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我が人生観(わがじんせいかん)02 (二)俗悪の発見


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 私はストリップ・ショオや新しいパンパンの誕生を歓迎しているのである。
 見世物や本は禁止すべき性質のものではなかろう。このような娯楽については、人々の判断は正直で、興がなければ、客がつかない。どんな田舎でも、そうだ。あくまで実質が物を云い、広告だけでは釣られない。これにくらべると、売薬などは、広告だけはデカデカと、実質がともなわないと人命にかかわり、素人には事が終るまで良否の判断がつかないに拘らず、その取締のオロソカなこと、まったくアベコベだ。
 殺人映画や探偵小説の影響で青少年の犯罪がふえたといっても、その反面の教育が非力であり、日本全体の生活不安を救う政治も非力であって、映画や小説にだけ罪をおしつけるのは滑稽な話だ。
 相撲なども男のストリップ・ショオのような要素をもっている。商売女が見物するのは仕方がないが、良家の子女が見るべきものではないというような自家製戒律が明治ごろの家庭には存在していたようだ。けれども、これを放置しておいても、見る方に良識がありさえすれば、害にはならない。裸体の大男の組打にひかれて、女の子がワンサと見物に行ったという話もきかない。アンコ型の力士は健康なものではなくて病的なものだから、我々男がふとった大女のジュバンの相撲などに興味がもてないように、女には男の相撲に興味がもてないのかも知れない。もっとも、日本の女の子は宝塚に熱中の程度だから、性的な観賞力が低下しているのかも知れない。
 とにかく、ジュバン一枚の大女の相撲が浅草に現れても人気を博すとは思われないが、ストリップ・ショオが人気を博すのはうなずくことができる。なぜなら、健康でもあるし、美しいのだから。美しくないや、という観賞力の発達した人は見なければよい。そしてみんな観賞力が発達して振向かないようになると、ストリップ・ショオはつぶれるか、それ自身が実質的に向上するか、あるいは場末にだけ残存するか、どちらかになる。
 すべて娯楽教養に類するものは、教養の不足に罪のあるのを忘れて、娯楽自体を禁止しようとする暴力的な弾圧を最もつつしむ必要がある。正しい教育が行われゝば、正しい批判が行われるものだ。見るべきか、見るべきでないか、は見る人自身が選択するものだ。選択し、それを卒業するまでは見るであろうし、見るのが当然かも知れない。だからエロ本やストリップの見物人が絶え間がなくとも、同じ人間が一生見ているわけではなくて、それを卒業するまでの短期間見ているだけだ。見る人は常に変り、常に卒業して行くだろう。ストリップの芸人も、単に性的魅力に訴えるだけでは我慢のできない者は、もっと高い魅力をひらいていくだろう。
 パンパンとても同じことで、男の美意識の向上につれて、パンパン自身向上するか、見捨てられるか、場末へ落ちのびるか、どれかしかない。美や芸術は、こんなところから、一番露骨な低いものから、地道に向上して、生れてくるものなのである。一応の手間が、かかるものだ。
 しかし、美や芸術というものは、助平根性を遊離して、神韻ビョウビョウと、星の如くに高く輝くようなものではなかろう。生身の助平根性と一緒に、喜怒哀楽、嫉妬もし逆上もする現実の生活と常に一しょにあるものだ。
 一般大衆が芸術を愛するときは、自分の生活として愛しているのであり、恋の伴奏、必要のためのジャズでありヴギウギであり、実用品なのだ。つくる方もそれを承知の、俗悪な企業なのである。日常品としての実用性、実質をそなえていることが必要だ。ショパンでも、モオツァルトでも、それが出来たときは、そうだ。当時のジャズであり、ヴギウギであり、日常の必要品であったのだ。
 法隆寺も、金色堂も、東照宮も、威勢を示してアッと云わせて、ついでにオサイセンもまきあげてやろうという料簡でできたもので、その時代に於ける最大なる俗悪精神の産物であった。人間の悪臭フンプンとして鼻持ちならないものであった。骨董イジリの閑雅な精神には縁遠いものであった。
 晴耕雨読の心境ぐらいカンタンなものはない。乞食の心境である。人間というものは、助平根性や物慾や、妄執と一しょのもので、芸術は現世のものであり、そこから離れて存在しない。
 ミイラは現世だけしか見ていないのだ。その身は万年の後に残ることを考えていたかも知れぬが、見ていたものは現世だけだ。現世と、そして、妄執だけなのだ。そして、現世への妄執が具現したものが、法隆寺であり、金色堂であり、東照宮であった。高雅な精神などは、どこにもない。
 しかしながら、私のように、芸術家の素質が不足していると、ミイラになりかけてみないと、俗悪になりきることができないものだ。なんとなく高雅なものを空想したり、自分のみじめな現実に負けたりして、俗悪精神を羽いっぱいひろげることができない。チエホフだの、ショパンだのという人はミイラになりかけなくても、それができたのだから、天才なのである。
 私はミイラになりかけて、ようやく人間を見たようなものだ。あるいは、人間に、本当の人間になりかけたのかも知れない。
 数学だの物理学というものの新発見は、その人の十代から二十代のうちに行われるのが通例だそうだ。あとの一生はそれをフエンする一生だという。
 文学も、まア、そうだ。その人の限界は、だいたい二十代にそのキザシが確立されている。あとは技術的に完成するか、迷路を廻り路するか、そんな風にして、ふとっていくだけのことだ。
 しかしながら小説の技術というものが、修練と同時に、これも亦発見を要するものでもある。私はこれを俗悪の発見と名づける。万人の俗な根性を惹きつける最低線で、軽業を演じることが必要なのである。つまり、現世に生きなければダメなものだ。すくなくとも、作者は現世だけを見ていなければ、ダメなものだ。
 私はまだ、ミイラになりかけたばかりで、半出来までもいかないから、根気がつづかない。半出来のミイラが目の玉を光らせて迷っている図はバカバカしい。
 仙人は雲から落ちるが、ミイラは落ちない。人間よりも地べたにおり、人間よりも妄執と一しょにいるのだから、人間よりも鼻持ちならないのだから、人間に昇格することはあっても、落ちるはずはない。ねむるように死ぬことと、女を追っかけるということと、いっしょにいるようなのがミイラなのである。





底本:「坂口安吾全集 09」筑摩書房
   1998(平成10)年10月20日初版第1刷発行
底本の親本:「新潮 第四七巻第七号」
   1950(昭和25)年7月1日発行
初出:「新潮 第四七巻第七号」
   1950(昭和25)年7月1日発行
入力:tatsuki
校正:花田泰治郎
2006年3月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について
  • このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。

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