| 底本: | 芥川龍之介全集5 |
| 出版社: | ちくま文庫、筑摩書房 |
| 初版発行日: | 1987(昭和62)年2月24日 |
| 入力に使用: | 1995(平成7)年4月10日第6刷 |
| 校正に使用: | 1996(平成8)年7月15日第7刷 |
| 底本の親本: | 筑摩全集類聚版芥川龍之介全集 |
| 出版社: | 筑摩書房 |
| 初版発行日: | 1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月 |
皆さん。
昔、大阪の町へ
権助は
「番頭さん。私は
番頭は
「番頭さん。聞えませんか? 私は仙人になりたいのだから、そう云う所へ住みこませて下さい。」
「まことに御気の毒様ですが、――」
番頭はやっといつもの通り、
「手前の店ではまだ一度も、仙人なぞの口入れは引き受けた事はありませんから、どうかほかへ
すると
「それはちと話が違うでしょう。御前さんの店の暖簾には、何と書いてあると御思いなさる?
なるほどこう云われて見ると、権助が怒るのももっともです。
「いえ、暖簾に嘘がある次第ではありません。何でも仙人になれるような奉公口を探せとおっしゃるのなら、
番頭はとにかく一時
「いかがでしょう? 先生。仙人になる修業をするには、どこへ奉公するのが
これには医者も困ったのでしょう。しばらくはぼんやり腕組みをしながら、庭の松ばかり眺めていました。が番頭の話を聞くと、直ぐに横から口を出したのは、
「それはうちへおよこしよ。うちにいれば二三年
「
何も知らない番頭は、しきりに
医者は苦い顔をしたまま、その
「お前は何と云う
しかし女房はあやまる所か、鼻の先でふふんと笑いながら、
「まあ、あなたは黙っていらっしゃい。あなたのように莫迦正直では、このせち
さて明くる日になると約束通り、田舎者の権助は番頭と一しょにやって来ました。今日はさすがに
「お前は仙人になりたいのだそうだが、一体どう云う所から、そんな望みを起したのだ?」と、
「別にこれと云う
「では仙人になれさえすれば、どんな仕事でもするだろうね?」
「はい。仙人になれさえすれば、どんな仕事でもいたします。」
「それでは今日から
「
「その代り向う二十年の間は、
「はい。はい。承知いたしました。」
それから権助は二十年間、その医者の家に使われていました。水を汲む。
が、とうとう二十年たつと、権助はまた来た時のように、紋附の羽織をひっかけながら、主人夫婦の前へ出ました。そうして
「ついては
権助にこう云われると、閉口したのは主人の医者です。何しろ一文も給金をやらずに、二十年間も使った
「仙人になる術を知っているのは、おれの
しかし女房は平気なものです。
「では仙術を教えてやるから、その代りどんなむずかしい事でも、私の云う通りにするのだよ。さもないと仙人になれないばかりか、また向う二十年の間、御給金なしに奉公しないと、すぐに
「はい。どんなむずかしい事でも、きっと
「それではあの庭の松に御登り。」
女房はこう云いつけました。もとより仙人になる術なぞは、知っているはずがありませんから、何でも権助に出来そうもない、むずかしい事を云いつけて、もしそれが出来ない時には、また向う二十年の間、ただで使おうと思ったのでしょう。しかし権助はその言葉を聞くとすぐに庭の松へ登りました。
「もっと高く。もっとずっと高く御登り。」
女房は
「今度は右の手を
権助は左手にしっかりと、松の太枝をおさえながら、そろそろ右の手を放しました。
「それから左の手も放しておしまい。」
「おい。おい。左の手を放そうものなら、あの
医者もとうとう縁先へ、心配そうな顔を出しました。
「あなたの出る幕ではありませんよ。まあ、私に任せて御置きなさい。――さあ、左の手を放すのだよ。」
権助はその言葉が終らない内に、思い切って左手も放しました。何しろ木の上に登ったまま、両手とも放してしまったのですから、落ちずにいる
「どうも
権助は
医者夫婦はどうしたか、それは誰も知っていません。ただその医者の庭の松は、ずっと
底本:「芥川龍之介全集5」ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年2月24日第1刷発行
1995(平成7)年4月10日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月5日公開
2004年3月9日修正
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