| 底本: | 現代日本文學大系 43 芥川龍之介集 |
| 出版社: | 筑摩書房 |
| 初版発行日: | 1968(昭和43)年8月25日 |
| 入力に使用: | 1968(昭和43)年8月25日初版第1刷 |
君はこの原稿の中に出て来る大抵の人物を知つてゐるだらう。しかし僕は発表するとしても、インデキスをつけずに貰ひたいと思つてゐる。
僕は今最も不幸な幸福の中に暮らしてゐる。しかし不思議にも後悔してゐない。唯僕の如き悪夫、悪子、悪親を持つたものたちを
最後に僕のこの原稿を特に君に托するのは君の恐らくは誰よりも僕を知つてゐると思ふからだ。(都会人と云ふ僕の皮を
昭和二年六月二十日
久米正雄君
一 時代
それは或本屋の二階だつた。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の
そのうちに日の暮は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を読みつづけた。そこに並んでゐるのは本といふよりも
彼は薄暗がりと戦ひながら、彼等の名前を数へて行つた。が、本はおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根気も尽き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が一つ、丁度彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上に
「人生は
彼は
二 母
狂人たちは皆同じやうに鼠色の着物を着せられてゐた。広い部屋はその為に一層憂欝に見えるらしかつた。彼等の一人はオルガンに向ひ、熱心に讃美歌を
彼は血色の
「ぢや行かうか?」
医者は彼の先に立ちながら、廊下伝ひに或部屋へ行つた。その部屋の隅にはアルコオルを満した、大きい
「この脳髄を持つてゐた男は××電燈会社の技師だつたがね。いつも自分を黒光りのする、大きいダイナモだと思つてゐたよ。」
彼は医者の目を避ける為に硝子窓の外を眺めてゐた。そこには
三 家
彼は或郊外の二階の部屋に寝起きしてゐた。それは地盤の
彼の伯母はこの二階に度たび彼と喧嘩をした。それは彼の養父母の仲裁を受けることもないことはなかつた。しかし彼は彼の伯母に誰よりも愛を感じてゐた。一生独身だつた彼の伯母はもう彼の二十歳の時にも六十に近い年よりだつた。
彼は或郊外の二階に何度も互に愛し合ふものは苦しめ合ふのかを考へたりした。その間も何か気味の悪い二階の傾きを感じながら。
四 東京
隅田川はどんより曇つてゐた。彼は走つてゐる小蒸汽の窓から向う島の桜を眺めてゐた。花を盛つた桜は彼の目には一列の
五 我
彼は彼の先輩と一しよに或カツフエの
「けふは半日自動車に乗つてゐた。」
「何か用があつたのですか?」
彼の先輩は
「何、唯乗つてゐたかつたから。」
その言葉は彼の知らない世界へ、――神々に近い「
そのカツフエは
六 病
彼は絶え間ない潮風の中に大きい
Talaria 翼の生えた靴、或はサンダアル。
Tale 話。
Talipot 東印度に産する
彼の想像ははつきりとこの椰子の花を描き出した。すると彼は
七 画
彼は突然、――それは実際突然だつた。彼は或本屋の店先に立ち、ゴオグの画集を見てゐるうちに突然画と云ふものを了解した。勿論そのゴオグの画集は写真版だつたのに違ひなかつた。が、彼は写真版の中にも鮮かに浮かび上る自然を感じた。
この画に対する情熱は彼の視野を新たにした。彼はいつか木の枝のうねりや女の頬の
或雨を持つた秋の日の暮、彼は或郊外のガアドの下を通りかかつた。
ガアドの向うの土手の下には荷馬車が一台止まつてゐた。彼はそこを通りながら、誰か前にこの道を通つたもののあるのを感じ出した。誰か?――それは彼自身に今更問ひかける必要もなかつた。二十三歳の彼の心の中には耳を切つた
八 火花
彼は雨に濡れたまま、アスフアルトの上を踏んで行つた。雨は
すると目の前の架空線が一本、紫いろの火花を発してゐた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケツトは彼等の同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠してゐた。彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。
架空線は
九 死体
死体は皆親指に針金のついた札をぶら下げてゐた。その又札は名前だの年齢だのを記してゐた。彼の友だちは腰をかがめ、器用にメスを動かしながら、或死体の顔の皮を
彼はその死体を眺めてゐた。それは彼には或短篇を、――王朝時代に背景を求めた或短篇を仕上げる為に必要だつたのに違ひなかつた。が、腐敗した
「この頃は死体も不足してね。」
彼の友だちはかう言つてゐた。すると彼はいつの間にか彼の答を用意してゐた。――「
十 先生
彼は大きい
の木は秋の日の光の中に一枚の葉さへ動さなかつた。どこか遠い空中に硝子の皿を垂れた
十一 夜明け
夜は次第に明けて行つた。彼はいつか或町の角に広い市場を見渡してゐた。市場に
彼は一本の巻煙草に火をつけ、静かに市場の中へ進んで行つた。するとか細い黒犬が一匹、いきなり彼に吠えかかつた。が、彼は驚かなかつた。のみならずその犬さへ愛してゐた。
市場のまん中には
それは彼の二十五の年、――先生に会つた三月目だつた。
十二 軍港
潜航艇の内部は薄暗かつた。彼は前後左右を
或海軍将校はかう彼に話しかけたりした。彼は四角いレンズの上に小さい軍艦を眺めながら、なぜかふと