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以上は、下山総裁に自殺の場合もありうることを想定して、そのエスキスを試みたにすぎない。
私は自分の病気中の経験から判断して、人間は(私は、と云う必要はないように思う)最も激しい孤独感に襲われたとき、最も好色になることを知った。
私は、思うに、孤独感の最も激しいものは、意志力を失いつつある時に起り、意力を失うことは抑制力を失うことでもあって、同時に最も好色になるのではないかと思った。
最後のギリギリのところで、孤独感と好色が、ただ二つだけ残されて、めざましく併存するということは、人間の孤独感というものが、人間を嫌うことからこずに、人間を愛することから由来していることを語ってくれているように思う。人間を愛すな、といったって、そうはいかない。どの人間かも分らない。たぶん、そうではなくて、ただ人間というものを愛し、そこから離れることのできないのが人間なのではあるまいか。
それは人間を嫌ったツモリで山の奥へ遁世したところで断ちきることのできない性質のものである。自分とのあらゆる現実的なツナガリを、無関心という根柢の上へきずいたツモリで、そして、そうすることによって人間を突き放したツモリでも、そうさせているものが、又、何物であるか、実は自覚し得ざる人間愛、どうしても我々に断ちがたい宿命のアヤツリ糸の仕業でないと言いきれようか。
私は、そして、最もめざましい孤独感や絶望感のときに、ただ好色、もっと適切な言葉で言って、ただ助平になるということについて考えて、結局、肉慾というものは、人間のぬきさしならぬオモチャではないかと思った。
それは、他のあらゆるものから締めだされ、とりつく島もない孤絶のときに、それ一つのみが意志の全部となって燃え立ってくるのである。それを経験した人間から言えば、なんというアサマシイことだろうか、と、一度は思うのが当然であるが、しかし、実際は、アサマシイとか、はずかしいとか、そのような体裁を絶した場で行われていることであり、それを直視して、承服する以外に手のないもののようである。それは、しかし、悲しいオモチャだ。ギリギリの最後のところで、顔をだすオモチャ。宿命的なオモチャであり、ぬきさしならぬオモチャだから。
まずい食物は、それを食べなければよい。すきな食物を選んで満足することができる。しかし、肉慾はそうではない。それを充したり満足することができないものだ。肉慾に絶望して、肉慾の実行を抛棄しても、肉慾から解放されることはできないものだ。それは遁世しても真の孤独をもとめ得ないのと同じことだ。
つまり、本当に孤独になるということと、本当に性慾から解放されるということは、どこまで生きてもあり得ない。彼が死に至るまでは。私はそれを下山総裁の事件をかりて、自分勝手のエスキスで現してみた。しかし、それは、下山氏の場合だけがそうではなくて、あらゆる人間がそうなのだ。
彼がどのように偉くても、たとえば、徳行高い九十歳の文豪であろうとも、世を捨てた九十歳の有徳の
遊びせむとや生れけむ
戯れせむとや生れけむ
遊ぶ子供の声きけば
わが身をぞこそゆるがるれ
悲しい歌だ。我々はこの悲しさから脱出することができるだろうか。我々の理性的工作がどのようであろうとも、たぶんこの切なさを切りすてることはできないだろう。なぜなら、理性で処理のきかない世界だから。我々の骨にからみついた人間模様と性慾のあの世界だから。悲しい、しかし、いじらしい人間たちよ。
底本:「坂口安吾全集 09」筑摩書房
1998(平成10)年10月20日初版第1刷発行
底本の親本:「新潮 第四七巻第九号」
1950(昭和25)年9月1日発行
初出:「新潮 第四七巻第九号」
1950(昭和25)年9月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:花田泰治郎
2006年3月24日作成
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