一
大戦後の好景気に煽られた星浦製鉄所は、昼夜兼行の
汽鑵場の裏手に在る庭球場は、直ぐ横の赤煉瓦壁に静脈管のように
しかしその淋しい審判席の近くに、誰が蒔いたかわからないコスモスの花が咲乱れる頃になると、十月十七日の起業祭が近付いて来るので、
秋日のカンカン照っているテニス・コートの上で、
つまり
二
十月十日の水曜日の午前九時頃のこと。汽鑵部の夜勤を
中央に立って歩いて来るのは、この製鉄所切っての怪力の持主で、名前は又野末吉、
その大股にノッシノッシと歩く又野の右側から、チョコチョコと
「ああ。やっとこさ話の
「まったく……あのスチームの音は
三好が振返って冷笑した。「会社全体が、あの通り調子付いていやがるんだからな」
「シッカリ働け。ボーナスが大きいぞ」と又野が巨大な肩をゆすぶって見せた。三好が今一度冷笑した。
「テヘッ。当てになるけえ。儲けとボーナスは重役のオテモリにきまってらあ。働らくものはオンチばかりだ」
「この野郎……」と又野が好人物らしく笑いながら拳固を振上げた。三好が一間ばかり横に飛び
「アハハハ。その代り起業祭の
「インニャ。俺あ今年や角力取らん」
「エッ」二人とも驚いたらしく又野の顔を左右から見上げた。又野は真剣な――しかし淋しそうな顔をしていた。
「馬鹿な……オンチだなあ……みんな期待しているんじゃねえか。鼻の先に
「ウウン。それじゃけに俺あ取らん。キット取れるものをば毎年、取りに出るチウ事は、何ぼオンチでも
といううちに又野はモウ赤面しながら苦笑した。正直一徹な性格が、その苦笑の
「惜しいなあ。みんな君の力を見たがっているんだになあ」
と三好が
「アッ。きょうは十日……俸給日じゃろ」
「アハハ。いよいよオンチだなあ。だからこうして事務室の方へまわっているんじゃねえか」
「俺あ徹夜が一番、苦手じゃ。睡うて腹が減って
又野が毛ムクジャラの手の甲で顔をゴシゴシとこすった。ほかの二人も立止まった。
「ハハハ。俸給を忘れる奴があるかえ」と、笑いながら三好がポケットからバットの箱を出した。
「俸給は十時から渡すんだっけな」と戸塚もカメリヤの袋を出しかけた。
「……オイ……あれを見い……」
と又野が突然に
鉄屑の堆積越しにコスモスのチラチラ光るテニス・コートの向うから、事務員風の男が来かかっている。
その
「ヘヘッ。……初めやがった。どこの工場だろう」
と三好が朗らかな口調で云った。三人は黙って見ていた。
そのうちに事務員風の男が、自分の影法師を踏み踏み、コートの真中あたりまで来たと思うと、その
「アッ。
と又野が引返して駆出そうとするのを、三好と戸塚が腰に抱き附いて引止めた。
「……馬鹿……まあ見てろ……」
「……何……何かい……」
行きかけた又野が青くなって振返った。歯の根をガタガタいわせていた。
「……ヒ……人殺しやないか……」
三好が白い歯を
「アハハ……馬鹿だな。よく見てろったら……あれあ芝居だよ。芝居の稽古だよ。第三工場の奴かも知れねえ」
又野が太い溜息を
テニス・コートの上の菜葉服は、黒い棒を投棄てた。それは重たい鉄棒らしかったが、直ぐに事務員風の男の頭の処に走り寄って、顔を覗き込んだ。すると思いがけなく事務員風の男が半身を起して、
「ソレ見ろ。芝居じゃねえか」
「しかし真剣にやりよるのう」
「何だろう……探偵劇かな」
大急ぎで汗を拭いた覆面の菜葉服は、コートの上に投出された鞄を引っ抱えるとキョロキョロとそこいらを見まわした。遥かに三人の姿を認めたらしく、白い軍手を揚げてチョット帽子を冠り直すと、そのまま第三工場の鋳造部附属の木工場の蔭へ走り込んで行った。
コスモスが風に吹かれて眩しく揺れ乱れた。
その時に、あとに残った事務員風の男は、すこしばかり身動きしかけたようであったが、そのままグーッと
「アッ……本物だっ……」
三人の職工は誰が先ともわからないまま
しかし、すべては手遅れであった。事務員風の男は頭蓋骨をメチャメチャに砕かれていたが、その悽惨な死に顔は、
そのうちに両眼に涙を一パイに溜めた又野が、唇をワナワナと震わした。感情に堪えられなくなったらしくグッと
「……ミ……見い……これが……芝居かッ……」
又野の両頬を涙がズウーと伝い落ちた。火の付くような悲痛な声を出した。
「……わ……わ……
二人は恨めしそうな眼付で、左右から又野の顔を見上げた。しかし今にも飛びかかりそうな又野の、烈しい怒りの眼付を見ると、何等の抗弁もし得ないまま一縮みになってうなだれた。申合わせたように自分自分の影法師を凝視しつつ、意気地なく帽子を脱いだ。
それを見ると又野も、思い出したように急いでお釜帽子を脱いだ。死骸の顔を正視しつつ軍人のように上半身を傾けて敬礼した。何事か祈るように両眼を閉じると熱い涙をポタポタとコートの赤土の上に落した。
「……すまん……済みまっシェン……」
遥か向うを通る四五人の職工が、
その間に死骸の顔の血を、自分の
「……ウワアッ……西村さんだっ……」
「ナニ。何だって……」
とほかの二人……又野と三好が顔を近寄せて来た。スチームの音で聞こえなかったらしい。
「事務所の西村さんだよ。俸給係の……」
「何だ……俸給がどうかしたんか」
「馬鹿ッ。この顔を見ろッ。俸給係の西村さんだぞッ。俺達の俸給が持ってかれたんだッ」
と早口に叫んだ戸塚は、ほかの二人が
しかし戸塚は、そのまま帰って来なかった。
木工場と鋳造場と、その向うの
オンチ(オンチ)
作家录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语
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