三
警察はちょうど
田原警部はチエッと舌打をした。直ぐに小使を呼んで名刺の裏に鉛筆で走り書きをして海岸に走らせた。
「楠君。君、署長に電話をかけてこの男の話を取次いでくれ給え。製鉄所の公会堂で武道試合を見ている筈だから……多分、非常召集になるだろう。遣り切れんよ全く……」
騒ぎがだんだん大きくなって行った。盗まれた現金が十二万円という大金で、且つ、被害者の西村というのが、非常に評判のいい好人物だったせいでもあったろう。一つには死骸が二人の職工の手で事務室へ抱え移されていたために、現場の模様が全くわからなくなったので、取調べがだんだん大仕掛になって行って、犯人が逃込んだと思われる、木工、鋳造、薄板、第一工場の全部の職工が一人一人に訊問されたせいでもあったろう。
もちろんその時には星浦警察署と町の青年の全員が工場の周囲を
製鉄所の裏門から銀行へ行って、製鉄所の資金の一部と、職工の俸給の全部を受取った西村は、札束の全部を、いつもの通りに黒ズックの鞄へ入れて、いつもの通りに銀行の前から人力車に乗って製鉄所の裏門の前まで来た。それから矢張り、いつもの通りの近道伝いにテニス・コートを通り抜けて、事務室へ帰る途中を要撃されたものに相違ない。むろん西村はあのテニス・コートが、そんなに恐ろしい処と知らなかったであろう。八方に見透しの利く安全無比の通路と思って通ったものであろう。同時に犯人は、工場内部の事情に精通している職工の一人に相違あるまい……という警察側の見込らしかった。
三人が警察の門を出た時には
その
「オイ」
「何だい」
三人が揃って黒板塀の間に立佇まった。三好が帽子を脱いで頭を掻き掻き云った。
「俺は何だか大切な事を一つ警察で話し忘れて来たような気がするがなあ」
「何だい。すっかり話しちゃったじゃねえか」と戸塚が眼をパチパチさせた。
「ウン俺も何か知らん、一番大切な事をば云い忘れて来たような気がしてならん」
又野が街燈の光りを仰ぎながら初めて微笑した。戸塚が、その顔を振返りながら不安らしく云った。
「何も忘れた事あねえぜ。西村さんが殺されてよ……軍手をはめた手でなあ」
「そうよ。あの鉄の棒は警察で引上げて行ったろう。四分の一
「ウン。犯人は地下足袋を穿いとったって俺あ云うたが……」
「ウン。俺も地下足袋だと云ったがなあ」
「犯人が木工場へ這入るとコスモスの処を風が吹いたなあ」
「馬鹿。そんな事を云ったのかい」
「見た通りに云えと云うたから云うたてや」
「アハハハハハ犯人とコスモスと関係があるのかい……馬鹿だなあ」
「アッ。そうだ。あの菜葉服の野郎が白いハンカチで汗を拭いたって事を云い忘れてた」
と云ううちに三好が唇を噛んで警察の方向を振り返った。
「ウン。そうじゃそうじゃ。そういえば俺も思い出いた。云うのを忘れとった。四角に折ってあったなあ」
又野が、悪い事をした子供のように肩を
「アハ。汗を拭くのは大抵ハンカチにきまってるじゃねえか」
「ウン。それもそうじゃなあ」
「しかし出来るだけ詳しく話せって云ったからな」
「ウン。それあそう云ったさ。しかしハンカチ位の事あ、どうでもいいだろう」と戸塚が事もなげに云い消した。三好が頭を掻いた。
「そうだろうか」
「そうだともよ。ナアニ。じきに捕まるよ。指紋てえ奴があるからな」
「木工場も鋳物工場の奴等も、
「ウン。慌てていたせいか、鋳型を一箇所
又野が大きな
「ああ睡むい。帰ろう帰ろう」
しかし三人の職工の予期に反して、この犯人はなかなか捕まらなかった。
二千人以上居る職工の身元の全部が、
新聞では盛んに書き立てた……白昼の製鉄所構内で衆人環視の
西村の葬式は会社葬で執行された。職工たちの俸給はそれから二日遅れただけで、
起業祭も
そのうちに一箇月経つと警察もとうとう投出したらしく「遂に迷宮に入る」という新聞記事が出た。「十二万円の金の
四
「なあ又野……戸塚の野郎が、何か大事な事を云い忘れているってこの間、警察署を出てから云ったなあ……暗い横町で……」
「ウン。云うとったが……それがどうかしたんかい」
「イヤ。別にどうって事はねえんだけど……」
菜葉服の三好と又野が、テニス・コートの審判席の処に
瘠せっぽちの三好は神経質らしく、
「戸塚の野郎は、俺あ赤じゃねえかと思うんだがなあ」
逞ましい腕を組んでいた又野が血色のいい顔を不愉快そうに撫でまわした。
「どうしてかいな」
「どうしてって事もねえけど、何だかソンナ気がするんだ。第一、
「ウン。そう云うてみれあ、そげなところもあるなあ。あれから
「なあ。そうだろう。俺も見たんだ。だから怪しいと思ったんだ。そうしたらこの頃はチョットもここいらへ姿を見せなくなった代りに、
「ウン。そらあ俺も気は附いとる。しかし何も、それじゃけに戸塚が、赤チウ証拠にゃあなるめえ」
「ウン。それあ証拠にゃあなるめえさ」
と三好は慌てて鼈甲縁をかけ直した。
「証拠にゃならねえが……俺達が味方にならねえと諦らめて、ほかの処へ同志を
そう云ううちに三好は、菜葉服のポケットからバットを出して、又野にも一本取らせて火を
二人はコートの端の草の上に尻餅を突いた。工場の上を
「恐ろしい疑い深い人間やなあお前は……」
又野はイヨイヨ不愉快そうに顔を撫でた。その横頬を熱心に見ながら三好は笑った。
「ハハハ。まだあるんだぜ。戸塚があの死体を西村さんと云い出すなり、直ぐに俸給泥棒と察して、追かけて行った時の素早かった事はどうだい。
「あの男は頭が
「それがあの時は特別だったような気がするんだ。何もかも最初から知り抜いていたような気がするんだ。この頃になってやっと気が付いたんだが」
「フーン。そげな事が
「そればかりじゃないんだ。
「ハンカチの話かな」
「ウン。あのハンカチの一件は一番カンジンの話なんだが、戸塚の野郎が
「疑い深いなあ……お前は……」
「まだあるんだ。あの時の犯人は新しい地下足袋を穿いていたろう。コートの湿めった処に太陽足袋の足跡が、ハッキリと残っているのを君も僕も見たじゃないか。西村さんを抱え上げた時に……」
「ウン……見たよ」
「あれを戸塚が見やがった時に気が附きやがったに違いないんだ」
「何を……」
「犯人がインテリだって事を……」
「インテリたあ何かいな……インテリて……」
「学問のある奴だって事よ。知識階級……つまり紳士って意味だね。ねえ。そうだろう。あんなに真白い、四角く折ったハンカチなんか菜葉服の野郎が持つもんじゃねえ。タッタ
「お前のアタマの方が、戸塚の頭よりもヨッポド恐ろしいぞ」
「アハハハ。冷やかすなってこと……アタマは生きてる
「フーム……」
又野はバットを
「お前もインテリじゃなかとな」
三好は又野に睨まれてチョット鼻白んだ。
「インテリじゃねえけども……あれから毎日毎日考えてたんだ。だからわかったんだ」
「犯人の見当が付いたんか……そうして……」
「付いてる」
「エッ……」
「チャンと犯人の目星は付いてるよ」
又野はジロリとそこいらを見まわした。真正直な、緊張した表情でバットの灰を
「戸塚が犯人て云うのか……お前は……」
「プッ……戸塚が犯人なもんけえ。俺達と一所に見てたじゃねえか。犯人なもんけえ」
「誰や……そんなら……」
又野が突然にアグラを掻いて、真剣な態度で三好の方向に向き直った。バッタが驚いて二三匹草の中から飛上った。
三好は答えなかった。事務室の方向を鼈甲縁越しにジイッと見ていたが、そのまま非常に緊張した、
「誰にも云っちゃいけないぜ。懸賞金は山分けにするから……」
「そげなものはどうでも
三好はやっと振り返った。
「それよりも、もし戸塚が万が一にも赤い主義者だったら大変じゃねえか。君は在郷軍人だろう」
「ウン。在郷軍人じゃが、それがどうしたんかい」
「どうしたんかいじゃねえ。
「ウン。それあそうたい」
「腕を貸してくれるな……君は……」
「ウン。間違いのない話ちう事がわかったら貸さん事もない」
「そんなら耳を貸せ」
三好は又野の耳に口を当てて囁いた。
「その犯人が今ここに来る」
「エッ……」
「見ろ……今事務室の方からテニスの道具を持った連中が五人来るだろう。あの中に犯人が居ると俺は思うんだ。いつでもここでテニスを遣りよる連中だ。ここで何度も何度もテニスを遣って、ドンナ大きな声を出しても、ほかに聞こえない事をチャンと知っている奴が、思い付いた事に
「サア……」
そう云う又野の表情が、いくらか緊張から解放されかけた。三好の推測が、すこし
「オイ。いけねえいけねえ。あの中に戸塚が居やがる」
「……ウン……居る。あの奴もテニスの連中に眼を付けとるばい。……不思議だ……」
又野が深い、長い溜息を吐いた。
「不思議どころじゃねえ。早く隠れるんだ。俺達二人が揃っているのを戸塚に見られちゃ面白くねえ。……こっちに来たまえ」
三好と又野は慌てて草の中から立上った。二人とも何気なくバットの吸いさしを投棄てて、薄暗い汽鑵場へ
ネットはもう張られていた。
第一製鋼工場の副主任の中野学士と、職工の戸塚と、事務室の若い人間が三人来て軟球の乱打ちを初めていた。中野学士と戸塚が揃いの金口を
「オイ、三好。中野さんと戸塚の野郎は前から心安いんか」
三好が仄白い光りの中で片目をつぶって笑った。
「戸塚は中野さんの世話で
「そうじゃったかなあ……忘れた……」
「中野さんの処へ戸塚の妹が、女中になって住込んでいる。その縁故なんだ」
「そうじゃったかなあ……なるほど……」
「中野さんは九大出の秀才で、柔道が三段とか四段とか……」
「うん。それは知っとる。瘠せとるがちょっと強い。一度、肩すかしで投げられた事がある」
「この頃、社長の星浦さんの我儘娘を貰うことになっているんだ……中野さんが……」
「知っとる。あの孔雀さんちうモガじゃろ」
「ウン。それで社長から海岸通りに大きな地面を貰っているんだが、結婚前に家を建てなくちゃならんし、自動車も買わなくちゃならねえてんで、中野さんが慌て出している。相場に手を出したり、高利貸から金を借りたりしているっていう戸塚の話だ」
「戸塚の妹が
「そうらしいよ」
コスモスの向うの中野学士はほかの四人の
「戸塚ッ……お前はどこでテニスを遣ったんだっけね」
「中学で遣ったんです。後衛でしたが」
「スタートが遅いね。我流だね。ホラホラ……」
「ええ。この拝借した地下足袋が痛くって……」
「ハハハ……俺の足は小さい上に、足袋が新しいからね」
「これ……太陽足袋ですね」
「ウン……
「いつ頃お求めになったんですか」
「……………」
「非常に丈夫そうですが、どこでお求めになったんで……」
「……………」
中野学士は返事をしなかった。直ぐに真向うの事務員の一人を叱り飛ばした。
「馬鹿……そんな遠くからトップを打ったって利かん利かん……ソレこの通り……ハッハッハ……」
と高笑いをするうちに、その事務員の足の下へ火の出るようなヴォーレーをタタキ返した。その得意そうな
三好と又野は壁の穴から身を
「……そうかなあ……
セカセカと眼鏡をかけ直しながら三好はうなずいた。又野は茫然となった。
「そうかなあ……ヘエーッ……」
「まだ疑っているのかい。タッタ今、自分で犯人だって事を自白したじゃねえか」
「……フーム……」
「又野君……」
「……………」
「今夜、俺と
「どこへ……」
三好の眼鏡が場内の電燈を反射してキラリと光った。命令するように云った。
「どこへでもいいから一所に来てくれ。六時のボーが鳴ったら俺が迎えに行く。俺一人じゃ出来ねえ仕事だかんな」
又野が黙って腕を組み直して考え込んだ。三好が冷然と見上げ見下した。
「嫌になったのかい。それとも怖くなったんかい……」
「ヨシッ……行く……」
「きっとだよ」
「間違いない」
「大仕事になるかも知れないよ」
「わかっとる」
「
「ハハハ。わかっとるチウタラ……」
オンチ(オンチ)
作家录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语
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