| 底本: | 坂口安吾全集 02 |
| 出版社: | 筑摩書房 |
| 初版発行日: | 1999(平成11)年4月20日 |
| 入力に使用: | 1999(平成11)年4月20日初版第1刷 |
| 校正に使用: | 1999(平成11)年4月20日初版第1刷 |
| 底本の親本: | 早稲田文学 第三巻第五号 |
| 初版発行日: | 1936(昭和11)年5月1日 |
伊東伴作は親代々の呉服商であつた。学問で身を立てようとしたこともあつたが、一向うだつがあがらないので、このごろは親代々の商人になりすましてゐた。
或日雨宮紅庵といふ昔馴染が、見知らない若い女を連れてきて、この人は舞台俳優になりたいさうだが世話をしてくれないかと伊東伴作に頼んだ。なるほど伊東伴作はその方面に二三の知人がないではないが、女優を推薦するほどの柄も器量もある筈がなし、それに打見たところ女は容姿こそ十人並以上の美しさと言へるが、これといふ特徴がなく、外貌の上ばかりではなく内面的にも全てがその通りの感じで、却つて白痴的な鈍重さが感じられるほどの至つて静的な女に見受けられるから、自分には女優を推薦するほどの手蔓もなし器量もないのでと言つて断つた。ところが雨宮紅庵は伊東伴作の気持には一向平気なもので、
雨宮紅庵は三十七歳であつた。これといふ定まつた職業も持たず、とりたてて言ふべきほどの希望といふものも持つやうには見えず、すくなくとも希望を
「ダンス?」伊東伴作は鸚鵡返しに怪訝さうな面持をして呟いた。
伊東伴作はダンスホールに縁遠い人柄で、酔つ払ひでもしなかつたら冗談口一つ言へないやうな男だつた、さうして
「いや、たつてといふわけぢやないんだ」と、紅庵は再び
「別の部屋で、ちよつと君に話したいことがあるんだけど……」
と言つた。そこで二人は別室へ這入つた。
「あの人は君の恋人か?」と、別室で二人になると伊東伴作はまづ訊ねた。
「いや、さういふものではない」と、わざと
ただかねて知りあひの女であるといふだけで、恋愛の交渉は微塵もなく、また、心底ひそかに燃やしてゐるといふ気持さへないのだと雨宮紅俺は同じことを繰返し繰返しくど/\と述べた。まるで故意に言はでもの言訳をするやうなくどさにも見えた。くどさを愉しむやうな秘密臭い厭味も感じられた。そのくせ、ただかねて知りあひの女であるといふ他には、どういふ筋の知りあひで、どこの誰といふことさへハッキリ言はうとしなかつた。つまり女が見るやうな姿の女で、名前は蕗子とよぶといふ、そのほかのことは全く伊東伴作には判らなかつたのである。
「君、あの女の生活を暫く保証してやつてくれないか?」
雨宮紅庵が改まつて切りだしたことは然ういふことだつた。
「月に三十円か四十円でいいのだ。三畳の間借りで事足りるんだからね。そのうちに女の方でなんとかするだらうよ。僕にその資力があれば自分でさういふことにしたのかも知れないが……」
「つまりあの人を二号にしろと言ふわけか?」
「いや、さういふわけぢやない。女の生活を保証してやつても、必ずしも二号ときまつてゐるわけはないからね。然し二号でもいいのだ。男と女だから話がそこまで進んでも、それは仕方がないぢやないか」
暫く話が途切れたあとで、
「君があの人の生活を保証するやうになつてから、そこは男と女だから、二人の話が自然にそこまで進んだとしても、それはそれでいいぢやないか」
紅庵はここでも故意に言ひ強めるやうな脂つこいくどさを漂はせながら、同じことを重ねて言つた。自分の言葉に酔つたやうな様子でもあり、非常に穿つた親切さうな様子でもあり、幾分勝ち誇つたやうな皮肉さうな様子もあつて、まるで試験台に乗せられてゐるやうな気持がした伊東伴作には、一つ一つの気配がピシ/\とこたへた。すると紅庵は、さういふ伊東伴作の
「一人くらゐ隠し女を持たなかつたら、一人前の男ぢやないよ」
と、いかにもしみ/″\した顔付で言つたのが、伊東伴作の気にさはつたが、じり/\した気持を起しながらも、伴作の心の流れは紅庵の言葉の魅力に自づと傾きだしてゐた。伴作はさういふ心のまとまりのない廻転に正直に身をまかせ、暫く沈黙に耽つてゐたが、
「ほんとに君はあの女に気がないのかな」
と、紅庵を冷やかすやうに笑つて言つた。笑つて言ひはしたが、伊東伴作の言葉の奥には甚だ真剣な激しいものが漲りかけてゐて、あれだけの女なら二号にしても悪くはないなと立派な計算が完了されてしまつてゐた。
それにしても、恋愛といふ面倒な言葉はとにかくとして、あれだけの女なら大概の男が浮気心を起すのは恐らく普通のことだらうから、あの女に気がないと言ふ紅庵は論ずるまでもなく嘘をついてゐるのだと思つた。けれども伊東伴作は紅庵の思惑に気を廻さうとしなかつた。さうすることがただ面倒に思はれたのだ。騙されるなら騙されたで一向に構はない、あれだけの女を三十円や四十円で買へるなら遊びとしても安いもので、要するに騙されてゐるつもりで、こつちもせいぜいあの女を弄べばいいわけだと考へた。伴作は三十五歳だつた。妻子もあつた。
三人は連れだつて外へ出た。歩きだしてから女に向つて、俳優とかダンサアはとにかくとして生活費の方は引受けるから一応宿を定めてみてはと話してみると、女はまるつきり感情を表はさない顔付で、別にうんとは言はなかつたが、否定の素振りをみせないことによつて承諾の気持を表はした。はじめから、どうせ話がそのへんで落付くことに覚悟をきめこんでゐたやうな様子でもあるし、何も知らない痴呆のやうな様子もあつた。白痴ぢやないのかと、伊東伴作は一時本気でさう疑らずにゐられなかつた。
ちやうど貸間ありの札を貼つた二階をみつけ、雨宮紅庵の奔走で手廻りの品だけは忽ちのうちに
伊東伴作は蕗子に素性をきいてみたが、紅庵の知人の妹で、今では殆んど身寄りがないと言ふほかには、これも多くを語らなかつた。機会をみて身体に触ると、尠しも逆らはなかつた。罪悪といふ内省が絶えないためか癇癪を起すやうな気分となり、
翌日の正午頃には、ぢり/\と押へきれない焦燥がつのつてきた。それでも三時頃までは店へでたり又ぶら/\と居間へ戻つて寝ころんでみたりしながら、苛々する時間をつぶしてゐたが、三時の音で立ち上つて蕗子の下宿を訪れた。行つてみると雨宮紅庵がそこにゐて、蕗子と話しこんでゐた。
紅庵は自分の部屋にゐるやうな寛ろぎかたで、すつかり腰を落付けて勿体ぶつて喋つてゐたが、伊東伴作は嫉妬の苦痛を感じなかつた。寛ろいだ話しぶりにも拘らず、その口ぶりにも動作にも紅庵の宿命的な内攻生活から派生する一種陰惨な暗い
同じやうな日が四五日続いたのちの一日、紅庵が同じやうなうろたえ気味で帰つてしまつた後になつて、蕗子は伊東伴作に言つた。
「引越さして下さらない? ここは気兼ねがあつて厭だわ」
「家が一軒欲しいのか?」
「いいえ、一部屋でいいの。ここでさへなければどんな汚い部屋でもいいわ」
伊東伴作は考へた。一人の女に執着を持ちはじめた男の鋭敏な感覚によつて、引越しの提案がなんらかの点に於て彼に甘へる意味を持ち、同時になんらかの点に於て雨宮紅庵につながる意味があると思つた。紅庵に対して幽かながらも日増しに冷淡の度を加へるらしい蕗子の気配を、その日までにそれとなく気付いてゐたのだ。なんとなく甘へるやうな蕗子の様子から判断して、雨宮紅庵のことはとにかく、引越の理由に就てもつと
「この部屋は、部屋としては
「ええ、でも、雨宮さんの知らないところへ越したいと思つてるの」
と、果して蕗子はさう答へた。
「それはどういふわけだい? 雨宮が君を口説きでもしたのかい?」
「いいえ、そんなこと有り得ないわ。あの人はそんな気の利いたことのできない人よ。悪い人ぢやないんだけど、毎日だとうるさいもの。貴方と私の生活が今日から始まることにして、それ以前のことには尠しもふれない生活がしたいの。昔があると、しつこくつていやだわ」
――どういふ昔なんだい? と訊きたくなつた心持を伊東伴作は簡単にそらした。昔なんか問題ぢやない、これは浮気だ、たとひこれが自分の人生の重大事であり詮じつめれば中心をなす生活にしても、これは矢張り浮気で遊びで悪戯だ。女の昔の生活のことまで気に病むやうな心構えにとらはれてゐると、せつかくの悦楽が苦労の種に変るやうな莫迦をみる、それもみんな心構え一つのことで野暮な深入りはしないことだと考へた。
心当りのアパアトへ行つてきいてみると、探す苦労もなく忽ち部屋がみつかつたので、雨宮の知らないうちに其処へ移つた。雨宮が面喰つて訪ねてきたら、実は昔のない生活を始めたいといふ女の希望であり自分の考へもさうだから、暫く蕗子の生活から
ところが二週間とたたないうちに、今度は逆な出来事が起きた。伊東伴作の知らないうちに蕗子がほかへ引越してしまつた。さうして行き先が分らなかつた。