五 まりも美しとなげく男
「侍従はおれを相手にしない。おれももう侍従は思ひ切つた。――」
平中は蒼白い顔をした儘、ぼんやりこんな事を思つてゐる。
「しかしいくら思ひ切つても、侍従の姿は幻のやうに、必ず眼前に浮んで来る。おれは何時かの雨夜以来、唯この姿を忘れたいばかりに、どの位四方の神仏へ、祈願を
平中は長い息をついた。
「だがその姿を忘れるには、――たつた一つしか手段はない。それは何でもあの女の浅間しい所を見つける事だ。侍従もまさか天人ではなし、不浄もいろいろ蔵してゐるだらう。其処を一つ見つけさへすれば、丁度女房に化けた狐が、尾のある事を知られたやうに、侍従の幻も崩れてしまふ。おれの命はその刹那に、やつとおれのものになるのだ。が、何処が浅間しいか、何処が不浄を蔵してゐるか、それは誰も教へてくれない。ああ、大慈大悲の観世音菩薩、どうか其処を御示し下さい、侍従は河原の女乞食と、実は少しも変らない証拠を。……」
平中はかう考へながら、ふと
「おや、あすこへ来かかつたのは、侍従の局の
あの利口さうな女の童は、
平中は眼の色を変へたなり、女の童の行く手に立ち塞がつた。そしてその筐をひつたくるや否や、廊下の向ふに一つ見える、人のゐない部屋へ飛んで行つた。不意を打たれた女の童は、勿論泣き声を出しながら、ばたばた彼を追ひかけて来る。が、その部屋へ躍りこむと、平中は、
「さうだ。この中を見れば間違ひない。百年の恋も一瞬の間に、煙よりもはかなく消えてしまふ。……」
平中はわなわな震へる手に、ふはりと筐の上へかけた、
「この中に侍従の
平中は其処に佇んだ儘、ぢつと美しい筐を眺めた。局の外には忍び忍びに、女の童の泣き声が続いてゐる。が、それは何時の間にか、重苦しい沈黙に呑まれてしまふ。と思ふと遣戸や障子も、だんだん霧のやうに消え始める。いや、もう今では昼か夜か、それさへ平中には判然しない。唯彼の眼の前には、
「おれの命の助かるのも、侍従と一生の別れをするのも、皆この筐に懸つてゐる。この筐の蓋を取りさへすれば、――いや、それは考へものだぞ。侍従を忘れてしまふのが好いか、甲斐のない命を長らへるのが好いか、おれにはどちらとも返答出来ない。たとひ焦がれ死をするにもせよ、この筐の蓋だけは取らずに置かうか?……」
平中は
「平中! 平中! お前は何と云ふ意気地なしだ? あの雨夜を忘れたのか? 侍従は今もお前の恋を嘲笑つてゐるかも知れないのだぞ。生きろ! 立派に生きて見せろ! 侍従の
平中は
「これはどうだ! この水もやはり匂ふやうだが、――」
平中は筐を傾けながら、そつと水を啜つて見た。水も
「するとこいつも香木かな?」
平中は今つまみ上げた、二寸程の物を噛みしめて見た。すると歯にも
「侍従! お前は平中を殺したぞ!」
平中はかう
底本:「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」筑摩書房
1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月19日公開
2004年3月1日修正
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「女+展」 180-下-14