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巷談師(こうだんし)

底本: 坂口安吾全集 09
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1998(平成10)年10月20日
入力に使用: 1998(平成10)年10月20日

底本の親本: 別冊文藝春秋 第一七号
初版発行日: 1950(昭和25)年8月3日

 

「ヘタな小説が売れなくなって巷談師になったのか。お前の底は見えた。恥を知れ。

一共産党員」


 安吾巷談その三「野坂中尉と中西伍長」には全国の共産党員から夥しい反響があった。これも、その一つである。簡にして要を得、秀作である。
「お前の顔は……」このあとは、本人は書きたくない。私の顔に文句をつけるのは筋ちがいだが、「林芙美子との対談の愚劣さよ。両醜無断……」林さんにはお気の毒だが、こういうのもきた。両醜は簡潔。よく醜の字を知っている。あとの「無断」がわからない。しかし、一刀両断とか、言語道断とか、それに似てバッサリと斬り伏せる趣きは充分現れているから、文を学べば、一かどの文士になった人物かも知れない。
 共産党の手紙は、非常に短いか(ハガキで三行前後)非常に長いか(便箋十枚――二十枚ぐらい)いずれかである。
 弟子入り志望の手紙は共産党と同じぐらい長文で、返信切手や自分名宛の封筒を同封しておくという用心深いのが通例だが、時々、不足税をとられることもある。弟子入り志望に一もんめ分倹約するとは思われないが、長文の手紙となると、目測が狂うらしい。ところが、共産党の長文の手紙(十五通はもらった)はコンリンザイ不足税をとられたことがない。ぜひとも巷談師の目に必殺の文字をたたきこんでやろうという闘魂歴々たるものがある。
 弟子入りの手紙は、宛名に先生が三分の二ぐらい、三分の一ぐらいが様、まれに殿というのがある。様と殿の手紙には、先生とよぶのは変です、という意味の言葉が、くりかえし述べられているのが通例である。彼らの共通の感覚で、この感覚の内容は私にはよく分らないが、先生という呼称を空疎なもの、たとえば彼らと学校の先生との関係などをそれに当てはめ、私をもっと親密なものと解していることが察せられる。
 共産党は全部「殿」だ。しかし数通、この場合はハガキに限るが、殿も省いて呼びすてがあった。ハガキの作者はベランメー型で、筆で委曲がつくしがたいから、げんコの代りに呼びすてにして溜飲を下げているらしい。長文の手紙の作者は必殺の文字に自信があるから、悠々敬称をつけてくれる。
 長文の手紙に何が書いてあるかというと、私の作品(主として堕落論)の批評が主であるが、中には私の作品の半数ぐらい読んでいて、一々槍玉にあげているのもある。そして、前者(堕落論その他ごく一部分の作品をとりあげて縦横に論破したもの)はいくぶん冷静で、あくまで論理によって巷談師の息の根をとめようとする気品をうかごうことができるが、後者(半数以上の作品を槍玉にあげているもの)は一時あやまって私の作品を愛読したことがあり、はからざる裏切り行為に逆上、可愛さあまって憎さが百倍という噴火山的な気魄と焦躁が横溢しているが、末尾に至って突然怪しく冷静となり、貴様(又はお前)はやがて人民裁判によって裁かれるであろう、その日は近づいている、などとひややかな予言によって手紙をむすんでいるのが普通である。
 しかし、人民の怨嗟はお前にかかっている、と断じているのが二通あったのはうなずけない。あやまって吉田首相に与える言葉で間にあわせたものと思うが、あるいは、共産党では、最大級の悪漢に浴せる公式用語がこれだけなのかも知れない。たかが巷談師に向って、人民の怨嗟は大きすぎると思うが、こう言われてみると、私の筆力にヒットラーの妖怪味がはらまれているようにも幻想し、まんざらでもない気持にさせられたのである。
「野坂中尉と中西伍長」は三月号にのったのだから、二月半ばの発売で、当然そのころ以上の文書が殺到すべき筈であるが、実は、この過半数が五月末日―六月に至ってまとめて殺到したのであった。このイワレは当分わからなかった。
 ところが、たまたま一通のハガキによって、この謎をとくことができた。このハガキは文藝春秋新社気付でいったん東京へ送られ、転送されて、おそくついたから、謎の発見がおくれたのである。
 貴殿の「野坂中尉と中西伍長」に感激したから、他の論文の出版社を至急教えてくれ、というハガキであった。ユイショある流儀を感じさせる達筆だ。我々から見て、文字に二つの区別がある。文学を愛好する者の筆蹟と、そうでないものの二つである。弟子入りや共産党の手紙は中途半端で分類以前の筆蹟であるが、つまり彼らは筆蹟的にも未成品であることを示している。
 このときのハガキは、そうでない筆蹟の中でも特にそうでない達筆で、年齢は四十以上であることを示していた。つまり実務家の中でも一かどの老練家という風格を語っていたのである。
 折から選挙たけなわの時であるから、私はふと気がついた。差出人は誰かの選挙事務長かも知れない、と。とにかく応援演説のネタ本用に火急の必要にせまられているものと睨んだのである。「野坂中尉と中西伍長」が政治家の演説に利用されていることを、かねてきき及んでいたから、サテハ、と看破したのである。
 応援弁士というものは、たいがいアルバイトで、にわかにタネ本を物色して、三十日間打ってまわるものであるが、「野坂中尉と中西伍長」はアルバイトの弁士用には便利である。共産党を適度に皮肉って、十人のうち七人ぐらいナルホドと思わせるようにできている。アルバイトの弁士は、共産党爆撃を熱演すれば必ずうけるという時世であるから、共産党以外の弁士のかなり多くの人が、この巷談を愛用したものと推察されるのである。
 そこで共産党の文学青年(こう断ずるのは彼らの筆蹟が弟子入りのそれと同じように中途半端だからであるが)が怒ったのだろうと思う。選挙たけなわとなるや、安吾殿、安吾ヨビステ、が殺到するに至ったのだ。
 巷談の反響はこのときから、はじまった。
 その先月は松谷天光光女史の事件について憎まれ口をたたいたが、労農党や民主党は法律を重んずること厚く、言論の自由にインネンをつけることをしなかった。
 もっとも、筆者のところへは来なかったが、雑誌社へインネンをつけてきた形跡はある。これは私の推理で、確証があるわけではない。文藝春秋新社は意外にも紳士淑女のたむろするところで、礼節の念はふたばよりかんばしく、かりそめにも筆者に激動を与えるような饒舌をもらさない。しかし私は抜群の心眼をうけて生れ、その推理眼は折紙づきであるから、こうと睨んで狂ったことはない。微妙な証拠は多々あげることができるけれども、他人の機密にふれるから黙っておくことにする。
 しかし、私には言論自由のルールがハッキリのみこめないが、筆者には自由であり、雑誌社に自由でないというワケが、甚しく分らない。書いた責任は全部筆者にあって、もしもこれを雑誌社が載せないとなると、原稿料は先にふんだくられているし、筆者には怒られるし(彼の図体は大きい)よいところがない。かの巷談師は、かの雑誌社が、長すぎた原稿を二枚けずったカドによって絶交状をたたきつけた前歴もあり、アイツはウルサイぞ、ということになっているのである。
 そんなわけで、共産党文学青年の総反撃をうけるまでは、私の巷談は坦々と物静かな道を歩いていたのであった。
 私を「巷談師」とよんだのは、冒頭に録した一共産党青年のハガキで、私自身の命名ではない。私はしかしこの呼称を愛している。なんとなく私にふさわしいような気持だからである。
 今年は巷談師であるが、去年までは観戦屋であった。
 観戦屋というのは、よろず勝負ごとを見物して、観戦記をかく商売である。これに似たのに、覆面子とか北斗星とかノレンの古い老練家がいるが、彼らは私とちがって、ダテや酔狂(ヤジウマ根性ということ)で観戦記をかいているわけではなく、腕に覚えの特技によって心眼するどく秘奥を説く人々である。観戦士というべし。私のは、ハッキリ、観戦屋。
 私は腕に覚えがない。だから、よろず勝負ごと、顧客のもとめに応じて好みのものを観戦する。将棋名人戦、本因坊戦、スポーツ万端、よろず、やる。
 私は将棋の駒の動き方を知ってるだけだ。いつか読んだ将棋雑誌の某八段の説によると、こういうのを六十二級というのだそうだ。唯識ユイシキ三年倶舎クシャ七年と云って、坊主が倶舎論を会得するには七年かかるそうであるが、これは人間の意識を七十五の名目に分類し、分類が微細にすぎてチットモわからず、七年かかることになっている。
 将棋の方は、六十二級の上に九段があって、合計七十一。倶舎論に四ツ足りない。名目だけでも、将棋はすでに難解である。
 私はそのドンジリ、六十二級というのに位置している。上位の七十の名目は、むなしく望見するだけで、まったく会得することが不可能であり、又の名を「三歩」というのだそうである。
 六十二級を碁の場合に当てはめると、初段に六十二目おくことになる。そんな碁はない。しかし、ありうるのだ。勝負ごとの初心者ぐらい哀れなものはない。心眼をとぎすましても、わからない。心眼の持ちくされだから、私のような心眼の徒は、いたずらに心眼の曇ることもなく、ただ悲しまねばならない。
 だから六十二級の私が名人戦の観戦記をかくと、心眼が復讐しているようなものだ。将棋は見ていても、分りッこない。勝負だけがわかる。そして、それを見る。
 つまり、仇討ちの見物人に分るのは、仇討のイワレ、インネン、双方のイデタチ、武者ぶりの観察からはじまって、又五郎が赤鬼の顔、ジリジリとすすむと、数馬がジタリジタリ油汗をしたたらせる、そういうことなのである。
 六十二級の観戦記が同じことしか分らない。心眼の復讐などと大きなことを云いながら、又五郎がジリジリすすむ数馬がジタリジタリ油汗、それぐらいしか書けないので、心眼が泣くのである。しかし、いくら泣いたって、それしか書けない。
 観戦屋の絶望。そんな風に言ってみるのも悪くはないが、私は絶望なんてことはしない。しかし、なんとなく、観戦屋がイヤになった。もうタクサンだゾと叫んだのである。
 そこで今年は巷談屋を開業した。

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