでこの時も非常に脳を痛めた。ブツセ先生の哲学総論であつたが余にはその哲学が少しも分らない。一例をいふとサブスタンスのレアリテーはあるかないかといふやうな事がいきなり書いてある。レアリテーが何の事だか分らぬにあるかないか分るはずがない。哲学といふ者はこんなに分らぬ者なら余は哲学なんかやりたくないと思ふた。それだから滅多に哲学の講義を聞きにも往かない。けれども試験を受けぬ訳には往かぬから試験前三日といふに哲学のノート(蒟蒻板こんにゃくばんりたる)と手帳一冊とを携へたまま飄然ひょうぜんと下宿を出て向島の木母寺もくぼじへ往た。この境内に一軒の茶店があつて、そこのかみさんは善く知つて居るから、かうかうで二、三日勉強したいのだが百姓家か何処か一間借りてくれまいかと頼んで見た。するとかみさんのいふには二、三日なら手前どもの内の二階が丁度明いて居るからお泊りになつても善いといふので大喜びでその二階へ籠城ろうじょうする事にきめた。
 それから二階へ上つて蒟蒻板のノートを読み始めたが何だか霧がかかつたやうで十分に分らぬ。哲学も分らぬが蒟蒻板も明瞭でない、おまけに頭脳が悪いと来てゐるから分りやうはない。二十頁も読むともういやになつて頭がボーとしてしまふから、すぐに一本の鉛筆と一冊の手帳とを持つて散歩に出る。外へ出ると春の末のうららかな天気で、桜は八重も散つてしまふて、野道にはげんげんが盛りである。何か発句にはなるまいかと思ひながら畦道あぜみちなどをぶらりぶらりと歩行あるいて居るとその愉快さはまたとはない。脳病なんかは影も留めない。一時間ばかりも散歩するとまた二階へ帰る。しかし帰るとくたびれて居るので直に哲学の勉強などに取り掛る気はない。手帳をひろげて半出来の発句をしきりに作り直して見たりする。この時はまだ発句などは少しも分らぬ頃であるけれどさういふ時の方がかへつて興が多い。つまらない一句が出来ると非常の名句のやうに思ふて無暗に嬉しい時代だ。あるいはくだらない短歌などもひねくつて見る。こんな有様で三日の間に紫字のノートをやうやう一回半ばかり読む、発句と歌が二、三十首出来る。それでもその時の試験はどうかかうかごまかして済んだ。もつともブツセといふ先生は落第点はつけないさうだから試験がほんたうに出来たのだかどうだか分つた話ぢやない。
(六月十五日)

 明治二十四年の学年試験が始まつたが段々頭脳が悪くなつてへられぬやうになつたからついに試験を残して六月の末帰国した。九月には出京して残る試験を受けなくてはならぬので準備をしようと思ふても書生のむらがつて居るやかましい処ではとても出来さうもないから今度は国から特別養生費を支出してもらふて大宮の公園へ出掛けた。万松楼ばんしょうろうといふ宿屋へ往てここに泊つて見たが松林の中にあつて静かな涼しい処で意外に善い。それにうまいものは食べるし丁度萩の盛りといふのだから愉快で愉快でたまらない。松林を徘徊はいかいしたり野逕のみち逍遥しょうようしたり、くたびれると帰つて来て頻りに発句を考へる。試験の準備などは手もつけない有様だ。この愉快を一人で貪るのは惜しい事だと思ふて手紙で竹村黄塔を呼びにやつた。黄塔も来て一、二泊して去つた。それから夏目漱石を呼びにやつた。漱石も来て一、二泊して余も共に帰京した。大宮に居た間が十日ばかりで試験の準備は少しも出来なかつたが頭の保養には非常に効験こうけんがあつた。しかしこの時の試験もごまかして済んだ。
 この年の暮には余は駒込に一軒の家を借りてただ一人で住んで居た。極めて閑静な処で勉強には適して居る。しかも学課の勉強は出来ないで俳句と小説との勉強になつてしまふた。それで試験があると前二日位に準備にかかるのでその時は机の近辺にある俳書でも何でもことごとく片付けてしまふ。さうして机の上には試験に必要なるノートばかり置いてある。そこへ静かに座をしめて見ると平生乱雑の上にも乱雑を重ねて居た机辺きへんが清潔になつて居るで、何となく心持が善い。心持が善くて浮き浮きすると思ふと何だか俳句がのこのこと浮んで来る。ノートを開いて一枚も読まぬうちに十七字が一句出来た。何に書かうもそこらには句帳も半紙も出してないからラムプの笠に書きつけた。また一句出来た。また一句。余り面白さに試験なんどの事は打ち捨ててしまふて、とうとうラムプの笠を書きふさげた。これが燈火十二ヶ月といふので何々十二ヶ月といふ事はこれから流行はやり出したのである。
 かういふ有様で、試験だから俳句をやめて準備に取りかからうと思ふと、俳句が頻りに浮んで来るので、試験があるといつでも俳句が沢山に出来るといふ事になつた。これほど俳魔に魅入られたらもう助かりやうはない。明治二十五年の学年試験には落第した。リース先生の歴史で落第しただらうといふ推測であつた。落第もするはずさ、余は少しも歴史の講義聴きに往かぬ、聴きに往ても独逸ドイツ人の英語少しも分らぬ、おまけに余は歴史を少しも知らぬ、その上に試験にはノート以外の事が出たといふのだから落第せずには居られぬ。これぎり余は学校をやめてしまふた。これが試験のしじまひの落第のしじまひだ。
 余は今でも時々学校の夢を見る。それがいつでも試験で困しめられる夢だ。
(六月十六日)

 名古屋を境界線としてこれより以東以北の地は毎朝飯をたいて味噌汁をこしらへる。これより以西以南の地は朝は冷飯ひやめしに漬物で食ふ。これは気候寒暖の差から起つた事であらう。
(六月十七日)

 東京中のねずみを百万匹として毎日一万匹宛るとすれば百日にて全滅する理窟だ。しかし百日の内に子を産んで行くとすれば実際はいつなくなるか分らぬ。何にしろ一旦始めたのだから鼠の尽きるまでやつて見るが善いであらう。
 頭の白い鼠や頭の黒い鼠もちと退治るが善い。
(六月十八日)

 

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