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私が代用教員をしたところは、世田ヶ谷の下北沢というところで、その頃は
私は五年生を受持ったが、これが分校の最上級生で、男女混合の七十名ぐらいの組であるが、どうも本校で手に負えないのを分校へ押しつけていたのではないかと思う。七十人のうち、二十人ぐらい、ともかく片仮名で自分の名前だけは書けるが、あとはコンニチハ一つ書くことのできない子供がいる。二十人もいるのだ。このてあいは教室の中で
本当に可愛いい子供は悪い子供の中にいる。子供はみんな可愛いいものだが、本当の美しい魂は悪い子供がもっているので、あたたかい思いや郷愁をもっている。こういう子供に無理に頭の痛くなる勉強を強いることはないので、その温い心や郷愁の念を心棒に強く生きさせるような性格を育ててやる方がいい。私はそういう主義で、彼等が仮名も書けないことは意にしなかった。田中という牛乳屋の子供は朝晩自分で乳をしぼって、配達していたが、一年落第したそうで、年は外の子供より一つ多い。腕っぷしが強く外の子供をいじめるというので、着任のとき、分教場の主任から特にその子供のことを注意されたが、実は非常にいい子供だ。乳をしぼるところを見せてくれと云って遊びに行ったら躍りあがるように喜んで出てきて、時々人をいじめることもあったが、ドブ掃除だの物の運搬だの力仕事というと自分で引受けて、黙々と一人でやりとげてしまう。先生、オレは字は書けないから叱らないでよ。その代り、力仕事はなんでもするからね、と可愛いいことを云って私にたのんだ。こんな可愛いい子がどうして札つきだと言われるのだか、第一、字が書けないということは
女の子には閉口した。五年生ぐらいになると、もう女で、中には生理的にすら女でないかと思われるのが二人いた。
私は始め学校の近くのこの辺でたった一軒の下宿屋へ住んだが、部屋数がいくつもないので、同宿だ。このへんに海外
私が引越したのは分教場の主任の家の二階であった。代田橋にあって、一里余の道だ。けれども分教場の子供達の半数はそれぐらい歩いて通っていて、私が学校へくるまでには生徒が三十人ぐらい一緒になってしまう。私は時に遅刻したが、無理もねえよ、若いんだからな、ゆうべはどこへ泊ってきたかね、などとニヤニヤしながら言うのがいる。みんな家へ帰ると百姓の手伝いをする子供だから、片仮名も書けないけれども、ませていた。
分教場の主任は教師の誰かを下宿させるのが内職の一つで、私の前には本校の長岡という代用教員が泊っていたが、ロシヤ文学の愛好者で、変り者であったが、蛙デンカンという奇妙な持病があって、蛙を見るとテンカンを起す。私のクラスが四年の時はこの先生に教わったのだが、生徒の一人がチョークの箱の中へ蛙を入れておいた。それで先生、教室でヒックリ返って泡を吹いてしまったそうで、あの時はビックリしたよ、と牛乳屋の落第生が言っていた。彼が蛙を入れたのかも知れぬ。お前だろう、入れたのは、と訊いたら、そうでもないよ、とニヤニヤしていた。
この主任は六十ぐらいだが、精力絶倫で、四尺六寸という畸形的な背の低さだが、横にひろがって隆々たる筋骨、
この節の若者は、とか、青二才が、とか口癖であったが、私は当時まったく超然
小学校の先生には道徳観の奇怪な顛倒がある。つまり教育者というものは人の師たるもので人の批難を受けないよう自戒の生活をしているが、世間一般の人間はそうではなく、したい放題の悪行に
私が辞令をもらって始めて本校を訪ねたとき、あなたの勤めるのは分校の方だからと、分校の方に住んでいる女の先生が送ってくれた。これが驚くべき美しい人なのである。こんな美しい女の人はそのときまで私は見たことがなかったので、目がさめるという美しさは実在するものだと思った。二十七の独身の人で、生涯独身で暮す考えだということを人づてにきいたが、何かしっかりした信念があるのか、非常に高貴で、慎しみ深く、親切で、女先生にありがちな中性タイプと違い、女らしい人である。私はひそかに非常にあこがれを寄せたものだ。本校と分校と殆ど交渉がないので、それっきり話を交す機会もなかったが、その後数年間、私はこの人の面影を高貴なものにだきしめていた。
村のある金持、もう相当な年配の男だそうだが、女房が死んでその後釜にこの女の先生を貰いたいという。これを分校の主任にたのんだものだ。何百円とか何千円とかの謝礼という約束の由で、そのときのこの主任の東奔西走、授業をうっちゃらかして馳け廻って、なにしろ御本尊の女先生が全然結婚自体に意志がないので無理な話だ。毎日八ツ当りで、その一二ヶ月というもの、そわそわしたこの男の粗暴というより狂暴にちかい癇癪は大変だった。
私は行雲流水を志していたから、別段女の先生に愛を告白しようとか、結婚したいなどとは考えず、ただその面影を大切なものに抱きしめていたが、この主任の暗躍をきいたときには、美しい人のまぼろしがこんな汚らしい結婚でつぶされてはと大変不安で、行雲流水の建前にも
石毛先生は憲兵曹長だかの奥さんで、実に冷めたい中性的な人であったが、福原先生はよいオバサンであった。もう三十五六であったろうが、なりふり構わず生徒のために献身するというたちで、教師というよりは
私は放課後、教員室にいつまでも居残っていることが好きであった。生徒がいなくなり、外の先生も帰ったあと、私一人だけジッと物思いに耽っている。音といえば柱時計の音だけである。あの
「満足はいけないのか」
「ああ、いけない。苦しまなければならぬ。できるだけ自分を苦しめなければならぬ」
「なんのために?」
「それはただ苦しむこと自身がその解答を示すだろうさ。人間の尊さは自分を苦しめるところにあるのさ。満足は誰でも好むよ。けだものでもね」
本当だろうかと私は思った。私はともかくたしかに満足には淫していた。私はまったく行雲流水にやや近くなって、怒ることも、喜ぶことも、悲しむことも、すくなくなり、二十のくせに、五十六十の諸先生方よりも、私の方が落付と老成と悟りをもっているようだった。私はなべて所有を欲しなかった。魂の限定されることを欲しなかったからだ。私は夏も冬も同じ洋服を着、本は読み終ると人にやり、余分の所有品は着代えのシャツとフンドシだけで、あるとき私を訪ねてきた父兄の口からあの先生は洋服と同じようにフンドシを壁にぶらさげておくという笑い話がひろまり、へえ、そういうことは人の習慣にないことなのか、と私の方がびっくりしたものだ。フンドシを壁にぶら下げておくのは私の整頓の方法で、私には所蔵という精神がなかったので、押入は無用であった。所蔵していたものといえば高貴な女先生の幻で、私がそのころバイブルを読んだのは、この人の面影から聖母マリヤというものを空想したからであった。然し私は、あこがれてはいたが、恋してはいなかった。恋愛という平衡を失った精神はいささかも感じなかったので、せめて同じこの分校で机を並べて仕事ができたらいいになアと、私の欲する最大のことはそれだけであった。この人の面影は今はもう私の胸にはない。顔も思いだすことができず、姓名すら記憶にないのである。
風と光と二十の私と(かぜとひかりとはたちのわたしと)
作家录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语
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