| 底本: | 芥川龍之介全集1 |
| 出版社: | ちくま文庫、筑摩書房 |
| 初版発行日: | 1986(昭和61)年9月24日 |
| 入力に使用: | 1997(平成9)年4月15日第14刷 |
| 底本の親本: | 筑摩全集類聚版芥川龍之介全集 |
| 出版社: | 筑摩書房 |
| 初版発行日: | 1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月 |
×
――今月も生み月になっている
――それは皆、相手がわからないのですか。
――一人もわからないのです。一体妃たちは私たちよりほかに男の足ぶみの出来ない
――誰か忍んで来る男があるのじゃありませんか。
――私も始めはそう思ったのです。所がいくら番の兵士の数をふやしても、妃たちの子を生むのは止りません。
――妃たちに
――それが妙なのです。色々訊いて見ると、忍んで来る男があるにはある。けれども、それは声ばかりで姿は見えないと云うのです。
――
――まるで嘘のような話です。しかし何しろこれだけの事がその不思議な忍び男に関する唯一の知識なのですからね、何とかこれから予防策を考えなければなりません。あなたはどう御思いです。
――別にこれと云って名案もありませんがとにかくその男が来るのは事実なのでしょう。
――それはそうです。
――それじゃあ砂を
――成程、それは妙案ですね。その足跡を
――物は試しですからまあやって見るのですね。
――早速そうしましょう。(二人とも去る)
×
――さあすっかりまいてしまいました。
――まだその隅がのこっているわ。(砂をまく)
――今度は廊下をまきましょう。(皆去る)
×
青年が二人
B あすこへ行くようになってからもう一年になるぜ。
A 早いものさ。一年前までは唯一実在だの最高善だのと云う語に
B 今じゃあアートマンと云う語さえ忘れかけているぜ。
A 僕もとうに「ウパニシャッドの哲学よ、さようなら」さ。
B あの時分はよく生だの死だのと云う事を真面目になって考えたものだっけな。
A なあにあの時分は唯考えるような事を云っていただけさ。考える事ならこの頃の方がどのくらい考えているかわからない。
B そうかな。僕はあれ以来一度も死なんぞと云う事を考えた事はないぜ。
A そうしていられるならそれでもいいさ。
B だがいくら考えても分らない事を考えるのは愚じゃあないか。
A しかし御互に死ぬ時があるのだからな。
B まだ一年や二年じゃあ死なないね。
A どうだか。
B それは明日にも死ぬかもわからないさ。けれどもそんな事を心配していたら、何一つ面白い事は出来なくなってしまうぜ。
A それは間違っているだろう。死を予想しない快楽ぐらい、無意味なものはないじゃあないか。
B 僕は無意味でも何でも死なんぞを予想する必要はないと思うが。
A しかしそれでは好んで
B それはそうかもしれない。
A それなら何も今のような生活をしなくたってすむぜ。君だって欺罔を破るためにこう云う生活をしているのだろう。
B とにかく今の僕にはまるで思索する気がなくなってしまったのだからね、君が何と云ってもこうしているより外に仕方がないよ。
A (気の毒そうに)それならそれでいいさ。
B くだらない議論をしている中に夜がふけたようだ。そろそろ出かけようか。
A うん。
B じゃあその着ると姿の見えなくなるマントルを取ってくれ給え。(Aとって渡す。Bマントルを着ると姿が消えてしまう。声ばかりがのこる。)さあ、行こう。
A (マントルを着る。同じく消える。声ばかり。)
×
Aの声 暗いな。
Bの声 もう少しで君のマントルの裾をふむ所だった。
Aの声 ふきあげの音がしているぜ。
Bの声 うん。もう露台の下へ来たのだよ。
×
――まだ今夜は来ないのね。
――もう月もかくれてしまったわ。
――早く来ればいいのにさ。
――もう声がきこえてもいい時分だわね。
――声ばかりなのがもの足りなかった。
――ええ、それでも肌ざわりはするわ。
――はじめは
――
――私もよ。
――そうすると「おふるえでない」って云うのでしょう。
――ええ、ええ。
――なお怖かったわ。
――あの
――とうにすんだわ。
――うれしがっていらっしゃるでしょうね。
――可哀いいお子さんよ。
――私も母親になりたいわ。
――おおいやだ、私はちっともそんな気はしないわ。
――そう?
――ええ、いやじゃありませんか。私はただ男に可哀がられるのが好き。
――まあ。
Aの声 今夜はまだ
――あらもういらしったの。
――こっちへいらっしゃいよ。
――今夜はこっちへいらっしゃいましな。
Aの声 お前は金の
――ええ、何故?
Bの声 何でもないのさ。お前の髪は、
――ええ。
Aの声 お前はまだふるえているね。
――うれしいのだわ。
――こっちへいらっしゃいな。
――まだ、そこにいらっしゃるの。
Bの声 お前の手は柔らかいね。
――いつでも可哀がって頂戴な。
――今夜は
――きっとよ。よくって。
――ああ、ああ。
女の声がだんだん
沈黙。急に大勢の兵卒が槍を持ってどこからか出て来る。兵卒の声。
――ここに足あとがあるぞ。
――ここにもある。
――そら、そこへ逃げた。
――逃がすな。逃がすな。