三十九 鏡
彼は或カツフエの隅に彼の友だちと話してゐた。彼の友だちは
「君はまだ独身だつたね。」
「いや、もう来月結婚する。」
彼は思はず黙つてしまつた。カツフエの壁に
四十 問答
なぜお前は現代の社会制度を攻撃するか?
資本主義の生んだ悪を見てゐるから。
悪を? おれはお前は善悪の差を認めてゐないと思つてゐた。ではお前の生活は?
――彼はかう天使と問答した。
四十一 病
彼は不眠症に襲はれ出した。のみならず体力も衰へはじめた。何人かの医者は彼の病にそれぞれ二三の診断を下した。――胃酸過多、胃アトニイ、乾性
しかし彼は彼自身彼の病源を承知してゐた。それは彼自身を恥ぢると共に彼等を恐れる心もちだつた。彼等を、――彼の軽蔑してゐた社会を!
或雪曇りに曇つた午後、彼は或カツフエの隅に火のついた葉巻を
Magic Flute――Mozart
彼は
四十二 神々の笑ひ声
三十五歳の彼は春の日の当つた松林の中を歩いてゐた。二三年前に彼自身の書いた「神々は不幸にも我々のやうに自殺出来ない」と云ふ言葉を思ひ出しながら。……
四十三 夜
夜はもう一度迫り出した。荒れ模様の海は薄明りの中に絶えず
「あすこに船が一つ見えるね?」
「ええ。」
「
四十四 死
彼はひとり寝てゐるのを幸ひ、窓格子に帯をかけて
四十五 Divan
Divan はもう一度彼の心に新しい力を与へようとした。それは彼の知らずにゐた「東洋的なゲエテ」だつた。彼はあらゆる善悪の彼岸に悠々と立つてゐるゲエテを見、絶望に近い羨ましさを感じた。詩人ゲエテは彼の目には詩人クリストよりも偉大だつた。この詩人の心にはアクロポリスやゴルゴタの外にアラビアの薔薇さへ花をひらいてゐた。若しこの詩人の足あとを
四十六 
彼の姉の夫の自殺は俄かに彼を打ちのめした。彼は今度は姉の一家の面倒も見なければならなかつた。彼の将来は少くとも彼には日の暮のやうに薄暗かつた。彼は彼の精神的破産に冷笑に近いものを感じながら、(彼の悪徳や弱点は一つ残らず彼にはわかつてゐた。)不相変いろいろの本を読みつづけた。しかしルツソオの懺悔録さへ英雄的な
絞罪を待つてゐるヴイヨンの姿は彼の夢の中にも現れたりした。彼は何度もヴイヨンのやうに人生のどん底に落ちようとした。が、彼の境遇や肉体的エネルギイはかう云ふことを許す
四十七 火あそび
彼女はかがやかしい顔をしてゐた。それは丁度朝日の光の
「死にたがつていらつしやるのですつてね。」
「ええ。――いえ、死にたがつてゐるよりも生きることに
彼等はかう云ふ問答から一しよに死ぬことを約束した。
「プラトニツク・スウイサイドですね。」
「ダブル・プラトニツク・スウイサイド。」
彼は彼自身の落ち着いてゐるのを不思議に思はずにはゐられなかつた。
四十八 死
彼は彼女とは死ななかつた。唯未だに彼女の体に指一つ触つてゐないことは彼には何か満足だつた。彼女は何ごともなかつたやうに時々彼と話したりした。のみならず彼に彼女の持つてゐた青酸加里を
それは実際彼の心を丈夫にしたのに違ひなかつた。彼はひとり籐椅子に坐り、
四十九 剥製の白鳥
彼は最後の力を
彼は「或阿呆の一生」を書き上げた後、偶然或古道具屋の店に
五十
彼の友だちの一人は発狂した。彼はこの友だちにいつも或親しみを感じてゐた。それは彼にはこの友だちの孤独の、――軽快な仮面の下にある孤独の人一倍身にしみてわかる為だつた。彼はこの友だちの発狂した後、二三度この友だちを訪問した。
「君や僕は悪鬼につかれてゐるんだね。世紀末の悪鬼と云ふやつにねえ。」
この友だちは声をひそめながら、こんなことを彼に話したりしたが、それから二三日後には或温泉宿へ出かける途中、
彼はすつかり疲れ切つた
五十一 敗北
彼はペンを
底本:「現代日本文学大系43芥川龍之介集」筑摩書房
1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:細渕紀子
1998年4月23日公開
2005年12月2日修正
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